ジュリエットは叛旗を翻す。

 
 目覚めると香ばしい匂いが鼻をくすぐった。ロフトの下からほのかに上ってくる、淹れたてのコーヒーの匂い。
 一人暮らしの家で、私はベッドの中。目覚めの一杯を作ってくれる人など、いるはずもなかった。ついでに言えばそれは私のための一杯ではなかったようで、しばらくして、ず、と美味しそうに啜ってはカップをテーブルに置く音が聞こえた。
 そういえば、さっき、玄関ドアが開いて、階下から誰かが声を投げて寄越したような。声色こそ覚えていなくても、その「誰か」には心当たりがあった。遠慮なしに人の家に入ってきて、無断でちゃっかりコーヒーまで楽しむなんて、ここしばらくでは彼しかいない。仕方なくそろりとベッドから起き出し、寝間着から普段着のシャツとズボンに手早く着替えた。髪はまあ、跳ね放題ろうけれど、向こうも勝手に入ってきているのだ。こちらの身だしなみがどうでも、さして気にしたりはしないだろう。仮に無礼だと言われても咎め立てされる筋合いはない。お客ではなく不法侵入者なのだから。
 それに何より、洗面台は下にあるのだ。
「おはようございます」
 階段を降りながら吹き抜けの下へと声をかけると、テーブルに掛けて勝手にコーヒーをしばいていた青年がこちらを降り仰いだ。にいやり、と口角が引き上がる。襟足に届かないまっすぐな黒髪を額の真ん中で分けているから、口と同じく不敵に笑んでいるまなじりもよく見える。
「おそよう、だろう。さすが、高いところに住む奴はゼピュロスの気まぐれにかかりやすいと見える」
「その心は」
「頭が嵐の後の麦畑より荒れ放題だぞ。クリエンテの前でその身なりはなんだ」
「依頼人を名乗るなら、営業開始してから入ってきていただきたいもんですね」
「商売の営業とは客が訪れた時から始まるものだろう。客のいない店屋は店屋か? ただの物置だろう。つまり俺が訪れたからここは言の葉を売る店となり、お前の脳からは蜘蛛の巣が取り払われ光が差し、今日も物書きでいられるというわけだ」
 だめだ、この人に口で勝とうとしても無駄だ。私が閉口するとそれを白旗と見てとった彼は祝杯よろしく得意げにコーヒーカップを掲げて見せた。その横を素通りして、洗面所に行き、洗顔と洗髪を気持ち程度に済ませる。とは言っても耳の下に届くか届かないかの短い髪だ。二、三度櫛削って、軽くヘアワックスで撫で付けて終わり。
 水差しとグラスを持って、押し入りクライアントの対面に座すると、彼は気の強そうな眉をにわかに顰めた。私がグラス一杯の水を飲み干す間、訝しげな視線を投げて憚りもしない。「飲みますか」と一応文字通りに水を向けたけれど、「俺の腹を下す気か」とぶるぶる首を左右に振られた。
「そのコーヒーだって、この水から淹れてるんでしょうに。ケトルとヒーターの使い方、いつの間に覚えたんですか」
「そんなもの、二、三度見ていれば覚えられる。沸かした水はいいんだ、清浄なんだからな」
「沸かさなくたって清浄ですって。そうだ、ワインも買ってありますよ」
「何、本当か。赤? 白?」
「どちらも。飲みますか?」
「いや、今はいい。この、カッフェとやらの苦くて酸っぱい妙な味が気に入りなんだ。目が覚めるし酩酊もしない。いいな、これは」
「ふうん。じゃあマキューシオは、エスプレッソも飲んでみたら好きになるかもしれませんね」
 何せ広義にはイタリア人だからと大雑把な先入観で提案すると、
「“Espresso”? 何だそれは」
 やはり完璧な発音が返ってきた。
「それよりもっと濃いコーヒー、カッフェです。私は牛乳で割ったカフェラテの方が好きですけど」
「何だ、ライターは農家の生まれなのか」
「いいえ、田舎ですけど、街中の家庭で育ちです」
「つまりは農村だろう。牧場がすぐそこにあるような。だから牛乳を飲めたのだろう?」
 はて、チーズやバターといえばヨーロッパ、特にイタリアはチーズの名産地であるから、牛乳も当然古くから日常的に飲まれているものだと思っていた。けれど、どうやら都市国家の有力貴族であった彼も、牛乳は常飲していなかったようだ。依頼を果たすに当たってやはりまだまだ、調べるべきことはたくさんありそうだ。
 テーブルの引き出しから出したメモ帳に「食文化」と走り書きすると、彼は「やはりさっぱり読めない。まるで魔法使いの呪い文字だ」と楽しそうに笑いながら、私の書いた文字の上をさっと人差し指でなぞった。「”cultura alimentare”」と読み上げ、ふむ、と頷く。
「姫も、もうじきいらっしゃるんですよね」  
「さあ? 俺とあのお嬢さんはまるっきり別行動だ。来るんじゃないか? だがまあ、淑女の外出支度には時間がかかるものだろう」
 ぐい、と最後の一口を煽って、彼はまたニイヤリと笑った。
「或いはあの、厄介ごとに鼻が効く猫王殿にに何か詮議を掛けられて、撒くのに手間取っているとか」
「猫王って、もしや」
「ああ、あいつだ。案外もうすぐそこまで来ていたりしてな。何せ猫は忍び足が大の得意だ」
 思わず私は伸び上がって向かいの窓の向こうを伺った。足音一つせず、ひとかげ一つ見えないことにホッと安堵する。
 まさか姫がそんなことを許すはずもないけれど、彼女の従兄弟殿にここについて来られても困る。目の前の彼がいるならば尚更だ。
 戦々恐々としている私を見て満足そうにくつりと喉を鳴らすと、彼、マキューシオは頬杖をついた。
「それで、実際のところどうなんだ。ライターとして、姫の望むような後先を書ける算段は立っているのか?」
「……それは」
 続きを言おうとした口を、玄関扉を軽やかに叩く音が遮った。
「噂をすれば、だ。いい、俺が出よう」
 席を立とうとした私を手を上げて留め、立ち上がった彼が扉に向かう。戸口に顔を近づけ、わざとらしく低い深刻な声で囁く。
「合言葉を言え。”きれいは汚い”」
「まあ! 先にいらっしゃっているなんて!」
「おっと!」
 マキューシオが飛び退ると同時に勢いよく扉が開く。
 ドレープの光沢美しい長い裾のローブに、豊かな栗色の髪は三つ編みにして王冠巻き、何より、緑の目に星の輝きを宿した少女が、肩をいからせて立っていた。
「彼のクリエンテは私よ! マキューシオ様!」
「これはこれは、挨拶もなしにとんだご登場だ。ご機嫌うるわしゅう、姫?」
「麗しかったご機嫌に今まさに暗雲が立ち込めたところよ、あなたのおかげでね」
「なるほど、暗雲だけに雷を落とすか。おお怖い」
「そのユピテルの矛に今すぐ貫かれてしまえばいい。ああ間違った。あなたを貫いたのは私の従兄弟のレイピアだったわね!」
「よりによってそれを言うか?!」
「事実でしょう」
 マキューシオの嘆きを意に介さずそっぽを向いた彼女は、それでも私と目を合わすとヴィーナスさながらに微笑んでくれた。
「おはよう、ライター。ご機嫌いかが?」
「ご機嫌よう。実はさっきまで寝ていたんですけど。今のお二人のやりとりで完全に目が覚めましたよ。—ジュリエット姫?」
 演劇史に名を残す戯曲の主人公は、「それは何より」と満足そうに頷き、ドレスの裾を持ち上げ、可憐にお辞儀をしてくれた。