大和田菓子舗での俺の仕事は主に商品の配送。大和田のおばあさんの軽自動車で地元のスーパーと物産館にUFOサブレを届けている。店番もするがやって来るのは専らおばあさんの友達で、商品を買いにくるというよりは世間話が目的だ。それでも最近は土日祝日になれば町外からのお客さんも来るようになった。やはり物産館でお菓子を買って、パッケージに書かれた住所を見てここまで来るようだ。
「やっぱりお店は開けといた方がいいねえ」と大和田のおばあさんは嬉しそうに語っている。ほんの少しだが、俺もこの店に貢献できているようで嬉しい。
まあ、そういうわけなので、俺はこの店のお菓子作りにはほとんど関わっていない。おばあさんが作るお菓子をひたすら運ぶだけ。そもそも俺はお菓子作りも料理も苦手だ。ひとり暮らしの経験は重ねているが自炊はほとんどしたことがない。パスタを茹でる、うどんを茹でる、米を研いで炊飯器で炊く、ぐらいのことしかしていない。
そんな俺でも、今回ばかりは少し頑張ってみようと思った。
「クリスマスケーキ?」と大和田のおばあさんは聞き返した。俺は頷いた。
「今度のクリスマスに瀬戸さんをうちに呼びたい。で、クリスマスケーキ作りたい」
「あんだやー、純希君どうしたのっしゃ急に」
「瀬戸さんを喜ばせる方法がそれしか思い付かなくて」
「南巳君なら何しても喜ぶと思うけっど」と呟いてから「ショートケーキでも作ろうねえ」と何だかんだでノリノリな様子を見せた。
さて、あとは瀬戸さんをクリスマスに誘うだけだ。できればクリスマスイブ、またはクリスマス当日に来て欲しいので、公民館のシフト作成の都合上早めに約束を取り付けておく必要がある。簡潔にまとめれば2行程で済みそうな文面を何度も推敲した。スマートフォンの画面とにらめっこしながら文字を消しては打ち込み消しては打ち込みを繰り返した。おじいちゃんの病室でも頭を捻って考えた。結局メッセージは送れないまま病院を出た。辺りはすっかり暗くなっていて、コンビニの明かりがやけに眩しかった。
ちらりと見遣ったコンビニの駐車場。見覚えのある車が見えて思わず足を止めた。棺桶みたいな長い箱を積んだグレーのN-VAN。小走りで近付き、ナンバープレートを見ると宮城ナンバーだった。数字も見覚えがある、ような気がする。メッセージアプリを開いたが瀬戸さんからは特にこちらに来るような話もなかった。スマートフォンをポケットにしまって顔を上げるとコンビニの店内でレジの前に立つ見慣れた後ろ姿が目に入った。
そのまま声を掛ければ良かったのに、俺は咄嗟にコンビニの陰に隠れた。瀬戸さんは普段よりはややキチンとしたジャケットとズボンという出で立ちでコンビニから出てきた。いつもの作業服ではない。ぶかぶかのパーカーでもない。胸がキュッとした。何となく不安になった。瀬戸さん何しに来たんだろう。俺に会う以外の用事でここまで来るなんて。
別に逐一行動を報告する仲でもない。瀬戸さんがひとりで青森まで車を走らせて車中泊の旅に出た時だって俺は何とも思わなかった。俺だって依蕗との関係を話そうとしなかったこともある。それで良いと俺は思っていた。だから瀬戸さんが福島まで何も言わずに来たって構わない、はずなのだが。
当たり前だが、瀬戸さんは陰に隠れる俺に気付くはずもなくN-VANに乗り込み駐車場を後にした。俺はしばらくそこに立ったままスマートフォンを出した。「今福島にいました?」と打ち込みすぐに消した。瀬戸さんなら近くに来たら何かしら声を掛けて来るはずだ。言わないということは何か俺に会いたくない理由があるのだと解釈した。見なかったことにしよう。俺は小さく溜め息をついてからゆっくりと歩き出した。
その数日後に俺の家にやって来た瀬戸さんは拍子抜けするぐらい普段と変わらない態度だった。いつものようにふにゃふにゃした笑顔で、優しくて、穏やかで。俺だけがどこかそわそわしていた。
少しは何か隠し事をしている態度を取って欲しいと思う自分もいた。どうしてそう思ってしまったのかわからない。多分フェアじゃないと思ったのだ。俺がこれだけ不安になっているのだから瀬戸さんにも後ろめたい気持ちを抱えて欲しい、と。
結局、クリスマスの約束はできなかった。12月になり大和田のおばあさんからクリスマスケーキの話が出たが「やっぱりいい」と答えた。
「どうしたのっしゃ」流石の大和田のおばあさんも俺の異変に気が付いたようで、そう首を傾げた。俺は「瀬戸さんと予定が合わなくて」ともっともらしい理由を述べた。「そう。残念だったねえ」とおばあさんは眉を下げた。本当に残念がってくれている様子に少し胸が痛んだ。
「じゃ、クリスマスは一緒にイヴちゃん見っぺし」
「依蕗のこと?」
「んだ」とおばあさんは店の奥から真新しいタブレット端末を出す。「依蕗ちゃんに見て欲しいって言われたから買ったんだっちゃ」
「見る?何を?」
「ライブ」と答えるおばあさん。「でもどうやって見るかわかんなくて」
俺はおばあさんからタブレット端末を受け取りホームボタンを押した。画面を確認しながら「そもそもここWi-Fi飛んでるの」と訊ねると「なんだそれ」とおばあさんは首を傾げた。やっぱり。そこからわかっていない。依蕗にはそこから懇切丁寧に説明して欲しかった。
おばあさんの家にはインターネット環境が整っていないようなので、仕方なく俺は自分のスマートフォンのテザリング機能でおばあさんのタブレット端末をインターネットに接続した。「良かったー。これでイヴちゃん見られるべね」とおばあさんは嬉しそうに手を叩いた。まあ、俺も良かった。クリスマスに予定ができて。
瀬戸さんには「クリスマスにはバイトがある」と伝えていた。ここまでして瀬戸さんを拒否するのに意味はあるのか、と自分でもわからなくなる。瀬戸さんはいつも通りの様子で「じゃあ別の日に行きますね」と答えた。そう、いつも通りなのだ、瀬戸さんは。なんで?と訊ねたかったができなかった。
大和田菓子舗ではケーキの取り扱いがない。あってもパウンドケーキぐらいで、クリスマスシーズンだろうが客の出入りはあまり変わらない。その日もいつも通り店を閉めていそいそとタブレット端末を出し「純希君、よろしく」と言った。俺はハイハイと言いながらタブレット端末をインターネットに接続し動画サイトを開く。大体200人のキャパシティと思われる劇場が映し出され客の後ろ姿が見える。ステージに4人の女の子が現れて後ろ姿達がサイリウムを振る。
「イヴちゃんどれ?」
「ツインテールの」
「へえ。可愛いねえ」とおばあさんが画面に顔を近付ける。コメント欄も何やら盛り上がっていて投げ銭する人もいる。おばあさんもそれに気が付いて画面を指差した。
「これはお金?」
「そう。投げ銭システムがあってお金投げられるんだよ」
「いいねえ。大衆演劇のお捻りみたいなもんだねえ」
「まあ、そうだね」
ぎゃらくしっく☆ほすぴたるの楽曲はほとんど耳に入らなかった。客や画面の向こうの俺達に手を振るイヴにおばあさんは「こっち見てる」と嬉しそうに手を振り返していた。まあ、依蕗がおばあさんに見てくれと頼んだのだから多少は意識しているかもしれないが、そのファンサはおばあさんだけに宛てられたものではないと思う。
ふと、瀬戸さんのことを思い出した。瀬戸さんは優しい。でもその優しさを感じているのは俺だけじゃない。誰の為にでも車を運転するしふにゃふにゃした笑顔を見せる相手は俺だけじゃないはずだ。
独占したい、なんて思うのは違うよな。俺は小さく溜め息をついた。大和田のおばあさんが作ってくれた小さなショートケーキを食べて、俺のクリスマスイベントは終了した。
数日後、何故か依蕗から電話がかかってきた。「大和田のおばあちゃんから聞いたよ。クリスマスライブ見てくれたんだって?」と付き合っていた当時と同じ調子で話してきた。「てっきり南巳君と過ごすのかと思ってたから意外。予定合わなかったの?」
「まあ、うん」と曖昧に答えると依蕗は少しの間の後「なんかあった?」と言った。
「別に」
「なんかあったでしょ」
「関係ないだろ」
「ま、関係ないけどさ」思いの外あっさりと引き下がる依蕗。「でもさ、南巳君大人だから、向こうから何かアプローチしてくれるってことはないんじゃない?」
「なんの話」
「喧嘩にしてもちょっとしたすれ違いにしても、南巳君の性格的に“純希が落ち着くまで待とう”って考えると思わない?そしたら純希から何か仕掛けないとこのまま自然消滅ってことになりかねないじゃん」
「確かに」という俺の呟きをスマートフォンのマイクが拾ったようで、依蕗にも聞こえていた。「やっぱりなんかあったんじゃん」としたり顔が目に浮かぶような口調で言った。俺は顔をしかめた。
「大和田のおばあちゃんも心配してたんだよねー。純希最近元気ないって」
「そんな心配されるほどの状況ではないけど」
「あのさあ、この際だから言っとくけど」と少し語気を強める依蕗。「純希って無駄にプライド高いからそういう弱さ?見せてないつもりだろうけど、周り気付いてるからね」
グッと胸に何かが詰まったような感覚。痛い所を突かれた。俺が何も言わないので依蕗は続けた。
「純希がひとりで頑張りたいのはわかるよ。私もそういう性格だから。でも周りが気にしてるのにドンドン進んでっちゃうのは違うと思う。特に南巳君が相手ならさ、素直になりなよ」
なんで元カノにこんなに諭されなくてはいけないんだ。そう思ったが、正論ではある。俺は無駄にプライドが高い故に誰にも頼れず生きてきた。おじいちゃんおばあちゃんにさえ遠慮して修学旅行拒否等していた。でも結局、俺はおじいちゃんとおばあちゃんの保護無しではここまでやってこられなかったのだ。子どもがひとりでできることには限界がある。こうして考えてみれば修学旅行拒否だって俺のわがままでしかなかった。おじいちゃんとおばあちゃんには俺を修学旅行に行かせる程度の財力はあったのだから。
瀬戸さんの優しさだってそうだ。彼には運転という得意分野があってそれを苦に思わないからこうして遠距離恋愛をしている。俺を助手席に乗せてどこまでもN-VANを走らせてくれる。いくらでも頼れるのだ。そういう優しさを振り切って生きてきたのが俺の人生だった。それが「迷惑をかけたくない」という動機であっても、振り切られた方は良い思いをしないだろう。
「南巳君待ってるんじゃないの」
依蕗の一言に俺は素直に「うん」と答えた。多分瀬戸さんは待っている。俺は「ありがとう」と言って通話を終えた。それからすぐにメッセージアプリから瀬戸さんの連絡先に繋いだ。少し長めに着信音を鳴らしていると瀬戸さんが応答した。「すみません。すぐに話したくて」と俺から切り出した。
「いえ。すぐに出られなくてすみません」
「近いうちに会えませんか」
「いいですよ」即答だった。「明日の仕事終わりにでも行きます」
「あ、いえ、次の休みとかでいいんですけど」
「そうですか?僕はすぐに会いたかったんだけどな」
瀬戸さんの素直な言葉にドキリとした。と同時に羨ましくもなった。俺も瀬戸さんみたいに自分の気持ちを気負わず素直に話せるようになりたい。俺は「じゃあ」と言った。「明日、来てもらってもいいですか」
「はい」と答えた瀬戸さんはどこか嬉しそうな声だった。
翌日の夜やって来た瀬戸さんは「雪が積もっていなくて良かった」と言いながら家に上がった。今シーズンは飯野町の冬にしては積雪量が少ない。いつものように卓袱台の前に座った瀬戸さんにお茶を出す。いつものように「ありがとうございます」と言った彼は一口飲んだ。
「最近、お誘い断ってばっかりですみませんでした」
「いや全然。忙しいのは仕方ないです。僕も断る時は断るし」
そんなこと言って、断ったことなんかないくせに。瀬戸さんはどこまでも「良い人」だ。どんな過去があって俺に出会うまでの瀬戸さんがどんなに駄目な人間だったとしても、俺にとっては優等生だ。だからこの人にわがままを言いたくないと思っていた。でも多分、恋愛って、というか人と関わるのって、そういうことじゃないんだろうな。
「じつは、ちょっと引っ掛かってることがあって」と俺は切り出した。実際は「ちょっと」どころではないのだが。瀬戸さんは「はい」と相槌を打った。
「この前、おじいちゃんのお見舞いの後、瀬戸さんの車がコンビニに止まってるの見て」
瀬戸さんが「あー」と呟いて天井を見た。俺は続ける。
「その場で声掛ければ良かったんだけど、なんかできなくて、なんでここまで来たのかなとか、ここまで来たのに俺には会いに来てくれなかったんだなとか思ったら、なんか、いろいろよくわかんなくなっちゃって」
鼻水が出てきた。声が震えてきたので喋るのを辞めた。こんなことで心を揺さぶられてしまう自分が情けないし恥ずかしい。ただ交際相手が黙ってこっちに来ただけという話である。何も気にする必要はないのだ。それに頼んでもないのに「会いに来てくれなかった」ってなんだよ。来てくれるのが当たり前とか思うなよ。自分で自分が嫌になった。やっぱりこれ言うべきじゃなかったかなと後悔し始めた辺りで瀬戸さんが口を開いた。
「不安にさせてすみませんでした」
俺は黙って首を横に振った。瀬戸さんが「じつは隠し事してました」と姿勢を正した。俺は顔を上げた。瀬戸さんは作業服のポケットから半分に折られた長3封筒を出して広げた。チラリと見えた封筒の文字には「福島市」と書かれていた。封筒から紙を出すと俺に差し出す。三つ折りにされた白い紙を開いて俺は文字を読んだ。
「地域おこし協力隊?」
「はい」と瀬戸さんが頷く。「昨日採用通知届きました。福島の飯野地区の、地域おこし協力隊です」
「え?公民館は?」
「3月で辞めようと思ってます」
「住む所は?」
「飯野町内ではないんですけど、市営住宅があるので、そこで」
「こっち来るの?」
「来ます」
いつもの、ふにゃっとした顔で瀬戸さんが笑った。涙がじわじわ滲んで止まらなかった。目の端から溢れる前に拭った。紙を濡らさないように瀬戸さんに返した。
「すみません。募集知った時から受けることは決めてたんですけど、期待させて落ちたらがっかりさせるだろうなあと思って言えなくて」
「こんな優秀な人落とすわけないじゃないですか」と俺は言ったが涙声でほとんど発音できていなかった。
「多分純希君が僕見たのって面接の日だと思うんですけど、いつもと服装違うし、なんか用事のついでに純希君に会いに行くっていうのが嫌で。会いに行くならそのためだけに行きたいなー、なんて」
「もういい。わかった。もう何も疑ってないから。もういい」
やけに生意気な物言いになってしまった。瀬戸さんがもう一度「すみませんでした」と言った。俺は大きく首を横に振った。
別れ際にようやく「おめでとうございます」と言えた。瀬戸さんは「ありがとうございます」と笑った。本当はこんな時間だし泊まっていけばいいと言いたかったが、瀬戸さんのことを考えると言えなかった。代わりに「仕事終わりに来させてすみませんでした」と言った。
「全然大丈夫ですよー。僕も会いたかったし」
「その」と躊躇いながら次の言葉を探す。「本当は泊まって欲しいって言いたいんですけど」
「じゃあ、次はそうしようかな」
俺が顔を上げると瀬戸さんは笑顔を見せた。「純希君のわがままなら頑張れそうな気がします」
次の休みの日、瀬戸さんは車中泊の準備をして俺の家にやって来た。「家の中で寝られなかったら車で寝ます」とのこと。家の前で車中泊の可能性もあるのか。
公民館に退職の旨は伝えたらしい。一応、形式的に引き留められたが断ったとのこと。そりゃそうだ。しかし、これだけ仕事のできる非常勤がいなくなるのだから代わりを探すのも大変だろう。本来であれば正職が頑張らなければいけない所ではあるのだが。
俺は居間の時計を見つつ「みっくんにひとつお願いがあるんですけど」と言った。瀬戸さんがお茶を一口飲み「なんですか」と首を傾げた。
「おじいちゃんのお見舞いに一緒に行って欲しいです」
「お見舞い、ですか」
「本当は付き合い始めた時からそうして欲しいななんて思ってたんですけど、なんて言うか、重いかなって」
「確かに、付き合い始めだと重いかも」と若干の笑いを含んだ声で頷く瀬戸さん。「でも僕もそろそろご家族に挨拶したいな」
瀬戸さんがそう言ってくれたので早速彼の運転で病院へ向かった。車の中で「ほとんど反応ないし、起きてるのか寝てるのかわからない時もあるんだけど」と話すと彼は「それでも聞こえてるかもしれないですし」と答えた。
ナースステーションで受付を済ませて病室に行くと看護師さんがいた。「お孫さん来ましたよ」とおじいちゃんに声を掛けてから「今日お風呂入ったんですよ」と俺に言った。確かに、心なしかさっぱりした顔をしている。病室から看護師さんが出て行ってから瀬戸さんは仰向けになっているおじいちゃんの顔を覗き込んだ。
「初めまして。瀬戸です。純希君の、えーと、彼氏?」と俺を見遣り「彼氏でいいですかね」と首をひねった。俺はおじいちゃんに「この前言った俺の好きな人だよ」と言った。おじいちゃんの目がキョロキョロと動いた。
「あ、驚かせてすみません」
「この前は性別まで言わなかったから」
おじいちゃんとその手の話題を話したことはなかったが、まあ、俺には甘いおじいちゃんである。俺が誰と付き合おうと結局は許してくれるはずだ。俺は「着替え置いとくよ」と棚を開けた。顔を上げた瀬戸さんが棚の上の写真を見つけた。
「あ、これ僕が撮ったやつ」
「写真立ても貰ったからここに置いてました」
「嬉しー」と瀬戸さんが声を上げて写真をおじいちゃんに見せ「これ僕撮ったんですよー」とニコニコ笑った。布団の下の手が少し動いていた。
おじいちゃんの前では普段通り振る舞っていた瀬戸さんだが、家に戻る車の中では「緊張した」と溜め息をついていた。
「反応もないしそんなに緊張することでは」
「反応ないからこそですよ。相手の様子伺いながら態度変えたりとかできないから」
「確かに」それから俺は瀬戸さんの横顔を見遣る。「おじいちゃんに会ってくれてありがとうございます。俺以外にお見舞いに来る人、いないから」
「純希君が行くだけで充分だと思いますよ、おじいちゃん的には」それから何やら嬉しそうに笑い「あそこに写真置いてくれてるの嬉しいな」と呟いた。
それから俺はやっと瀬戸さんにケーキを作ることができた。クリスマスはだいぶ過ぎたが、瀬戸さんの採用祝いと思い大和田のおばあさんの指導の元ショートケーキを作った。瀬戸さんはやはり喜んでくれたし「美味しい」と言ってくれた。
風呂に入って布団を敷きつつ「ここで寝られそうですか」と訊ねると、ジャージ姿の瀬戸さんは俺が敷いた布団に横になった。「うん、いけそう」と頷く。まあ、駄目だったら俺も車中泊しよう。
と、覚悟を決めていたが、瀬戸さんは思いの外早く眠りに落ちた。安らかに寝息を立てて睡眠していた。俺より早く。こんなにアッサリと克服できるものか?拍子抜けしたが、ここまでやってみなければ瀬戸さん本人もできるかどうかわからなかったのだろう。俺のわがままのおかげで克服できたと思うことにして俺も目を閉じた。
部屋全体から漂うアルコールのにおい。柔らかく明るい照明。暖かな空気。いつもの夢だ。椅子に座るおじいちゃんが「純希はまだ役場か」と訊ねた。
「辞めたよ、おじいちゃんと暮らすために退職して飯野に来たんだよ」
「なんだやー、父ちゃんと母ちゃん心配してるべ」
「お父さんもお母さんも死んだよ」
「んだべか」
「んだよ」
「ひどいなや、じいじが面倒見てけっから」
「大丈夫だよ」俺は答えた。「本当に、大丈夫だよ、俺は」
おじいちゃんは俺のことをずっと心配してたんだ。いつもひとりで、求人情報誌パラパラしたり「好きな人できたけどこんな気持ちで本当にいいのか迷ってる」などと言ったり、そんな俺を気にかけてくれていたのかもしれない。こんな町に住んでいながら普段はUFOとか超能力とかそんなものは信じないが、今は説明のしようがない不思議なこともすんなりと受け入れられた。
そして思った。認知症のおじいちゃんはずっと夢の中にいたのだと。俺が公務員になったことが嬉しくて夢にまで見ていたのだと。俺がおじいちゃんと同じような頭になった時はどの時代の自分の夢を見るのだろうかと考えた。夢を見るなら今がいいと思った。お父さんとお母さんが生きていた頃よりも、依蕗と付き合っていた頃よりも、公務員として働いていた頃よりも、わがままを言えるようになった今の自分が一番好きだ、と。
4月、桜前線よりも早く飯野町にやって来た瀬戸さんはゴツゴツした一眼レフカメラと共に地域おこし協力隊の辞令交付式に出席した。今年度飯野地区の地域おこし協力隊に採用されたのは瀬戸さんを含め3名。彼が最年長だった。そして、他のメンバーにはボカロPとして活動していたという新卒の男性と、地下アイドルをしていたという貝塚依蕗がいた。なんでおまえも、と思ったが言わなかった。
飯野町初めての地域おこし協力隊である。地元民も歓迎ムードで、特に依蕗は見知った人も多く皆がUターンを喜んだ。彼女は立ち振る舞いも対応も流石は元アイドルという感じで、他のふたりとは違い明らかに華があった。もちろんこれは瀬戸さんに魅力がないという意味ではない。そんな瀬戸さんはというと、黒くてゴツゴツしたカメラでスマートフォンとは違う本格的なシャッター音を響かせながら依蕗を撮影していた。立ち位置に惑う元ボカロPに「俺らも頑張ろうね」と、公民館にいた頃の彼と同じ表情で声を掛けていた。
5月の地区だよりから、地域おこし協力隊の連載が始まった。タイトルは「コンタクトデッキで会いましょう。」だ。初めて見た時には声を出して笑ってしまった。毎月彼らの活動内容を掲載しているが、写真に写るのは元アイドルと元ボカロPばかり。瀬戸さんは「写真:瀬戸南巳」という名前のみの登場だ。いつもは読み終えたら捨てていた地区だより。もう捨てられなくなってしまった。俺は若いふたりの自然な笑顔の先にある彼のことを思いながら、今日もUFOサブレを運んでいる。
久しぶりに瀬戸さんを山登りに誘ってみるのも良いかな。俺は物産館への配送を終えてから、スマートフォンを出して「コンタクトデッキで会いましょう」とメッセージを送った。
