コンタクトデッキで会いましょう。



 結局瀬戸さんはピンカラ石ラーメンを食べることができなかった。食券を買う時点で手が震えてお札が券売機に入らなかった。とりあえず席を取っておこうと飲食スペースのカウンター席に座ったが3分持たなかった。

 俺が買ったんだんだボールとほだほだボールをN-VANに持ち込むという結果になり瀬戸さんは半ベソをかきながら食べていた。まあ、最初から上手くいくってことはないよな。

「すみません。ラーメン食べられなかった」

「俺は全然いいです」

 んだんだボールとほだほだボールは、味のついた丸いおにぎりに衣をつけて揚げた所謂ライスコロッケだ。ラーメンを食べられなかったのは少し残念だがこれはこれで美味しい。瀬戸さんも泣きそうな声で「これ美味しいですね」と言っていた。

「外食の何が苦手なんでしょうねえ」

「なんだろう。周りに見られてる気がするとか、どこ見てたらいいかわからない感じ?あと背中に隙があるというか」

 隙ってなんだよ、誰と闘っているんだ?突っ込みたくなったが俺には理解できない恐怖があるのだと思って辞めた。「壁を背中にして座ってみるとか?」と提案してみた。 

「あ、なるほど」

「でもそれだと周りの人と目が合うかな」

「うーん、そうですね」

「車だと大丈夫なんですね」

「うん」

「電車の中とかは?」

「駄目そうな気がする。何ていうんだろう、N-VANは僕の縄張りだから」

 縄張りと言うと野生動物感がすごいな。実際自分のテリトリーだから安心する、というのはあるのだろう。俺は再び考える。

「屋外で食べるのは?」

「試したことないな」

「コンビニで買って、コンビニの前で立ち食い、みたいな」

「あー、そうだね」

「ピクニック的なのとかは?」

「あ、じゃあ僕お弁当作ろうかなあ」

 瀬戸さんの気分が乗ってきた。顔を上げた彼が物産館の入り口を見遣り一度外へ出た。スマートフォンで何か撮影すると運転席に戻ってきた。

「箭内さんってアイドル詳しいですか?」

 少し嫌な予感がした。「いえ、あんまり」と答えた。

 瀬戸さんは先程撮影した画像を拡大したり移動したりしてから「ぎゃらくしっく☆ほすぴたるって子達が飯野に来るらしいです」と言った。

「あー、そうなんですか」

「あ、ウィキペディアありました」

 早速ググってるんかい。

「宇宙を駆け巡る“銀河医師団”が病んだ地球人を治療するため渋谷に舞い降りた、というコンセプトで活動する女性アイドルグループ。らしいです」

「な、なるほど」

「あ、リーダーの子が福島出身なんですね。可愛いー。しかも箭内さんと同い年じゃないですか。知り合いだったりします?」

 ニコニコしながら顔を上げた瀬戸さん。俺は「さあー、どうですかねえー」と笑ってみたが、多分ちゃんと笑えていなかったと思う。

 渋谷で活動する地下アイドルグループ「ぎゃらくしっく☆ほすぴたる」。リーダーのイヴこと貝塚依蕗(いぶき)のことは、まあ知っている。同じ高校に通っていた。同じクラスだったこともある。何なら付き合っていた。2年生の夏から卒業するまで。

 学校で一番可愛いと評判だった。目が大きくて、スタイルが良くて、少し高めの所謂アニメ声だが落ち着いた雰囲気があって。

 俺も彼女のことは可愛いと思っていた。可愛い子と付き合いたい、と全く思っていなかったわけではないが、付き合ったきっかけはお互い「とりあえず彼氏彼女が欲しい」と思っていたからだった。好きでたまらない、愛してる、という感情ではなかった。周囲が彼氏彼女を作って夏休みを謳歌しようとしているから俺も、という気持ちが強かった。

 俺から別れを切り出したのは別に彼女が嫌いになったわけではなかった。高校を卒業したら働くと決めていたからだ。彼女は進学希望。俺は県外で働くことも視野に入れていた。遠距離恋愛もキツいし何よりも仕事を頑張りたかったので、卒業したら別れましょうと話した。彼女も了承した。

 関東の大学に進学したことは聞いていたが、アイドル活動については最近知った。それこそ今月の地区だよりに載っていた「イヴ卒業記念!里帰り公演」のお知らせで。写真を見て依蕗だとすぐにわかった。相変わらず可愛かった。瀬戸さんがそのポスターに気付かないわけがないとは思っていたが、敢えて話すことでもないと判断したので詳しいことは言わなかった。

 でもまさか、瀬戸さんがここまで「ぎゃらくしっく☆ほすぴたる」略してぎゃらすぴに興味を持つとは。

「イヴちゃん来るの月末ですよね、ホコ天の日」と電話口で声を弾ませる瀬戸さん。その日は商店街が歩行者天国になって出店やらステージショーやら花火の打ち上げやらで盛り上がる。俺のバイト先である大和田菓子舗も店の前の道路でカフェを開く予定で、店のおばあさんと鋭意準備中である。

 その日は花火打ち上げの時間まで店に張り付いていなければならない。もちろん適宜休憩は取れるだろうが、瀬戸さんとのんびりイベントを楽しむ余裕はない。だが、それでも、その日は依蕗じゃなくて俺に会いに来る気持ちでいてくれよとナヨナヨしたことを考えてしまった。辛うじて言わなかったけど。音声通話で良かった。その気持ちが表情には出ていたから。

 イベントの前日。町内会の集会所から机や椅子を運び出す作業をした。瀬戸さんまで手伝いに来てくれて、地区内の誰かが持っていたハイエースを「擦らないようにだけ気を付けますね」等と言いつつ乗りこなして備品の運搬業務にあちこち走り回っていた。

 夕方になってハイエースを持ち主に返し、机と椅子の配置を確認して明日売るお菓子に食品表示ラベルをペタペタ貼った。おばあさんは「南巳君にまで手伝わせちゃってごめんねえ」と申し訳なさそうに、それでも明日への期待を隠しきれない様子で言った。瀬戸さんは「いえいえ、楽しいですよこういうの」とニコニコしている。俺は未だに彼を「瀬戸さん」としか呼べないのにおばあさんは既に「南巳君」だ。こういう距離の詰め方が自然にできるのは羨ましい。

 日が暮れかけた頃、店の前に誰かがやって来た。スーツケースをガラガラと引いた若い女性で、ショートパンツとTシャツというシンプルな服装を着こなしている。彼女は口元を覆うマスクを外すと「おばあちゃん、久しぶり」と言った。俺は咄嗟に目を逸らした。おばあさんは「あんだや、依蕗ちゃんでねえか」と声を上げた。

「早く帰ってきたくて前乗りしたんだー」

「綺麗になったねえ。うちには行ったの?」

「これから行く。お菓子ってまだ売ってる?弟ここのお菓子好きだから買って帰りたいんだ」

 瀬戸さんは両手で口元を押さえて固まっている。依蕗はその様子を気にするでもなく彼の手元を見て、俺を見た。

「純希じゃん。こんな所で何やってんの?」

 俺は「ど、どうも」とぎこちなく応じた。

「あんたも帰ってきてたんだ。しかも店のお手伝いとか。どういう風の吹き回し?」

「純希君うちで働いてくれてるのよ」おばあさんの一言で依蕗の顔が強張った。

「え、どういうこと」依蕗が俺の顔を覗き込む。「公務員辞めたの?」

「まあ、うん」

「なんで?おじいちゃんとおばあちゃんに恩返しするって言ってたじゃん」

 俺はチラリと瀬戸さんを見た。依蕗は「もう今更何とも思ってないけどさ」と言いつつ眉根に皺を寄せた。

「私と別れる時に言ったあれは何だったの?言われなかったら別れなかったんだけど」

「その話今すんなよ」

「いつ話そうが私の勝手でしょ。公務員辞めて飯野に帰ってきたってこと?ありえないんだけど。おじいちゃんとおばあちゃんどうすんの?」

「依蕗には関係ないだろ」俺は言った。「おまえも何?卒業とか里帰りとか、地元に逃げてきただけだろ」

「は?」

 瀬戸さんが立ち上がった。「ストップストップ」と俺達の間に割り込むように身を乗り出す。「1回おしまい。終わり」

 依蕗が険しい顔のまま「おばあちゃん、また来るね」と言って踵を返した。彼女の背中が見えなくなってから瀬戸さんが俺を見遣り「箭内さんどうしたんですか。本当のこと言えば良かったのに」と言った。

「あいつには関係ないし。もう別れたし」

「それならあんな悪口言わないで黙ってれば良かったじゃないですか」

 正論。俺は押し黙った。瀬戸さんが小さく溜め息をついて椅子に座った。いつもふにゃっと笑う瀬戸さんが厳しい顔つきをしていた。俺の様子を覗いながら「僕は、ちゃんと言い訳して欲しかったです」と言った。「好意的な意味でもそうじゃなくても、元交際相手にモヤモヤしたままでいて欲しくない」

 確かに。このまま頭のどこかで依蕗のことを考えてモヤモヤするぐらいならその容量を瀬戸さんに使いたい。瀬戸さんが「明日また来ます」と言ってN-VANで去っていった。もちろんどうせ明日も来るのなら俺の家に泊まっていけばいい、と一度提案はしたが、やはり断られた。外食と同じだ。本人に克服したい気持ちはあるのでいつか泊まってくれたらいいなと思っている。

 その日は2時間経たないうちにメッセージが届いた。道の駅の画像だ。「今日はここで車中泊します」とのこと。

「帰らないんですか」と返信するとすぐに通話の着信があった。俺は通話ボタンを押してすぐに「今日は大変お見苦しい所をお見せしました」と言った。

「黙ってようと思ったんだけど、うちの喧嘩見てるみたいだったから」

「あー」

「よくそんな憶測だけで言い争いができるなあって」

「すみませんでした」

「イヴちゃんにも謝った方がいいと思います」

「うん」

「連絡取れないんですか」

「付き合ってた頃のメアドと電話番号なら、一応残ってる」

「そうですか」

「駄目なら大和田のおばあさんに伝言お願いする。また来るって言ってたし」

「良い方法だと思います」

 瀬戸さんに悟られないように小さく溜め息をついた。「別に話すことでもないだろうと思って、元カノのことは言わなかったんですけど」

「うん。そこは、僕もどうして欲しかったのかははっきりとしないので、いいです」と瀬戸さんはかなりふわっとした返事をした。「話して欲しかったような気もするし、黙ってもらってて良かったような気もする」

「ちゃんと清算はするので」

「はい」

 じゃあまた明日、と通話を終えた。アドレス帳アプリを開いて貝塚依蕗の名前を探す。消した記憶はない。前のスマートフォンからデータがきちんと引き継がれていればあるはずだ。そしてやはり、残っていた。一時期は毎日のように見ていた名前。懐かしいとは思う。今思い出しても付き合って良かったと思える。瀬戸さんには、そういう思い出はあるのだろうか。あったとしたら少し妬ける。ああ、なんか俺って面倒臭い彼氏かもしれないな。

 スマートフォンを耳に当てると呼び出し音が鳴った。一応、まだ使われている番号らしい。出るか、出ないか。俺は大きく深呼吸をした。

 翌日。作業服の上にカフェエプロンを巻いた瀬戸さんがテーブルの間をパタパタと歩き回っている。ハキハキとした口調できっちり注文を聞き目を見て話す。仕事を辞めてからはしばらくふにゃふにゃした表情の彼ばかり見てきたので、そんな瀬戸さんの様子が却って新鮮に思えた。一緒に公民館にいた頃はほぼ毎日見ていたはずなのに。

 こんなに格好良かったっけ、と眺めていると瀬戸さんが「箭内さん箭内さん」と駆け寄ってきた。「コーヒー溢れてます」

「え、あ、やべ」

 狼狽える俺。瀬戸さんはカップを持ち上げながらタオルでテーブルを拭いた。既にコーヒーが注がれたカップをトレーに乗せると「これ持って行ったらカップ補充しますね」と言って踵を返した。

 瀬戸さん本人は荷物運びだとか、体を使う手伝いを想定して作業服で来たらしい。が、大和田のおばあさんから頼まれたのは店番だった。で、おばあさんはというと、いつものお客さんやら近所の人と店内で談笑している。

「また箭内さんと働いてるみたいで楽しいです」カップを補充した瀬戸さんが言った。俺はまたコーヒーを溢した。この下心、公民館時代に自覚しなくて良かった。まともに仕事ができる気がしない。職場恋愛できないタイプだな、俺。

 客のほとんどが地元住民で、見たことのあるような顔ぶれが揃っている。時折普段見かけないような小学生がお菓子を買いに来るのは、夏休みで祖父母の家に遊びにでも来ているのか。

 俺も両親が亡くなるまではこの町が「おじいちゃん、おばあちゃんの家」だった。夏休みになれば遊びに行ってしばらく泊まってダラダラ過ごしていた。こちらに引き取られてしばらくは変な気分だった。夏休みというワクワクした気持ちでやって来て、ザラザラした砂壁の家に新鮮さを覚えたりなんかしていたこの場所に住むことになるなんて。所謂「おじいちゃん、おばあちゃんちのにおい」がすっかり馴染んでしまった辺りで俺は家を出た。そして今はまたそのにおいに馴染もうとしている。

 大和田のおばあさんが店から顔を出して瀬戸さんを呼んだ。瀬戸さんは「はい」とシャキッとした声で応じて店に入る。俺の前を通り過ぎた瀬戸さんの作業服からは微かに公民館の事務室のにおいがした。

 日が傾きかけた頃になってカフェの客足が落ち着いた。店の前を歩き回っていた瀬戸さんは空いた席に腰を落ち着けて俺の淹れたインスタントコーヒーを飲んだ。おばあさんが焼いたクッキーを差し出すと「ありがとうございます」と言って食べ始めた。ふにゃっとした笑顔が戻っていた。

「お疲れ様でした。ありがとうございます」

「接客って結構楽しいですね」

「瀬戸さん向いてそうです」

「自分ではあんまりそう思わないけど」

 大和田のおばあさんが店から出てきた。瀬戸さんの隣に「よっこいしょ」と座ると「あとはあだしが適当にやっぺし休憩しらいんわ」と言った。「依蕗ちゃんの歌っこ始まるよ」

「そうだ。箭内さん行かなきゃ」とエプロンを外し俺を急かす瀬戸さん。行かなきゃ、ってこれ義務なんかい。俺も渋々立ち上がった。「じゃ、行ってきます」とおばあさんに声を掛けて瀬戸さんが歩き出すのに付いて行った。

 飯野地区は商店街の一角に「イベント広場」と呼ばれる場所がある。UFOに乗ったご当地キャラクターの描かれたステージと客席のスペースだけの広場で、普段は客席側を駐車場にしている。

 広場は既に満員状態。商店街では見かけなかった変なデザインのTシャツを着た人々が詰めかけていた。首を伸ばして視界を確保しようとする俺に対して、瀬戸さんは前方の人々の肩の隙間からステージを見ている。こんなに熱気に溢れたイベント広場はあまり見たことがない。地元のダンス教室の生徒がダンスを披露するとか、つるし雛祭りの休憩スペースに使われるとか、和やかな場面が繰り広げられていることの方が多い。この光景は、少し恐怖を覚える。

 会場両脇の大きなスピーカーから音楽が流れ始め、ステージに4人の若い女の人が現れた。似たような色遣いの衣装を着ている。依蕗はレースの付いたふわふわしたスカートを穿き、髪型はツインテール。目が大きくて相変わらず可愛い。歌声はあの頃と変わらないアニメ声で、ふたりでカラオケに行った時のことなんかも思い出した。

 が、今の彼女は俺の知っている貝塚依蕗ではなかった。何というか、キラキラしていた。学校にひとりはいる可愛い子、あの子と付き合いたいしあわよくばエッチなことをしたいと思わせる美少女、というだけの人間ではなくなっていた。その魅力の上にさらに積み重ねられた努力を感じた。今まで「彼女達を見て自分達も頑張ろうと思える」なんてのたまうアイドルオタクの言い分を理解できなかったが、確かにこれは、「元気を分けてもらった」と錯覚してもおかしくないと思った。

 隣に立つ瀬戸さんは裏打ちのコールに混じって「はい!はい!」と声を上げていた。

 


 イベントが終わり辺りがすっかり静かになった頃。どこかの田んぼでカエルが鳴き、それに混じってコオロギやらキリギリスやらも翅を震わせて音を出している。俺が公園に着く頃には、どう遊ぶのが正解なのかわからない奇妙な形の遊具に依蕗が腰掛けていた。薄手のパーカーを羽織り緩いスウェットを穿いた姿だがスタイルの良さは見て取れる。「私達のファン、民度が高くてラッキーだよね。元カレに呼び出されるとか炎上ものだよ」と言いながら彼女は不織布マスクを外した。

 流石に今回は「コンタクトデッキで会いましょう」とは言えなかった。アイドルに約30分の登山をさせるのか、ということぐらい俺もちゃんと考えられる。代わりに麓の公園を利用した。俺はどう遊ぶのが正解なのかわからない奇妙な形の遊具に寄り掛かった。

「別にこのまま依蕗と縁が切れてもいいって俺は思ったんだけど」と前置きしてから「ちゃんと話したくて呼び出した。昨日はごめん」

「私もごめんね。急に怒っちゃって」

「うん。言い訳させてもらうと、おじいちゃんの介護するために公務員辞めて飯野に戻ってきてた」

「そうなの?」

「何年か前におばあちゃん亡くなって、したらおじいちゃん認知症になって、結構荒々しいボケ方しちゃったから、施設にも居られなくなって」

「じゃ、今ふたりで住んでんだ」

「いや、仕事辞める直前になって倒れちゃって入院中。やることなくなって、大和田のおばあさんの所でバイトしてた」

「そっか、大変だったんだね」

「うん、まあ」

 依蕗は少しの間の後「私、純希のことすごいなあって思ってたんだよ」と口を開いた。「お父さんとお母さん死んじゃっても全然暗くならないで勉強頑張って、おじいちゃんとおばあちゃんのために働くって言ったの、尊敬してたんだ。私もそういう人になりたいってずっと思ってた」

「あー、そう」

「誰かのために頑張るってすごくない?私はそう思ってたよ。だからなんか、辞めたって聞いたらムカついちゃった」

 依蕗もファンのために頑張ってたんだもんな。俺は俯いた。サンダルの隙間から入り込んだ雑草がチクチクする。不意に依蕗が「実際、逃げてるんだと思うよ、私」と言ったので俺は顔を上げた。

「純希だって頑張ってんだからって思ってアイドル活動やってきたけど、限界感じたっていうか、これより上にはいけないって思っちゃって。じゃあ次は何しようかなって考えた時に、地元のために何かしたいなって思ったの。でもまあ、傍から見れば田舎に逃げただけだろうし、私も逃げようとしてるって自覚はちょっとはあるよ」

「アイドルのことはよくわからないけど、ライブ見てすごいなとは思ったよ」

「ね、純希いたよね。普通に見ててびっくりした」と依蕗が笑った。「隣の南巳君?とか中堅か?ってぐらい乗ってたから超面白かった」

「え、なんで」驚き過ぎてその後に続く「瀬戸さんの名前知ってんの?」が口から出てこなかった。依蕗が笑いながら「ここまで私のこと送ってくれたの南巳君だよ。車止まってるの気がつかなかった?」となだらかな上り坂になっている公園の先の駐車場を指差した。「あ、(くん)って大和田のおばあちゃん言ってたけど、あの人私たちより年上なんだよね」

「待って、話が見えない」

「お昼に大和田のおばあちゃんに連絡したんだよ。純希から電話来たんだけどって。したらその南巳君が送り迎えするって言ってくれた」

「あー、そういう」

 日中の瀬戸さんに何か隠し事をしているような素振りは見られなかった。イベントが終わった後は普段と同じように「明日仕事があるから」と言って大和田菓子舗を後にしていた。依蕗との話が終わったら通話で結果を報告するつもりだった。「まじか」と呟き俺は頭を掻いた。

「何の知り合い?純希趣味とかなかったし珍しいじゃん、世代違う友達なんてさ」

「公務員時代同じ職場で」

「え?じゃあ南巳君わざわざ石巻から来てんの?すご、遠距離恋愛じゃん」

「まあ、そう」

 やべ、と思った。依蕗を見ると彼女は大きな眼を細めて口元を押さえていた。「やっぱりそうなんだー」と意味ありげな声色で笑う。「まあいいんじゃなーい?いい人そうだもんね」

「大和田のおばあちゃんには言うなよ」

「言わない言わない。あ、じゃあ私タクシー呼んで帰った方がいいね?南巳君と帰るんでしょ」

「別にいいって。てか名前で呼ぶな。俺だって名字呼びなのに」

「うそー、付き合ってどんくらい?私の時はすぐに名前で呼んでたくせに」

 その後俺は散々瀬戸さんとの関係を茶化されてから物産館の端に止められたN-VANに依蕗と乗り込んだ。瀬戸さんは「お帰りなさい」とふにゃふにゃした笑顔で言った。

「依蕗送るなら俺にも言ってくださいよ」俺は言いながら助手席を陣取る。

「だってその話を箭内君にしたら箭内君も送らなくちゃいけなくなるし、仲直りする前の険悪ムードの中運転したくないなあ、なんて」言い訳をしつつ後部座席の依蕗をちらりと見遣る瀬戸さん。依蕗が「ねー」と瀬戸さんに同意するように言った。てかなんでこのふたりやけに仲良さそうなんだよ。少しムッとしたが、多分、瀬戸さんも同じ気持ちになっただろうなと思って言わなかった。元恋人同士ふたりきりの会話なんて、俺が瀬戸さんの立場だったらキレ散らかしているだろう。

 依蕗の実家の前に車を止め、彼女は「南巳君ありがとね」と言いながら後部座席を下りた。助手席の窓を軽く叩かれ俺は窓を開けた。瀬戸さんをちらりと見てから手で口元を覆いつつ俺の耳に顔を寄せた。

「南巳君の胸はもう触ったの?」

 頭の中に忘れていた記憶がどっと押し寄せた。いや押し寄せたと言うよりは、依蕗の発言により脳内に注がれたような感覚。顔が急激に熱くなり汗が吹き出した。

「じゃあ、またね。おやすみ」依蕗が手を振り家に入っていった。瀬戸さんが小さく短いクラクションを鳴らし車を走らせた。俺は窓を閉めてエアコンルーバーを摘まみ風を顔に当てた。汗が急激に冷やされていくのを感じる。

「妬いてるのは大前提ですけど」発言の内容とは裏腹の優しげな口調で瀬戸さんが口を開いた。「箭内さんとイヴちゃんってお似合いのカップルだったんだろうなって思います。青春時代の恋って感じ」

 俺はそれに答える余裕はなかった。依蕗が置いていった思い出のせいでまた下心がムクムクしていた。

「可愛い彼女」という最強アイテムを手に入れた当時高校生の俺はひとつの目標を立てて男女交際に挑んでいた。「手を繋ぐこととキス、そしておっぱいだけは触ってから別れよう」と。依蕗には付き合い始めた頃からそれを宣言していた。で、最終的には目標通り女性特有の脂肪が詰まった柔らかい乳房を揉みしだいてから別れたわけだ。

 それを思い出してからというもの、俺は瀬戸さんの腹との段差がしっかり付いた胸を布越しに見て悶々としている。UFOふれあい館の風呂の後は一度もその胸を見ていないのに今でもはっきりと脳内に思い描ける。その日も俺は2時間かけて車を走らせ会いに来てくれた瀬戸さんの胸ばかりを見ていた。

 小さなこともよく気が付く瀬戸さん。当然俺の挙動不審ぶりにも気が付いている。家の居間で麦茶を飲み近況を話しながらも俺の視線の先を気にして自分の胸の辺りを時折見遣っている。俺は鼻から息を長く吐きタイミングを見計らって口を開いた。

「瀬戸さんにお願いがあるんですけど」

「はい」

「そろそろ触りたい」

 瀬戸さんは小さく首を傾げてからハッとし、恥ずかしそうに目を伏せ「どこですか」と小さな声で訊ねた。

「いや、いきなりプライベートな所は触るつもりないですけど」

 考えてみれば瀬戸さんとは手も繋いだことがなかった。手を繋ぐ機会もないのだ。人の目もあるし。

「すみません、下心出て」

「いえ、というか」上目遣いにこちらを見る瀬戸さん。「僕だって変なこと全く考えてないわけじゃないです」

「え」

 瀬戸さんは麦茶を飲み干し空のグラスを卓袱台に置いた。少し張った声で「9月に一緒に車中泊してくれませんか」

「え、え」

「僕お泊りとかまだできなさそうというか、宿泊先まで決めてもしできなかったら箭内さんに悪いし。箭内さんが寝られるぐらいのスペースは僕が道具揃えて準備するので、一緒にどこか行きませんか」

「いいんですか」

「むしろこっちがいいんですかって感じなんですけど」

 俺はカクカクと頷いた。「じゃ、行きましょう。行き先は僕考えとくので」と瀬戸さんが言った。それにも俺は何も言えずに頷くだけだった。

 翌日、面会時間ギリギリに病院へ飛び込んだ。早くおじいちゃんに見せたいものがあったのだ。その日のバイトが終わる直前大和田のおばあさんが店舗の上の自宅から持ってきた写真。どこかの宴会場と思しき場所の歌詞が映し出された大きなテレビの前でマイクを握るおじいちゃんの姿が写っていた。

「大和田のおばあさんから貰ったよ」と言いながら天井をぼんやり見ているおじいちゃんの視界に入るように写真を掲げる。「おじいちゃん歌ってたの俺知らなかった。大和田のおばあさん嘘ついてんじゃないかって思ってたよ」

 自然と笑みが溢れた。初めてこんなに自然に話し掛けられたと思った。俺はベッドの側の台に写真を置いた。

「おじいちゃんにはまだ言ってなかったけど、俺好きな人できた」

 端に寄せられた椅子を引いて座る。「好きなんだけど、こんな気持ちで本当にいいのかなって思ってる」

 そういえばおじいちゃんとおばあちゃんの馴れ初めとか聞いたことなかったな。こちらから訊ねようとも思わなかった。そこまで興味もないけれど、聞いていたら少しは自分の恋愛に活かせたのかもしれないと思った。

 その日の晩、例の夢を見た。

「純希はまだ役場か」

「辞めたよ、おじいちゃんと暮らすために退職して飯野に来たんだよ」

「なんだやー、父ちゃんと母ちゃん心配してるべ」

「お父さんもお母さんも死んだよ」

 これは夢だとわかっているのに、俺も飽きずに同じ応答をしている。まあ夢ってそんなもんか。

「んだべか」と呆けた顔のおじいちゃん。俺は例にもよって「んだよ」と答える。

「ひどいなや、じいじが面倒見てけっから」

「大丈夫だよ」

 ねえ、おばあちゃんが死んでおじいちゃん寂しかった?そう訊ねる前に目が覚めてしまった。スマートフォンを見ると深夜に瀬戸さんからメッセージが届いていた。それも数件まとめて。メッセージに添えられたURLをタップすると地図が出た。瀬戸さんから届いた最後のメッセージには「修学旅行リベンジです」とあった。

 行き先は会津若松と喜多方。猪苗代湖を通り会津若松市の鶴ケ城やら飯盛山を見てRVパークで車中泊。喜多方市へ行き五色沼を眺めながら飯野町に戻るルートだ。

 秋のお彼岸が終わり暑さも落ち着いた9月のある日。瀬戸さんのN-VANは屋根に棺桶のような細長い箱を積んでやって来た。いつもと違う、質実剛健なN-VANの姿にワクワクしてしまう。フラットになった後部座席には何やら荷物が積まれている。「箭内さんの荷物も適当に入れてください」と瀬戸さんが言った。

 助手席に乗って瀬戸さんの変化にすぐに気が付いた。アウターはいつものゆるゆるしたパーカーだが、その下のシャツと穿いているズボンが細身になっている。「服が格好良くなってる」と俺が言うと瀬戸さんは「へへへ」と笑った。服装が格好良くなってもふにゃふにゃ笑う瀬戸さんはどうしても可愛くなってしまう。だがそこが良い。

「修学旅行リベンジ」というテーマがあるので、やはり車内では修学旅行の話題になった。俺は「じつは俺修学旅行行ってないんです」と打ち明けた。俺が小学6年生の頃は東日本大震災の年。俺にとっては両親が死んだ年で祖父母の家に身を寄せ始めた年だ。修学旅行自体は無事行われたが俺は行かないと主張した。旅行拒否である。

 理由はお金がかかるから。当時の俺は子どもながらに祖父母の世話になることに後ろめたさを感じていて、どうにか負担を減らしたいと思っていた。修学旅行はお金がかかるというイメージがあったので行きたくないと先生に言った。俺には前述の通りの境遇があるので、先生は先生なりに、おじいちゃんとおばあちゃんも彼らなりに俺の気持ちを察して修学旅行の期間は学校で自習をすることとなった。

 そりゃ両親がいなくなったことはつらい。祖父母の負担を減らしたいという気持ちにも嘘はない。でも今思えばただ意地を張っていたのだ、俺は。俺はお父さんとお母さんがいなくたって大丈夫だしおじいちゃんおばあちゃんの世話になんかならねえぞと意固地になっていたのだ。美談でも悲劇でも健気でも何でもない。昔から俺は無駄にプライドが高かった、というだけのことだ。それを簡潔に瀬戸さんに話すと、「やっぱり箭内さんってすごい人ですよねえ」と言った。

「だからまあ、修学旅行リベンジと言われて、その通りだなと」

「僕はそんな意図なかったですけど」

「そういえば瀬戸さんの震災系の話聞いたことなかったです」

「あー、引きこもってたから特に話せることは」

「あ、そんな時ですか」

「そんな時です」と瀬戸さんは苦笑した。「あ、でも別に話したくないとかではないんです」

 根掘り葉掘り聞きたいわけでもないが会話が途切れるのも惜しかったので、躊躇いつつも「引きこもりの人って避難できるんですか」と訊ねてみた。

「僕は駄目でした」

「へえ」

「家も壊れなかったから避難する必要なかったんですけどね。海近かったら死んでたなあ」

「死ぬかもしれないって時でも、避難できないもんですか」

「できないですね」

 家から出られないという感覚が理解できない。命の危機が迫っていても出られないもんなのか。外食ができないにしても、今ここまで回復できているのはすごいことだと思った。こうして車を走らせて他人と普通に会話できているだけでも瀬戸さんには快挙なのだ。

「家族みんな給水とか行ってるのに僕だけ家にいて。みんな僕が出られないって諦めてるから、みっくんは家の中でも片付けてて、みたいな感じで」

「みっくん?」そこが引っかかってしまった。「家族からみっくんって呼ばれてるんですか」

「そうですよー」と瀬戸さんが笑う。「お父さん以外はみんなそう呼びます」

「へえ」

 少し和む。いいな。俺は記憶をひっくり返してもお父さんやお母さんからそんな可愛いあだ名で呼ばれたことがない。友達からも「純希」としか呼ばれていなかった。俺は横目で瀬戸さんの顔を見ながら「俺も呼んでいいですか」と言った。

「みっくんですか?」

「はい」

 赤信号の前で停車しギアをローに入れた瀬戸さんの表情が明るくなる。嬉しそうに「呼んでくれるんですか?」と言った。

「とりあえず、今日1日やってみます」

「あ、それいいですね。僕も純希君って呼んでいいですか」

「はい。よろしくお願いします」

 俺達の修学旅行リベンジはそんな感じで始まった。途中ガソリンスタンドに寄り東北自動車道に乗った。

 猪苗代湖は福島を代表する観光スポットのひとつで、名前のとおり湖なのだが、どうやら日本で4番目に面積の広い湖なのだそう。近くで見れば確かに水面がどこまでも続いていて、カメラで上手く切り取れば海に見えるのではないかと思えるほど広い。

 せっかくなので水際まで行ってみようということになって湖の端に近付くと僅かに波がある。海のように打ち寄せる感じはしないが確かに揺れている。風のせいだろうか。穏やかな水音を立てる水に手を入れてみると割と冷たかった。

 正直、旅行には慣れていない。お父さんとお母さんが亡くなる前はそれこそおじいちゃんおばあちゃんの家にお泊りするという旅らしいイベントがあったが、前述の通り修学旅行は拒否しているしおじいちゃんとおばあちゃんとは旅行したことがない。

「こういう旅行ってどう楽しんだらいいんですかね」と俺が正直に言うと瀬戸さんはスマートフォンを出した。カメラ部分を俺に向けて「はい撮りますよー、くるみゆべー?」

「くるみ、ゆべし」

「しー」

 シャッター音が鳴る。その後で気が付いた。「くるみゆべし」って「はい、チーズ」みたいな掛け声の一種か。瀬戸さんに見せてもらった猪苗代湖を背に立つ俺の姿は、突然のくるみゆべしに戸惑いつつも口角は一応上げていた。ピントもきちんと合っていて何よりも背景と人物の配置や比率が綺麗だった。あの一瞬でこんなふうに撮れるのか。

「瀬戸さん、じゃなかった、みっくんやっぱりカメラ上手いですね」

「最近はスマホが全部やってくれるから誰でも綺麗に撮れるんですよ」

「ピントはともかく構図はみっくんの実力です」

「モデルがいいからかなあ」へへへ、と笑いながらスマートフォンを操作する瀬戸さん。程なくして俺のスマートフォンに画像が届いた。それを確かめてから俺は顔を上げる。

「いいカメラとか持ってるんですか」

「家にあるけど、しばらく出してないからどうなってるかな。レンズカビてたりして」

 車に戻り会津若松市に向かう途中、俺が「みっくんの撮った写真を見たい」と言ってみると彼は俺にスマートフォンを預けた。

「適当に見ていいですよ」

 まさかこんな形でスマートフォンを預けられるとは思わなかった。大体の操作はわかるが、やはり慣れていないスマートフォンは使いづらい。画像のフォルダーを開くと、どこかで見たことのある風景やら食べ物の画像が並ぶ。そういえば瀬戸さん、俺の所に来た時もしょっちゅう何か撮ってるもんな。画像の端に見切れた俺の一部が写り込んでいたりもした。

 画像を遡ると小学生ぐらいの女の子が3人写った写真が現れた。「あ、この子達姪っ子ですか」と俺が訊ねると瀬戸さんは俺の手元をちらりと見てから「そうですよー」と答えた。家の中と思われる場所でおやつを食べているだけの光景だが、皆ニコニコしていて楽しげで、とても幸せな一幕に見える。さらに遡ると今度はポーズを取ったスラリとした女性の画像が見えた。

「それはせいちゃんですねー。2番目のお姉ちゃんです」

「格好良い」

「きょうだいで僕だけなんですよ、ちんちくりんなの」

 こっちはお父さん、隣はお母さん。女の子の側にいるのはほーちゃん。これは妹のことちゃん。次々と家族の写真が出てくる。どれも良い写真だ。自然体で眼差しの向こうにいる人間との親しさが溢れている。

「そうだ」と瀬戸さんが不意に声を上げた。「今回は純希君を撮ろうかな。いいですか」

「俺ですか」

「猪苗代湖の写真もすごくいいの撮れたし」

「うん、まあ、いいですけど。でも格好良いポーズは取れないですよ」と瀬戸さんのスマートフォンを指差した。

「そのせいちゃんはインスタに上げるからって頼まれて撮っただけだから。僕からポーズ指定なんかしないですよー」

「なるほど」

 赤信号で停止したタイミングでスマートフォンを差し出すと、瀬戸さんはそれを自分の膝の上にサッと置いてすぐに空いた俺の手を取った。驚いて思わず「おお」と声が出た。

「ドライブデートってこういうことするのかなあって思って」

 瀬戸さんがそう言ってふにゃっと笑った。確かに、そんなイメージはある。俺は少しゴツゴツした瀬戸さんの指の間に貧相な自分の指を差し込んだ。「純希君の指綺麗ですねー」と言われて少し恥ずかしかった。瀬戸さんの言葉に答えるようにぎゅっと手を握った。

 会津若松市に入って最初に向かったのはソースカツ丼の店だった。何でもこの辺りの名物はソースカツ丼らしく、とにかくボリュームがあって美味いとのこと。話には聞いていたが一度も食べたことがない。

 インターネットで調べながら向かった飲食店は時間帯もあって既に混んでいた。「俺買ってきます」と言ってN-VANを下り店に入った。よくある地元の定食屋さんという雰囲気で、テーブル席と小上がりは客で埋まっていた。俺はレジカウンターの店員に声を掛けてソースカツ丼2人前をテイクアウトで頼み、外のグレーのN-VANで待っていると告げて車に戻った。

「ありがとうございます」と言った。背中を丸めて少し申し訳なさそうな様子だった。俺は「いえ。少し待つみたいです」と言いながら助手席に座った。店内で食べられないことについては本当に気にしていなかった。別にどんな場所でもどんな器でも食べるものは一緒だもんな、という感じだ。

 程なくして店員が持ってきたプラスチック容器には常識的な量のご飯と、非常識的な量の豚カツが入っていた。デカい。それでいて分厚い。一応画像で量は確認していたが実物を前にすると慄いてしまう。瀬戸さんもソースのたっぷりかかった豚カツの入った容器を持ち上げ「重い」と目を丸くしていた。それぞれの膝にそれぞれのソースカツ丼を用意し「頂きます」と手を合わせる。箸で豚カツを一切れ掴んだ俺を瀬戸さんがスマートフォンで撮影した。

「美味い」一口囓った俺は言った。瀬戸さんも頷いていた。やっぱり店内で食べられないのってどうでもいいなと思った。瀬戸さんがなんの憂いもなくソースカツ丼を食べられる場所にいることが一番だ。

 ソースカツ丼を完食して車を走らせてから先程撮影した俺の画像を見せてもらった。俺の顔と比べても豚カツの大きさがよくわかる。空腹だったので一気に食べてしまったが、腹はパンパンだ。だから次の飯盛山は良い腹ごなしになった。というか、膨満感がどうでも良くなるぐらいになった。

 飯盛山は標高約300メートルの山。千貫森に比べれば低いが、戊辰戦争の最中その若い命を散らした白虎隊自刃の地に続く石段は途方もなく長い。あらゆる坂を上らされる千貫森の方がまだ楽かもしれない。「動く歩道」と銘打ったスロープコンベアもあるが有料だ。500ミリリットルペットボトルに入ったスポーツ飲料を片手に石段を上った。俺は半分ほどで一度休憩を要求した。その場に座ってペットボトルに口を付けた。

「僕が背負っていきましょうか」

「いやいやいや、流石にそれは」

「大丈夫ですよー」と瀬戸さんがパーカーを脱いだ。いつもよりタイトなシャツを着た瀬戸さん。筋肉が布を押し上げて体の輪郭が僅かだが覗える。これは駄目だ。こんな姿の瀬戸さんに背負われたら、申し訳ないとか恥ずかしいとか情けないとか、そんなこととは違う意味でもう俺の精神が持たない。俺は立ち上がって自力で上った。

 その昔、会津藩によって組織された10代前半から半ばの若いというよりは幼い武家男子の部隊が白虎隊。戦闘の最中飯盛山の頂上から鶴ヶ城を眺めた所、炎上しているように見えたことから城が討ち落とされたと勘違いした彼らはその場で自刃。後に蘇生したひとりを残してその場の者は皆命を落とすこととなった。ちなみに実際に鶴ヶ城は燃えておらず、城下の町が炎上しているだけだった。

 というのが通説の「白虎隊の悲劇」。頂上から鶴ヶ城を眺める人々は「見間違えるもんかねえ」「白虎隊は若い子ばかりだったからねえ」等と感想を述べていたが、瀬戸さんは「最近は違う説もありましてねー」と言った。「鶴ヶ城が燃えてないことはわかってたけど、もし鶴ヶ城に向かって行って敵に捕まってしまったら偉い人とかご先祖様に申し訳が立たん、という理由で自刃してしまった説も出てきたらしいんですよー」

「へー」

「いずれにせよ若さ故の判断ミスって感じですよねー」

「みっくんって大学で歴史勉強してたんですよね」

「そうですよー。古代史」

「すごいですよね。とんぺーって。頭いいんだなあ」

「勉強しかしてこなかったから。卒業もしてないし」と瀬戸さんはスポーツ飲料を一口飲む。「社会人の経験を着実に積んでる純希君の方がすごいです」

 そういうもんかな。俺は呟いた。

 鶴ヶ城の天守閣から飯盛山を眺め、「ここが燃えてるように見えたんだねえ」という周囲の感想を聞きながら近くの鶴ヶ城会館へ行った。瀬戸さんは入り口に鎮座しているデフォルメされた赤べこの置き物に目を奪われていたが、俺はもっと手前にある暖簾が気になった。「あわまんじゅう」と俺が呟くと瀬戸さんも俺と同じ方を見た。

 暖簾の向こうでは白い作業服を着た男性がお猪口のような小さい器に黄色いボソボソしたものを詰め、そこに餡子を乗せてさらに黄色いボソボソで蓋をして綺麗に並べていた。表面はクラムのかかったミモザケーキに似ている。どんな味なんだろう。

「みっくんはあわまんじゅう食べたことありますか」

「ないです」

「食べてみませんか」

 瀬戸さんは子どものように何度も頷いた。ふたつ注文してしばらく待つと出来立てのあわまんじゅうが提供された。蒸す前はミモザケーキだった表面が水分を含んだプツプツに変わっている。俺は受け取った勢いのまま一口囓った。粟のプチプチした食感と餅の柔らかさ。甘みは優しい。出来立てなので温かかった。

「美味い」と瀬戸さんを見てからハッとした。車に戻ってから食べた方が良かったかなと思った。瀬戸さんは俺の手にあるもうひとつのあわまんじゅうを両手で取ると辺りをキョロキョロ見回し壁を背にしてからパクリと一口含んだ。

「美味しいです」いつものようにふにゃっと笑った。俺も「ですよね」と笑った。

 お土産に赤べこと白虎刀を買った。「いいですねー。特に白虎刀が修学旅行って感じです」と瀬戸さんが懐かしそうに言った。彼は公民館の職員に、とままどおるを買っていた。

 RVパークとやらは鶴ヶ城から車を20分ほど走らせた場所にある駐車場やらトイレやらシャワー室が設置された車中泊専用のスペースだ。RVパークに向かう道すがら瀬戸さんが説明してくれた。

「僕ひとりだったらその辺の道の駅で車中泊しちゃうんですけどね。でも道の駅で寝泊まりってグレーゾーンな所あるから」

「やっちゃ駄目なんですか」

「仮眠はOK、長時間の滞在はNGってことになってて、これは仮眠なんだと己に言い聞かせて寝てる感じです」

「あー、なるほど」

「純希君にグレーゾーンなことはさせたくないなーと思って。今日はちゃんとした所で車中泊です」

 RVパークにはキャンピングカーが何台か止まっていて、車の側にテーブルや椅子を置いて寛いでいる人もいる。1台ごとの駐車スペースが広めに取られていて窮屈さも感じない。道すがら買ったほか弁と円盤餃子を晩ご飯にして車内で食べた。「福島の“円盤餃子”だからてっきりUFO関係の名物だと思ってました」と瀬戸さんが言った。空飛ぶ円盤の方の円盤ではない。

 晩ご飯の後瀬戸さんは「寝る場所作っておくのでシャワー浴びてきてください」と俺に言いつつトランクを開けた。瀬戸さんばかり働かせるわけにもいかないので俺もその場に残ることにした。車内は予め運転席と助手席を残してそれより後ろは椅子を倒し、ボードを使って寝るスペースを確保していた。ルーフボックスから布団を出し、空いた所にお土産などの荷物を入れた。最後に運転席と助手席も倒した。

「ちょっと寝てみてください」と瀬戸さんに言われ俺は靴を脱ぎ黒いボードの上に寝転がった。下にフレームがきちんと組まれているためか安定感がある。足もまっすぐに伸ばせた。「おお」と俺は声を上げた。

「良かった。純希君背高いしつっかえたらどうしようと思ってた」

 瀬戸さんが小さいから相対的に俺がデカく見えるだけだ。数字で言えば大した身長ではない。そう思ったが口には出さなかった。本人は低身長を気にしているようだったからだ。瀬戸さんは小さいからいいのにな、と個人的には思っている。

 布団を敷いて寝床を整えてから駐車場の近くに建てられたシャワールームで体を洗った。最近できた施設なのか設備はどれも真新しく綺麗だ。車に戻った瀬戸さんが「温泉旅行とか行けたらいいんだけど」と申し訳なさそうに呟いたのを聞いて「俺はこれでも楽しいですよ」と言った。ついでに「みっくんは車中泊でどこまで行くんですか」と訊いてみた。

「北は青森まで行ったことがあります。南は栃木ぐらいかな」

「へえ」

「もうちょっと遠くに行きたかったですか」

「いえ」と首を横に振り、おじいちゃんのことを思い出す。おじいちゃんもいつ体調が急に悪くなるかわからないしなと思った所で、多分瀬戸さんもそう思って行き先を県内に選んだんだろうなと気付いた。俺が「いつもありがとうございます」と言うと瀬戸さんは「へへへ」と照れたように頭を掻いた。

 それから俺達は車の中で腕立て伏せをしてみたり腹筋をしてみたり、瀬戸さんのプロテインの話を聞いたり等した。屋外にテーブルを出していた人達が車に引っ込んでいき、周囲の車からも明かりが消えた頃俺たちも眠ることにした。エンジンを切って小さなLEDライトをひとつだけ点けて掛け布団を準備する。瀬戸さんは外したメガネを「どこに置いとこうかな」とキョロキョロしていた。俺は布団の上に正座をしてその様子を見ていた。やがてメガネはダッシュボードの上に落ち着き瀬戸さんが布団に潜り込んだ。頭だけを布団から出して座っている俺を見る目は、視力が悪いせいかどこか遠くを見ているような眼差しだった。

「布団ふたり分用意しといてあれなんですけど」

「うん」

「一緒に寝てもいいですか」

 俺は頷いて瀬戸さんの布団に入り込んだ。瀬戸さんは背は低いが胸板は厚いしガッチリしている。小さいのにデカい。偶然を装って腕に触れてみると驚くほどスベスベしていた。

「すみません。ここまで来るの遅かったですよね」

 瀬戸さんの言葉に俺は首を動かして彼の顔を見た。LEDライトに照らされた瀬戸さんの顔は赤くなっていた。

「僕恋愛とかしたことないし、ビビりだから純希君のことすごく待たせてるんじゃないかなって」

「そりゃ待ってるけど、俺もそんなに恋愛経験積んでるわけでもないし」俺は答える。「俺が待ってるのは単純に俺がやらしいこと考えてばっかりだからなわけで」

「僕も触って欲しいと思ってます」やや上擦った瀬戸さんの声。「僕だって下心ないわけじゃない」

 まあ、そうだよな。にんげんだもの。付き合ったらそういうことをする流れになるのは自然なことだし。でもエッチなことをするのが当たり前とは思いたくなかった。付き合ってるなら当然するんだろう、と思いたくなかった。なので俺はひとつ咳払いをして改まった気持ちで「おっぱいを触らせてください」と頼んだ。


「はい」と瀬戸さんが頷く。どこか決心したような様子だった。俺は布団の下でもぞもぞと右手を動かしTシャツ越しに瀬戸さんの胸に触れた。そのまま指を動かし少し力を入れた。

「硬い」

「筋肉なので」

「ええ、待って、こんな硬くなる?」俺は思わず上半身を起こし左手で自分の胸に触れながら瀬戸さんの胸を揉んだ。そもそも俺には揉める胸がないのだが。瀬戸さんも体を起こした。「ちょっと動かしてみますか」と言うと胸の上部がピクリと動くのが俺の手にも伝わった。

「動かせるの?」

「この辺に力入れると動くんですよー」朗らかに笑う瀬戸さん。ふにゃふにゃした笑顔なのに、胸は硬い。ついに俺は両手で瀬戸さんの両胸を掴んだ。瀬戸さんが小さく吹き出し笑った。エッチな雰囲気にはならなかったが、これはこれで良いと思えた。

「明日も純希君って呼んでいいですか」と瀬戸さんが言った。俺は両手に少し力を込めつつ頷いた。

 思いの外良く眠ることができた。先に起きた瀬戸さんが外に出たことに気が付かなかったぐらいだ。目が覚めると隣に瀬戸さんがおらず、スライドドアを開けると外がだいぶ明るくなっていた。眩しさに目を細めながら駐車場を見遣るとストレッチをしている瀬戸さんがいた。背中を伸ばすと胸に張り付いたTシャツ越しにクッキリと筋肉が浮き上がった。「おはようございます」とふにゃふにゃ笑った顔とのギャップは朝から刺激が強い。

「おはようございます」と俺は答えそそくさとシャワールームに向かった。顔を洗ってクールダウンしてから戻った。

「初めての車中泊はちゃんと寝られましたか」

「はい。思っていた以上に快適でした」

「それは良かった。もし眠れてなかったら移動中寝ててもらっていいので」

 瀬戸さんは俺が助手席に乗るといつもそう言ってくれるが、せっかく瀬戸さんと一緒にいるのに眠ってしまうのがもったいないのでいつも起きている。

 朝ご飯にコンビニのおにぎりを食べながら喜多方市へ向かった。喜多方は蔵の町と呼ばれていて町並みを楽しむだけでなく蔵の中を見学することもできる。趣のある町並みで瀬戸さんがスマートフォンを構える回数も格段に増えた。急に立ち止まったかと思えば俺を先に行かせて何やら撮影をしている。

「僕、エッチな気分になることを悪いとは思ってないですよ」

 酒蔵でお土産を選んでいる時に瀬戸さんは言った。「僕が余計なこと話したから純希君に遠慮させちゃったかなって少し反省してます」

「退学した理由ですか」と俺が訊ねると彼は小さく頷いた。

「余計なことじゃないです。知らなかったら俺無自覚にみっくん傷付けてたかもしれない」

「純希君はそういう人じゃないですよ」と彼は酒瓶をひとつ掲げる。「昨日触ってもらった時、純希君に求められるのももちろん嬉しかったけど、それ以上に、純希君が優しかったのが嬉しかった」

「優しかったかな」

「下心隠すより、優しい方が僕にとっては大事です」瀬戸さんは言った。「純愛じゃなくていい。僕は優しい純希君が好きです」

 酒を呑んだわけでもないのに頭が熱くなった。少しボーッとする。くらくらするような気もする。こんなに素直な瀬戸さんがこんなにプライドの高い俺をよく受け入れてくれたなと思った。俺もこの人ぐらい素直になりたいと思った。一緒に仕事をしていた頃から彼から学んだことはたくさんあったが、それは今でも変わらない。


 喜多方と言えばラーメンが有名だが、やはり瀬戸さんはラーメン店に入れなかった。テイクアウトで生麺やらスープやらのセットを購入した。瀬戸さんは半ベソをかきながら車内で一口まんじゅうを食べていた。俺は別に家で喜多方ラーメン作って食べればいいと思ってるけど。その方が具とかいっぱい乗せられるし。

 走る車の窓の外に見慣れた地名の青看板が出てくると、いよいよ旅も終わるなという気分になって少し寂しくなった。「一緒に車中泊してくれてありがとうございます」と瀬戸さんが言った。

「ありがとうはこっちです。いろいろ準備してくれたし」

「僕ひとりなら寝心地なんて考えなくていいですもん。純希君には少しでも車中泊にいいイメージを持ってもらいたくて」

「今度はみっくんのやってる車中泊やりたいかも」

「マナーギリギリのやつですか?辞めた方がいいと思います」

 長距離の運転で疲れただろうに、瀬戸さんは俺を家の前で下ろすとさっさと北上していった。そして2時間後には「無事帰宅しました」とスマートフォンにメッセージが届いた。その上明日は出勤だと言う。体力お化けだな、瀬戸さん。

 旅の感想を送ろうと思ったら、瀬戸さんから先にメッセージが届いた。「旅終わっちゃったけど、これからも純希君って呼んでいいですか」

 そんなのいいに決まってる。

 翌日、大和田のおばあさんにお土産の喜多方ラーメンを渡した。「いいねえ。ありがとね」と彼女は嬉しそうに笑い、「一人旅?」と訊いてきた。

「瀬戸さんと行ってきました」

「南巳君と?あの子もよく来るねえ」と目を丸くし、店の奥にお土産を置いてくる。「もっと遠い所に行っても良かったべっちゃ」

「バイトもあるし、おじいちゃんに何かあったらすぐ帰りたいし」

「その時はもう仕方ないっちゃあ」

「まあそうなんですけど」

「でも純希君にはちょうど良かったんでねえの、会津と喜多方」

 俺が首を傾げるとおばあさんは「知らないで行ったの?あんだのおじいちゃんとおばあちゃんの新婚旅行先でねか」と声を上げた。俺も「まじですか」と声を上げた。

「お金ねえから県内で済ませたって言ってたべよ。あのふたり仲良かったもんねえ」口元に手を当てて変な笑いを漏らす大和田のおばあさん。「なんだよ」と俺は呟いた。そのエピソード、旅行に行く前に知りたかった。

 帰宅後、新婚旅行の思い出がわかるようなものはないかと家を探し回ったら、その時に買ったものかはわからないが埃を被って少しザラザラしている赤べこを見つけた。首と胴体を繋ぐ糸が切れていたので適当な糸を探し出して見よう見まねで直してみた。やや動きはぎこちないがつつくと首がフラフラ揺れる。買ってきた赤べこと並べてしばらく眺めた。おじいちゃんの病室に置くために買ってきた赤べこだが、これは俺が持っておこう。代わりにこのザラザラした方を持っていくことにした。

 それから数日経って、瀬戸さんから分厚い封筒が届いた。家のポストに少しはみ出すように突っ込まれていた。開けてみるとアルバムと写真立てが入っていた。中は旅行の時に瀬戸さんが撮った俺の写真だった。こんなに自分の姿を見ることもないだろう。照れ臭いが、嬉しかった。瀬戸さんには俺がこう見えていたんだなと思った。

 次のおじいちゃんのお見舞いには赤べこと写真立てを持参した。写真立ては、俺の写真の分と何も入れていないものをもうひとつ。棚の上にペラリと一枚置かれたおじいちゃんの写真を入れた。こうして写真を並べてみるとおじいちゃんと俺は似ているかもしれない。お父さんと間違えられたこともあるし、もしお父さんが生きていたら年を取ればおじいちゃんみたいな顔になっていたのかもしれない。そして俺はお父さんの顔になってそのうちおじいちゃんの顔になっていくんだ。未来の顔立ちがわかってしまった。苦笑しながら俺は最後に赤べこを置いた。

 飯野町に帰ってきて半年が経った。住み慣れたはずの町は俺の知らないことばかりで、見知ったはずの家族には俺の知らない一面があった。元カノはアイドルになって卒業していたし、何年も一緒に働いていた人とは上司と部下でしかなかった関係性がいつの間にか恋人になっていた。

 ねえ、おばあちゃんが死んでおじいちゃん寂しかった?夢の中でそう訊ねなくて良かった。寂しいに決まっている。当たり前だ。俺は赤べこの頭をつつきながらおじいちゃんに旅の話をする。