清潔な病室の清潔な布団の中でおじいちゃんは顔や目を僅かに動かして俺の存在を確認した。声は出ない。
おじいちゃんが入院して1ヶ月半。発熱やら何やらの体調不良で分院と本院を行ったり来たりしながら彼は命を繋ぎ止めている。看護師さんがにこにこと笑顔でおじいちゃんに「お孫さん来ましたよ」と声を掛けた。俺も同じようにしたかったがいつも上手くできない。聞いているのかいないのかわからないおじいちゃんに意識があった頃と同じように声を掛けることができなかった。
すぐに病室を出るのも躊躇った。少しは一緒にいようと思い椅子に座った。先ほど寄ったスーパーで貰ってきた求人情報誌を開いた。一応、これからのことは考えようと思っていた。俺も貯金はしていたし、おじいちゃんの蓄えで入院費は賄える。それでも減るものは減るので、このままのんびりしているわけにもいかない。
パラパラとページを捲る音が静かな病室に響く。おじいちゃんとおばあちゃんと、3人で暮らしていた頃を思い出した。自分の部屋のなかった俺が寛ぐのは専ら居間だった。スマートフォンを弄る俺の横でおじいちゃんは新聞を捲っていた。ぼんやりと天井を眺めるおじいちゃんの顔を見て俺は少しだけ笑えた。
瀬戸さんが家に来ると決まった途端掃除のモチベーションが上がる。別に瀬戸さんに見られるような部屋じゃなくても、だ。病院から戻ると仏間の布団を畳んで掃除機をかけた。押し入れを開けてみると古いプレーヤーとCDが出てきたので適当に選んで再生してみた。氷川きよしだ。聴いていたのはおじいちゃんだろうか、おばあちゃんだろうか。どちらも音楽を熱心に聴いている様子は見たことがなかった。
瀬戸さんからメッセージが届いた。「きよしのズンドコ節」を口ずさみながらスマートフォンを弄る。「明日9時頃そちらに着きます」とのこと。歌が止まった。9時到着と言うとあっちを出るのは7時。ちょっと早くない?仕事休みの日なのに。
「もっとゆっくりでいいですよ」と返信しても良かった。が、辞めた。早く会いたいしできるだけ長く一緒にいたいと思った。俺、人恋し過ぎでは?瀬戸さんに寄りかかりすぎな気もした。
翌日やって来た瀬戸さんはやはりゆるゆるな服を着ていた。「こっちの方が季節が少し早く進んでる気がします」と言いながらお茶を啜った。「そうだ。この前のお菓子本当に美味しかったです。袋に書いてあるお店の住所、この辺りですよね」
「そうですね。ここの商店街のお菓子屋さんです」
「やっぱり。他のお菓子も食べてみたいなーって思ってたんです」
「あ、でも」と俺は言った。「お店ではもうお菓子売ってなくて」
「そうなんですか」
「スーパーとか、物産館とかで売ってる分しか作ってないみたいなんだよな」
「へー」と少し残念そうな顔をする瀬戸さん。こんな寂れた商店街で売るよりも、多少は賑わうスーパー等に置いてもらう方が儲けになるのだろう。でも確かに、気に入ったお菓子の袋に住所が書いてあれば行ってみたいと思うよな。
「瀬戸さんって、お菓子好きなんですか」
「え?あー、そうですね。好きかも」と瀬戸さんは照れたように笑う。
「仕事中お菓子よくくれたから」
「あれはコンビニで余計に買っちゃったのばら撒いてるだけで」
「でもあれ嬉しかったです。頑張った時のご褒美って感じで」
「へへへ、喜んでもらえてたなら良かったです」
瀬戸さんは絶妙なタイミングで気遣いのできる人だ。そろそろ休憩しようかなと思っている頃にお菓子を持って来るし、ピリピリした空気の時でも良い雰囲気になるように声を掛けてくれる。非常勤で働いているのが勿体ないと思う一方、これ以上頑張らせたくないと心配もしてしまう。仕事中は周りに気を遣って、休みの日は俺のメンタルケアか。何だか申し訳ない。
車で目的地に向かう途中、瀬戸さんは自身のオカルト遍歴を話し始めた。「俺が子どもの頃はアンビリバボーの心霊写真特集とかUSO!?ジャパンとか見てましたねー。箭内さんの世代だともうそんな番組やってなかったでしょ」
「そうですねえ、そもそも俺があまりテレビ見てなかったかも」
こういう話題を出されると改めて瀬戸さんが歳上だということに気付かされる。でも瀬戸さんが言う程世代格差もない年齢差だと思うけど。「俺結構テレビっ子だったからなー」と瀬戸さんが笑った。
退職してしばらく経ったせいか、こうして瀬戸さんとの親密度を上げたせいか、俺はすっかり仕事モードが解除されてしまった。仕事中は気を張っているために自然と出た「私」という一人称も、こうなってしまうともう使わない。対して瀬戸さんは仕事をしている時と今と、様子があまり変わらない。裏表のない人なんだなと思った。ふにゃっとした笑顔を見られたのはラッキーだったな。
商店街では辛うじて「町」の体裁を保っていた景色も、山に近付くと田舎の雰囲気が強まる。「ようこそ!千貫森公園へ」と書かれた木製の看板の横からは銀色の宇宙人がひょっこり顔を出していた。道路脇にN-VANを寄せた瀬戸さんがスマートフォンで写真を撮っていた。
「箭内さんはここ来たことあるんですか」
「はい、何回かは」
ダラダラと続く坂道を上ると左手にピンク色っぽい建物が見えた。こちらがUFOふれあい館。道路を挟んで反対側には物産館がある。今日は平日ということもあって人は少ない。駐車場にN-VANを駐めて外に出た。
「どこから行くのがいいんですかね」
「個人的には」と前置きをして俺は答える。「山を先に上る方がいいです」
「千貫森ってやつですか」
「はい。UFOふれあい館の2階にお風呂があるので」
「へー」
そう、この施設、UFOに関する展示の他に入浴施設も併設されている。温泉ではなく、沸かし湯。一体何故ここに?とも思うが、地元民は銭湯感覚で利用していたりする。俺も家の風呂場をリフォームした時に何度か入りにきた。
「じゃー、上ってみますか」と瀬戸さんが歩き出した。俺は後ろをついて行った。千貫森の標高は500メートルを少し下回るくらい。遊歩道ならぬ「UFO道」が整備されているので道に迷うこともない。各地点に町内にあったような宇宙人の石像が設置されていて、瀬戸さんは律儀に一体一体スマホのカメラに収めて名前を読んでいた。デカメダ、チーミー、ゴモラ等々。頂上までの高さも書いてあるので登山の際の励みにはなる。
途中、頂上とは別の展望スペースがあったのでベンチに座って休憩した。歩いていると意識しなかった疲労がここにきてドッと押し寄せる。風で汗が冷えていく。瀬戸さんは「ここでも充分眺めいいですよね」と言った。それから通り過ぎる老夫婦に「こんにちは」と挨拶をした。
「こんなにいい所あったなら、早く箭内さんに教えてもらえば良かったです」
「仕事の時は仕事の話しかしてなかったから」
「そうですよねー、仕事ですからねー」
職場の同僚やら上司やらと休みの日にも会うという感覚は、あまり理解できなかった。別に嫌いでもないが、休みの日にも会いたいと思えるほど好きでもない。でも瀬戸さんといると、もう少し皆と仲良くしても良かったかもなと思った。
残りの道もせっせと歩いた。目の大きな宇宙人モリタンが頂上まで残り50メートルであることを告げ、足元が石を敷いた道に変わり、奇妙な形の展望台が見えた。UFOコンタクトデッキだ。ユータンの石像が「登頂おめでとう」と俺達を歓迎していた。
「着いたー」と瀬戸さんが両手を挙げた。ユータンを撮影しコンタクトデッキに上った。見えるのは山と木と、それに囲まれた道路とそこを走る車ぐらいだ。絶景、という程でもないが、瀬戸さんの前でそれを言うのも野暮なので黙ってついて行った。
「ここでUFO呼んだら来るんですかね」
「どうですかね」
「箭内さんはUFO見たことないんですか」
「ないですねえ」と苦笑した。「そんなに熱心に空を眺めたこともないかも」
「俺もそうかもなー」
俺が仕事中にプライベートなことを話さない理由その2はこれだ。出身地のことを深く話すと大概「UFO見たことあるんですか」と言われる。飯野町は今でこそ福島市の一部だがかつては伊達郡飯野町だった。その名残で出身地を訊ねられたら「福島の飯野です」等と答えたりするが、そうすると「飯野って何があるの」と訊かれる。そこで「UFOの里ですかね」等と答えてしまうとその先は大体決まって「UFO見たことあるの」と来る。
正直ウンザリしている。そこから何故か飛躍して俺が不思議ちゃん扱いされたりもするから本当に困る。俺はUFOを見たことはないしムーは読まないしYouTubeでオカルトの解説動画をアップロードしていない。
瀬戸さんは「いいなーここ」と言いながら空を見上げた。桜が散って、花粉シーズンも終わった、梅雨に入るまでの短い穏やかな期間。まあ、確かにこんなUFO観測日和にここまで来ると、良い場所に思えなくもない。
「また来ようかな」
「その時は誘ってください」
「いいんですかー?」へへへ、と瀬戸さんが笑った。そろそろ下りますか、と言い合って下山した。
物産館でTシャツとタオルを買ってUFOふれあい館に入った。「NO UFO NO LIFE」とデカデカと書かれたタオル。まさかこのタオルを購入する日が来るとは。UFOふれあい館は、オカルト雑誌が詰め込まれた本棚が置かれた受付から先が二手に分かれていて、一方は展示スペース、もう一方は入浴施設に続く階段がある。展示を見なくても直接風呂に入ることができるので、地元民は大概そのルートを通る。俺達も地元民に倣って階段を上った。
2階は休憩用の広間と男女に分かれた風呂場がある。給湯室もあるが使っている人は見たことがない。男湯の脱衣場で服を脱ぎ適当に丸めてロッカーに突っ込む。
汗でしっとりとしたシャツを丸めながら「結構汗かきましたね」と言いつつ瀬戸さんを見た。思わず「おお」と声が出てしまった。そういえば瀬戸さんの裸を見たのは初めてだった。いつもゆったりした服を着ているので気が付かなかったが、思いの外筋肉質だった。確かに首は太い方だったな。声を上げた俺に瀬戸さんは少し驚いたような顔をした。
「あ、すみません」と俺は言った。「あの、筋肉すごいですね」
「え?あー、そうですか」
「何かやってんですか」
「公民館のトレーニング室使ってますよ」
「え、それだけでそうなります?」
「教えてもらいながらやってるからかな」
逞しい腕の向こうに大胸筋が覗いている。腹との段差がしっかりついた大胸筋。こんな体、リアルで見たの初めてかもしれない。瀬戸さんが少し恥ずかしそうに背中を向けたので慌てて目を逸らした。
正直、変な気を起こしそうで自分が怖くなった。いちいち自分の股間を気にしながら体を洗い湯船に入った。瀬戸さんも戸惑っているようで明らかに口数が減った。
マズい。変な空気にしてしまった。何ていうか、あまりにも瀬戸さんの体が意外過ぎたので。いや、瀬戸さんのせいではない。俺がおかしいのだ。ジロジロ見るものでもないのに見てしまうからいけないのだ。これ以上は何もしない方がいい。
「あの、妹がですね」と瀬戸さんが口を開いた。「ひえあ」と変な声が出た。お湯をバシャバシャしながら瀬戸さんの方を向いた。
「あ、すみません。急に話しかけちゃって」
「いえいえいえ、続けてください」
「あー、えっと、俺、妹がいて」
「はい」
「妹の、パートナーっていうんですかね、事実婚の旦那さんがいるんですけど」
事実婚。多様性の時代って感じ。
「その人がムキムキなんですよ。で、その人から教えてもらって鍛えてます」
「あー、なるほど」俺は頷いた。「てか妹さんいるんですね」
「はい」
「ふたりきょうだいですか」
「いえ、あと上にふたりお姉ちゃんがいて」
「4人きょうだい」
「はい」
申し訳ない。俺が作り出してしまったこの微妙な空気を有耶無耶にする役割を、被害者である瀬戸さんに押し付けてしまった。しかも俺の良くないスイッチが入ってしまったことに対して「筋トレの方に興味がある」と、恐らく意図的に曲解してくれてこの場を収めようとしている。優し過ぎる。居た堪れない。
風呂を出て服を着た。意図せずお揃いになってしまった、着替え用に買ったTシャツ。俺は体が火照りまくっていたのでTシャツ1枚だったが、瀬戸さんはその上にブカブカのジップアップパーカーを羽織った。そしてTシャツもLLサイズ。何故なのか。瀬戸さんより10センチメートルは長身の俺でさえMサイズなのに。体に合ったサイズのシャツ着ると筋肉でパッツンパッツンになるのかな。いやいやいやだからもうこのことは考えちゃ駄目だってば。あーもう。
物産館で購入したTシャツを身に着け「NO UFO NO LIFE」タオルを肩に掛けた俺達はUFOオタク感を漂わせながら展示スペースを見て回った。UFOの概要と、飯野町に飛来したUFOに関する新聞記事のコピー。千貫森でよく見られるという、叩くと金属のような音がするピンカラ石。極めつけはショーケースに当たり前のように展示されたCIAの機密文書。駄目だでば、こんな所さ置いちゃ。
瀬戸さんはそれなりに楽しんでくれたようで、解説の音声が鳴るボタンは全部押していたしピンカラ石もしっかり叩いていた。3Dシアターが上映されるということで、シアタールームに入ろうとした時、展示スペースにいた親子連れが俺達に近付いてきた。
「瀬戸、おい瀬戸」
声を掛けられ瀬戸さんが顔を上げた。親子連れの父親の方は嬉しそうに「やっぱり、瀬戸南巳だろ」と言ってからちらりと後ろの奥さんを見遣り、また瀬戸さんを見る。「俺、野地。野地雄大。文学部の。あと写真部」
「あー、うん。覚えてる」瀬戸さんは俯き、夫婦が手を繋ぐふたりの女の子を見遣った。
野地は背後の奥さんを指差し「須藤綾だよ、覚えてる?」
「う、うん」
「瀬戸君久しぶりだね」と奥さんの方も笑顔を見せた。「あのままズルズル付き合って、結婚したんだ」
「ズルズル言うなよな」野地が唇を尖らせながらも楽しげに言った。「退学してから連絡もくれなかったじゃん。元気してたか」
「まあ、うん」
「震災は?実家石巻って言ってたから心配でさ」
「大丈夫、内陸だから」こんな時でも瀬戸さんは気を遣うようにちらりと俺を見た。
「とにかく会えて良かったよ。ほんとみんな心配してたんだからさ。急に退学するし電話も繋がらないし」
「携帯、解約してたから」
「なんかあったの?」奥さんの方が訊ねた。瀬戸さんが黙って首を横に振った。俺は「瀬戸さん」と声を掛けた。「そろそろ出ますか」と。
「ごめん。僕もう行くから」と瀬戸さんが踵を返す。野地が「あ、そういえばさ」と瀬戸さんの背中に声を掛けた。
「門脇さんとは会ってる?」
瀬戸さんの動きがピタリと止まった。目を少しキョロキョロさせてから「会ってない」と答えた。すぐに歩き出す。野地は「なんだよ、あんな仲良かったのに」と言ったが瀬戸さんはそれには答えなかった。
外に出た瀬戸さんは俯いたまま「すみませんでした」と小さな声で言った。
「俺は全然」と首を横に振った。それから「あと、震災の話題出ても俺のことは気にしなくていいですから」と付け加えた。それだけは主張しておきたかった。
「そうですよね、すみません」
「謝らなくていいです」
正午を過ぎて腹が減っていた。ここで何か食べても良かったが、瀬戸さんの気分が乗らないのなら仕方がない。車に戻って駐車場を出た。
瀬戸さんは仕事中、クレーマーの利用者に怒鳴られても厳しい上司に叱られてもあまり落ち込まない人だった。相手の圧力を躱して言われた内容だけをきちんと捉えられる人だ。そんな彼が旧友と再会してこうなるのだからよほどのことがあったのだろう。気にはなるが、訊けるような状況でもない。今はただ寄り添うのみ。
が、こんな時に俺の下心がまたムクムクと顔を覗かせた。赤信号でN-VANを停車させた瀬戸さんを見ていると先ほど風呂場で見た彼の裸体を思い出した。体型をすっかり覆い隠しているオーバーサイズの服。もしかして、緩い服装なのはわざとなのかもしれない。思い返してみれば職場でも肌を露出した服装はあまり見たことがない。夏場でもシャツの上に作業服を羽織っていた。瀬戸君それ暑くないの、と上司に突っ込まれていた。
彼の体を見たのは職場で俺だけかもしれない。そんなことで高揚してしまった。瀬戸さんは落ち込んでいるのに。俺のメンタルケアをしてくれていた瀬戸さんを、今こそ支えるべきなのに。同性とかそういうこと以前に、人間として最悪だ。
家の駐車場に車を入れようとした瀬戸さんに「待って」と言った。瀬戸さんは首を傾げた。
「ごめんなさい。俺、あの」額から変な汗が溢れる。それを拭いながら「瀬戸さんをやらしい目で見てた」
「あ、えーっと、あの」
「こんな時にごめんなさい。瀬戸さん明らかにメンタルやられてるのに気の利いたことも言えなかった。ちょっと俺、もう無理かもしれない。本当にごめんなさい。送ってくれてありがとうございます。お気を付けてお帰りください」
俺は一息に言って車を出た。振り返らずに家に入った。しばらくするとエンジン音が聞こえ、次第に遠ざかっていった。俺は靴も脱がずにそのまま三和土にしゃがみ込んだ。何なんだ、この気持ち。
2時間経っても瀬戸さんから連絡は来なかった。そりゃそうだ。俺から遠ざけたのだから。翌日いつものように病院へ着替えを持って行きおじいちゃんの横で求人情報誌を捲った。何ひとつ頭に入らなかった。
その日の夜また同じ夢を見た。清潔なグループホーム。除菌したてのテーブルからアルコールのにおいが漂うリアルな夢だった。
「純希はまだ役場か」
「辞めたよ、おじいちゃんと暮らすために退職して飯野に来たんだよ」
「なんだやー、父ちゃんと母ちゃん心配してるべ」
「お父さんもお母さんも死んだよ」
「んだべか」
「んだよ」
「ひどいなや、じいじが面倒見てけっから」
「大丈夫だよ」
お父さんもお母さんも死んだ。おばあちゃんももういない。好きだった仕事を辞めて飯野に来たのにおじいちゃんは倒れて入院してしまった。なんで俺ばっかりこんな目に。思わず呟いた。
お父さんとお母さんが死んだ時と似たような気持ちになった。服装も顔も両親そのものの、命のなくなった何か。綺麗なまま見つかって良かったよ、とどこかから声がした。それが俺に向けられた言葉なのかこの場所に何百と横たわる死に対する言葉なのかはよくわからない。
良かったなんてことはないだろ、と思った。死んで「良かった」なんておかしいだろ、と叫びたかった。でももっと酷い状況の人もいると考えると我慢しなければいけない気がした。あの時の気持ちと似ている。気持ちは黒ずんでいくのに、完全に真っ黒にはなれない。そんな気分。
目を覚ますと閉じられた縁側のカーテンの隙間から光が差し込んでいた。テレビをつけると気象予報士が梅雨入り前の貴重な晴れ間と話していた。俺はタオルケットを洗濯機に突っ込んでスタートボタンを押した。
それから何回か洗濯機を動かして大量に生産された洗濯物を庭に干した。隣の家を侵食しそうな雑草をせっせと刈り取った。
洗濯が一段落したので縁側の窓を開けて初夏の風に吹かれながら冷凍チャーハンを食べた。CDプレーヤーの電源を入れると音楽が流れ始めた。フランク永井の「有楽町で逢いましょう」。あまり機嫌が良くなかったので「松山町出身のくせに何が有楽町だよ。田舎モンじゃねえか」と悪態をついてしまった。
口の中にチャーハンを突っ込んだままそんなことを口走ったので米粒が床に飛んだ。それをちまちま拾っているとスマートフォンが鳴った。メッセージアプリの通話機能だ。表示された名前を見てドキリとした。操作ミスでかかってきたのかと思ったが、操作ミスだとしても応答しないわけにはいかない。チャーハンをゴクリと飲み込みスマートフォンを耳に当てた。
「もしもし」
「瀬戸です」控え目な声が聞こえた。「急にすみません。今大丈夫ですか」
「大丈夫です」
「あの、普通に文字でも良かったんだけど、ニュアンス伝わりづらいかなと思って」
「こっちは全然どっちでも」
「この前は本当にすみません。急にテンション下がって」
「いえ、俺も、本当にすみません」
「あのー、えっと」と躊躇いながらも瀬戸さんは「箭内さんのあれ、ちょっと気付いてました」と言った。やっぱり。顔が熱くなってきた。下心に気付かれていたとか、恥ずかし過ぎる。
「でもこのままにしたくないっていうか、僕もちゃんとしたいから、直接話したいって思って」
「え、いいんですか」
「むしろこっちがいいんですかって感じなんですけど」
「俺は会いたいです」声がデカくなってしまった。「いつがいいですか。てか俺が行きますか」
「いえ、僕が行きます」
「え、じゃあ、えっと」
俺は考えた。自分に欲情している人間の住まいになど入りたくはないだろう。相手の縄張りで本音を話せるわけがない。俺は聴いていた音楽に引っ張られながらも「コンタクトデッキで会いましょう」と言った。何とも田舎臭い曲名になってしまった。
あなたを待てば雨が降る、濡れて来ぬかと気にかかる。歌いながら、今降られたら困るなあと空を仰いだ。コンタクトデッキの上部は太い支柱のようなものが組み合わさっているだけで屋根の役割は果たしてくれない。瀬戸さんどこまで来てるかな。雨降ってきたら場所変えた方がいいよな。等と考えていたら「箭内さん」と声を掛けられた。振り向くと階段の一番上に足を掛けたままの瀬戸さんがいた。
「雨、降らなくて良かったですね」
「はい」と俺は頷いた。瀬戸さんが俺の隣に立って白い柵に触れる。
「箭内さんが僕のことそういう目で見てたの、気持ち悪いとかは全然思ってなくて」
「あー、はい」気まずい。めちゃめちゃ申し訳ない。
「問題は僕の方なんですけど」
問題、とは?俺は心の中で首を傾げつつ次の言葉を待った。俺の方に問題があり過ぎて瀬戸さんの落ち度がどこにも見当たらない。
鼻を啜る音がして俺は焦った。俺が泣いた時にはさり気なく受け止めてもらったくせに、こちらが泣かれたら何をしたら良いかわからない。考えてみれば俺、悲しいこととか辛いことは一丁前に経験してるのにそれを誰かのために使ったことがないんだ。自分が辛かったから他人にこうしてあげようとか、そう思ったことがないんだ。
「僕」と涙声で瀬戸さんが言った。「箭内さんに申し訳ないとか思って欲しくなくて、僕がちゃんと許してあげれば良かったって思ってて、箭内さん何も悪くないのに、ごめんって言わせちゃった」
やけに子どもっぽい、間延びした喋り方。そして「僕」という一人称。ああ、瀬戸さんって裏表のない人じゃなかったんだ。俺にはずっとスイッチの入った姿しか見せていなかったんだ。
「こんなことで箭内さんとの関係、終わらせたくなくて、ごめんなさい、泣くつもりなかったのに、ごめんなさい」と瀬戸さんは指先しか見えないぶかぶかのジャケットで目を擦った。
「何も悪くないってことはないです」俺は言った。「下心、上手に隠せなくてごめんなさい」
「いいよお、そんなの」大きく首を横に振る瀬戸さん。
「あと、エロいことばっか考えて気の利いたこと全然言えなかった」
「あれは僕個人の問題だから」
「でも瀬戸さん、俺がちょっと泣いたの気付いてもいい感じにスルーしてくれたじゃないですか」
瀬戸さんが顔を少し上げる。「寂しいんだろうなって思ったから」
「うん、寂しかったです」俺は素直に頷いた。「だから俺も瀬戸さんの個人的な問題に少しでも関われたらいいなと思った」
瀬戸さんが顔を上げた。目と鼻が真っ赤になっている。「コンタクト取れた」と呟きながら鼻を啜り、柵の向こうの景色を見た。
「また一緒にUFOふれあい館に行って欲しいです。3Dシアター見られなかったから」
「下心あるけどいいんですか」
「うん」と瀬戸さんは頷いた。「あと、外食も苦手だから箭内さんに付いて来て欲しい」
「あれ、昼休み中に事務室出て行ってたのって」
「車の中で食べてました」
「まじか」
「みんなで同じ部屋で食べるのとか、外食とか苦手だから。お弁当持参して車で食べてました」
だから飲み会にも参加しなかったのか。納得。そこまで徹底して避けるということは本当に苦手なんだな。
今にも雨が降りそうだったので、この辺りで切り上げて下山した。コンタクトレンズを落とした瀬戸さんはメガネを掛けて車を運転した。俺を家の前で下ろし「今日はこのまま帰ります」と言った。俺は瀬戸さんに言われる前に「後でLINEします」と宣言した。いつもやって貰ってばかりというわけにもいかない。
さてそろそろメッセージを送ろうかというタイミングで、瀬戸さんの方からメッセージが届いた。「今日は会う時間を作ってくれてありがとうございます。次はもっとちゃんと話します」と。くそ、先を越された。
「こちらこそありがとうございます。俺もちゃんと話したいことがあるので、また会いたいです」
瀬戸さんには俺が下心丸出しであることしか伝わっていない。ちゃんと伝えなければいけないことがもうひとつある。雨が降っているのに縁側の窓を網戸のままにして、床をビシャビシャにしてしまった。
梅雨の時期になっても俺のやることは変わらない。2日に一度のペースでおじいちゃんのお見舞いに行って、買い物をして、家を片付けて、次の仕事を考える振りをする。何だこの生活。時間はあるのに、心はいつも焦っている。誰かと会話したくなってしまう。公民館に異動する前は本庁の市民課に所属していたが、毎日のようにやって来る謎の老人がいた。クレームとも相談とも要望ともつかないことを職員にぶつけ、「図書館行ったらまたくっから」と立ち去っていく。暇なんだねえ、家に居場所ないのかねえ、誰かと話したいんだねえ、と、こちらは同情するやら呆れるやらだったが、今ならあの老人の気持ちがわかる。そうしていないと正体のわからない不安に押しつぶされそうになるのだ。
商店街を歩いていると瀬戸さんが気に入っていたお菓子を作っている店が目に入った。「大和田菓子舗」と大きな字を掲げた店の中には珍しく人がいた。ショーケースの真ん前にテーブルと椅子を出してのんびりとお茶を飲んでいた。
ガラス張りの引き戸をノックすると中にいたおばあさんが顔を上げた。「どうぞ」と言われたので取っ手に指を引っ掛けるとスルスルと開いた。
「あんだや。箭内さんとこの息子さん?」
「えっと、純の孫の純希です」
「え?ああ、ごめんねえ、息子さんにそっくりだったから。こんなに若くないもんねえ」
お父さんにそっくりだなんて、初めて言われた。俺は少し照れて頭を掻いた。「あの、ここでお菓子は売ってないんですか」
「今はえびすやと物産館だけだよわ」
「ここのお菓子、もっといろんなの食べたいなーとか思ってたんですけど」
「今ここあだししかいないから。UFOサブレしか作れないの」とおばあさんは引き戸を指差した。ガラスの外側に黄ばんだ紙が貼ってある。太いペンで書かれた字は裏写りしていて内側からでも「アルバイト募集」と書いてあるのがはっきりわかった。
「おじいさん元気?」
「あー、今入院してて」
「なんだや。奥さん亡くなる前はシャキッとしてたんだべよ。カラオケも上手くてねえ」
「カラオケ?」思わず大きな声が出た。おばあさんが笑った。
「時間ができたって言って歌っこのサークル入ってたの。いい声だったんだよお」
知らなかった。俺が公務員になってからそういうこと始めたのかな。
家に帰ってから、押し入れのCDを全部出した。氷川きよし、フランク永井、北美宏児、さとう宗幸まである。おじいちゃんの歌声なんて聞いたことがない。こんな趣味があったんだ。
どんどん出土するCDに紛れてノートが出てきた。表紙がすっかり茶色くなった大学ノートだ。開くとおじいちゃんの字で材料が書いてあった。強力粉、砂糖、みりん、はちみつ。これお菓子のレシピだ。
おじいちゃんがお菓子屋さんだったことは知っていたが、彼の作ったお菓子を食べたことはない。お父さんが子どもの頃には何度か作ってもらったことがあると聞いていた。カステラとか作ってもらったよ、そんなに美味いもんでもなかったけど、とお父さんが言っていた。それを聞いた当時の俺は、美味くなかったんだ、おじいちゃんお菓子作りの才能はなかったのかな等と思っていた。
俺は決めた。いい加減に積んだCDをそのままにして再び家を出た。
何度もこちらに呼び出すのも申し訳ないと思っていたが、瀬戸さんからすれば福島へ出向く方が気が楽らしい。俺に来てもらっても何もおもてなしはできないし、実家暮らしだから家にも上げられないとのことだった。長距離ドライブが苦ではない瀬戸さんには来てもらった方が良さそうだ。そういうわけで今回も俺は「コンタクトデッキで会いましょう」と言ったわけだ。お互い、得意なことと苦手なことを上手く擦り合わせていけるといいなと思った。
6月某日。この日は梅雨前線など何処へやらという感じの晴天だった。汗をかきながら千貫森の頂上に辿り着くと、既に瀬戸さんがベンチに座っていた。俺は隣に座り手で顔を扇いだ。
「まず、瀬戸さんにひとつご報告したいことがございまして」
「なんですか」
「アルバイトをすることになりました」
瀬戸さんの顔がパッと明るくなった。「おめでとうございます」と小さく拍手をした。どうもどうも、と俺は頭を掻いた。
「瀬戸さんが気に入ってくれたお菓子屋さん、店を開けてないのは人手不足のせいもあるみたいで、そこでちょっと働くことにした」
「そうなんだ、すごい。良かったですね」
「いい加減何かしないとなって思ってたから」
「いい加減なんて、そんなに長く休んでたわけでもないじゃないですか。僕なんか外出られるようになるのに2年は」と言いかけてから「まあ今はそのことはいいですね」と苦笑した。何それ、めっちゃ気になるんだけど。
「あの、僕からもいいですか」
「なんですか」
瀬戸さんは膝の上で両手をモジモジと弄くり回してから「僕、箭内さんのことが好きです」と言った。「あの時は今の関係辞めたくないってことしか言えなかったんだけど、それからいっぱい考えて、やっぱり一緒にいる時間もっと増やしたいなって思って」それから俺を見た。「箭内さんの下心にも応えられるように頑張るので、僕と付き合ってくれませんか」
「さ」俺は思わず声を震わせ頭を抱えた。「先、越された」
「え」
「俺から言うつもりだったのに」
「ええー、す、すみません」
「いえ、いいんです。俺がトロいのが悪い」顔を上げ、気を取り直してひとつ咳払いをした。「俺も、好きです」
「あ、はい」
「下心とも上手く折り合いをつけて真剣に瀬戸さんに向き合いたいと思っているので、よろしくお願いします」
「は、はい」瀬戸さんはカクカクと頷いた。
湿った風が千貫森のどこかで鳴くセミの声を運んできた。瀬戸さんが顔を上げて辺りを見回した。ここは瀬戸さんの住んでいる町とは少し早く季節が進む。セミも少し早く鳴く。軽トラックがコンタクトデッキの前までやって来た。荷台に何かを積んでいる。
「ここ車入るんだ」
「今日、UFOの日だからイベントあるみたいなんですよ」
「え、何?UFOの日?」
「そう。UFOの日」俺は頷いた。「オカルト雑誌の編集長と登山して、頂上でお弁当食べるんだって。地区だよりに載ってました」
「なんでUFOの日なんですか」
「さあ」
興味がないから調べてもいない。どうせサラダ記念日みたいなもんだろう。俺にとっては別の意味で記念日になったのだから、6月24日が何故UFOの日なのかなんて、知る必要はない。
