「めちゃくちゃ真面目でいい奴じゃん」
茅野が感嘆の声を上げる。目の前の灰皿には吸い終えた電子煙草のフィルターが積み上がっていた。
「だからいったじゃん、いい奴だって」
「そんな純粋な奴を騙して、おまえって奴は……」
「もういいでしょ、それは」
「いいや、よくない」
画面の向こうから刺すような眼差しをおれに向け、茅野ははっきりといった。
「もっかいいうよ。今すぐ電話するか会いに行って、ほんとのことを話しなさい」
「けど……」
「けどじゃない」
茅野の口調は厳しかった。おれのほうへ指を立てて見せ、いった。
「おまえのことを同類だと思ってるから本心を曝け出すんだろ。信頼を裏切って、平気なわけ?」
「平気じゃないよ」
つい声が大きくなり、慌てて口を噤んだ。母親は仕事に出ており、父親は酔い潰れて寝てしまっていたが、騒がしくすれば起きてしまうかもしれなかった。
「……ちゃんとほんとのこというよ」
「いつ?」
「撮影終わったら……」
口を開きかける茅野を遮るように、身を乗り出した。父親を起こさないよう声を顰め、いった。
「わかってる。でもどうしてもこの作品だけは仕上げたいんだよ」
小声ではあったが、おれの勢いに、茅野が気圧されたように黙り込んだ。
「本格的な撮影はこれからだけど、絶対いい作品になる自信があるんだよ。それで、前に教えてくれたコンクールに出品しようと思ってて……」
文化庁が出資する若手映画監督向けの育成プロジェクトで結果を出せば、制作費として数百万の予算が支給される。大作映画を撮るには少額だが、おれにとっては大金だ。
「おれ、来年には高校卒業だから、これが最初で最後のチャンスなんだよ」
ドアを隔てた隣室から父親の鼾が聞こえてくる。もうすぐ母も帰宅するだろう。今日は金曜だから酔って帰ってくるにちがいない。父の再就職先がなかなか見つからず、母はここのところ不機嫌で、子どもに八つ当たりすることも多かった。酔って寝ている父を見れば、夫婦喧嘩に発展することは容易に想像できた。
「うち貧乏で、家に金ないから、大学にも行けないし、高校卒業したらすぐ働けって親からいわれてる。この作品で賞が獲れれば、人生変えられる気がする」
父親の鼾が大きくなる。この田舎町で、働きながら夢を叶えられる可能性は限りなく低い。この機を逃せば、将来への道は閉ざされる。父親と同じように無職か薄給で飲んだくれる以外なにもすることがない無意味な人生を送ることになるのは目に見えている。
「自分勝手だってわかってる。でも今燦にほんとのこと話して、もし出演を断られたら、全部台無しになる。それだけは避けないと……」
演技未経験とはいえ、燦は勘がよく、台詞覚えも早かった。ひと月ほど練習しただけで、滑らかな演技ができるようになった。なによりも、アクションシーンの多い作品のなかで、テコンドー選手である燦の身体能力と秀でたルックスはどうしても必要だった。燦なしでは成立しない。
「間違ってる」
茅野がため息をつく。彼自身、東北の小さな田舎町から大学進学で上京し、苦労して自主制作を重ね、ようやく評価を受けられるまでになった。実家が裕福なわけでも人脈があるわけでもなく、複数のアルバイトを掛け持ちし、寝る間も惜しんで制作費を捻出した経験を話してくれたことがあった。おれの行動を容認できずとも、気持ちと状況は理解できるはずだ。
「おれにはあいつが必要なんだよ」
「映画のためだろ」
茅野の声には軽蔑と失望が混じっていた。おそらくは、おれは数すくない友人をもうひとり失ってしまう。覚悟していたこととはいえ、胸が締めつけられた。
おれが性的マイノリティではなく、燦と友情を結びたかったわけでもなく、ただ映画制作のために騙され利用されたことを燦が知れば、その怒りと落胆は茅野の比ではないだろう。傷つき、打ちひしがれるはずだ。そう遠くない日に訪れるそのときを思うと、消えてなくなってしまいたい気持ちになった。自分自身が招いたことだとわかっていても。
「はい」
目の前にハンカチが差し出され、顔を上げると、燦がおれを見下ろし、微笑んでいた。
「だいじょうぶ?」
頷いてハンカチを受け取った。おれはハンカチを持ち歩くような上品な生活環境に育っていない。涙でぐしゃぐしゃになった顔にハンカチを圧しあてる。パイル地のタオルハンカチからは燦の部屋とおなじコロンの匂いがした。
「めっちゃ泣いてたね」
「ごめん。うるさかった?」
「そんなことないよ。おれも感動した」
ずっと観たいと思っていた韓国の新進気鋭の監督が手がけた伝記映画。80年代の激動の時代を生き、過酷な運命に翻弄される主人公の逞しい姿と壮絶な生きざまは涙なしに観られなかった。多額の宣伝費がかけられた超大作というわけではなく、ミニシアターは観客もまばらだったが、おれ以外にも啜り泣く声が聞かれ、上映後には満足感と心地よい余韻が広がっていた。
おれが落ち着くのを待って、燦は食事に誘ってきた。映画館の近所のピザ店に入り、ニューヨークスタイルのピザとベイクドポテトで遅めの昼食を取った。
映画館でチュロスを食べたから軽めのオーダーにした。チュロスとコーラの代金は燦が支払った。「付きあってくれたお礼」ということだったが、実際にはおれが観たい作品を優先してもらった。
おれたちはともに映画好きだったが、おれはどちらかというと骨太なフィルムノワールやサスペンスを中心に観ることが多く、燦は恋愛映画を好んだ。燦はおれの趣味に合わせてくれようとしたが、最終的に、燦も関心がありそうな作品を選んだ。事前情報はほぼない状態だったが、映像や音楽も素晴らしく、燦も満足したようだった。
1枚のピザを分け合って食べながら、おれたちはさっき観たばかりの映画について語り合った。高校生ならだれもが経験する他愛ないひとときだったが、共通の趣味を持つ友人に恵まれなかったおれにとって、かけがえのないものだった。
燦は店に入るときも映画館でも常にさりげなくおれの好みを聞き、おれが過ごしやすいようにドアを開けたり席を空けたりしてくれた。性別や性的指向は関係なく、単に相手をよろこばせ楽しませようとしているのだとわかった。
友人同士でさえ気を配ってくれるのだから、恋人となれば、なにをおいても最優先し、ストレートに愛情を表現するにちがいない。
カナダにいるという元彼も、燦と過ごす時間がどれほど特別であるかに分かれたあとで気づいたのだろう。燦のやさしさが物足りなかったのか、すこし遊んだくらいで責められることはないとたかを括っていたのか。なぜ浮気したのかは知らないが、燦は深く傷つき、許すことができなかったのだろう。
もしおれなら。つまらない夢想が頭に浮かんだ。もしおれが燦の恋人だったら、裏切ることなど考えられないだろう。別れたことでなにも手につかなくなり生活もままならなくなるほど深く情熱的に愛されたら……そんな経験を人生で一度でもしたら、ほかの恋愛はできなくなってしまうと思った。すくなくとも、燦を傷つけるようなことは、おれならしない。
妄想はすぐに自嘲に変わった。傷つけないなどどの口がいうのか。恋人同士でなくても、今この瞬間にもおれは燦を傷つけ、欺いているというのに。
茅野が感嘆の声を上げる。目の前の灰皿には吸い終えた電子煙草のフィルターが積み上がっていた。
「だからいったじゃん、いい奴だって」
「そんな純粋な奴を騙して、おまえって奴は……」
「もういいでしょ、それは」
「いいや、よくない」
画面の向こうから刺すような眼差しをおれに向け、茅野ははっきりといった。
「もっかいいうよ。今すぐ電話するか会いに行って、ほんとのことを話しなさい」
「けど……」
「けどじゃない」
茅野の口調は厳しかった。おれのほうへ指を立てて見せ、いった。
「おまえのことを同類だと思ってるから本心を曝け出すんだろ。信頼を裏切って、平気なわけ?」
「平気じゃないよ」
つい声が大きくなり、慌てて口を噤んだ。母親は仕事に出ており、父親は酔い潰れて寝てしまっていたが、騒がしくすれば起きてしまうかもしれなかった。
「……ちゃんとほんとのこというよ」
「いつ?」
「撮影終わったら……」
口を開きかける茅野を遮るように、身を乗り出した。父親を起こさないよう声を顰め、いった。
「わかってる。でもどうしてもこの作品だけは仕上げたいんだよ」
小声ではあったが、おれの勢いに、茅野が気圧されたように黙り込んだ。
「本格的な撮影はこれからだけど、絶対いい作品になる自信があるんだよ。それで、前に教えてくれたコンクールに出品しようと思ってて……」
文化庁が出資する若手映画監督向けの育成プロジェクトで結果を出せば、制作費として数百万の予算が支給される。大作映画を撮るには少額だが、おれにとっては大金だ。
「おれ、来年には高校卒業だから、これが最初で最後のチャンスなんだよ」
ドアを隔てた隣室から父親の鼾が聞こえてくる。もうすぐ母も帰宅するだろう。今日は金曜だから酔って帰ってくるにちがいない。父の再就職先がなかなか見つからず、母はここのところ不機嫌で、子どもに八つ当たりすることも多かった。酔って寝ている父を見れば、夫婦喧嘩に発展することは容易に想像できた。
「うち貧乏で、家に金ないから、大学にも行けないし、高校卒業したらすぐ働けって親からいわれてる。この作品で賞が獲れれば、人生変えられる気がする」
父親の鼾が大きくなる。この田舎町で、働きながら夢を叶えられる可能性は限りなく低い。この機を逃せば、将来への道は閉ざされる。父親と同じように無職か薄給で飲んだくれる以外なにもすることがない無意味な人生を送ることになるのは目に見えている。
「自分勝手だってわかってる。でも今燦にほんとのこと話して、もし出演を断られたら、全部台無しになる。それだけは避けないと……」
演技未経験とはいえ、燦は勘がよく、台詞覚えも早かった。ひと月ほど練習しただけで、滑らかな演技ができるようになった。なによりも、アクションシーンの多い作品のなかで、テコンドー選手である燦の身体能力と秀でたルックスはどうしても必要だった。燦なしでは成立しない。
「間違ってる」
茅野がため息をつく。彼自身、東北の小さな田舎町から大学進学で上京し、苦労して自主制作を重ね、ようやく評価を受けられるまでになった。実家が裕福なわけでも人脈があるわけでもなく、複数のアルバイトを掛け持ちし、寝る間も惜しんで制作費を捻出した経験を話してくれたことがあった。おれの行動を容認できずとも、気持ちと状況は理解できるはずだ。
「おれにはあいつが必要なんだよ」
「映画のためだろ」
茅野の声には軽蔑と失望が混じっていた。おそらくは、おれは数すくない友人をもうひとり失ってしまう。覚悟していたこととはいえ、胸が締めつけられた。
おれが性的マイノリティではなく、燦と友情を結びたかったわけでもなく、ただ映画制作のために騙され利用されたことを燦が知れば、その怒りと落胆は茅野の比ではないだろう。傷つき、打ちひしがれるはずだ。そう遠くない日に訪れるそのときを思うと、消えてなくなってしまいたい気持ちになった。自分自身が招いたことだとわかっていても。
「はい」
目の前にハンカチが差し出され、顔を上げると、燦がおれを見下ろし、微笑んでいた。
「だいじょうぶ?」
頷いてハンカチを受け取った。おれはハンカチを持ち歩くような上品な生活環境に育っていない。涙でぐしゃぐしゃになった顔にハンカチを圧しあてる。パイル地のタオルハンカチからは燦の部屋とおなじコロンの匂いがした。
「めっちゃ泣いてたね」
「ごめん。うるさかった?」
「そんなことないよ。おれも感動した」
ずっと観たいと思っていた韓国の新進気鋭の監督が手がけた伝記映画。80年代の激動の時代を生き、過酷な運命に翻弄される主人公の逞しい姿と壮絶な生きざまは涙なしに観られなかった。多額の宣伝費がかけられた超大作というわけではなく、ミニシアターは観客もまばらだったが、おれ以外にも啜り泣く声が聞かれ、上映後には満足感と心地よい余韻が広がっていた。
おれが落ち着くのを待って、燦は食事に誘ってきた。映画館の近所のピザ店に入り、ニューヨークスタイルのピザとベイクドポテトで遅めの昼食を取った。
映画館でチュロスを食べたから軽めのオーダーにした。チュロスとコーラの代金は燦が支払った。「付きあってくれたお礼」ということだったが、実際にはおれが観たい作品を優先してもらった。
おれたちはともに映画好きだったが、おれはどちらかというと骨太なフィルムノワールやサスペンスを中心に観ることが多く、燦は恋愛映画を好んだ。燦はおれの趣味に合わせてくれようとしたが、最終的に、燦も関心がありそうな作品を選んだ。事前情報はほぼない状態だったが、映像や音楽も素晴らしく、燦も満足したようだった。
1枚のピザを分け合って食べながら、おれたちはさっき観たばかりの映画について語り合った。高校生ならだれもが経験する他愛ないひとときだったが、共通の趣味を持つ友人に恵まれなかったおれにとって、かけがえのないものだった。
燦は店に入るときも映画館でも常にさりげなくおれの好みを聞き、おれが過ごしやすいようにドアを開けたり席を空けたりしてくれた。性別や性的指向は関係なく、単に相手をよろこばせ楽しませようとしているのだとわかった。
友人同士でさえ気を配ってくれるのだから、恋人となれば、なにをおいても最優先し、ストレートに愛情を表現するにちがいない。
カナダにいるという元彼も、燦と過ごす時間がどれほど特別であるかに分かれたあとで気づいたのだろう。燦のやさしさが物足りなかったのか、すこし遊んだくらいで責められることはないとたかを括っていたのか。なぜ浮気したのかは知らないが、燦は深く傷つき、許すことができなかったのだろう。
もしおれなら。つまらない夢想が頭に浮かんだ。もしおれが燦の恋人だったら、裏切ることなど考えられないだろう。別れたことでなにも手につかなくなり生活もままならなくなるほど深く情熱的に愛されたら……そんな経験を人生で一度でもしたら、ほかの恋愛はできなくなってしまうと思った。すくなくとも、燦を傷つけるようなことは、おれならしない。
妄想はすぐに自嘲に変わった。傷つけないなどどの口がいうのか。恋人同士でなくても、今この瞬間にもおれは燦を傷つけ、欺いているというのに。



