恋は燦然と、

「なんていうか……」
 電子煙草の表面を指先で細かく叩きながら、茅野が思案するように眉間に皺を刻み込む。
「だいじょうぶなの、それ」
「なにが?」
「いやさ、なんか変な感じっていうか……いい感じじゃん?」
「いい感じ?」
「ごはんつくったりケーキ食べたり、ラブラブじゃん」
「ラブラブって……」
 古くさい言葉に、思わず噴き出してしまう。
「そんなわけない。ただの友達だから」
 画面の向こうの顔はおれの話をまるで信じていないように見えた。
「ほんとだよ。特別な感情とかない」
 確認するように力を込めていった。
「おれ、燦のタイプじゃ全然ないし」
「わかんないじゃん。だって……」
「わかるよ」
 茅野の言葉に被せるようにいった。
「あいつが前に付き合ってた男、めちゃくちゃきれいで、漫画みたいな美少年だったもん」
「なんで元彼の顔知ってんの?」
 燦はインスタグラムのアカウントを持っていた。それほど頻繁に更新していなかったから、過去の投稿を遡るのに時間はかからなかった。恋人同士だとわかるような写真やテキストはなかったが、あのフリル付きドレスシャツを着て、燦と頬を寄せ合って自撮りしている写真を見つけた。
「とにかく、あいつ面食いだからさ」
 質問には答えず、一方的にいった。元彼を気にしてSNSを漁ったことを茅野に知られたくなかった。
「こないだも……」
「こないだ?」
 よけいなことを口ばしってしまった。茅野は聞き逃さなかった。電子煙草を握りなおし、身を乗り出しておれを観察する。
「こないだって?」
 ため息。おれは顎を持ち上げて天井を睨み、複雑に絡み合った記憶と感情を解く作業にかかった。

 授業の合間、教室を移動するため廊下を歩いていると、窓の外に見知った顔を見つけた。
 校舎の外、グラウンドに向かう道の途中で、燦が男子生徒と並んで歩いていた。やがて足を止め、向かい合ってなにか話している。
 なんとなく気になり、窓枠に手をかけて首を伸ばした。距離があるため会話の内容までは聞き取れないが、込み入った話のように思えた。燦と話している男子生徒は燦とおなじくらい長身で整った顔立ちだったが、燦がなにかいうと、戸惑ったように眉を寄せた。
 燦はこちらに背を向けていたため、表情はわからない。ふたりは二言三言言葉を交わし、男子生徒が謝罪するように頭を下げて、燦が気にするなというふうに両手を掲げて見せた。その後すぐに別れ、別々の方向に歩き去った。
 次の授業が迫っていたため、燦を追うことも相手がだれか探ることもできなかったが、ふたりの様子が気にかかり、午後の授業には身が入らなかった。
「今日、だれと話してたの?」
 放課後、いつものようにふたりで校舎を出て、燦のマンションに向かう道すがら、なにげない口調で尋ねた。
「なに?」
 燦が聞き返す。その表情はふだんどおり穏やかに見えた。
「ほら、グラウンドのとこでさ、しゃべってたじゃん、ちがうクラスのやつと」
「ああ……」
 見られていると知らなかったのか、恥ずかしそうに笑って首を窄める。
「べつになんでもないよ」
「なんか……揉めてるように見えたけど」
「揉めてない揉めてない」
 おずおずと聞くと、手を閃かせて笑い飛ばした。
「土曜日に映画観に行こうって誘ってただけ」
 おれはどんな顔をしていたのだろう。一瞬こちらを見て、すぐにまた気まずそうに頭を掻く。ぎこちない沈黙がはしった。
「……行くの?」
 土曜は予定があって芝居の練習ができないと、数日前に聞かされていた。どんな予定なのかまで追求することは当然ながらなく、気にしていなかった。
「いや、断られた」
 燦が軽い調子で答える。
「特別な意味があって誘ったわけじゃなかったけど、やっぱ、カミングアウトしてるゲイとふたりで出かけるのは、ちょっと抵抗あるよね」
 表情も口調もいつもどおり明るかったが、その奥にかすかな傷を感じた。おれが黙っていると、燦は困ったような顔になって、いった。
「べつにふられたわけじゃない。たいしたことないよ」
「でも傷つくだろ」
「すこしは傷つくけど……でも、真剣に考えて、ちゃんと謝ってくれたし。ひとによっては、男に誘われただけで嫌悪感を持つひともいるでしょ。そういう態度は全然なかったから」
 燦の様子を見ていると、以前にもそのような対応をされた経験があるように感じられた。深く聞くのは憚られた。並んで歩く横顔は、それ以上の質問を拒む空気を纏わせていた。
「それに、ほら、まったく可能性がないなら、はっきり断るのもやさしさだと思うしね」
 おれに話して聞かせるというよりは、自分自身を納得させようとしているのではないかと思った。彼のことを話す口調には、安堵と親しみ、切ない響きが混じっていた。
「あいつのこと好きだったの?」
 つい口にしていた。我ながらなんと無神経で間抜けな質問だと絶望したが、一度外に出た言葉を引っ込めることもできない。
「どうかな……これから仲良くなっていろいろ知れたらなって思ってたけど」
 再び沈黙が流れた。車が行き交うエンジン音と交差点の歩行者用信号機が点滅しながら発する警告音、すれ違う女子高校生たちの笑い声がやけに鮮やかに響いていた。
「……この前、連絡あってさ」
「だれ?」
「元彼」
 なんの前触れもなく、燦が呟いた。
「部屋にあったシャツの?」
 小さく頷く。信号が赤になり、交差点の前で足を止めた。ふたりとも互いの顔を見ることなく、まっすぐ前を向いていた。
「まだおれのこと好きなんだって」
 まるで他人ごとのような口ぶりだったが、それは感情を隠すというよりも身を守る術のように思えた。
「浮気のこと、後悔してるっていってたけど、今さら謝られても、正直、素直に受け止められないよね」
 同調か同情か、なにかしらの反応を見せるべきなのだろうが、恋愛経験がないおれには理解が難しかった。
 燦はつらい恋愛に終止符を打ち、傷を乗り越えて前に進もうとしているが、過去の呪縛に囚われて苦しんでいる。それだけ本気だったということだろう。傷ついた友人を慰め、勇気づけられるだけの言葉を持ち合わせていない自分がもどかしかった。
「あのさ……」
 明滅する歩行者用信号機を見つめながら、いった。
「今日、芝居の練習は休みにしてもいいよ」
 悲しくなるほど即物的で幼稚な提案だったが、燦は笑いもせず、ただ首を横に振った。
「映画の準備は楽しいから。演技はやったことなかったけど、ちがう自分になれるのって、いい気分転換になるし、自分と向き合うきっかけになるよ」
 信号が変わり、ほかの歩行者とともに歩きはじめる。先に進む燦のあとをすこし遅れて追いかけた。
「あの……」
「ん?」
 振り返った燦の表情にはさっきまでの翳りはもう見られず、いつものやさしい笑顔にもどっていた。
「あのさ、おれ……」
 なにがいいたいのか、なにをいおうとしているのか、自分でも判然としないまま、唇が勝手に動いた。
「おれも土曜日、暇だから、映画館行きたいなってちょうど思ってて、それで……」
 視線が合う。驚いたような燦の顔を見て、顔が熱くなった。おれはなにをいっているのか。あまりに無神経すぎる。
「いや、あの、ごめん。なんでもない。気にしないで……」
「いいよ」
 燦が表情を緩める。やさしい笑顔だった。
「いいよ。一緒行こう」
 やわらかな声を聞くと、心底ほっとした。
「変な意味はなくて、友達として……」
「わかってる」
 燦が頷く。おれを見つめ、静かにいった。
「やさしいね」
 気を遣ったつもりはなかった。ただ、燦をひとりにしたくないと思った。俯いて歩くおれに、燦はいった。
「おれ、あきらめるつもりないんだよね」
 制服のポケットに手を入れ、鞄を脇に挟んで、わずかに顎を傾ける。
「ほら、おれたちの世界ってさ、自由恋愛推奨みたいなとこあるじゃん。セックスできるチャンスがあったらとりあえずやっちゃうみたいな」
 曖昧に頷く。同性愛の世界どころか、性行為さえ経験がない。共感のしようがなかった。おれの戸惑いには気づかず、燦は続けた。
「でも、おれは真剣な恋愛がしたいし、できるって信じたいんだよね。みんながみんな浮気するわけじゃない。ひとりだけの相手を一途に愛して、お互い大事にできるような関係をつくって、支え合いながら生きていく。そういうのが夢なんだよね」
 燦の視線が遠ざかる。涼やかに整った横顔を、おれは黙って見つめていた。
「いつか、そういうひとと出会えて、両思いになれたら、結婚もしたい。日本で認められないようなら、台湾でもカナダでもいいし。子どもも、できれば持ちたいなって思ってる」
 台湾やカナダでは同性婚が法的に認められている。養子を育てながらあたたかな家庭を築いている人々もいるだろう。同性が恋愛対象だということが、そういった幸せをあきらめなければならない理由にはならないはずだ。
「うち、両親の仲悪くて、家庭環境もちょっと複雑だから、愛情のある幸せな家庭っていうのに憧れてんだよね」
 おれが無言でいるのを呆れているものと勘違いしたのか、こちらを向いて取り繕うような苦笑いを浮かべた。
「夢見がちって笑われそうだけど……」
「そんなことない!」
 思わず声が上擦ってしまい、また顔を熱くした。
「いや、あの、夢見がちとかそんなことないと思う。すくなくともおれはそう思わないし、その……おれも同じ考えっていうか……」
「ほんと?」
 今度は燦が声を上げる番だった。足を止め、おれのほうに体を向け、身を乗り出す。
「ほんとにそう思う?」
「あ、うん……」
 嘘はついていない。複数の相手と同時に付き合いたいという欲求はとうてい理解できないし、したいとも思わなかった。ただし、燦のように傷つくことを恐れず積極的に運命の相手を探す勇気は持てなかった。
「そっか……」
 おれの同意がよほどうれしかったのか、それとも意外だったのか、燦は大きく息をつき、微笑んだ。心底安心したような無邪気な笑顔で、その顔を見たとたん、おれの胸に罪悪感が広がった。
「土曜、映画、なに見る?」
 燦が声を弾ませる。日常的な会話にもどっても、おれの頭には燦の過去やおれの知らない男たちの影がちらついて、離れなかった。