恋は燦然と、

 読み合わせとフィッティングを終え、簡単な夕餉をつくってふたりで食べた。燦がおれの好きなケーキを用意していて、食後に出してくれたが、さっきの元彼のシャツが気になって、ほとんど味がしなかった。
「じゃあ、あとは、週末までに台詞をおぼえとけばいい?」
 ダイニングテーブルの向かいに座った燦がケーキを食べながら、話しかけてくる。考えに耽っていたせいで、反応が一拍遅れた。
「誠心?」
「ああ、うん。完璧じゃなくていいよ。どうせこまぎれに撮るし……」
 目の前の皿には円柱型のレアチーズケーキが乗っていて、端がわずかに欠けただけだった。フォークの先でスポンジを軽く突いたが、口にはこぶ気にはなれず、皿の上で弄ぶ。
 どうにも気分がよくない。燦の元彼のものだという服を見てからだ。あれを見るあmでは、燦が男と恋愛するという事実をリアルに感じていなかった。薄い生地のいかにも品のよい海外製のデザインのシャツは、合ったこともない異国の少年の朧な輪郭をくっきりとさせていた。
「土曜でいいんだよね?」
「うん。朝くるわ。何時がいい?」
「そうだね。ええと……」
 再び口籠もる燦を上目遣いに見る。視線は合わない。
「カラオケボックスとかにしない?」
「え?」
 戸惑った。放課後、燦のマンションで映画を見たり他愛ない話をしたりするのがルーティーンになっていた。
「ここじゃだめなの?」
「だめではないけど……」
 燦の皿もまだ空いていない。おれたちはおなじように俯いて、かたちの崩れたケーキを見下ろしていた。
「こんなにしょっちゅううちきてると、怒るんじゃないかなって……」
「うちの親なら平気だよ。放任主義だし」
「親じゃなくて……」
 燦がぎこちなく言葉を途切れさせ、テーブルに肘をつく。気まずそうな顔を見て、ようやく気づいた。おれには彼女……いや、彼氏がいることになっているのだ。
「ほら、恋人がほかの男の部屋に行くの嫌なひともいるでしょ」
「ああ……なるほど。そうね、たしかに」
「喧嘩になったら嫌だし」
「べつに、あの……そういうの気にしないタイプだから、うちの……」
 彼氏と口にするのは躊躇われた。おれも不自然に言葉を切って、視線を逸らした。
「ちゃんと話してあるからだいじょうぶだよ」
「ほんとに? 心配してない?」
「うん。だって友達じゃん、ただの」
「そうだけど……」
 ケーキのスポンジを崩しながら、燦が呟く。
「おれさ、浮気されたことあって」
 唐突に話しはじめる。無意識に息を詰めている自分に気づいた。
「前に付き合ってたひとなんだけどね」
 あのシャツの持ち主だろうか。思わず顔を上げ、燦を見つめた。
「おれと付き合ってるのに、べつの男とも同時に付き合ってて……なんていうんだっけ、二股? 二股かけられてて」
 つらい記憶を蘇らせたようで、わずかに表情を歪める。
「はじめてできた恋人で、すごく好きだったし、カップルになれて浮かれてたから、ものすごくショックで。学校にも行けないし、外出も食事もできなくなっちゃって……それもあって、環境変えようってことで、母親とこっちきたんだよね」
「そうなのか……」
 転入初日、過剰なほど元気で明るい様子の燦を思い出した。あれは自分を守り、新たな生活をはじめるための防御と覚悟だったのだろうか。華やかな笑顔の奥にあるトラウマに気づいた者はなかっただろう。おれも想像だにしなかった。
「だから気になるんだよね。誠心の彼氏がおれのことどう思ってんのかとか」
「べつに……なんも思ってないって」
 笑ったつもりだったが、だらしなく唇が歪んだだけだった。
「だって、ありえないだろ。おまえとおれが……とか」
「そっか……うん、そうだよね」
「だよな?」
「うん」
 燦は頷いたが、燦の笑顔もどことなく不自然に見えた。かすかな違和感を振り切るように、おれは残ったケーキを口に圧しこんだ。
「これほんとうま」
 口いっぱいにケーキを頬張り、いった。
「な?」
 顔を上げると、視線が衝突した。同意するように燦が頬の筋肉を緩め、目を細める。思わずどきっとした。その眼差しになにかふだんとはちがった色を感じた気がしたからだ。だが、違和感はほんの一瞬で、すぐにいつもどおりの爽やかな笑顔にもどった。
「おれのも食べていいよ」
 燦が自分の皿を持ち上げ、おれの前に置く。
「コーヒーお代わりいる?」
「あ、うん……」
 立ち上がり、キッチンに向かう燦の背中を視線で追いかけた。恋人はおろか友人さえほとんどいないおれにとって、親切で穏やかで、おれを最優先してくれる燦の存在は奪われがたいものになっていた。それだけに、関係の変化はおれにとって恐ろしいものだった。この時間が偽りの上に成り立ったものであることや、そのためにいずれは儚く消え去ってしまうということを頭から追いやろうとした。うまくいくとは思えなかった。