恋は燦然と、

 脚本の読み合わせを行い、細かい台詞回しや発音の乱れを修正した。日本語が堪能で発音も滑らかではあったが、台湾で生まれ、カナダで高等教育を受けた燦は、難しい漢字や熟語が苦手なようで、ひとつひとつ確認しながら進めた。
「そういやさ、おまえ、黒のコートとか持ってたりしない?」
 読み合わせの途中で、ふと思い立ち、尋ねてみた。
「コート? どんなの?」
「できればトレンチコートがいいけど。丈ちょっと長めの」
 自主制作である以上、費用は限られている。アルバイトでこつこつ貯めてきたわずかな金をうまくやりくりする必要があった。衣装やメイクも専門スタッフを入れることはできず、基本的に全部自分で準備しなくてはならない。なるべく予算を抑えたかった。
「たぶんあったと思う。見てみる?」
「うん。ほかのもよさそうなのあったら見たいな」
 体格のよい燦の体にぴったり合う衣装を探すのは骨が折れそうだし、安物では仕上がりに影響しそうだ。私物で対応できるなら、それに越したことはない。
 燦に促され、リビングの奥へ進んだ。燦の部屋に入るのははじめてだった。燦の部屋は覚悟していたほど散らかってはいなかった。家具は最低限で、装飾もほとんどなく、香水かボディオイルのような香りが漂っている。朝起きたままにしているのか、セミダブルのベッドはわずかにシーツが乱れていた。
「クローゼット、こっちだよ」
 無意識にベッドに視線を向けていたおれに、燦が顎をしゃくって見せる。両開きのクローゼットを開けると、ハンガーに掛けられたジャケットやコートが並んでいる。小物や雑貨が収められているのだろう衣装ケースは床に置かれていた。
「適当に見て、よさそうなのあったらいって」
「わかった」
 手を伸ばし、1着1着ていねいにチェックする。燦の私服を見るのははじめてではなかったが、こうして並んでいるのを見ると、どれもシンプルながらボタンや襟元の刺繍にさりげない個性が光り、素材もしっかりとしていた。一見してブランドものに見えないようなものも、それなりに高価な品なのだろう。手触りや質感でわかる。
 つい真剣になっていた。すこし離れた部屋の隅から燦がおれを見ていることに気づいた。
「……なに」
「いや、楽しそうだなって」
 壁に凭れ、半身になって体をおれのほうへ向け、にこにこ笑って、いった。
「……なんか馬鹿にしてる?」
「してないよ」
 腕を組み、目を細めて、おれを見つめる。
「おれ、やりたいこととか、好きなこととか、将来の夢とか、そういうのあんまりないからさ。誠心が映画つくるのに一生懸命になってるの見てると、いいなっていうか……うらやましいなって思う」
「おまえ、やりたいことないの?」
「うーん、そんなにないかなあ」
「テコンドーは?」
「あれは学校でいじめられないようにと思ってはじめただけから。べつに好きってわけではない」
「そうなのか……」
 意外な気がした。学校の成績もよく、運動神経にも恵まれ、周囲の環境にもすぐに溶け込める順応性も備えている燦が、なににも熱中できないもどかしさを抱えているとは、だれも想像できないだろう。
「イメージに合うの、ありそう?」
 燦が声をかけてきて、我に返った。
「ああ、えっと……」
 単にファッションとしてきれいに見えるだけでなく、役との親和性やアクションシーンでの動きやすさも重視しなければならない。おれは再び衣装選びに集中した。
「これは?」
 スパンコールの施されたフリル付きのドレスシャツに気づき、引き出した。一番奥の目につきにくいスペースにしまわれていたが、しっかりと糊がきいていて、手入れされている。華やかなデザインで、ほかの服とは印象が違うことが気になった。
「ああ、それは……」
 ベッドに腰掛けておれの作業を見守っていた燦が立ち上がる。おれの手からシャツを受け取り、ていねいに畳んだ。
「これはだめ。サイズ合わないし」
 いわれてみればかなり小さめに見えた。
「子どもの頃の服?」
「ん、いや……」
 燦にしては歯切れが悪い。おれから目を逸らし、シャツを元の場所に戻してから、ばつが悪そうに苦笑いを見せた。
「元彼のなんだよね」
 元彼。もちろん意味は知っていたが、あまりに現実味のない響きだった。燦に今、特別決まった相手がいないことは知っていた。カナダでは付き合った経験があったそうだが、それ以上のことは聞いていなかった。詳しく聞けば、おれのほうも細かい部分まで話す必要に迫られる。だからあえて尋ねなかった。
 元彼の存在そのものよりも、彼の私物をこうして大切に保管していることが意外だった。あまりいい別れ方ではなかったと話していた記憶があったからだ。
「これとかどうかな。ちょっと色薄いけど、丈あるよ」
 ダークブラウンのPコートを取り出し、体にあててみせる。話題を逸らせようとしているのだとわかった。いつもの爽やかな笑顔を、おれは黙って見つめていた。真っ白な画用紙に垂らした一滴の墨がじわりと滲んでパルプを染めていくように、小さな違和感が胸を浸食していった。