恋は燦然と、

 「散らかってるけどごめんね」といわれて、言葉どおりにとらえる者はすくないだろう。まして、市内随一の高級タワーマンションの最上階だ。映画やドラマで見るような生活感のない洗練された空間が広がっているものと想像していた。だから、玄関で靴を脱ぎ、リビングに足を踏み入れたとき、唖然として立ち竦んでしまった。
「な。ほんとに散らかってるだろ?」
 恥ずかしそうに首を窄めて、床の上に散らばった衣類を拾い上げる。長い脚を伸ばし、爪先でタオルを宙に浮き上がらせ、器用につかむ。
「おれも母親も掃除が苦手でさ。掃除ってか、家事全般だけど」
 キッチンにはピザの箱やデリバリーの食事のパッケージが乱雑に重ねられている。かろうじて生ゴミの匂いはしなかったが、清潔とはいい難い。
「その辺に座って。邪魔なもん、適当にどかしちゃっていいから」
 リビングのソファは見るからに高級品だったが、コートやマフラーが積み上げられ、座るスペースはほとんどなかった。
「あの……ちょっと片付けてもいいかな?」
「いいけど……シアタールームは片付いてるよ。滅多に入らないから」
「さっと掃除機かけるだけ。すぐ終わるから」
 特別きれい好きなわけではないが、一度気になると集中が削がれる性質だ。燦からゴミ袋と掃除機を受け取り、清掃にかかった。
 簡単に済ませるつもりが、つい没頭してしまった。気づくと部屋じゅうを掃除して、冬にもかかわらず汗だくになっていた。
「驚いた」
 見違えるほどきれいになったリビングを見て、燦は呆気にとられていた。
「久しぶりに床見たわ」
 大仰な感想に、思わず笑ってしまった。おれの顔を見て、燦も笑う。
「ゴミ屋敷だから、引かれたかと思った」
「べつに……おれんちも汚いし」
 視線に気づき、顔を逸らした。実際に、驚きはしたが、嫌な気分にはならなかった。むしろ、完璧に見える燦が、実は生活能力に欠けていて、その事実を恥ずかしく思っていることを知り、はじめて親近感をおぼえていた。
「降旗の家はどの辺なの?」
「うちは長住の……」
 他愛ない会話を交わしながら、おれはきたときよりもリラックスしている自分に気づいた。
 シアタールームには小型のプロジェクターがあり、広くはないが、燦のいうとおりよく整頓されていて落ち着ける空間だった。ふたりがけのソファに並んで座り、映画を見た。燦が出してくれたスナック菓子をつまみながら、ジョナサン・スー監督が新人時代に自主制作したショートムービーを鑑賞した。低予算ではあったが、よく練られた脚本で、演出も素晴らしかった。おれは素直に感動して、言葉もなかった。
 エンドロールで流れる文字を見ながら、目頭を押さえる。隣に座った燦がさりげなくハンカチを差し出してくれた。
「ほんとに好きなんだね」
 口を開けば涙が零れてしまいそうで、黙って頷いた。
「ほかにもいろいろあるけど、見る?」
 室内の棚に並んだDVDのパッケージの列に視線を向ける。見ると即答したいところだったが、帰りの電車の時刻が気になった。部屋の掃除でよけいな時間を浪費してしまった。
「あ、けど遅くなると困るよね」
 迷っているおれに、燦がいった。
「泊まってってもいいけど」
「いや、でも……親御さんに許可取らないとだろ」
 ジョナサン・スーに会えるかもしれないという期待が滲んでいたのかもしれない。燦は肩を竦めていった。
「うち離婚してて、父親はカナダにいるし、母親も、今日は新しい彼氏んとこにいると思うから」
 あまりにさらりとした説明で、おれは思わず口を噤んだ。高級マンションに住み、学校の成績もよく、完璧に見える燦が、複雑な家庭環境のなかで生きていることを知り、なにもいえなくなっていた。最初の印象が強烈だっただけに、偏ったイメージにとらわれすぎていたのかもしれない。
「あ、ごめん」
 おれが無言でいることに誤解したのか、燦が眉を上げ、わずかに身を引いて距離をつくる。
「ゲイとふたりきりで泊まるのとか、抵抗あるよね」
「いや……」
 咄嗟に首を振る。
「おれ、そういうのは……」
「抵抗ない?」
 頷く。実際に、部屋の清掃作業と映画に集中していて、燦が同性愛者であることを忘れていた。
「そっか……」
 燦は安堵したように呟いた。なんとなく、沈黙が流れた。いつの間にかエンドロールも終わり、画面は黒くなっていた。
「降旗……あ、下の名前で呼んでいい?」
「べつにいいけど……」
 ろくに話したこともないクラスメイトの名前を知っていることに驚いた。もちろん、相燦という特徴的な名前と印象的な登場のため、おれのほうは燦の名を把握していたが、おれは目立つタイプではないし、下の名前を知る同級生はほぼいないはずだった。
「誠心……」
 膝の上で指先を細かく動かしながら、燦がいった。
「あのさ、こういうこと、聞いていいかわかんないけど……」
 視線が合うと、ぎこちなく逸らして、笑う。
「やっぱいいや。ごめん。忘れて」
「なんだよ。気になるだろ」
「ほんとにいい。なんでもないから」
「いえよ。べつに平気だし」
 曖昧にされると却って気になってしまう。燦はなおも躊躇っていたが、やがて小さく呟いた。
「その……もしかして、誠心って……」
「おれがなに?」
「いや……もしかしたら、おれと同じなのかもって思ったから」
「同じって?」
「だから……仲間っていうか……」
 ふだん教室で見せる溌剌とした様子からは想像できないほどに弱々しい声だった。怯えて、緊張している。強張った表情を見て、おれは思わず呆然としてしまった。
「ごめん。やっぱちがうよね。おれの勘違い……」
「ちがくない」
 考えるよりも先に、言葉が漏れていた。燦が驚いた表情になる。
「……ほんと?」
 声にはわずかな戸惑いと、浮き立つような色がさしていた。
 黙って頷くと、燦の表情が一気に明るくなった。
「そっか。やっぱりそうなんだ。そっかそっか……」
 何度も繰り返して頷き、両手でおれの手を握って振り回す。
「うれしいな。こっちでゲイの子と知り合うことってないと思ってたから。ほら、日本だと、あんまりおおっぴらにしないことが多いじゃない? 本心で話せる相手がいなくて寂しかったんだよね」
 無邪気にはしゃぐ様子を見て、引き下がれなくなった。燦に手を握られながら、おれはかろうじて頬の筋肉を歪めた。笑顔がつくれていたかどうかはわからない。自信はなかった。