恋は燦然と、

 マンションにもどるまでの間、どちらも口を開かなかった。
 燦がドアを開けると、玄関に靴が並んでいるのが見えた。1足ではない。いくつも並んでいて、女性もののショートブーツもあった。
「あれ。おかえり」
 リビングのほうから声がした。覗き込むと、5人の男女がピザを食べていた。テーブルの上に無造作に置かれたピザの箱の下敷きになっている紙束は台本だろうか。
 状況がつかめず、呆然としているおれを、複数の目が見上げていた。
「友達?」
「ピザ食べる?」
 声をかけられたが、呆気にとられてしまって、すぐに返事ができなかった。立ち尽くすおれの代わりに、燦が声を上げた。
「みんな、ごめん。ちょっと急用できたから、今日はここまでで」
「あー、おけおけ」
「続きはまた次回ね」
 とくに不満や不信を口にすることもなく、残ったピザを口に放り込んで、帰り支度をはじめる。
「じゃあね、燦くん」
「お疲れ」
「また来週」
 賑やかな集団が帰ってしまうと、冷めたピザとジュースやコーヒーの空き缶、それに静寂が残された。
「今のって……」
「友達だよ。ワークショップでいっしょの」
 ごみ袋を広げながら、燦がいう。
「ワークショップ?」
「芝居のワークショップ。試しに行ってみたら、けっこう楽しくてさ。今は、チームのメンバーで集まって、課題作品の掘り下げしてたとこ」
 ピザの箱を片付けると、台本とテキストのファイルが目に入った。見覚えのある燦の字で書き込みがされている。
「この前の撮影終わってから、もっとうまくなりたいっていうか、もうすこしやってみたいって気持ちになって」
 おれの視線を受け、照れくさそうに笑う。
「邪魔だったんじゃないの」
「いいよ。朝からずっとやってて、疲れてきてたから」
 台本とテキストをクリアファイルに挟み、バッグのなかにしまいこむ。燦の表情は疲労どころかむしろ楽しげだった。ようやく熱中できることを見つけたのだ。
 燦はおれに、やりたいことがないと話していた。映画の出演が決まってからは、活き活きと取り組んでいるように見えた。勉強も運動もそつなくこなし、恋愛以外に関心を示すことのなかった燦が、他に意欲を燃やせるものを見いだせたのだとしたら、それはよろこばしいことだ。しかし、おれの胸は騒いだ。
 一方で、安堵してもいた。インタホンの声の主が燦の恋人ではないとわかったからだ。
「なにか飲む?」
 テーブルの上を片付けながら、燦がいう。仲間たちが置いて行ったごみを除けば、部屋は整頓され、掃除も行き届いていた。
 燦は失恋のショックから立ち直り、新たな目標を見つけ、生活を立て直している。おれだけが、前に進めずにいる。
「その辺座って」
 突っ立ったままのおれに、燦が声をかける。
「なにか用があってきたんでしょ?」
 東京での撮影を終え、先に帰ってしまってから、学校でもほとんど話すことがなかった。あんなことがあったのに、燦はそれまでと変わらない態度だった。
「その……仮編が上がったから、いっしょに見ようと思って」
「データで送ってくれたらよかったのに」
 突き放すような口調ではなく、単に気遣いからだとわかっていたが、胸を絞り切られるようだった。
「ごめん……」
 映画などどうでもよかった。単なる口実に過ぎない。
「ごめん。あの……ほんとは謝りたくて」
 ショルダーバッグのストラップを握りしめ、おれはいった。
「嘘ついてたこと、ちゃんと謝れてなかったから……」
「もういいよ。気にしてない」
 やさしい口調ではあったが、かえって傷を深くした。気にしないということは、どうでもいいということだ。
 もう終わりということなのか。映画は完成し、嘘が露呈した。春がくれば高校を卒業し、おれは上京する。燦とは二度と会わない。別々の人生を生きるのだ。
 それでいいの?
 茅野の言葉が頭のなかを繰り返し巡り、胸の奥がざわざわと蠢いた。
「誠心?」
 片付けをしていた手を止めて、燦がおれのほうに体を向けた。おれの様子がいつもとちがうことに気づいたのだろう。長身を傾けて、おれの顔を覗き込んでくる。
「だいじょうぶ?」
 首を振った。だいじょうぶなはずがない。だいじょうぶなんかじゃない。叫び出したいのを堪え、俯いた。
「誠心……」
 もう一度、燦がおれの名を呼んだ。こんなふうに名前を呼ばれることも、もうなくなる。そう思うと、どうしようもなく胸が詰まって、たまらなかった。
 燦は手を伸ばしたが、指先がおれの頬に触れる直前、空中で拳を握った。呻くようにいった。
「そんな顔されたら、また抱きしめたくなるよ」
 燦が離れていく気配を感じ、咄嗟にパーカーの裾をつかんだ。不意を衝かれた燦がバランスを崩し、互いの体が密着した。
 東京へ向かう夜行バスの中で、燦に抱きしめられたことを思い出した。あのときはほんの一瞬のことで、おれはただ体を硬直させているだけだった。今はちがった。燦の背中に両腕を回し、体を圧しつけた。濁流のなかでもがきながら唯一の救命具に縋るように、渾身の力でしがみついた。呼吸がくるしくなり、荒く息を継いだ。燦の匂いが鼻腔いっぱいに広がり、鼓動を直に感じた。
 燦は一瞬戸惑ったように呼吸を止め、両手を浮かせたが、すぐにおれの体重を受け止め、おれの背中と頭に手をあてた。
「誠心……」
 くるしげな息が頭頂部の周辺を漂う。
「おれ、まだ誠心のこと好きだよ」
 その言葉は、静かではあったが、驚くほどの熱量をもっておれの全身を満たした。
 燦の手が移動して、体の間に隙間ができた。燦の両手がおれの顔を包み、上を向かされた。視線が合い、呼吸が絡んだ。
「誠心は?」
 切実な眼差しにとらえられ、目を逸らすことができなかった。
「誠心は、おれのこと好きじゃない?」
 わずかに汗ばんだ指先が頬の上を滑る。燦の緊張が伝わってきた。
「この前、ちゃんと返事聞けなかった」
「おれ……」
 燦はおれをかわいいといった。おれといると力が湧くといってくれた。おれはどうだっただろう。燦との時間を心地よく感じ、燦が元彼の話をしたり他の同級生と話したりするたびに胸が騒いだ。燦がだれかと恋愛をすることを想像しただけで、烈しく動揺し、落ち込んだ。そんなふうに感じる相手ははじめてで、これから先も出会えるとは思えなかった。