マンションのエントランスで、十数分の無駄な時間を消費した。インタホンの前で右往左往しているおれを、住民らしき男女が訝しげな顔で一瞥し、建物に入っていった。
あまり長時間うろついていると、不審者と誤解されかねない。通報でもされたらおおごとになってしまう。覚悟を決めて、部屋の番号を押した。
しばらくの間応答はなく、無機質な機械音が鳴るだけだった。留守かもしれないと思うと、落胆に混じってわずかな安堵があった。踵を返しかけたところで、唐突に機械音がやんだ。
咄嗟に振り返る。正方形の画面に、燦の顔が映し出されていた。
「はい?」
思わず後ずさった。そのまま帰ってしまおうかとも思ったが、タイミング悪く、フードデリバリーサービスの制服を着た男がエントランスに入ってきて、道を塞がれた。
「どなたですか?」
燦の声に警戒が混じる。立ち尽くしたまま、返事ができずにいると、燦の背後からだれかの声がした。
「ピザもうきたん?」
低い男の声を聞いたとたん、身が竦み、喉の奥が震えた。ひとがいるとは想像していなかった。燦がおれ以外の友達を家に呼んだことはなかった。
「あのー……」
後から入ってきたデリバリースタッフが苛立ったような顔で首を伸ばし、様子をうかがってくる。よけいな時間を使わずさっさと注文の品を届けたいのだろう。
「あ……すみません」
おれは我に返り、男の脇をすり抜けるようにエントランスを出て行った。
きた道をもどり、駅の方角へと向かう。肩にかけたナイロン製のショルダーバッグが妙に重く感じたが、それ以外の感覚は薄れていた。自然と歩く速度が上がり、ほとんど走るようになっていた。
なぜ考えなかったのか。燦に新たな相手ができたこと。
燦は過去の恋愛のトラウマから脱け出そうとしていた。理想の恋愛ができるパートナーを探してもいた。新しい出会いがあっても不思議ではないし、そうあるべきだ。浅はかな嘘で燦を傷つけたおれに、なにか意見があろうはずもない。
撮影前夜のホテルで、燦に気持ちを打ち明けられたとき、おれは逃げた。ただ拒むだけではなく、曖昧な態度で誤魔化した。翌日には撮影を控えていたからだ。燦の気持ちよりも撮影を優先し、自分の気持ちにも向き合おうとしなかった。
おれは卑怯で身勝手だ。燦の純粋な気持ちを踏みにじり、傷つけた。東京からもどってからも、意図的に燦を避けていた。今さら会いに行ったところで、燦にしてみれば迷惑だろう。
なにを期待していたのか。以前のような関係にもどりたかったのか。もう忘れた、すべて水に流すという言葉を求めていたのか。自分でもわからなかった。
インタホンの画面からはすこし離れていたこともあり、顔までは見えなかったが、親しげな口調だった。どんな男か気にならないといえば嘘になる。それ以上に、おれは自分でも驚くほど動揺していた。
燦の家でどんなふうに過ごしているのか。今ごろふたりでピザを食べ、談笑しているのかもしれない。ホームシアターで映画を見たり、簡単な料理をつくったり、おれとはしない恋人同士としてのコミュニケーションも取るのだろう。
燦はやさしい。おれの嘘を咎めもせずに、自分の感情を抑えて完璧な仕事をこなす強さもある。新しい恋人にもきっと献身的に尽くすだろう。今度こそ、幸せな時間を過ごせるはずだ。
これでよかった。燦にふさわしいのは、彼の愛情を受け止め、おなじ熱量を返せる人間だ。おれではない。おれであってはいけない。おれにできるのは、燦を傷つけ、追い込み、利用することだけだ。
自分の行いの責任は取らなければならない。おれはこれ以上、燦の近くにいてはいけない。
わかっているのに、気持ちがついていかない。瞼が重くなり、鼻の奥が熱くなった。
立ち止まり、着ていたラグランスリーブの袖を伸ばして、目頭を押さえた。おれには泣く資格すらない。涙は流せない。
「誠心!」
声がして、振り返ると、燦が立っていた。紺色のパーカーにデニムといったラフな服で、裸足にサンダルを履いている。走ってきたのか、息を切らせていた。額に汗を光らせながら、いった。
「なにしてんの」
聞きたいのはおれのほうだった。なぜ燦がここにいるのか。戸惑いは広がるばかりだった。
「さっき、うちにきた?」
「行ってない」
否定するのが早すぎた。燦の顔を直視できずに、視線を逸らした。かろうじて泣くのは堪えていたが、瞳が濡れて顔に熱を充満させているのは自分でもわかっていた。
「きて」
腕をつかまれ、強く引かれた。思わずはっとするほどの力だった。
「うちで話そう」
「やだ」
インタホンの声の男と鉢合わせになる。どんな顔で接していいのかわからない。
「やだ。離せよ。やだってば」
つかまれた腕が熱い。皮膚を通して燦の体温が伝わってくる。その熱を感じたとたん、抵抗できなくなった。
おれは燦に手を引かれ、歩き出した。燦の広い背中と風に揺れる髪を見つめていると、切なくてたまらなかった。
あまり長時間うろついていると、不審者と誤解されかねない。通報でもされたらおおごとになってしまう。覚悟を決めて、部屋の番号を押した。
しばらくの間応答はなく、無機質な機械音が鳴るだけだった。留守かもしれないと思うと、落胆に混じってわずかな安堵があった。踵を返しかけたところで、唐突に機械音がやんだ。
咄嗟に振り返る。正方形の画面に、燦の顔が映し出されていた。
「はい?」
思わず後ずさった。そのまま帰ってしまおうかとも思ったが、タイミング悪く、フードデリバリーサービスの制服を着た男がエントランスに入ってきて、道を塞がれた。
「どなたですか?」
燦の声に警戒が混じる。立ち尽くしたまま、返事ができずにいると、燦の背後からだれかの声がした。
「ピザもうきたん?」
低い男の声を聞いたとたん、身が竦み、喉の奥が震えた。ひとがいるとは想像していなかった。燦がおれ以外の友達を家に呼んだことはなかった。
「あのー……」
後から入ってきたデリバリースタッフが苛立ったような顔で首を伸ばし、様子をうかがってくる。よけいな時間を使わずさっさと注文の品を届けたいのだろう。
「あ……すみません」
おれは我に返り、男の脇をすり抜けるようにエントランスを出て行った。
きた道をもどり、駅の方角へと向かう。肩にかけたナイロン製のショルダーバッグが妙に重く感じたが、それ以外の感覚は薄れていた。自然と歩く速度が上がり、ほとんど走るようになっていた。
なぜ考えなかったのか。燦に新たな相手ができたこと。
燦は過去の恋愛のトラウマから脱け出そうとしていた。理想の恋愛ができるパートナーを探してもいた。新しい出会いがあっても不思議ではないし、そうあるべきだ。浅はかな嘘で燦を傷つけたおれに、なにか意見があろうはずもない。
撮影前夜のホテルで、燦に気持ちを打ち明けられたとき、おれは逃げた。ただ拒むだけではなく、曖昧な態度で誤魔化した。翌日には撮影を控えていたからだ。燦の気持ちよりも撮影を優先し、自分の気持ちにも向き合おうとしなかった。
おれは卑怯で身勝手だ。燦の純粋な気持ちを踏みにじり、傷つけた。東京からもどってからも、意図的に燦を避けていた。今さら会いに行ったところで、燦にしてみれば迷惑だろう。
なにを期待していたのか。以前のような関係にもどりたかったのか。もう忘れた、すべて水に流すという言葉を求めていたのか。自分でもわからなかった。
インタホンの画面からはすこし離れていたこともあり、顔までは見えなかったが、親しげな口調だった。どんな男か気にならないといえば嘘になる。それ以上に、おれは自分でも驚くほど動揺していた。
燦の家でどんなふうに過ごしているのか。今ごろふたりでピザを食べ、談笑しているのかもしれない。ホームシアターで映画を見たり、簡単な料理をつくったり、おれとはしない恋人同士としてのコミュニケーションも取るのだろう。
燦はやさしい。おれの嘘を咎めもせずに、自分の感情を抑えて完璧な仕事をこなす強さもある。新しい恋人にもきっと献身的に尽くすだろう。今度こそ、幸せな時間を過ごせるはずだ。
これでよかった。燦にふさわしいのは、彼の愛情を受け止め、おなじ熱量を返せる人間だ。おれではない。おれであってはいけない。おれにできるのは、燦を傷つけ、追い込み、利用することだけだ。
自分の行いの責任は取らなければならない。おれはこれ以上、燦の近くにいてはいけない。
わかっているのに、気持ちがついていかない。瞼が重くなり、鼻の奥が熱くなった。
立ち止まり、着ていたラグランスリーブの袖を伸ばして、目頭を押さえた。おれには泣く資格すらない。涙は流せない。
「誠心!」
声がして、振り返ると、燦が立っていた。紺色のパーカーにデニムといったラフな服で、裸足にサンダルを履いている。走ってきたのか、息を切らせていた。額に汗を光らせながら、いった。
「なにしてんの」
聞きたいのはおれのほうだった。なぜ燦がここにいるのか。戸惑いは広がるばかりだった。
「さっき、うちにきた?」
「行ってない」
否定するのが早すぎた。燦の顔を直視できずに、視線を逸らした。かろうじて泣くのは堪えていたが、瞳が濡れて顔に熱を充満させているのは自分でもわかっていた。
「きて」
腕をつかまれ、強く引かれた。思わずはっとするほどの力だった。
「うちで話そう」
「やだ」
インタホンの声の男と鉢合わせになる。どんな顔で接していいのかわからない。
「やだ。離せよ。やだってば」
つかまれた腕が熱い。皮膚を通して燦の体温が伝わってくる。その熱を感じたとたん、抵抗できなくなった。
おれは燦に手を引かれ、歩き出した。燦の広い背中と風に揺れる髪を見つめていると、切なくてたまらなかった。



