恋は燦然と、

 午後、スタッフミーティングとキャストの顔合わせ、台本の読み合わせを行った。通常なら数日前か数週間前に終わらせておくべき作業だが、監督と主演が地方在住で、予算も限られていることから、1日ですべてこなす必要があった。
 燦は新人ながら座長として堂々とした立ち振る舞いを見せた。共演者は全員年上で、未経験者は自分だけという状況で、緊張しないはずはないが、気後れするそぶりもなく、台詞を噛んだり動きを間違えたりということもなかった。
 アクションシーンはわずかなミスが事故につながる。主人公に倒される悪人を演じるベテランの役者たちも、はじめのうちこそ素人の高校生に対して疑いの目を向けていたが、すぐに燦の素質に気づき、その度胸と勘のよさを目の当たりにして、考えを変えたようだった。プロの目線から細かいアドバイスを加えながら微調整し、協力して芝居を磨き上げていった。
 東京へくるまではあらゆる問題を想像し、不安に押しつぶされそうだったが、リハーサルで見事な存在感を発揮する燦と周囲を支えるベテラン俳優、茅野が揃えた百戦錬磨の制作スタッフのチームワークを見て、不安は消え、代わりに、待ち望んだ映画が撮れるという実感と、必ずいい作品ができるという自信が大きく膨らんでいた。
 夕方のリハーサルを終え、宿泊先のホテルへ向かうときには、おれの足取りは軽くなっていた。
「なにか食べてく?」
 渋谷のリハーサル現場からホテルのある新宿駅に向かう電車のなかで尋ねたが、燦は首を振った。
「いいよ。お昼、遅めだったし」
「そっか」
 慣れないリハーサルで疲れたのか、燦の口数はすくなかった。その様子を見て、おれもはしゃぐのをやめた。ホテルにチェックインしたあとは、燦に真実を打ち明けるという気の思い作業が待っている。
 新宿駅西口から20分ほど歩いた場所にあるビジネスホテルは、駅から離れていることもあって比較的安価ではあったが、まだオープンからそれほどたっておらず、清潔で真新しく見えた。ひとりならカプセルホテルでもいいが、体力を消耗するシーンを多数撮る燦を固いパイプベッドで寝かせるわけにはいかない。古びた外観を想像していただけに、ほっとした。
 ホテルのエントランスに入り、後ろを歩いていた燦を振り向いて、いった。
「チェックインしてくるから、そこで待ってて」
 チェックインの時間が遅れることはあらかじめ予約時に伝えてあった。
「ちょっと待って」
 キャリーケースを引きずってフロントに向かおうとするおれを、燦が呼び止める。
「おれ、べつのとこに泊まるよ」
「は?」
 突然の申し出に、戸惑った。唖然としているおれに、燦は笑顔を浮かべて、いった。
「朝、近くのホテル予約したから」
 朝食を取った店でだれかと電話で話していたことを思い出した。
「え、なんで?」
「せっかく部屋取ってくれたのに、ごめん」
 おれの質問には答えず、自分のキャリーケースの持ち手をつかみ、リュックを背負い直す。
「じゃ、明日」
「ちょ、ちょっと待って、待てって」
 ホテルを出ようとする燦の腕をつかんだ。
「なんでだよ。だって……お金もかかるじゃん」
「お金は自分で払うから気にしないで」
 気にしないわけにいかない。出演者の宿泊費は当然経費に含まれる。なにより、燦が別の場所で寝泊まりする理由が理解できなかった。
「ほんとに気にしないで。ホテルが嫌とかそういうわけではないから」
 フロントスタッフが怪訝そうな目を向けてくる。燦は声を顰めて、おれの手に指先を触れさせた。
「ひとりで集中したいだけだよ」
 嘘だとすぐにわかった。ひとり部屋が用意されており、周辺が騒がしい地域でもない。おれから離れたいのだと、咄嗟に思った。
「だとしても……ちょっと、ちょっとだけ話そう。話したいことあるから」
「でも……」
「時間取らせないから。おれの部屋で話そう」
 茅野との約束もある。おれとしても、事実を隠したまま撮影に入るのは抵抗があった。どうしても、今夜じゅうに話す必要があった。
 躊躇する燦をエントランスで待たせて、素早くチェックインを済ませた。泊まらないとしても、通常のチェックイン時間をすでに過ぎており、燦の部屋もキャンセルというわけにはいかず、予定どおり代金を支払った。
 領収書を受け取り、エレベータでおれの部屋に向かった。部屋は3階だった。ビジネスホテルだけに室内は狭く、セミダブルのベッドと小さなデスクがあるだけで、ソファもテーブルセットもなかった。
「座って。荷物、そこ置いて」
 燦は黙っておれに指示されたとおりに荷物をドアの脇に置き、ベッドの端に腰掛けた。
 おれもすこし距離を開けてベッドに座る。密室にふたりきりでいることなど、珍しくもないはずなのに、妙に呼吸がくるしかった。
 それほど大きくないベッドに並んで座り、ふたりともしばらく口を開かなかった。
 やがて、燦が静かにいった。
「わかってるよ」
「え?」
 広い背中を傾けて上半身を前に倒し、膝の上に肘を置いて指を組んで、いった。
「付き合ってないんでしょ、茅野さんと」
 突然指摘され、すぐには返答できなかった。口を開けたまま固まっているおれに、燦はいった。
「前からおかしいなって思ってたけど、今日、会ってすぐわかった」
 記憶と感覚を確かめるように目を細め、わずかに唇の端を持ち上げる。
「なんで……」
「ふたりの雰囲気、恋人同士には全然見えなかった。久しぶりに会ったのにハグもしないし、仕事の話ばっかりだし」
 茅野は燦の前で真相を暴露することはなかったが、かといって、恋人を装うこともしなかった。燦もとくに関係性について質問することもなかったから、気にしていないと思っていた。
「茅野さん、誠心に海老を食べさせようとしたでしょ」
 茅野がオーダーしたシーフードサラダを小皿に取り分けてくれようとしたが、おれは甲殻類のアレルギーだから断っていた。今になるまで思い出さないほどなにげない、ごく短いやりとりだった。
「遠距離っていっても、1年付き合ってて、誠心のアレルギーも知らないって、やっぱ変だよね」
 返せる言葉が見つからなかった。おれは背中を丸めて俯き、「ごめん」と一言だけ呟いた。