恋は燦然と、

 茅野がスタッフとエキストラを手配し、スケジュールを組み立て、撮影の準備は一気に加速した。茅野とビデオ通話で話してから約3か月後、東京での撮影を直前に控えて、おれと燦も緊張感を高めていた。
「いよいよだね」
 東京へ発つ日の夜、岐阜駅で待ち合わせた。東京までは夜行バスで行く。6時間ほどかかるが、新幹線より安価だ。スタッフやキャストのギャランティを捻出するため、経費を抑える必要があった。燦は文句をいうこともなく、夜行バスに乗るのははじめてだとよろこんだ。行きはバスで寝るだけだから、無地の黒いTシャツに黒のキャップを被ったラフな格好だ。小道具や衣装を詰めてぱんぱんに膨らんだおれのボストンバッグを抱え、トランクルームに入れてくれる。
 春休みを利用して、3泊4日の日程で東京へ行き、都内各地でロケを行う。現地のスタッフや機材は茅野がすべて準備してくれていた。はじめのうちこそ協力を渋っていた茅野だったが、本格的に関わると決断してからは、自らの作品のように精力的に動いてくれていた。ロケハンや打ち合わせの時間を除けば、実質的な撮影時間は1日しかなく、茅野の仕込みがなければ現実的とはいえない計画だ。
 昼は学校に通いながら、バイトをして、空いた時間で茅野と演技プランやロケ地選定の打ち合わせ。現地キャストとはビデオ通話でやりとりしながら、役割や動作について説明した。
 準備期間はじゅうぶんに取ったつもりだったが、あっという間に時間は過ぎた。はじめての本格的な撮影に、期待と不安が入り交じった奇妙な感覚だった。
「ホテルのチェックイン、午後だから、その前にちょっと現場確認していい? 疲れてたらホテルの近くで休んでてもいいけど」
 バスに乗り込みながら、いった。
「同じホテルなの?」
 隣の席に腰を下ろしながら、燦が上半身を捻っておれを見る。
「え、うん。部屋は別々だよ」
「そりゃ……」
 同じ階の隣り合ったシングルルームを押さえた。とくに不都合はないと思ったが、燦は表情を曇らせた。
「誠心は彼氏さんのところに泊まるのかと思ってたから」
 訝しげな言葉に、我に返った。撮影前の緊張感と興奮で、自分でつくった設定を完全に忘れていた。慌てて説明する。
「撮影中はばたつくし、おまえが遅刻したりすると困るから」
「しないよ、遅刻なんか」
 責任感があり、自宅の掃除以外はしっかりしている燦のことだから心配はしていない。苦しい弁解だったが、とりあえず、燦は納得したようだった。リュックの中から印刷した台本を取り出し、捲りはじめる。台本はPDFでも共有していたが、案外古風なタイプのようで、紙でないと頭に入らないのだという。台本には無数の付箋が貼られ、びっしりと書き込みがされている。皺の寄ったページを捲りながら、真剣な表情で声には出さず唇を動かしている。
 オファーから約半年、燦は真剣に役と向き合い、仕事として熱心に取り組んでくれていた。色褪せてぼろぼろの台本を見ていると、罪悪感と感謝で胸がいっぱいになった。利用されているとも知らずに、燦は台本に向き合い、集中している。
 茅野との約束はまだ果たせていなかった。今日こそは、明日こそはと思いながらも、勇気が持てず、先延ばしにしてしまっていた。しかし、もう逃げられない。時間切れだ。東京に着くまでに打ち明けなければならない。
 燦がやめたいと思っても後に引けない状態になるまで引き延ばしたことを卑怯だと、自分でも思う。おれは心底最低の人間だ。自分の目的を果たすために、こんなにも純粋で素直な男を騙し、利用している。
 それでも、やりきるしかなかった。おれのほうももう後戻りはできない。どれほどの批判を浴びたとしても、映画を完成させるのだ。覚悟を決めるしかなかった。
 おれの視線に気づいて、燦が顔を上げる。目を細め、笑った。
「なに?」
「いや……」
 慌てて顔を背ける。肩が触れるほどの距離だ。映画館でも、シアタールームのソファでも並んで座ったのに、どういうわけか緊張して落ち着かない。撮影前に気持ちが昂ぶっているせいかもしれなかった。
「緊張してるの?」
 頷く。してないといっても信じてもらえないだろう。自分でも信じない。
「おまえはふつうだね」
「おれもどきどきしてるよ」
 燦が手を広げて、おれの膝を手のひらでぽんと軽く叩いた。大きな手だった。膝頭をすっぽりと覆って、励ますように擦ってくれた。
「だいじょうぶ。いい作品になるよ」
「うん」
 本当は、緊張でどうかなってしまいそうだった。待ち望んだ本格的な撮影現場なのに、怖くてしかたがなかった。燦の掌の熱を感じ、張り詰めた神経が緩み、消えかけていた自信が漲ってくるのを感じた。
「おれ、この作品をコンクールに出すつもりなんだ」
 茅野に話したことを燦にも打ち明けた。
「ほんとに?」
 もう一度、今度はより深く頷いた。
「どう思う?」
「すごくいいと思う」
 燦は迷うことなく即答した。おれを見る目が輝き、生命力を溢れさせている。
「絶対賞獲れるよ」
 予想していた以上の反応に、おれの胸も熱くなった。
「だといいけど」
「おれも頑張るから」
 映画を見るのも夢を見るのもずっとひとりだった。燦がおなじ熱を感じ、おなじ目標を見つめていることが、なにより心強く、うれしかった。
「上京の足がかりにできたらなって思ってて」
「上京?」
 燦が訝しげに眉を寄せる。
「東京に行くの?」
「卒業したらね。あとは、賞が獲れたらだけど」
「そうなんだ……」
 燦の表情が曇ったように見えたのは、キャップの鍔がつくる影のせいだろうか。
「おまえにもギャラ弾むよ、賞金出たら」
「そんなのいいよ」
 燦が苦笑いする。ぎこちない笑顔だった。おれが賞金を独り占めすることを心配しているようには見えない。燦はおれとちがって金に困っているわけでもないし、強欲な男とも思えない。なにが気になるのだろう。さっきまで饒舌だったのに、突然黙り込んでしまった。
 発車のアナウンスが流れ、バスの運転手がエンジンをかける。窓の外は真っ暗でなにも見えない。燦が腕を伸ばし、おれの頭越しにカーテンを引いた。
「東京まで時間かかるよね」
 座席に座り直して、キャップの鍔を下げる。目もとが隠れ、表情がわからなくなると、おれはすこし不安になった。
「おれ、すこし寝る」
「うん……」
 夜行バスで仮眠を取るのは不自然ではない。しかし、なにかが気にかかった。たじろぐおれの隣で、燦は腕を組み、俯いた。それ以上の会話を拒むような体勢だった。
 眠っている燦の横顔を見つめる。組んだ腕には筋肉の筋が伸び、葉脈のように浮き上がった血管の蒼が薄闇のなかかすかに判別できた。幅の広い肩が、呼吸に合わせて緩やかに上下する。
 以前から筋肉質ではあったが、ここ数ヶ月でひと回り大きくなったようだ。映画のために体づくりをしたのかもしれない。
 撮影の前に真実を話すという茅野との約束は反故にするわけにいかない。帰りのバスでは、こんなふうに並んで話すことはないかもしれない。そう思うと、胸の奥が絞られるように痛んだ。

 バスが出発したのは深夜11時過ぎだった。春休みの期間とはいえ、平日で乗客の数はまばらだった。はじめのうち、燦の態度が気になって眠れずにいたが、そのうち寝入ってしまった。自宅を出る直前まで香盤表の確認と持ち込む小物や衣装のチェックをしていて、疲労がたまっていたこともあっただろう。いつの間にか熟睡していた。
 目が覚めると、隣の燦に寄りかかっていた。肩に頭を凭せかけ、デニムの膝の上に腕を投げ出している。
「……あれ、おれ寝てた?」
 喉が渇いて、舌が縺れた。口もとが濡れていることに気づき、慌ててシャツの袖で拭った。
「ごめん。涎……」
 黒のシャツは見ただけでは湿っているかどうかわからない。シャツの胸に手をあて、涎を垂らしていないか確認しようとした。その手に、燦の手が重ねられた。思わず臆してしまうほど体温が高かった。
 咄嗟に顔を上げると、燦がおれを見下ろしていた。キャップを深く被っていたから正面から見えにくくなっていた顔がすぐ目の前にあった。
 燦の眼差しは掌の温度とは比較にならないほど熱が充満していて、今にも烈しく噴き出しそうだった。そんな顔を見たのははじめてだった。
 服を汚されて怒ったのかと思ったが、そんなつまらないことで不機嫌になるような男ではない。眉間に深く皺を刻み込み、つらそうにも見えた。なぜそんな顔をするのかわからず、戸惑った。
「あ……」
 なにかいわなくては。そう思ったとき、バスがカーブにさしかかって、車体が大きく揺れた。不安定だった上半身が傾いで、燦に体重を預けるかたちになった。
「ご、ごめ……」
 慌てて体勢を立て直そうとしたが、うまくいかなかった。燦の腕にきつく抱きとめられたからだ。手が触れたときよりもより広範囲に、よりダイレクトに燦の体温が伝わり、わずかな汗の混じった体臭と荒い息遣いを感じた。
 一瞬のことだったはずだが、数分にも感じられた。息をころしていると、肩をつかまれ、圧し戻された。
「ごめん」
 それだけいって、燦は顔を逸らした。
「トイレ行ってくる」
 おれのほうは見ずに座席を立ち、車内後方のトイレスペースへ向かう。
 ひとり残されたおれは、まだ鼓動が収まらず、呆然としていた。バスがまた揺れて、間もなく東京に到着することを告げる無機質なアナウンスが響いた。