雨の向こうに君がいる

 放課後。
 俺と静留は、学校から少し離れた防波堤に座っていた。
 ここは俺たちがよく来る場所だった。
 特別な理由があるわけじゃない。帰り道の途中にあって、海が見える。ただそれだけだ。

 制服のまま、鞄を足元に置いて、ただ海を見る。
 夕方の海は、昼間よりずっと静かだった。
 太陽はもう傾き始めていて、水面に細長い光が伸びている。波がそれを崩しては、また繋げていく。
 「今日の海、なんか眠そうじゃね?」
 静留が唐突に言った。
 「海に眠そうとかある?」
 「あるだろ。ほら。」
 静留が顎で海を指す。
 「昨日より波が少ない。」
 「……違う。昨日夕立降ったから海の水が増えたんだ。」
 「んなわけねーだろ!」
 俺は適当なことを言って、靴の先で防波堤の縁を軽く蹴った。
 静留は笑った。

 こういう時間が好きだった。
 何か話さなくてもいい。
 静留とは、黙っていても気まずくならない。
 海を眺めて、くだらない話をして、暗くなる前に帰る。いつも通りだった。
 「そういやさ。」
 静留が海を見たまま言った。
 「お前、宮坂のこと気に入りすぎじゃね?」
 「またそれ?」
 「だってずっと見てたじゃん。」
 「……だから見てない。」
 「見てた。」
 「……」
 俺は黙って海を見た。静留が笑う。
 「ほらぁ、否定しない。」
 「うるさい。」
 「好きなの?」
 「そんなわけない。」
 「じゃあ気になる?」
 「……」
 「ほらぁ!!」
 「うるさいって……」
 静留が声を上げて笑った。
 俺はその横顔を睨んで、それからまた海を見る。

 別に、気になっているわけじゃない。ただ、目につくだけだ。
 今日転校してきたばかりで、まだよく知らないから。
 そう思っていたその時だった。

 「……あれ。」
 背後から声がした。
 俺と静留が同時に振り返る。
 防波堤へ続く坂道の向こうに、誰かが立っていた。
 夕陽を背負っていて、最初は顔がよく見えなかった。

 制服。
 白いシャツ。
 片手に鞄。
 そして。

 「……宮坂?」

 俺がそう呼ぶと、そいつは少しだけ目を細めた。
 「木原くんと南雲くん?」
 「なんでここに……」
 「いや、それ俺が聞きたいんだけど。」
 宮坂はそう言って、俺たちのいる防波堤を見た。

 「ここ、来るの?」
 「来るっていうか……」
 静留が横から口を挟む。
 「俺らの秘密基地!」
 「お前、今初対面に言うなよ。」
 「秘密じゃなくなったな。」
 宮坂が小さく笑った。
 「ごめん。邪魔だった?」
 「別に……」
 俺が答えるより先に、静留が防波堤の隣をぽんぽんと叩いた。

 「座る?」
 「いいの?」
 「いいよ。俺ら二人だけで青春しててもつまんねーし。」
 「何それ。」
 俺が言うと、静留が軽く笑った。
 宮坂は少し迷う素振りを見せてから、控えめに俺たちの隣に腰を下ろした。

 ____でも、近い。
 さっきまで二人分だった防波堤に、三人分の体温がある。
 「……ここ、いいね。」
 宮坂が海を見ながら言った。
 「だろ?」
 静留が得意げに答える。
 「俺が見つけた。」
 「嘘つけ。」
 「え?」
 「……小学校の時から俺が来てただろ。」
 「あれ、そうだっけ?」
 「そうだよ。」
 「じゃあ共同開発ってことで。」
 「……意味分かんない。」

 宮坂が吹き出した。
 「二人って仲いいんだね。」
 「腐れ縁。」
 「腐れ縁って言うな。」
 「じゃあ夫婦?」
 「……急に重い。」
 「じゃあなんだよ!」
 静留が笑う。
 宮坂も笑っている。
 俺は二人を見て、なんとなく可笑しくなった。
 今日初めて会ったばかりなのに、静留はもう宮坂を昔からの知り合いみたいに扱っている。
 宮坂も、それを嫌がっていない。

 「宮坂って、海好きなの?」
 静留が聞いた。
 「好き。」
 「即答じゃーん。」
 宮坂は海を見たまま答えた。
 「前のところでも、よく海に行ってて。」
 「へえ。泳ぐん?」
 「……泳ぐのも好きだけど、見る方が好きかも。」
 「分かる!」

 静留が急に身を乗り出した。
 「海ってさ、入るより見てる方がいい時あるよな!」
 「わかる。あるよね。」
 「だよな!」
 なぜか意気投合している。
 俺はその横で海を眺めていた。
 「木原くんは?」
 「え?」
 突然名前を呼ばれて、顔を上げる。
 宮坂がこちらを見ていた。
 「木原くんも。…海、好き?」
 「……好き。」
 「どこが?」
 「どこって……」
 考えたことがなかった。
 海が好きなのは、理由があるからじゃない。
 ただ、ここに来ると落ち着く。
 「……静か、だから。」
 少し考えて、そう答えた。
 宮坂は一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。
 「俺も。」

 たったそれだけの言葉だった。
 なのに、妙に耳に残った。
 静留が横から言う。
 「じゃあ三人とも海好きじゃん。」
 「そうなるな。」
 「じゃあ明日からここ三人の場所な!」
 「……なにガキの秘密基地みたいに言ってんの。」
 「いいじゃん。事実秘密基地だろ?」
 静留が笑う。

 宮坂は少し困ったように笑って、それから海を見た。
 「……また来てもいい?」
 静留が答える。
 「もちろん!」
 俺は少し遅れて頷いた。
 「……うん。」
 宮坂が俺たちを見る。
 「じゃあ、また来る。」
 「……明日?」
 俺が何気なく聞くと、宮坂は少し考えた。
 「明日も来ていい?」
 「……別に。」
 「じゃあ、明日。」
 宮坂は笑った。
 その笑顔が、夕陽のせいなのか、教室で見た時よりも少しだけ柔らかく見えた。


 ____それから三人で、しばらく海を見ていた。
 静留がくだらない話をして、宮坂が笑って、俺は時々相槌を打つ。
 今日初めて会ったばかりなのに。
 ……不思議なくらい、居心地が悪くなかった。

 帰る頃には、空がもう薄い紫色になっていた。
 防波堤から立ち上がる。
 「じゃ、俺こっち。」
 静留が先に歩き出す。
 「宮坂は?」
 「俺もこっち。」
 「あ、じゃあ途中まで一緒じゃん。」
 静留が嬉しそうに言った。
 「由寿もだろ?」
 「うん。」
 三人で坂道を下りる。
 今日まで二人だった帰り道に、もう一人増えていた。
 そのことを、俺は特に気に留めなかった。

 明日もここに来る。
 その約束だけが、なぜか少し嬉しかった。