雨の向こうに君がいる

 鳥居をくぐると、空気が少し変わった気がした。
 境内には思っていたより人が多かった。
 まだ朝の五時を少し過ぎたくらいなのに、参道には家族連れや友達同士の姿がちらほら見える。みんな厚着をしていて、吐く息が白い。
 遠くから、鐘の音が聞こえた。
 静かな夜明け前の空気に、その音だけがゆっくり響いていく。
 「寒い。」
 静留が両手をポケットに突っ込んだ。
 「だから言ったじゃん……」
 俺と静留がぼやくと、聖人は笑った。
 「でも来てよかったでしょ?」
 「まだ分かんない。」
 「絶対よかったって思うから。」
 「何その自信」
 俺たちはそんなことを言いながら、参道を歩いた。

 両側には出店が並んでいた。
 まだ準備中の店も多い。
 焼きそば。
 たこ焼き。
 りんご飴。
 甘酒。
 昼間ならもっと騒がしいのだろうけれど、今はまだ眠っているみたいに静かだった。
 「帰りに何か食べようよ。」
 聖人が言った。
 「朝から?」
 「朝だから。」
 「……太る。」
 静留がボソッと言った。
 いつもならオールするはずの大晦日なのに早く寝たり体重を気にするあたり、美容系の学校に行ってから美意識が上がったらしい。

 「正月だからいいの。」
 「さっきからそればっかだな。まあいっか!」
 静留が笑った。
 「聖人、正月を理由にすれば何でも許されると思ってるだろ。」
 「思ってる。」
 「開き直った。」
 俺も笑った。
 そんなくだらない話をしながら、手水舎へ向かう。

 聖人が柄杓を取った。
 「これ、どうやるんだっけ。」
 「去年も家族と来ただろ。」
 「覚えてない。」
 「なんでだよ。」
 静留が横から、
 「まず手洗うんじゃない?」
 「そうだっけ。」
 「たぶん。」
 「たぶんかよ。」
 三人とも正しいやり方がよく分かっていなかった。
 結局、見よう見まねで手を清める。
 冷たい水が指先に触れた。
 「うわ、冷た!」
 聖人が手を振る。
 「当たり前だろ。」
 「これ水じゃなくて氷じゃん。」
 「大げさだな。」
 「由寿やってみ。」
 「嫌だよ。」
 「ほら。」
 聖人が笑いながら柄杓を差し出してくる。
 俺は仕方なく受け取った。
 確かに冷たかった。
 「……冷たっ。」
 「でしょ?」
 聖人は嬉しそうに笑った。それだけのことなのに。
 けれど、そういう時間が妙に楽しかった。

 手を清めて、三人で拝殿へ向かう。
 人の列に並ぶ。
 前には何組かの人がいる。
 誰かが小さな声で話している。
 遠くで子どもが笑っている。
 鈴の音が鳴る。
 朝が少しずつ近づいているのが分かった。
 「何お願いする?」
 聖人が小声で聞いた。
 「言ったら叶わなくなるんじゃない?」
 「それって本当?」
 「え、マジらしいよ。」
 「じゃあ言ってよ。」
 「絶対やだね。」
 「静留は?」
 「俺も言わない。」
 「二人とも冷たいなあ。」
 聖人が頬を膨らませる。
 「じゃあ俺も言わない。」
 「最初から言う気なかっただろ。」
 「ばれた?」
 静留が笑う。
 俺も少し笑った。

 列が進む。
 俺たちの番が来る。
 聖人が財布から小銭を取り出した。
 「十円でいいかな。」
 「いいんじゃない?」
 「何円がいいの?」
 「知らない。でも高い方が良い気がするから俺は百円出すよ。」
 「じゃあ十円で。」
 「なんでだよ。」
 「気持ちが大事だからね。」
 聖人がそう言って、賽銭を入れる。
 俺も続いた。
 静留も隣に立つ。
 三人で並んだ。
 鈴を鳴らす。
 大きな音が朝の境内に響いた。
 俺たちは二礼して、二回手を叩く。
 そして目を閉じた。

 何を願おうか。
 少しだけ迷った。
 今年は何がしたいだろう。
 どこへ行きたいだろう。
 何になりたいだろう。
 そういうことを考えてみる。
 でも、結局。
 ……頭に浮かんだのは、昨夜の電話だった。

 ——三人でどっか行こうよ。
 ——海。
 ——今年こそ行こう。

 俺は心の中で願った。
 今年も三人でいられますように。
 また三人で海に行けますように。
 それだけだった。

 目を開ける。
 隣を見る。
 聖人もまだ目を閉じていた。
 静留も同じだった。
 やがて二人が目を開ける。
 「終わった?」
 聖人が言う。
 「終わった。」
 「何お願いした?」
 「秘密。」
 「えー。」
 「お前も言わないだろ。」
 「俺は言ってもいいよ。」
 「じゃあ言えば?」
 聖人は少し考えた。

 それから、にやっと笑う。
 「今年、三人で海に行けますように。」
 俺は少し驚いた。
 静留も目を丸くする。
 「……俺もそれ。」
 「え?」
 聖人が静留を見る。
 「俺も、三人で海行きたい。」
 聖人が笑った。
 「由寿は?」
 「……俺も。」
 「やっぱり?」
 「うん。」
 三人とも同じだった。

 なんだかおかしくて、俺たちは笑った。
 「じゃあ絶対行かないとね。」
 聖人が言った。
 「そうだな。」
 静留が言う。
 
 聖人が妙に真剣な顔をした。
 「てかさ、海で泳ぎの競争して一番早かったやつがジュース奢りな。」
 「お前、そこだけ本気になるなよ。」
 「大事だから。」
 「何が?」
 「ジュース。」
 静留が吹き出した。
 俺も笑う。
 朝の冷たい空気の中で、三人の声だけがやけに大きく響いた。

 拝殿を離れて、境内を歩く。
 聖人がおみくじを見つけた。
 「やろうよ。」
 「また?」
 「正月なんだから。」
 「その理屈便利だな。」
 「今年の運勢知りたいじゃん。」
 「悪かったらどうするの?」
 「結ぶ。」
 「じゃあ何でもいいじゃん。」
 「でも大吉だったら嬉しい。」
 結局、三人でおみくじを引いた。
 俺は吉。
 静留は末吉。
 そして聖人は……
 「え、大吉!!大吉出た!!」
 声が大きい。
 「うるさい。」
 「大吉だよ?!」
 「見れば分かる。」
 聖人は紙を持ったまま、嬉しそうに笑った。
 「今年、絶対いい年になるじゃん!」
 「単純だな。」
 「いいじゃん。大吉なんだから。」
 「じゃあ何が書いてある?」
 「えーっと……」
 聖人が紙を覗き込む。
 「待ち人……来る。」
 「おお。」
 「願い事……叶う。」
 「いいじゃん。」
 「旅行……よし。」
 「海行けるじゃん。」
 静留が言う。
 聖人が笑った。
 「ほら!」
 「何が?」
 「海行けるって!」
 「おみくじに海って書いてないだろ。」
 「でも旅行がよしって。」
 「旅行と海は違う。」
 「細かいなあ。」
 聖人が笑いながら、おみくじを俺に見せる。

 俺はそれを眺めた。
 大吉。
 何も悪いことが書かれていない。
 聖人はそれだけで、本当に今年一年が全部うまくいくような顔をしていた。
 「じゃあ大事に持っとけよ。」
 「うん。」
 「結ばないの?」
 「持って帰る。」
 「なんで?」
 聖人は少し考えてから、
 「なんか、今年はこれ持ってたい。」
 と言った。
 俺は笑った。
 「変なの。」
 「いいじゃん。」
 そう言って、聖人はおみくじを丁寧に財布へしまった。

 境内を出る頃には、空が少し明るくなっていた。
 夜の色が、ほんの少しずつ薄くなっている。
 東の空が白んでいた。
 「もうすぐ日の出じゃん。」
 静留が言う。
 「見る?」
 聖人が聞く。
 「せっかくだし。」
 俺たちは神社を出て、近くの高台へ向かった。

 朝の街は静かだった。
 車も少ない。
 人の声もほとんどしない。
 三人で歩く。
 寒い。
 眠い。
 それでも、誰も帰ろうとは言わなかった。
 高台に着く。下に海が見える。
 俺たちは並んで立った。
 しばらくして、東の空が少しずつ明るくなる。
 聖人が空を見ながら言った。
 「晴れてよかったね。」
 「お前、晴れ男とか言ってたもんな。」
 「そうそう。」
 「じゃあ今日晴れたの、お前のおかげ?」
 「もちろん。」
 「自分で言う?」
 「言うよ。」
 聖人が笑った。

 やがて、太陽が顔を出した。
 冷たい空気の中に、少しずつ光が広がっていく。
 俺たちは何も言わず、それを見ていた。

 ……また、新しい一年が始まる。