家まで、あと少しだった。
けれど、雨は一向に弱くならない。
「聖人、こっち。」
俺は聖人の手を引いた。
「分かってるって!」
「遅いって!」
「由寿が速いの!!」
何を言っているのか、自分でもよく分からない。
雨がうるさすぎて、声を張らないと会話にならなかった。
靴の中まで水が入って、走るたびにぐちゃぐちゃする。
制服も、鞄も、その中の教科書も、全部濡れていた。
きっと明日先生に怒られるのに、もうどうでもよくなっていた。
どうせここまで濡れたなら、少しくらい濡れたって同じだ。
そう思った瞬間、聖人が急に立ち止まった。
「……何?」
「いや。」
聖人が俺を見る。
前髪から水が落ちている。
頬にも、顎にも、雨粒が残っていた。
「楽しいな。」
「は?」
「こういうの。」
聖人が笑った。
「雨の中、走るの。」
「……馬鹿じゃん。」
「そう?」
「そうだよ。」
俺も笑っていた。
何がそんなにおかしかったのかは、今でも分からない。
ただ、あのときは楽しかった。
雨の音も。
濡れた制服も。
靴の中に溜まった水も。
……全部、どうでもよかった。
ただ聖人と二人で走っていることが、妙に可笑しかった。
やがて、見慣れた道が見えてきた。
「ほら、もうすぐ。」
「あれ?」
聖人が少しだけ速度を落とす。
それでも、手は離さなかった。
俺も何も言わなかった。
家の前に着く。
「着いた……」
「もう無理……」
二人で息を切らしながら、玄関の屋根の下へ逃げ込んだ。
雨はまだ降っている。
さっきまであんなに遠く感じた家が、今は妙に近く感じた。
聖人が握っていた手を見る。
「……手、冷た。」
「お前も。」
「じゃあ一緒だな。」
「意味分かんない。」
そう言いながら、俺は手を離した。
聖人も何も言わなかった。
ただ、少しだけ名残惜しそうに自分の手を見ていた。
「ただいまー。」
玄関を開ける。
「ちょっと!!二人ともびしょびしょじゃない。」
母さんの声がする。
「雨、やばかった。」
「見れば分かるって……なんで傘持って行かなかったのよ。」
母さんは文句を言いながら俺と聖人に大きめのバスタオルを手渡した。
「聖人くん、タオルそこ置いてあるから使って。由寿も早く拭いて聖人くんとお風呂入って。もう沸いてるから着替え用意しといて。」
「はーい。」
横にいる聖人を見ると、タオルで強く拭いたのか髪の毛がボサボサになっていた。
「じゃあ聖人くんお風呂入っておいで。」
「え、いいんですか?」
「もちろん。そんなびしょ濡れでいたら風邪ひくよ。」
「ありがとうございます。」
「由寿もあとでちゃんと入りなさいよ。」
「分かってる。」
「ほんとに?」
「分かってるって。」
母さんが笑う。
聖人はタオルで髪を拭きながら、俺を見る。
「じゃあ、お先に。」
「うん。」
「着替え、どこ?」
「あー……」
俺は自分の部屋を指差した。
「俺の服、適当に使っていいよ。」
「分かった。」
聖人はそう言って、風呂場へ向かった。
しばらくすると、廊下の向こうからシャワーの音が聞こえてきた。
俺は自分の部屋に戻って、濡れた鞄の中身を確認する。
教科書はなんとか無事だった。
ノートの端が少し濡れている。
窓の外では、まだ雨が降っていた。
さっきより少し弱くなった気もするけれど、それでも屋根を叩く音は途切れない。
そのうち、風呂場から水の音が止まった。
俺は聖人が出てきたと思い、ドライヤーを渡すためにリビングに降りた。
ドアが開く。
「由寿ー。」
「ん?」
振り返る。
聖人が立っていた。
髪はまだ濡れていて、肩にタオルを掛けている。
……上半身には何も着ていなかった。
「ねえ、服どこにあるかわかんなかったんだけど。」
「……え?」
「いや、だから服。」
「……分かってるけど……」
思わず聖人を見る。
そして、口から出た。
「……ほっそ。」
「は?」
聖人が自分の身体を見下ろす。
「何が?」
「いや……なんでもない。」
聖人が眉を寄せる。
そこで、ふと初めて会った日のことを思い出した。
あの日も、最初に思ったのは、白い、だった。
沖縄の夏を知らないみたいな、妙に白い肌。
教室の窓から差し込む光の中で、それだけが妙に目についた。
今は、それだけじゃない。
白いというより、薄い。
肩も、腕も、思っていたよりずっと細かった。
背は俺より少し高いのに、見ただけで俺より軽いと断定できる。
「今、絶対なんか言っただろ。」
「言ってない。」
「言った。」
「言ってないって。」
聖人が少しだけ眉を寄せる。
「そんな細い?」
「知らんけど。」
「由寿より?」
「……多分。」
「比べてみる?」
「なんでだよ、嫌だわ。」
聖人が笑った。
「じゃあ服ちょうだい。」
「はいはい。」
俺は自室に戻ってクローゼットを開け、Tシャツと短パンを取り出した。
「これでいい?」
「うん。ありがと。」
聖人が受け取る。
「ちょっと大きそうだけど。」
「俺のだからな。」
「まあ、着れるでしょ。」
聖人は笑いながら、また洗面所の方へ戻っていった。
その背中を見送る。
俺はなんとなく、自分の腕を見た。
そこまで筋肉質なわけではなく、どちらかというと脂肪中心のある程度太い二の腕。
それから、さっき見た聖人の姿を思い出す。
……やっぱり、細かった。
まあ、どうでもいいけど。
そう思って、濡れたノートを机の上に広げた。
「ねぇ、由寿。」
——夕飯を食べ終わって、聖人と二人並んでベッドに座る。
「ん?」
「そういえばさぁ……」
聖人は俺の横でクッションを抱え、ごろんと寝っ転がった。
「結局、海行ってないね。」
「……海。」
卒業の前、静留と聖人と三人で約束したこと。
『休みの日にここ集合しようぜ。』
『いいね!』
『じゃあ、三人とも約束。』
確かに高校生になってから予想以上に忙しい生活が続き、三人であの防波堤に集まったことはなかった。
「なんか寂しいね。」
聖人が天井を見ながら言った。
俺は少しだけ黙った。
「……そうだな。」
約束したときは、もっと簡単なことだと思っていた。
休みの日に集まって、海に行く。
防波堤に座って、くだらない話をする。
それだけ。
なのに、高校生になってからは、三人で予定を合わせることさえ難しくなった。
静留は静留で忙しい。
俺も学校やら何やらで時間がなくなった。
そして聖人も。
「でもさ。」
聖人が突然、身体を起こした。
「まだ約束はなくなってないよね。」
「……何それ。」
「だって、行ってないだけじゃん。」
「まあ……そうだけど。」
「だったら、今度行こうよ。」
聖人が笑う。
「三人で。」
その言葉に、少しだけ胸の奥が軽くなった。
「でも、最近ずっと雨降ってる。」
「確かにね。」
俺は少し笑った。
……沖縄の梅雨の天気は読めない。
いつ雨が降るかもわからない中突然降り出し、嵐のように去っていく。
「……お前みたい。」
「俺?」
聖人が目を丸くした。
「うん。急に来て、急にいなくなる。」
「ひどくない?」
「似てるじゃん。」
「俺、そんな気まぐれじゃないけど。」
聖人は少し考えてから、ふっと笑った。
「むしろ俺、晴れ男だよ。」
「……は?」
「知らない?」
「何を。」
「俺が外に出ると、雨止むんだよ。」
「それ、たまたまだろ。」
「違うって。」
聖人が自信満々に言う。
「小さい頃からそう。」
「じゃあ今度試してみようよ。」
「いいよ。」
聖人はクッションを抱え直した。
「俺と静留と由寿で海行ったら、絶対晴れるから。」
「絶対?」
「絶対。」
「……晴れなかったら?」
「そのときは、由寿が悪い。」
「なんで俺なんだよ。」
「雨男だから。」
「勝手に決めるな。」
……外はまだ、雨が降っていた。俺のせいかもしれないな、と思った。
「だから次は晴れるよ。」
「何で?」
「俺がいるから。」
聖人が笑った。
あまりにも迷いなく言うから、俺もつられて笑った。
「じゃあ、期待しとく。」
「任せて。」
外では、やはり雨が降り続いていた。
「……明日、晴れると良いな。」
「だから。絶対晴れるって。」
けれど、雨は一向に弱くならない。
「聖人、こっち。」
俺は聖人の手を引いた。
「分かってるって!」
「遅いって!」
「由寿が速いの!!」
何を言っているのか、自分でもよく分からない。
雨がうるさすぎて、声を張らないと会話にならなかった。
靴の中まで水が入って、走るたびにぐちゃぐちゃする。
制服も、鞄も、その中の教科書も、全部濡れていた。
きっと明日先生に怒られるのに、もうどうでもよくなっていた。
どうせここまで濡れたなら、少しくらい濡れたって同じだ。
そう思った瞬間、聖人が急に立ち止まった。
「……何?」
「いや。」
聖人が俺を見る。
前髪から水が落ちている。
頬にも、顎にも、雨粒が残っていた。
「楽しいな。」
「は?」
「こういうの。」
聖人が笑った。
「雨の中、走るの。」
「……馬鹿じゃん。」
「そう?」
「そうだよ。」
俺も笑っていた。
何がそんなにおかしかったのかは、今でも分からない。
ただ、あのときは楽しかった。
雨の音も。
濡れた制服も。
靴の中に溜まった水も。
……全部、どうでもよかった。
ただ聖人と二人で走っていることが、妙に可笑しかった。
やがて、見慣れた道が見えてきた。
「ほら、もうすぐ。」
「あれ?」
聖人が少しだけ速度を落とす。
それでも、手は離さなかった。
俺も何も言わなかった。
家の前に着く。
「着いた……」
「もう無理……」
二人で息を切らしながら、玄関の屋根の下へ逃げ込んだ。
雨はまだ降っている。
さっきまであんなに遠く感じた家が、今は妙に近く感じた。
聖人が握っていた手を見る。
「……手、冷た。」
「お前も。」
「じゃあ一緒だな。」
「意味分かんない。」
そう言いながら、俺は手を離した。
聖人も何も言わなかった。
ただ、少しだけ名残惜しそうに自分の手を見ていた。
「ただいまー。」
玄関を開ける。
「ちょっと!!二人ともびしょびしょじゃない。」
母さんの声がする。
「雨、やばかった。」
「見れば分かるって……なんで傘持って行かなかったのよ。」
母さんは文句を言いながら俺と聖人に大きめのバスタオルを手渡した。
「聖人くん、タオルそこ置いてあるから使って。由寿も早く拭いて聖人くんとお風呂入って。もう沸いてるから着替え用意しといて。」
「はーい。」
横にいる聖人を見ると、タオルで強く拭いたのか髪の毛がボサボサになっていた。
「じゃあ聖人くんお風呂入っておいで。」
「え、いいんですか?」
「もちろん。そんなびしょ濡れでいたら風邪ひくよ。」
「ありがとうございます。」
「由寿もあとでちゃんと入りなさいよ。」
「分かってる。」
「ほんとに?」
「分かってるって。」
母さんが笑う。
聖人はタオルで髪を拭きながら、俺を見る。
「じゃあ、お先に。」
「うん。」
「着替え、どこ?」
「あー……」
俺は自分の部屋を指差した。
「俺の服、適当に使っていいよ。」
「分かった。」
聖人はそう言って、風呂場へ向かった。
しばらくすると、廊下の向こうからシャワーの音が聞こえてきた。
俺は自分の部屋に戻って、濡れた鞄の中身を確認する。
教科書はなんとか無事だった。
ノートの端が少し濡れている。
窓の外では、まだ雨が降っていた。
さっきより少し弱くなった気もするけれど、それでも屋根を叩く音は途切れない。
そのうち、風呂場から水の音が止まった。
俺は聖人が出てきたと思い、ドライヤーを渡すためにリビングに降りた。
ドアが開く。
「由寿ー。」
「ん?」
振り返る。
聖人が立っていた。
髪はまだ濡れていて、肩にタオルを掛けている。
……上半身には何も着ていなかった。
「ねえ、服どこにあるかわかんなかったんだけど。」
「……え?」
「いや、だから服。」
「……分かってるけど……」
思わず聖人を見る。
そして、口から出た。
「……ほっそ。」
「は?」
聖人が自分の身体を見下ろす。
「何が?」
「いや……なんでもない。」
聖人が眉を寄せる。
そこで、ふと初めて会った日のことを思い出した。
あの日も、最初に思ったのは、白い、だった。
沖縄の夏を知らないみたいな、妙に白い肌。
教室の窓から差し込む光の中で、それだけが妙に目についた。
今は、それだけじゃない。
白いというより、薄い。
肩も、腕も、思っていたよりずっと細かった。
背は俺より少し高いのに、見ただけで俺より軽いと断定できる。
「今、絶対なんか言っただろ。」
「言ってない。」
「言った。」
「言ってないって。」
聖人が少しだけ眉を寄せる。
「そんな細い?」
「知らんけど。」
「由寿より?」
「……多分。」
「比べてみる?」
「なんでだよ、嫌だわ。」
聖人が笑った。
「じゃあ服ちょうだい。」
「はいはい。」
俺は自室に戻ってクローゼットを開け、Tシャツと短パンを取り出した。
「これでいい?」
「うん。ありがと。」
聖人が受け取る。
「ちょっと大きそうだけど。」
「俺のだからな。」
「まあ、着れるでしょ。」
聖人は笑いながら、また洗面所の方へ戻っていった。
その背中を見送る。
俺はなんとなく、自分の腕を見た。
そこまで筋肉質なわけではなく、どちらかというと脂肪中心のある程度太い二の腕。
それから、さっき見た聖人の姿を思い出す。
……やっぱり、細かった。
まあ、どうでもいいけど。
そう思って、濡れたノートを机の上に広げた。
「ねぇ、由寿。」
——夕飯を食べ終わって、聖人と二人並んでベッドに座る。
「ん?」
「そういえばさぁ……」
聖人は俺の横でクッションを抱え、ごろんと寝っ転がった。
「結局、海行ってないね。」
「……海。」
卒業の前、静留と聖人と三人で約束したこと。
『休みの日にここ集合しようぜ。』
『いいね!』
『じゃあ、三人とも約束。』
確かに高校生になってから予想以上に忙しい生活が続き、三人であの防波堤に集まったことはなかった。
「なんか寂しいね。」
聖人が天井を見ながら言った。
俺は少しだけ黙った。
「……そうだな。」
約束したときは、もっと簡単なことだと思っていた。
休みの日に集まって、海に行く。
防波堤に座って、くだらない話をする。
それだけ。
なのに、高校生になってからは、三人で予定を合わせることさえ難しくなった。
静留は静留で忙しい。
俺も学校やら何やらで時間がなくなった。
そして聖人も。
「でもさ。」
聖人が突然、身体を起こした。
「まだ約束はなくなってないよね。」
「……何それ。」
「だって、行ってないだけじゃん。」
「まあ……そうだけど。」
「だったら、今度行こうよ。」
聖人が笑う。
「三人で。」
その言葉に、少しだけ胸の奥が軽くなった。
「でも、最近ずっと雨降ってる。」
「確かにね。」
俺は少し笑った。
……沖縄の梅雨の天気は読めない。
いつ雨が降るかもわからない中突然降り出し、嵐のように去っていく。
「……お前みたい。」
「俺?」
聖人が目を丸くした。
「うん。急に来て、急にいなくなる。」
「ひどくない?」
「似てるじゃん。」
「俺、そんな気まぐれじゃないけど。」
聖人は少し考えてから、ふっと笑った。
「むしろ俺、晴れ男だよ。」
「……は?」
「知らない?」
「何を。」
「俺が外に出ると、雨止むんだよ。」
「それ、たまたまだろ。」
「違うって。」
聖人が自信満々に言う。
「小さい頃からそう。」
「じゃあ今度試してみようよ。」
「いいよ。」
聖人はクッションを抱え直した。
「俺と静留と由寿で海行ったら、絶対晴れるから。」
「絶対?」
「絶対。」
「……晴れなかったら?」
「そのときは、由寿が悪い。」
「なんで俺なんだよ。」
「雨男だから。」
「勝手に決めるな。」
……外はまだ、雨が降っていた。俺のせいかもしれないな、と思った。
「だから次は晴れるよ。」
「何で?」
「俺がいるから。」
聖人が笑った。
あまりにも迷いなく言うから、俺もつられて笑った。
「じゃあ、期待しとく。」
「任せて。」
外では、やはり雨が降り続いていた。
「……明日、晴れると良いな。」
「だから。絶対晴れるって。」
