雨の向こうに君がいる

 六月。

 沖縄は、梅雨の真ん中にいた。
 この頃になると、天気予報を見る意味があまりなくなる。

 朝、晴れていたからといって、夕方まで晴れているとは限らない。
 青かった空が、ほんの数時間で灰色になることも珍しくなかった。
 その日も、そうだった。

 朝はちゃんと晴れていた。
 窓から差し込む光も明るくて、梅雨なんてどこかへ行ってしまったのかと思うくらいだった。
 だから俺は、傘を持ってこなかった。
 聖人も同じだった。
 放課後。

 校門を出てしばらく歩いたところで、空が暗くなった。
 さっきまで見えていた青が、雲の向こうへ隠れていく。
 「……降りそうだなぁ……」
 聖人が空を見上げた。
 「まだ大丈夫じゃない?」
 「そう?」
 「うん。」
 そう答えた直後だった。
 頬に、冷たいものが落ちた。
 ひとつ。
 ふたつ。
 最初は、それだけだった。
 雨粒は小さく、間隔も空いている。
 道路に落ちた水滴が、黒い点をいくつか作っていた。
 「降ってきた。」
 「ほんとだ、やば。」
 聖人が手を出す。
 掌に落ちた雨を見て、少しだけ笑った。
 「走る?」
 「どこまで?」
 「……知らない。」
 「じゃあ走らない。」
 「だよな。」
 二人で笑った。
 その間にも、雨は少しずつ増えていった。

 ……風が吹いた。
 湿った空気が一気に押し寄せてきて、制服のシャツが肌に張り付く。
 沖縄の梅雨の風は、生ぬるい。
 雨が冷たいというより、空気そのものが水を含んでいるみたいだった。
 俺たちは近くの建物の軒下へ駆け込んだ。
 「危なかったね。」
 「全然危なくないだろ。」
 「もうちょっとで濡れてた。」
 「今もう濡れてるけど?」
 「ほんとだ」

 俺は自分の袖を見る。
 薄い水の跡が広がっていた。
 聖人も自分の制服を見下ろした。
 肩のあたりが少し濡れている。
 「これ、止むかな……」
 「どうだろ。」
 外を見る。
 雨は、さっきより強くなっていた。
 道路の向こう側が、少し霞んでいる。
 遠くの建物も輪郭がぼやけて見えた。

 雨音が大きくなる。
 屋根を叩く音が、一定のリズムで響いていた。
 それはすぐに、リズムなんて呼べないほどの音になった。
 ざあざあと、空から大量の水が落ちてくる。
 道路の端に水が溜まり始める。
 排水溝へ流れていくはずの雨水が追いつかず、車が通るたびに大きな水しぶきが上がった。
 「……やばくない?」
 聖人が言った。
 「やばい。」
 俺も頷いた。
 さっきまで笑っていたのが嘘みたいだった。

 空はすっかり暗くなっていた。
 昼間なのに、夕方みたいだった。
 遠くで雷が鳴る。
 低く、長い音だった。
 少し遅れて、風が強くなる。
 木の枝が大きく揺れた。
 雨が横から吹き込んでくる。
 「これ、帰れる?」
 「俺は帰りたくない。今ここで行ったら絶対濡れるもん。」
 「俺だって帰りたくない。濡れたくない。」
 「由寿は近いじゃん。猫かよ。」
 「近いけど……」

 俺の家なら、ここから歩いて帰れない距離ではない。
 少しくらい濡れたって、どうにかなる。
 問題は聖人だった。
 「聖人ん家、隣の市だよな。」
 「うん。」
 聖人が頷く。
 いつもなら、それくらいどうってことはない。
 学校から俺の家まで帰るのと比べれば少し遠いだけで、普段は普通に帰っている。
 でも、今日の雨は違った。
 隣の市まで行くとなれば、それなりに時間がかかる。
 電車やバスがいつも通り動いているかも分からない。
 何より、この雨の中をそこまで帰るのは無理がある。
 スマホを取り出して、天気予報を見る。
 雨雲は、しばらくこの辺りに居座るらしい。
 「止まらなさそう。」
 「まじかぁ……」
 「うん。」
 聖人が外を見る。

 雨はまだ降っている。
 いや、降っているというより、もう叩きつけていた。
 風に煽られた雨が、屋根の下まで入り込んでくる。
 俺たちは少し奥へ移動した。
 「……今日、泊めてくれない?」
 聖人が言った。

 「え?」
 「由寿ん家。」
 「俺ん家?」
 「うん。」
 聖人は外を指差した。
 「この中、俺の家まで帰るの無理だろ。」
 「まあ……」
 「明日の朝までには止むかもしれないし。」
 「でも母さんに聞かないと。」
 「聞いて。」
 「今?」
 「今。寒い。死にそう。」
 妙に真剣な顔で言うから、俺は少し笑った。
 「分かったよ。これ着とけ。」
 俺は持っていたカーディガンを聖人に手渡し、スマホを取り出す。

 母さんに事情を説明すると、思っていたよりあっさりと許可が出た。
 雨が酷いからしょうがない、ということらしい。
 「いいって。」
 「ほんと?」
 「うん。」
 「やった!ラッキー。」
 聖人が息を吐く。

 安心したような顔をして、それから外を見る。
 「……じゃあ、行くか。」
 「この中を?」
 「行くしかないだろ。」
 「やだぁ……無理なんだけど。」
 「猫かよ。」
 「実は俺ラグドールなんだよね。」

 なんだそれ、と俺たちは笑い、結局意を決して軒下から出た。
 一歩外へ出た瞬間、雨が制服を叩いた。
 「うわ、いたっ!!」
 聖人が声を上げる。
 「このぐらい覚悟しとけ。」
 俺の声すらかき消される。
 「思ったよりひどい!」
 笑いながら、俺たちは走った。はぐれないようにお互いの手を握って、 水たまりの中を駆け抜ける。

 雨の向こうに、聖人の手がある。

 それだけは、どれだけ雨に打たれても見失わなかった。