雨の向こうに君がいる

 春になった。
 中学校の制服を脱いで、見慣れない高校の制服を着る。
 鏡の前に立ってみても、自分が高校生になったという実感はなかった。
 ただ、少しだけ袖が長い。その小さな違和感に、浮かれているせいかなぜか笑いが込み上げた。

 入学式の日。
 校門の前には、まだ咲ききっていない桜が並んでいた。
 風が吹くたび、枝の先が揺れる。
 「由寿!」
 聞き慣れた声がして、振り返る。
 聖人が走ってきた。
 「おはよ。」
 「おはよう!」
 「早いじゃん。」
 「…お前が遅いだけだろ。」
 「いや、まだ集合時間前だから。」
 「そうだけど。」
 聖人は笑った。
 中学校の時とは違う制服。
 それだけなのに、なんとなく新鮮だった。
 「……変な感じ。」
 「何が?」
 「聖人がこの制服着てるの。」
 「由寿も着てるじゃん。」
 「俺はいいんだよ。」
 「なんで?」
 「知らない。」
 やはり聖人も浮かれているらしく、今日はやけによく笑った。
 「じゃあ、これから毎日見れば慣れるね。」
 「……そうだな。」

 何気なく言われたその言葉に、俺は頷いた。毎日。その言葉が、無性に嬉しかった。
 教室に入る。

 まだ誰も知らない顔ばかりで、少しだけ落ち着かない。
 俺は窓際の席に座り、鞄を机の横に掛けた。
 その少し後に、聖人が前隣の席へやってきた。
 「ここ?」
 「うん。」
 「よかった。」
 聖人が椅子を引く。
 「近いね。」
 「何が?」
 「席。」
 「……そうだな。」

 ……中学の頃より、ずっと近かった。
 教室の中でも、帰り道でも。
 何をするにも聖人がいる。
 それが妙に自然だった。

 入学式が終わって、教室へ戻る。
 担任が自己紹介をして、クラスの何人かが緊張した顔で名前を言う。
 聖人の番になる。
 「宮坂聖人です。よろしくお願いします。」
 それだけ。
 中学の転校初日に聞いた声と、ほとんど変わらない。
 でも、あの日とは違う。
 もう、知らない人じゃない。
 俺の隣で笑っている、いつもの聖人だった。
 「木原くん。」
 前の席の女子が振り返る。
 「宮坂くんと知り合い?」
 「うん。中学から。」
 「へえ、いいな。知り合いいるんだ。……てか、宮坂くんかっこよくない?」
 「……まあ。」
 最後だけやけに声が高くて、俺はなぜかそっぽを向いた。確かに聖人はこの辺りで暮らしていると見ないタイプだし、事実顔立ちも整っている。
 聖人が横から口を挟む。

 「由寿、俺がいないと何もできないから。……あと、イケメンなのは否定しない。」
 「お前な。」
 「嘘だよ〜。」
 「絶対嘘じゃない顔してた。」
 「由寿、怖い。」
 「誰のせいだよ……」
 近くの席から笑い声が起こる。
 高校に入ったばかりなのに。
 もう、少しだけいつもの感じが戻ってきていた。

 昼休み。
 俺たちは校舎裏のベンチで弁当を食べていた。
 静留はいない。別の高校に進んだからだ。それは俺と聖人、二人とも知っていた。
 そのことが、少しだけ変だった。
 いつもなら、くだらないことを言いながら弁当を食べているはずなのに。
 「静留、今何してるかな。」
 俺が言うと、聖人が笑った。
 「まだ入学式じゃない?」
 「そっか。」
 「あとで連絡する?」
 「うん。」
 俺はスマホを取り出した。
 すると、ちょうど通知が来た。
 静留からだった。
 『高校どう? 俺はもう友達できた』
 「早っ!」
 聖人が画面を覗き込んで小さく笑う。
 「静留らしいね……」
 「こっちはまだ誰とも話してないのに。」
 「俺がいるじゃん。」
 「……それは友達に入るの?」
 聖人が一瞬黙った。
 「え、入らないの?」
 「冗談。」
 「びっくりしたぁ。」
 聖人が胸を撫で下ろす。
 俺は笑った。
 静留がいなくなっても。俺たちは俺たちだった。

 その日の帰り。
 駅までの道を、二人で歩いた。
 桜が風に揺れている。
 「どうですか、俺と二人の高校生活は。」
 聖人が聞いた。
 「普通。」
 「俺も。」
 「まだ一日目だしな。」
 「でも、楽しい。」
 「……うん。」
 俺もそう思っていた。
 特別なことは何もない。

 新しい教室。
 新しい制服。
 知らないクラスメイト。
 それだけ。
 なのに、楽しかった。
 「そういや。」
 聖人が言った。
 「俺、昨日誕生日だったんだけど。」
 「……あ。」
 俺は思い出した。
 「十六歳?」
 「うん。」
 「おめでと。」
 「ありがと〜。」
 
 俺は少しだけ考えてから言った。
 「じゃあ俺より一個上か?」
 「そうだね。」
 「なんか偉そうにすんなよ。」
 「してないよ。」
 「十六歳だからって……」
 「由寿もすぐなるじゃん。」
 聖人はヘラっと笑った。
 「俺、三月の早生まれだからまだ先。」
 「じゃあ、その時ちゃんと祝う。」
 「いいよ、別に。」
 「なんで?」
 「恥ずかしい。」
 「じゃあ、こっそり祝う。」
 「もっと恥ずかしいだろ……」
 二人で笑う。

 駅へ向かう道の途中、ぽつりと雨が落ちてきた。
 「雨?」
 聖人が空を見る。
 薄い雲が広がっていた。

 もう一粒。
 また一粒。
 春の雨は、夏の雨みたいに激しくない。
 静かに、街を濡らしていく。
 「傘ある?」
 「ない。」
 「俺も。」
 顔を見合わせる。
 「……走る?」
 「高校初日から風邪ひきたくない。」
 「じゃあ、雨宿り。」
 駅前の屋根の下へ駆け込む。
 聖人が笑った。

 「喜雨、だね。」
 ……喜雨。
 雨を見る。
 桜の花びらが、濡れた道路に張りついている。
 高校生になった。
 それだけなのに。
 昨日までとは少し違う世界にいる気がした。

 「由寿。」
 「ん?」
 「高校、三年間あるね。」
 「……うん。」
 「長いね。」
 「長いな。」
 聖人は雨の向こうを見ながら笑った。
 「いっぱい遊べそう。」
 「勉強しろよ。」
 「由寿も。」
 雨は強くならないまま、ずっと一定のリズムで雨音を刻んでいた。
 「俺はする。」
 「嘘だぁ。」
 「なんでだよ。」
 また笑う。
 雨はしばらく止まなかった。

 春に降る雨は、昔から好きだった。
 乾いた街を静かに濡らして、花を少しだけ長く咲かせる。
 恵みの雨。
 喜雨。

 その頃の俺は知らなかった。
 高校三年間が、俺にとってどんな時間になるのか。

 ……十六歳の聖人と、十五歳の俺。
 そして、少し離れた高校にいる静留。
 俺たちにはまだ、いくらでも明日があると思っていた。

 明日も学校へ行って。
 放課後に海を見て。
 くだらない話をして。
 夏が来て。
 秋が来て。
 冬を越えて。
 また春が来る。

 雨が止んでも、俺と聖人は空を眺めていた。