半透明のエトセトラ

 「針生、おはよう」

 「……よ」

 通勤通学ラッシュ帯。
 案の定の満員電車で、気分は憂鬱の極みであったが、偶然同じ時間に乗り合わせていた綿貫が、こちらに声を掛けてきた。

 ただでさえ朝に弱く、強い光や音の刺激に耐性の無い俺は、瀕死の生き物のように、荒みきった哀れな表情で応答する他なく。
 挨拶一つ交わそうにも、体力も気力も削がれてしまう。必要最低限の力でやっていかなければ、学校でダウンする未来もやむ無し。

 綿貫は俺を囲うように立ち、目下で最悪な顔色をしている様を見て、くすりと笑った。
 ガタン、と一際大きく車体が波打てば、直ぐに真剣な面持ちになって、こちらの身体を支えるような手が伸びる。

 「大丈夫?」

 「ん」

 駅に停車する度に、大人数が出たり入ったりを繰り返し、俺達もまた、それに比例して隅に押し潰されては離れる。
 綿貫と密着すると、決まってふわりと石鹸の香りがする。柔軟剤よりももっと、清潔感のある澄んだ芳しさだ。
 不思議な事に、その匂いはけたたましく拍動する心臓を落ち着けてしまう効力があった。

 己の鼻が鈍くなったのか、はたまた香り自体がさして強くないのかは定かでないけれど、自分の中で受け入れられる世界が一つ拓けたのだと、安心してしまう。

 電車の音と、人々の息遣いが犇(ひし)めき合う中、綿貫は俺に自分の声が聞こえるようにと、わざわざヘッドフォンに口を寄せて、会話をした。

 「針生、いつも早めの電車に乗ってるんだね」

 「そうでもしねぇと、本格的に学校行かなくなるからな。一応学生だし」

 「意識はあるんだ。てっきり、自由主義を貫いていると思ってた」

 「間違っちゃいねえよ。俺、縛られるの嫌いだから」

 綿貫は曖昧な相槌を打ってから、「針生らしい」と口にする。俺らしいと感じられる要素が、何に散りばめられていたのかは、さっぱり分からない。
 正直客観的な視点を持つ綿貫のみぞ知ると言った所だ。

 時折こうして無自覚に触れられては、俺を煽てるようなお世辞と分かる言葉を、つらつらと建て並べられる。
 まるで教育者だった。人の上に立つものとして、教授しなければならない言葉を一言一句定められているかのような、模範的な評価の仕方。
 苦手だ。型にぴったりと嵌まっている、隙のない完璧な人間が。

 土台がそもそも完成系である綿貫が、俺に見せる、"ありのままの姿"というものの、本質は幾ら焦点を合わせようとしても、掴めそうになかった。

 言うなれば、それは虚像のまた虚像だ。
 視線の先で変わり映えなく、からから流れていく窓の外の景色を見つめる綿貫の顔が、やけに透けて見える。
 アイツの表情はまるで、光の反射や当たる角度によって、不可視となってしまう、硝子の仮面だと思った。

 だから、誰にもこの違和感には気付けない。

 そう茫然と綿貫を見上げていると、カーブに沿って車体が揺れ、乗り合わせる人々と一斉に傾いた。
 背中は扉に押し付けられ、吊革を掴めていなかった綿貫もまた、半ば倒れ込むようにドア窓に両腕を着く。

 ドン、と耳の横で衝突音がして、喉から小さく声が漏れ出た。

 「っと、あぶなぁ……。ごめん、凭(もた)れかかった。音、大きかったよな。平気?」

 「ッ、へい、き。少し驚いただけだ」

 「ちゃんと吊革掴んでれば良かった。踏ん張れると思って油断してた」

 ホームに到着した電車の反対側の扉が開き、満員具合が多少緩和されても、綿貫は体勢を変えず俺に密着したまま話を続ける。
 声音は穏やかだが、抑揚がなく、萎縮しているような心象も受けられた。

 自分が露骨に吃驚してしまったから、要らぬ罪悪感を抱かせてしまったのだろうか。

 律儀すぎるのも、たまにキズだな。

 俺は大丈夫だと慰めるように、綿貫の肩に顔を乗せて、背中を二、三度摩った。
 ふわり、とあの石鹸の香りが鼻腔を掠めれば、息苦しさを覚えていた肺が、まともに酸素を吸えているような、清々しい心地がする。
 根源が分からない、様々な匂いが押し込められた密室空間で、綿貫の爽やかな香気を放つワイシャツだけに集中した。

 「針生……?」

 「お前の石鹸みたいな匂い、安心する。鼻がちゃんと受け付けるし、変に強くないから好きかもしんねぇ」

 「え、本当?そろそろ切らすから新しいのに変えようと思ってたんだけど……針生がそう言うならまた同じのにしようかな」

 「なんで俺基準。心機一転したいなら好きなのにしろよ」

 「俺も気に入ってたからいいの」

 綿貫の返答にこそばゆさを覚えたも束の間、学校の最寄り駅に到着し、人の波に従って、やけに近い距離感のまま降車する。

 改札を抜けて、同じ制服を着た生徒達が続々と通学路に入っていく中でも、綿貫は俺の隣をピッタリと歩いて離れない。ただひたすら、上機嫌だということは確かだった。

 正規の通学路から外れた、比較的車や人通りの少ない道を選んでいくのが、探検チックで面白かったのかもしれない。
 しかし、立ち寄る店も無く、興味のそそられる穴場もない。自分と共に迂回してまで、向かう価値がある程には正直思えなかった。

 「……楽しそうだな」

 「楽しい。こんな道から行けるの知らなかった」

 「そりゃ知らねぇだろうな。何もねぇからこっちは。逆に楽しめる要素どこだよ、俺は飽きた」

 「歩道橋の落書きとか?猫の親子とか」

 「猫は百歩譲って分かるがお前、落書きって……」

 「結構スプレーアートって奥深そうで、つい見ちゃうんだよね。治安は悪そうだけど」

 コイツ、俺がその治安悪い側の人間だってこと知ってて言ってんのかな。

 綿貫は宝探しをするように、無邪気な目であちらこちらを見渡していた。俺は見慣れた景色が故に、前だけしか見ていなかったけれど、やけに騒々しい綿貫の姿を知れるのは悪い気分ではなかった。

 学校では生徒会長で居なければならない分、誰の目も気にする必要がない今くらいは、年相応に遊びたいのかもしれない。

 考える事が無さすぎるあまりに、取り留めもない綿貫の事情をぐるぐる推察していると、本人から不意に質問が降ってくる。

 「針生は喧嘩したことある?」

 「何だ急に。あるけど」

 「へぇ、強い?」

 「知らね、中の下くらいじゃねーの。ジムとか格闘技とかも別にしてねぇし、中には体格のデカさで吹っかけてくるやつもいっから、それが来たら逃げてる」

 「俺だったら倒せそう?」

 綿貫は自分を指さして、目を弓なりにして微笑む。倒せそうか、と言われても。
 倒そうという意思もないのに、どう想像すればいいのだろう。

 「経験だけで言ったら、多分」

 「俺納得いってないことがあってね。針生はあの時俺を殴らなかった理由を、大して嫌じゃなかったからって言ってた。……でも、男にキスされてるんだよ」

 途端に前進し続ける足がぎこちなく軋んで、はた、と歩みを止めかける。あの時と強調された声が、記憶の片隅にこびりついていた教室の一角を映し出す。自分の口に押し当てられた、綿貫の柔い唇の感触や、一つに重なって、じっと滞ったままの光を透かした影だとかが、コマ送りのようにフラッシュバックする。

 キスをされた。
 その事実だけは、確かに刻まれていて、そこに情動的な燃えながら波打つ何かは伴っていなかった。動揺しなかったわけではないけれど、特別心を蝕むほどの嫌悪感にも支配されず、自分の体は殊の外、綿貫の思いに順応してしまったのだ。

 殴って正気に戻してやろうという本能的な危機感さえ抱くことなく、あっさりと呼吸を操られる。それを、後々「ファーストキスだったな」と思い直すくらいしか、あの日の感情は残存していない。

 ただ頭にあったのは、約束事。
 半透明のフィルター越しに垣間見る、"ありのまま"。

 「別に変わんねえよ。お前が納得しなくても、それが、あの時のお前がしたい事だと思ったから、俺は殴らなかった」

 端的に用意された言葉を音読するように、口から流れた気持ちを、綿貫がとぼけた顔で受け止める。

 「あの日泣きじゃくったお前が俺に見せた姿が、嘘偽りのない真っさらなものなら、それを否定しないのが約束だ。真っさらじゃなくても、お前の意思で選択した行動なら、俺が兎や角言うまでもねぇ

 「 無傷なのが、俺がお前に突きつけられる一番の証拠だよ」

 俺は隣を歩く綿貫の頬に手を伸ばして、軽く二、三回叩いて、その間抜けさに笑った。

 「疑わないの」

 「あ?」

 「俺の事。あれが、君を揶揄(からか)う為の、愚行だったとしても」

 宙で止まった俺の右手が、いつの間にか綿貫の手の内に握りこまれている事に気付く。オセロの盤面上で、白と黒が一度に裏返されて、全てが反転するような雰囲気の変わりようは、あの日の放課後と似ている。
 しかし、神妙な面持ちで尋ねられようと、俺の意見は変わらなかった。

 「別にいい。俺は『そんなことをする奴だったなんて』って言えるほど、お前に過剰に期待もしてねえし、知らねぇから」

 「!……針生って、変だよ。変わってる」

 「今度は悪口か?情緒の忙しいヤツ」

 「悪口じゃない。凄く、良いなって思ったんだ」

 一つ間を置いてから、離さないままでいる俺の手首を横目で眺め、口元だけを綻ばせる。
 ポジティブな言葉面な割に、歯切れの悪い声色だったが、俺は気にとめず手を握られた状態で、歩き続けた。

 綿貫はその後の道中、他愛ない会話をし、正門に辿り着く手前でパッと繋いだ手を離す。

 「じゃあ、また昼休みに会おうね!」

 「おう。あんまし俺と距離近ぇとあらぬ誤解生むから、気をつけろよ」

 火のない所に煙は立たないのだから、互いに予防線は張っておいて損はないだろうと、そう呼びかければ、綿貫は眉を少しばかり下げて小さく頷いた。

 内心、「それくらい好きにさせろ」という文句が滲み出ている表情だった事には、目を瞑ってやることにしよう。


 綿貫の学校生活で、俺と関係している事で得るアイツ側の利益なんて、一銭もないのだし。



 ***


 定刻通りの昼休み。
 授業終了を報せる馴染みのチャイムと、椅子を引く疎らな音の雨が、下の階から聞こえるのをやり過ごしながら、屋上に居座っていた。

 購買に寄ってくるなら時間は掛かるだろうし、持参していていれば、ものの数分で姿を現すだろうと勝手に行動を推測しつつ、曇天を見上げる。
 すると、ガチャと重たい扉を押し開ける音が響き、俺はヘッドフォンを外して綿貫を迎えた。

 はずだった。

 屋上に足を踏み入れたのは、綿貫ではなく。

 風紀委員の煌であったのだ。
 心臓周りの血管がいやに痙攣して、脳の司令塔は黄色信号を出した。 キスをされた瞬間よりも、遥かに肝を潰す状況に、逃げ場はないかと視線を横に動かす。
 残念ながら、この拓けた殺風景な屋上には、逃げ場は愚かその動線さえもない。

 そもそも、なんでアイツが屋上に?

 逃げも隠れもできない俺に、やがて煌の照準が合わせられた。辺りに誰もいない事を確認するように、見回しながら、つかつかこちらへ歩み寄る。

 「矢張り居たか」

 「こんな所まで何の用だよ」

 「何の用も何も。治安維持の為の巡回だよ。キミがここを根城にしているのは前々から分かっていたから、早々に注意しに来ただけだとも」

 「テメェの言う事を微塵も聞いちゃいねぇ不良に構いに来るほど、風紀委員は暇ってわけな」

 俺が明らかに不遜な態度を取ると、煌は腹に据えかねた様子で、顔を顰めた。その不快感に輪をかけてやるような、粗野な振る舞いを続ければ、嫌気がさして退散すると思ったのだ。
 その機会を狙って、淡々と言葉を交わしていたけれど。

 「他人の気持ちも考えず、身勝手な事ばかりしているキミに、下手な解釈をされてはたまらない」

 「はっ、自己紹介?それ」

 「──ッ!!」

 案の定煌の怒りを買った俺は、勢い任せに胸倉を掴みあげられる。

 「怖い顔。風紀委員会会長さん」

 屈辱を滲ませながら、ぎろりと見下す煌の剣幕と相対して布地を握り込む手がわなわなと震えていた。しかし「キミと一緒にするな」と訴えるその声が、単純な憎悪に支配されたものではないような気がして、俺は怪訝に思った。

 すると煌は歪に口角を持ち上げて、小さく鼻で笑う。

 「……キミは綿貫紡とどんな関係なのかな」

 唐突な詮索に、脳の処理が追いつかず、疑問符を返す。以前廊下で鉢合わせた時も煌は、『生徒会長に気をつけろ』と謎の発言をしていたし、今回は更に脈絡がなく、困惑せざるを得ない。

 「急に気持ち悪ぃこと聞いてんなよ」

 「答えろ。ここ一ヶ月近く、キミと綿貫会長は昼休みに屋上で話し込んでいるだろう」

 「だから。偶々出会して、多少仲良くなっただけで、何が問題だ」

 「健全な友人関係と?」

 「そうだっての。何時まで胸ぐら掴んでんだよ離せ」

 俺がそう促すと、煌がやけにあっさり手を離すものだから、余計に何が目的か分からなくなる。乱れた襟を直し直し、様子を窺ってみても、アイツから何時もの威勢が表れることはなかった。

 寧ろ、その逆。
 煌は制服のブレザーが縒れるくらいに、鳩尾付近に置いていた手で布地を握り締めて、突っ立っている。どうにも余裕がない。

 「大丈夫かよ」

 「……キミと話をしている時の綿貫会長はどんな様子だ」

 「なんでそんなこと」

 「教えてくれ」

 心変わりにしては、気味が悪いとさえ感じた。
 食い気味な短い応答は、内柔外剛な態度と声で示される。そこに敵意や悪意は微塵にも混じっておらず、純粋に願いを乞うているのが分かる。

 けれど本人不在の状態で、二人だけの約束事を、おいそれと口外するつもりもない。
 煌に知られたら、それこそ厄介な自体に発展しかねないだろうし。

 「忙しい。色んな意味で」

 俺は、必要最低限の答えを告げる。

 「っ中途半端に答えないでもらえるかな、もっと具体的に」

 「そんな指定なかった。そもそも、俺と綿貫の関係になんで部外者のお前が首突っ込んでくるんだ。もう十分だろうが……」

 「彼を知って、キミはどうする」

 これ以上言うことはないとヘッドフォンをしかけた俺の、枯葉の如き意識を、煌の言葉が疾風として巻き上げる。
 鍾乳石から伝った水が、ぽたぽたと地底湖に落ちていくような、静寂に満ちた声だった。

 どうする?どうもしない。そんな思考に至ったことすらなかった。

 俺は綿貫を知る為に、あの関係性を受け入れているわけではないし、素のアイツを知ったからと言って、吹聴してやろうだなんて薄汚い思いは微塵もないのだ。
 これはただ、借りを返しているだけ。

 この耳を、大事にしなければいけないものと言った綿貫へ感じていた恩を、感謝の一言だけで済ませるのは、落ち着かなかったから。

 きちんと三ヶ月が経過して、秘密の請負人としての関係が切れれば、俺達はただの生徒会長と不良に収まる。これは割り切った関係だった。

 「どうもしねぇ。知りたいとも別に思っちゃいねえから」

 「ならどうして関わり続ける」

 煌は淡々と詰問する。メトロノームのような調子で、じりじりと感覚を麻痺させにこられていた。
 何故そこまで執着されているのか皆目見当も付かず、閉口する。

 「キミのどこが彼に許されているのか知らないが、つ──綿貫会長は」

 その時、ギィと錆びた金属扉の開閉音が鳴り響いた。コンクリートの床に刻まれた無数の傷痕を何度も往復して、損傷した扉の底辺が摩擦によって奏でる音は、耳触りが悪い。
 ヘッドフォンが無ければ、間違いなく鳥肌が立っていたところだ。

 思わしげに何か言いかけた煌の口が、ゆっくりと閉じる。その緩慢さとは裏腹に、彼の背後から歩み寄ってくる美しい金髪を見遣れば、視線に気付いた煌が瞬発的に振り向く。

 「つむ、ぐ」

 「千寿?」