心の請負人になると大層な字面を使ってまで豪語したものの、たった数日で関係性がそうガラリと一変するものでもない。
"ありのまま"と言ったって、屋上に来る綿貫が突如としてガラが悪くなるとか、軟派になるだとかいう展開も無論だ。
強いて言うなら、綿貫の"声"から伝わってきた、狂いの無い完璧なまでの人格者という、ある種の無機質さが薄れつつあると言うことだろうか。
屋上にアイツが来れば、適当な話をして茶を濁し、ぎこちなく吐き出される愚痴を、まあまあどうどうと宥めながら、頭を撫でてやるだけ。
特別な事など何一つしていない。
ただの友人関係と言われれば、何ら違和感もなくそうだと頷くだろう。
三ヶ月間。
同じ舟に乗って、櫂を漕ぐ。荒波も起きぬ、湖のほとりをぐるぐる廻りながら、打ち解け合う間柄を続けるのだ。
不安事なども無い。
関係性の浅い自分達が、互いの心に不安を覚えられるほど、大した信頼を抱いていないからである。
例え途中で断ち切られても、元の日常を取り戻していけるくらいの、何色にも染まっていない糸だから、突飛な提案だって出来た。
綿貫が承諾した事実には、正直驚きもあったが。
ありのままで居られる捌け口としての俺を扱っていくことを、合理的だと判断したのは、理性的すぎると言うかなんというか。
しかしその淡々とした姿も、自分の窪んだ隙間を埋める部品の一つだった。
ふと、俺は、対等に接する相手を欲していたのかもしれない。と思う。
そう、だったはずなのだが。
***
『今日、放課後空いてる』
「……珍し」
ある日、昼休みに屋上へ顔を見せなかった綿貫から、一通のメールが届いた。
連絡先を交換したものの、毎日顔を合わせるからと、そこまで活用していなかったメールアプリが、初めて稼働した瞬間に目を見開く。
普段、話を聞いていても、綿貫から直接話を切り出される事も少なかったために、これには相当驚いた。
『空いてる』と送り返してやれば、直ぐに既読が着いて、またポンポンとやり取りが続く。
『ごめん』『行けなくて』という断続的な文面を見て、多忙だったのだろうかと思考が回る。
言葉尻から滲み出る腰の低さに、何を擽られたか笑みが零れた。契約でも、ましてや強制的なものでもあるまい。
けれど綿貫はこうして、申し訳なさを染み込ませた応えを、渋ることも躊躇することもなく言い放つ。
その律儀さが、気に入っていた。
手短に返信を済ませ、来る放課後の為、珍しく丸一日を、暇つぶしに参加した授業と屋上とで過ごしたのであった。
最後のチャイムが鳴り終わり、全校生徒が一同にして廊下にごった返して、ぞろぞろ校舎の外へ出ていくのを上から見下ろす。
部活のある者は部室棟へ移動し、係の仕事があるものは、各々教室に居残っているはずだ。
人目に付くピーク帯さえ避けられれば、綿貫とも接触しやすいだろう。
そうして頃合を見て屋内へ戻り、空き箱になった廊下を歩きながら、綿貫の教室を目指した。
学校で殆ど真面目に過ごしていないくせに、散々外や屋上を歩き回った中履きは、これ以上ないほどに草臥れ、擦り切れている。
ぺたぺた、という貧相でいて物悲しい音だけが辺りに響いていた。
三年B組の前に到着するなり、開いていた扉から教室を覗けば、中央の席で机に顔を突っ伏している金髪が見える。
周囲に誰も人がいないことを確認して、俺は足を踏み入れ、机の前まで歩いた。
寝ているのだろうか、はたまた力尽きているのだろうか。丸まった背中は上下に規則正しく動いていて、ヘッドフォンを外してみれば、呼吸音も正常に聞こえている。
「……おい、来たから起きろ」
声掛けてみれば、ぴくりとその体が反応するものだから、釣られて肩が跳ねた。
しかし綿貫は一向に顔を上げようとはしない。
それどころか、腕の中に伏せたまま「針生?」と籠った声で名前を呼ばれる。
「他に誰が来る予定なんだ」
「…………誰も。君だけ」
「だろ。で、なんでその体勢のままなんだ。腹痛てぇのか」
そのまま問うてみると、綿貫は黙り込んで、もぞもぞ体を動かし、先程よりも小さく小さく、布団の中に潜り込むように縮こまった。
一体何事だろうか。
不審に思い、次の言葉を待っていると答えるように「すん」と小さく鼻が鳴った。続けざまに二回。
花粉症か?この梅雨に?
いや、それにしては些か様子がおかしい。屋上で弱音や愚痴を吐く姿を毎日のように見ているが、こんな調子は初めてだ。
「……おい、」
綿貫の腕に押し潰されて、崩れた前髪を掻き上げてみても、旋毛をつついたり、ぐしゃぐしゃに頭を撫で回してみても、殻に閉じこもるばかり。
俺は床に膝を着いて、同じ目線になり、机にべったりと頬杖をつきながら、暫く綿貫を突っつき回していた。
グラウンドから聞こえる野球部の声、陸上部のハードルを突っかける音、下の階から鳴る吹奏楽部の旋律。一緒くたに混ざり合う凡ゆる音が、注意を散漫にさせていく中、目の前で綿貫が唸った。
突発的に動き出されたものだから、鼓膜が打ち震える。
ようやっと放たれた答えが「う"ぅ〜」だとは、誰が予測できるだろうか。
「っなんだ、保健室行くか?」
「ちがう」
そこではた、と気付く。
先程よりも、綿貫が鼻声になっている事に。
まさか。
「……──なぁ、お前。泣いてんの?」
そう尋ねれば、また肩が揺れる。
「図星か」
すると自身の腕にすりすり額を押し当てた後、顔を袖で覆いながら、綿貫が起き上がる。どれ程葛藤していたのだろうか、ちらと壁掛け時計の針を見遣っていると、また「すん」と鼻を鳴らされた。今度は少し水っぽい音だった。
時折しゃくり上げるように胸が運び、その度に涙を拭う仕草を見せて、静かに泣いている。
マジ、か。
泣いている。完璧と名高い生徒会長が、俺の目の前で。
こんな所を誰かに目撃でもされたら、間違いなく百割方、ヘイトは自分に向けられるだろう。
保身を気に掛けるわけではないが、仮にそうなったとしたら、俺は本格的に学校で息が出来なくなる。
しかし正直、面食らってしまった。
思わずずっと立ち上がる。
これも素なのだろうか。それもそうか、俺を呼び出すということは、自然体なのだろうから。と、自問自答が流星群のように飛び交うくらいには、やや混乱していた。
「な、んだ、なんで泣いてる……?」
「……う"ぅ〜……」
「いや悪い、う"ぅ〜じゃ分かんねぇ……。昼休み来なかったよな、そこで何かあったのか」
泣いている人間に対して、適切な接し方が分からない俺は、下手くそな言い回しで、探り探り言葉を引き出していく事しか出来ない。
まず泣き止んでもらうことが最優先だとは思うが、なかなかどうして上手い方法が見付からなかった。
綿貫は縦とも横とも取れない首の動きをした後、口をはくはくと動かす。
読唇術など心得ていない俺には、一切合切何を伝えたいのか検討が付かなかったけれど。
「嫌なことされたか」
「ふ、っう……うぅ、……ッ」
漠然と、何かが決壊して、土石を含んだ濁流が綿貫に押し寄せているような想像が、頭の中に浮かんでいた。
綿貫の「ちがう」「ちがくて」と言った短い声は、焦燥の中で、募っていく不満が滲んでいる。
微かな震えには、痛みを分かって欲しいという子供のような甘えがある。
自然と、そのイメージに従うように俺は動いていた。
「そんな拭ったら、痛いだろ。ほら、俺が拭いてやるから、顔見してみ」
顔を覆っている綿貫の両腕をとんとん、と叩いてやれば、強ばっていた上肢が恐る恐る下がっていく。
丁寧に整えられた前髪は無造作に崩れ、あちらこちらに跳ねている。擦り続けた目元は赤みを帯び、熱ぼったく腫れ、未だに零れ続ける涙の道筋がくっきりと残っていた。
俺はそれを親指の腹で極力皮膚を刺激しないように、気を遣いながら拭ってやる。割れ物を触るかの如く、ひりひりした気持ちで。
控えめに響く綿貫の短い呼吸、不安げにこちらを見上げる瞳、手首に添えられた涙で湿り気を帯びた、ほんの少し冷たい指先。
「お前がどうしたいかでいいよ。そういう約束だ」
ありのまま。
何も飾らず、何にも覆われず、何ものをも被らず。
綿貫紡という人間が、表現する全ての心と体、一挙手一投足を受け入れると俺は言った。
「おれが、どう、したいか……」
それは義務感。それは、胸の内に漂う気毒さ。
見過ごすことの出来ない、繊細な構造をした、半透明の曇り硝子の仮面を、使いこなしては、壊れてしまう恐れを抱いている人間。
理解出来るからこそ、捨て置けなかった。
綿貫の震える唇から漏れ出た"声"は、俺に「受け入れられたい」と言っているような気がした。
「別の場所に移動して話したいなら、そうする。どこでもいい。お前の好きな所でいい
「一つ、俺にどうして欲しいか言ってみろ。そした──」
その時。
あ、近──。
不意に綿貫が椅子から腰を上げて、端正な顔が目と鼻の先まで寄せられる瞬間を、視線で追っている間に、次に話そうとした言葉を遮られる。
自分の唇に触れた、柔い肉肌と体温。指の腹とも似た感触だったけれど、この熱は何と例えればいいのだろ。俺は知らない。
何時の間にか掴まれた、さっきまで綿貫の涙を拭っていたはずの右手がぴくりと痙攣する。
硬直する俺をちら、と薄桃色の眼が捉えて、静かに離れた綿貫は、到底今さっきまでぐずっていた奴だとは思えない面構えをしていた。
「っ嫌だったら、止めて」
「はっ……?待、んぐ、」
心臓がぴたり、と止まってしまったかと思った。
抵抗しようと思う程の思考は巡っておらず、アイツの勢いにそのまま押されて、圧されて。ずるずる後ろの席をずらすような、聞き心地の悪い音に顔を顰めた。
倒れこまないように、後ろ手を付きながら、空いた手で綿貫の肩を叩こうとしたが、生憎右手が掴まれていてそれも敵わない。
綿貫の手が、そっと俺の耳を塞ぐように添えられ、自分でも分かりやすいくらいに身体が跳ねて、驚嘆の声が隙間から漏れ出る。
気になっていた廊下の音も、グラウンドから響く声も、その全てがこもり、霞んで聞こえる。
早くなる脈拍と、空間に自分たちの存在だけを示すものが鼓膜の奥に伝わってきていた。
随分長い間、影をぴったりくっつけて、偶に新しい酸素を吸った。
いつでも目の前の胸板を叩いて、正気に戻してやる力もあったし、手段だって綿貫よりもあった。一時期、喧嘩ばかりをしていた俺が、そんな事とは無縁であろう生徒会長に、圧制されている現状の方が余っ程異質だ。
しかしこれが、受け入れると言った俺の責任だったから、抵抗をする考えは捨てた。
存外、抑えきれない衝動に負けている綿貫を見ているのも、悪くなかったから。
綿貫の泣きっ面が、ようやく全部視界に収まった時、おかしいくらい俺達は息が上がっていた。
そうかと思うと、アイツはくしゃっと顔を歪めて、またもや、しくしくと泣き出し、俺の肩に顔を埋める。
「ごめん……」
「おま、情緒不安定だな……なんだ話したくねぇの?どっち?」
「……嫌われたくない、話していいのか、よく分からない」
「この関係に嫌うとか嫌わないとかねぇって。まあ迷うなら、言っておいた方が気持ち的には楽なんじゃねえの」
「本当に?」綿貫は俺に飽きる程、再三確認をとった。何回か頭で考えるのも面倒くさくなるくらいに、俺が首を縦に振った末、やっと切り出される。言われた言葉を、文字に起こせるくらい、ぽつぽつと。
「……告白してきた女子にキスされた、ね」
こくりと首肯する綿貫は、俺に抱きついたまま、そうして事情を話した。
昼休みに屋上に顔を出せなかったのは、どうやら他クラスの女子生徒から、校舎裏に呼び出されたからなのだと言う。
面識も然程なく、これと言って接点も情報も無かった為に、綿貫はその場で断ったようだが、問題はここからで。
当該の女子は、なかなか引き下がらず、一進一退の攻防戦となり、耐えきれずその場から立ち去ろうとした時、事は起きたらしい。
懲りずに引き留められ、振り向かせられた矢先に、彼女に半ば押し付けられるようにキスをされたのだという。
それはまた、なんというか。
大分想定外な悩みだった。
「びっくりしたんだ……今まで、告白されることは何回もあったけど、キスなんて、されたこと無かったんだ」
「告白自体、経験的にまずそう多いもんでもねぇけどな。で、女子はその後どうしたんだよ」
「ごめんなさい、でも納得したいから付き合わない理由だけ教えてって」
俺は内心、せめて順番逆だろ。と突っ込んだが、頑張って語っている綿貫の声を遮ってしまうのは、心苦しかったから、ぐっと衝動を飲み込む。
「それで?」
「俺その時、咄嗟に……。付き合ってる子がいるからって、嘘ついたんだ。頭が真っ白だったから」
相槌を打ちながら、展開を薄ら先読みしてみる。
絶大な人気を誇る生徒会長が、付き合っているなんて知れたら、どうなる事かくらい容易に想像できる。
「そうしたら、俺の迂闊な言葉が広まっちゃって……」
「それはそれは色んな奴に絡まれた、と」
「どうしようぅ……っ」
拡散力がSNSのそれだ。昼休みから放課後までの短時間で、ここまで綿貫を傷心させられるとは、少々。否、かなり異常だった。
この有様になるのも無理は無いと思ったが。
が。
「綿貫の悩みは分かった。そりゃいきなしほぼ初対面の奴にキスされたら、驚くのも普通だ。お前の対応は、その時の最善策だった。だから思い詰める必要なんざねぇと思う」
「針生……」
「でも、疑問がある」
「ぎもん?」
「お前なんで俺にキスした。結構意味分かんねーんだけど」
先刻まで綿貫の唇と重なっていた己の口元を、人差し指をとんとんとあてがいながら、指摘する。
学校中で絶大な人気を誇っている生徒会長ともあろう人間が、評判の悪い不良と、恋人らしい行為をしていたなんて、とんでもない事である。
仮に、思春期特有の血迷いだとか願望だとかが、動機だったとして、付き合う可能性すらない、ましてや男の俺が相手だなんて、論外だ。
傍から見られでもしたら、それこそ噂どころの騒ぎじゃなくなる。
綿貫は俺の質問を聞いて、数回瞬きを繰り返した後、突然ぼうっと顔を赤らめる。
「そ、それは」
「絵面的にマズイだろ。断ったにしても告白されたお前にとっちゃ、大分リスキーな事してるんだぜ。評判最悪の俺とキスなんて、なんでした」
「逆に、っなんで針生は俺を殴らなかったの」
「あぁ?質問を質問で返してんなよ、なんでって言われても……」
"そういう決まり"だから、としか。
答えはそれに限る話だったが、割り切ったような口をきいたら、余計に泣かれそうな気がして、思いとどまる。
「嫌なら止めろって言ったろ。止めてねえなら、別に嫌じゃなかったっつう、簡単な話だろうが」
「!!」
綿貫はぱっと形の良い目を見開く。
何が響いたのかは正直分からないが、またすすり泣かれるよりは、プラスに解釈される方が幾分良かった。
だから俺も少し嘘をつく。
ただ。コイツ、素だと結構分かりやすい、のか?
「お前がそれで安心したんなら、俺はそれでいいよ」
「…………そっか」
「まぁ、もし危険だと思ったら、今度は普通に連絡してこいよ。事前に」
「え、いいの?」
「ダメな理由ねぇだろ。ほら帰るぞ」
俺がヘッドフォンをつけて、帰り支度をしろと声をかければ、綿貫が微笑んだ。
一緒に肩を並べて下校している所が、見られるのは俺としては不本意なのだが、アイツは見つかってもいいやと何の気なしに言った。
その言葉が綿貫の口から出た事に、靴紐を結んでいた手が止まる。
すかさず、聞き返しても答えは変わらないようだった。
「お世話されるのって、案外いいな」
「お前なぁ……他人事だと思うなよ」
「違う違う。針生だから、俺はいいんだと思う。気持ちがスッキリするのとは、この気持ちは別だな。連絡して、ちゃんと来てくれてさ。君の顔を見た時、ほんとうに安心した。不思議だ」
「ふはっ、そうかよ。じゃ今後ともご贔屓に」
噛み締めるように歯の浮くセリフを口にする綿貫に、変に心を擽られた俺は冗談混じりにあしらう。
「ねえ、針生」
「なに。……っ!」
すると綿貫はこちらに顔をぐっと、態とらしく引き寄せてきて、教室での記憶が蘇った俺がうっとする。それを見られて、くすくす笑う。
「あははっ。びっくりしてる。可愛い。可愛いね、告白してきた子よりも、ずっとさ」
「……お前さては最低だな。さっきの涙目お坊ちゃんは芝居か?」
「本当のこと言っただけなのに!お芝居なんかじゃないよ、あれも本当!」
さっきまで、女子にキスをされ、ショックで恥も外聞もなく、縋りながら泣いていた癖に。
俺には同じことをして、試すような真似をするだなんて、なんて卑怯な男なのだろうか。
あれが全て泣き演技だと言うのなら、間違いなく俺はコイツの進路に関する推薦書に、でかでかと俳優と書いてやろうと思った。
そもそも、綿貫がありのままでいる関係性を創るとは言うが、俺の前で真に素でいるかどうかは、分かり難い。
けれど、眼前の綿貫が偽りの仮面を被っていようとなかろうと、その全てを受け入れることが、重要なのである。
だから、何時か。
その繊細な硝子の仮面を壊してやってみたい。
"ありのまま"と言ったって、屋上に来る綿貫が突如としてガラが悪くなるとか、軟派になるだとかいう展開も無論だ。
強いて言うなら、綿貫の"声"から伝わってきた、狂いの無い完璧なまでの人格者という、ある種の無機質さが薄れつつあると言うことだろうか。
屋上にアイツが来れば、適当な話をして茶を濁し、ぎこちなく吐き出される愚痴を、まあまあどうどうと宥めながら、頭を撫でてやるだけ。
特別な事など何一つしていない。
ただの友人関係と言われれば、何ら違和感もなくそうだと頷くだろう。
三ヶ月間。
同じ舟に乗って、櫂を漕ぐ。荒波も起きぬ、湖のほとりをぐるぐる廻りながら、打ち解け合う間柄を続けるのだ。
不安事なども無い。
関係性の浅い自分達が、互いの心に不安を覚えられるほど、大した信頼を抱いていないからである。
例え途中で断ち切られても、元の日常を取り戻していけるくらいの、何色にも染まっていない糸だから、突飛な提案だって出来た。
綿貫が承諾した事実には、正直驚きもあったが。
ありのままで居られる捌け口としての俺を扱っていくことを、合理的だと判断したのは、理性的すぎると言うかなんというか。
しかしその淡々とした姿も、自分の窪んだ隙間を埋める部品の一つだった。
ふと、俺は、対等に接する相手を欲していたのかもしれない。と思う。
そう、だったはずなのだが。
***
『今日、放課後空いてる』
「……珍し」
ある日、昼休みに屋上へ顔を見せなかった綿貫から、一通のメールが届いた。
連絡先を交換したものの、毎日顔を合わせるからと、そこまで活用していなかったメールアプリが、初めて稼働した瞬間に目を見開く。
普段、話を聞いていても、綿貫から直接話を切り出される事も少なかったために、これには相当驚いた。
『空いてる』と送り返してやれば、直ぐに既読が着いて、またポンポンとやり取りが続く。
『ごめん』『行けなくて』という断続的な文面を見て、多忙だったのだろうかと思考が回る。
言葉尻から滲み出る腰の低さに、何を擽られたか笑みが零れた。契約でも、ましてや強制的なものでもあるまい。
けれど綿貫はこうして、申し訳なさを染み込ませた応えを、渋ることも躊躇することもなく言い放つ。
その律儀さが、気に入っていた。
手短に返信を済ませ、来る放課後の為、珍しく丸一日を、暇つぶしに参加した授業と屋上とで過ごしたのであった。
最後のチャイムが鳴り終わり、全校生徒が一同にして廊下にごった返して、ぞろぞろ校舎の外へ出ていくのを上から見下ろす。
部活のある者は部室棟へ移動し、係の仕事があるものは、各々教室に居残っているはずだ。
人目に付くピーク帯さえ避けられれば、綿貫とも接触しやすいだろう。
そうして頃合を見て屋内へ戻り、空き箱になった廊下を歩きながら、綿貫の教室を目指した。
学校で殆ど真面目に過ごしていないくせに、散々外や屋上を歩き回った中履きは、これ以上ないほどに草臥れ、擦り切れている。
ぺたぺた、という貧相でいて物悲しい音だけが辺りに響いていた。
三年B組の前に到着するなり、開いていた扉から教室を覗けば、中央の席で机に顔を突っ伏している金髪が見える。
周囲に誰も人がいないことを確認して、俺は足を踏み入れ、机の前まで歩いた。
寝ているのだろうか、はたまた力尽きているのだろうか。丸まった背中は上下に規則正しく動いていて、ヘッドフォンを外してみれば、呼吸音も正常に聞こえている。
「……おい、来たから起きろ」
声掛けてみれば、ぴくりとその体が反応するものだから、釣られて肩が跳ねた。
しかし綿貫は一向に顔を上げようとはしない。
それどころか、腕の中に伏せたまま「針生?」と籠った声で名前を呼ばれる。
「他に誰が来る予定なんだ」
「…………誰も。君だけ」
「だろ。で、なんでその体勢のままなんだ。腹痛てぇのか」
そのまま問うてみると、綿貫は黙り込んで、もぞもぞ体を動かし、先程よりも小さく小さく、布団の中に潜り込むように縮こまった。
一体何事だろうか。
不審に思い、次の言葉を待っていると答えるように「すん」と小さく鼻が鳴った。続けざまに二回。
花粉症か?この梅雨に?
いや、それにしては些か様子がおかしい。屋上で弱音や愚痴を吐く姿を毎日のように見ているが、こんな調子は初めてだ。
「……おい、」
綿貫の腕に押し潰されて、崩れた前髪を掻き上げてみても、旋毛をつついたり、ぐしゃぐしゃに頭を撫で回してみても、殻に閉じこもるばかり。
俺は床に膝を着いて、同じ目線になり、机にべったりと頬杖をつきながら、暫く綿貫を突っつき回していた。
グラウンドから聞こえる野球部の声、陸上部のハードルを突っかける音、下の階から鳴る吹奏楽部の旋律。一緒くたに混ざり合う凡ゆる音が、注意を散漫にさせていく中、目の前で綿貫が唸った。
突発的に動き出されたものだから、鼓膜が打ち震える。
ようやっと放たれた答えが「う"ぅ〜」だとは、誰が予測できるだろうか。
「っなんだ、保健室行くか?」
「ちがう」
そこではた、と気付く。
先程よりも、綿貫が鼻声になっている事に。
まさか。
「……──なぁ、お前。泣いてんの?」
そう尋ねれば、また肩が揺れる。
「図星か」
すると自身の腕にすりすり額を押し当てた後、顔を袖で覆いながら、綿貫が起き上がる。どれ程葛藤していたのだろうか、ちらと壁掛け時計の針を見遣っていると、また「すん」と鼻を鳴らされた。今度は少し水っぽい音だった。
時折しゃくり上げるように胸が運び、その度に涙を拭う仕草を見せて、静かに泣いている。
マジ、か。
泣いている。完璧と名高い生徒会長が、俺の目の前で。
こんな所を誰かに目撃でもされたら、間違いなく百割方、ヘイトは自分に向けられるだろう。
保身を気に掛けるわけではないが、仮にそうなったとしたら、俺は本格的に学校で息が出来なくなる。
しかし正直、面食らってしまった。
思わずずっと立ち上がる。
これも素なのだろうか。それもそうか、俺を呼び出すということは、自然体なのだろうから。と、自問自答が流星群のように飛び交うくらいには、やや混乱していた。
「な、んだ、なんで泣いてる……?」
「……う"ぅ〜……」
「いや悪い、う"ぅ〜じゃ分かんねぇ……。昼休み来なかったよな、そこで何かあったのか」
泣いている人間に対して、適切な接し方が分からない俺は、下手くそな言い回しで、探り探り言葉を引き出していく事しか出来ない。
まず泣き止んでもらうことが最優先だとは思うが、なかなかどうして上手い方法が見付からなかった。
綿貫は縦とも横とも取れない首の動きをした後、口をはくはくと動かす。
読唇術など心得ていない俺には、一切合切何を伝えたいのか検討が付かなかったけれど。
「嫌なことされたか」
「ふ、っう……うぅ、……ッ」
漠然と、何かが決壊して、土石を含んだ濁流が綿貫に押し寄せているような想像が、頭の中に浮かんでいた。
綿貫の「ちがう」「ちがくて」と言った短い声は、焦燥の中で、募っていく不満が滲んでいる。
微かな震えには、痛みを分かって欲しいという子供のような甘えがある。
自然と、そのイメージに従うように俺は動いていた。
「そんな拭ったら、痛いだろ。ほら、俺が拭いてやるから、顔見してみ」
顔を覆っている綿貫の両腕をとんとん、と叩いてやれば、強ばっていた上肢が恐る恐る下がっていく。
丁寧に整えられた前髪は無造作に崩れ、あちらこちらに跳ねている。擦り続けた目元は赤みを帯び、熱ぼったく腫れ、未だに零れ続ける涙の道筋がくっきりと残っていた。
俺はそれを親指の腹で極力皮膚を刺激しないように、気を遣いながら拭ってやる。割れ物を触るかの如く、ひりひりした気持ちで。
控えめに響く綿貫の短い呼吸、不安げにこちらを見上げる瞳、手首に添えられた涙で湿り気を帯びた、ほんの少し冷たい指先。
「お前がどうしたいかでいいよ。そういう約束だ」
ありのまま。
何も飾らず、何にも覆われず、何ものをも被らず。
綿貫紡という人間が、表現する全ての心と体、一挙手一投足を受け入れると俺は言った。
「おれが、どう、したいか……」
それは義務感。それは、胸の内に漂う気毒さ。
見過ごすことの出来ない、繊細な構造をした、半透明の曇り硝子の仮面を、使いこなしては、壊れてしまう恐れを抱いている人間。
理解出来るからこそ、捨て置けなかった。
綿貫の震える唇から漏れ出た"声"は、俺に「受け入れられたい」と言っているような気がした。
「別の場所に移動して話したいなら、そうする。どこでもいい。お前の好きな所でいい
「一つ、俺にどうして欲しいか言ってみろ。そした──」
その時。
あ、近──。
不意に綿貫が椅子から腰を上げて、端正な顔が目と鼻の先まで寄せられる瞬間を、視線で追っている間に、次に話そうとした言葉を遮られる。
自分の唇に触れた、柔い肉肌と体温。指の腹とも似た感触だったけれど、この熱は何と例えればいいのだろ。俺は知らない。
何時の間にか掴まれた、さっきまで綿貫の涙を拭っていたはずの右手がぴくりと痙攣する。
硬直する俺をちら、と薄桃色の眼が捉えて、静かに離れた綿貫は、到底今さっきまでぐずっていた奴だとは思えない面構えをしていた。
「っ嫌だったら、止めて」
「はっ……?待、んぐ、」
心臓がぴたり、と止まってしまったかと思った。
抵抗しようと思う程の思考は巡っておらず、アイツの勢いにそのまま押されて、圧されて。ずるずる後ろの席をずらすような、聞き心地の悪い音に顔を顰めた。
倒れこまないように、後ろ手を付きながら、空いた手で綿貫の肩を叩こうとしたが、生憎右手が掴まれていてそれも敵わない。
綿貫の手が、そっと俺の耳を塞ぐように添えられ、自分でも分かりやすいくらいに身体が跳ねて、驚嘆の声が隙間から漏れ出る。
気になっていた廊下の音も、グラウンドから響く声も、その全てがこもり、霞んで聞こえる。
早くなる脈拍と、空間に自分たちの存在だけを示すものが鼓膜の奥に伝わってきていた。
随分長い間、影をぴったりくっつけて、偶に新しい酸素を吸った。
いつでも目の前の胸板を叩いて、正気に戻してやる力もあったし、手段だって綿貫よりもあった。一時期、喧嘩ばかりをしていた俺が、そんな事とは無縁であろう生徒会長に、圧制されている現状の方が余っ程異質だ。
しかしこれが、受け入れると言った俺の責任だったから、抵抗をする考えは捨てた。
存外、抑えきれない衝動に負けている綿貫を見ているのも、悪くなかったから。
綿貫の泣きっ面が、ようやく全部視界に収まった時、おかしいくらい俺達は息が上がっていた。
そうかと思うと、アイツはくしゃっと顔を歪めて、またもや、しくしくと泣き出し、俺の肩に顔を埋める。
「ごめん……」
「おま、情緒不安定だな……なんだ話したくねぇの?どっち?」
「……嫌われたくない、話していいのか、よく分からない」
「この関係に嫌うとか嫌わないとかねぇって。まあ迷うなら、言っておいた方が気持ち的には楽なんじゃねえの」
「本当に?」綿貫は俺に飽きる程、再三確認をとった。何回か頭で考えるのも面倒くさくなるくらいに、俺が首を縦に振った末、やっと切り出される。言われた言葉を、文字に起こせるくらい、ぽつぽつと。
「……告白してきた女子にキスされた、ね」
こくりと首肯する綿貫は、俺に抱きついたまま、そうして事情を話した。
昼休みに屋上に顔を出せなかったのは、どうやら他クラスの女子生徒から、校舎裏に呼び出されたからなのだと言う。
面識も然程なく、これと言って接点も情報も無かった為に、綿貫はその場で断ったようだが、問題はここからで。
当該の女子は、なかなか引き下がらず、一進一退の攻防戦となり、耐えきれずその場から立ち去ろうとした時、事は起きたらしい。
懲りずに引き留められ、振り向かせられた矢先に、彼女に半ば押し付けられるようにキスをされたのだという。
それはまた、なんというか。
大分想定外な悩みだった。
「びっくりしたんだ……今まで、告白されることは何回もあったけど、キスなんて、されたこと無かったんだ」
「告白自体、経験的にまずそう多いもんでもねぇけどな。で、女子はその後どうしたんだよ」
「ごめんなさい、でも納得したいから付き合わない理由だけ教えてって」
俺は内心、せめて順番逆だろ。と突っ込んだが、頑張って語っている綿貫の声を遮ってしまうのは、心苦しかったから、ぐっと衝動を飲み込む。
「それで?」
「俺その時、咄嗟に……。付き合ってる子がいるからって、嘘ついたんだ。頭が真っ白だったから」
相槌を打ちながら、展開を薄ら先読みしてみる。
絶大な人気を誇る生徒会長が、付き合っているなんて知れたら、どうなる事かくらい容易に想像できる。
「そうしたら、俺の迂闊な言葉が広まっちゃって……」
「それはそれは色んな奴に絡まれた、と」
「どうしようぅ……っ」
拡散力がSNSのそれだ。昼休みから放課後までの短時間で、ここまで綿貫を傷心させられるとは、少々。否、かなり異常だった。
この有様になるのも無理は無いと思ったが。
が。
「綿貫の悩みは分かった。そりゃいきなしほぼ初対面の奴にキスされたら、驚くのも普通だ。お前の対応は、その時の最善策だった。だから思い詰める必要なんざねぇと思う」
「針生……」
「でも、疑問がある」
「ぎもん?」
「お前なんで俺にキスした。結構意味分かんねーんだけど」
先刻まで綿貫の唇と重なっていた己の口元を、人差し指をとんとんとあてがいながら、指摘する。
学校中で絶大な人気を誇っている生徒会長ともあろう人間が、評判の悪い不良と、恋人らしい行為をしていたなんて、とんでもない事である。
仮に、思春期特有の血迷いだとか願望だとかが、動機だったとして、付き合う可能性すらない、ましてや男の俺が相手だなんて、論外だ。
傍から見られでもしたら、それこそ噂どころの騒ぎじゃなくなる。
綿貫は俺の質問を聞いて、数回瞬きを繰り返した後、突然ぼうっと顔を赤らめる。
「そ、それは」
「絵面的にマズイだろ。断ったにしても告白されたお前にとっちゃ、大分リスキーな事してるんだぜ。評判最悪の俺とキスなんて、なんでした」
「逆に、っなんで針生は俺を殴らなかったの」
「あぁ?質問を質問で返してんなよ、なんでって言われても……」
"そういう決まり"だから、としか。
答えはそれに限る話だったが、割り切ったような口をきいたら、余計に泣かれそうな気がして、思いとどまる。
「嫌なら止めろって言ったろ。止めてねえなら、別に嫌じゃなかったっつう、簡単な話だろうが」
「!!」
綿貫はぱっと形の良い目を見開く。
何が響いたのかは正直分からないが、またすすり泣かれるよりは、プラスに解釈される方が幾分良かった。
だから俺も少し嘘をつく。
ただ。コイツ、素だと結構分かりやすい、のか?
「お前がそれで安心したんなら、俺はそれでいいよ」
「…………そっか」
「まぁ、もし危険だと思ったら、今度は普通に連絡してこいよ。事前に」
「え、いいの?」
「ダメな理由ねぇだろ。ほら帰るぞ」
俺がヘッドフォンをつけて、帰り支度をしろと声をかければ、綿貫が微笑んだ。
一緒に肩を並べて下校している所が、見られるのは俺としては不本意なのだが、アイツは見つかってもいいやと何の気なしに言った。
その言葉が綿貫の口から出た事に、靴紐を結んでいた手が止まる。
すかさず、聞き返しても答えは変わらないようだった。
「お世話されるのって、案外いいな」
「お前なぁ……他人事だと思うなよ」
「違う違う。針生だから、俺はいいんだと思う。気持ちがスッキリするのとは、この気持ちは別だな。連絡して、ちゃんと来てくれてさ。君の顔を見た時、ほんとうに安心した。不思議だ」
「ふはっ、そうかよ。じゃ今後ともご贔屓に」
噛み締めるように歯の浮くセリフを口にする綿貫に、変に心を擽られた俺は冗談混じりにあしらう。
「ねえ、針生」
「なに。……っ!」
すると綿貫はこちらに顔をぐっと、態とらしく引き寄せてきて、教室での記憶が蘇った俺がうっとする。それを見られて、くすくす笑う。
「あははっ。びっくりしてる。可愛い。可愛いね、告白してきた子よりも、ずっとさ」
「……お前さては最低だな。さっきの涙目お坊ちゃんは芝居か?」
「本当のこと言っただけなのに!お芝居なんかじゃないよ、あれも本当!」
さっきまで、女子にキスをされ、ショックで恥も外聞もなく、縋りながら泣いていた癖に。
俺には同じことをして、試すような真似をするだなんて、なんて卑怯な男なのだろうか。
あれが全て泣き演技だと言うのなら、間違いなく俺はコイツの進路に関する推薦書に、でかでかと俳優と書いてやろうと思った。
そもそも、綿貫がありのままでいる関係性を創るとは言うが、俺の前で真に素でいるかどうかは、分かり難い。
けれど、眼前の綿貫が偽りの仮面を被っていようとなかろうと、その全てを受け入れることが、重要なのである。
だから、何時か。
その繊細な硝子の仮面を壊してやってみたい。

