昨日の発言通り、綿貫は昼休みになるなり、屋上に現れた。
走って来たのだろうか、随分息が上がっていて、肩で荒い呼吸を繰り返していた。
予想外の登場の仕方に、俺は唖然として、驚きのあまり目を見張る。固まった空気感を打ち壊すように、綿貫が声を発すれば、自然と止まっていた思考も動き出す。
やけに焦っている姿が、なんだか可笑しく見えてきて、堪えきれなくなった笑いを零せば、綿貫も同じようにケラケラ笑った。
何故そんなに急いだのかを尋ねてみると、アイツは「待たせたら悪いと思って」と、襟を寛げながら応える。
俺はずっとここに居ると伝えておいたはずだった。
それでも駆け込んできたのだと思うと、愚直さのあまりに頬が緩む。
小さなビニール袋を提げてきているあたり、どうやら購買のパン争奪戦に巻き込まれて、もみくちゃにされたようだ。
何を買ったのか聞けば、案の定「カツサンド」と答えられ、俺の心はまた僅かな浮遊感を帯びる。
ベンチ一つ分だった距離は、腕が触れ合う程までに縮まっていて、互いに肩を並べながら地べたに座る。
綿貫はパンの袋を開けながら、争奪戦が散々だったことを語った。
あの瞬間を前にすると、友情も絆も呆気ないとか、譲り合いもへったくれもないとか。
安定に不真面目さの抜けない俺は、全校生徒よりも少し早く、購買で昼食をゲットしていたから、何とも同情しがたかったが。綿貫は羨ましげだ。
カツサンドを一緒に貪りながら、俺は綿貫のぼやきを聞いていた。
食べている間、授業の話や放課後の話が二転三転しながら飛び交っていたが、話のネタが尽き始めてきたあたりで、自然と会話は昨日を軸にして巻き戻っていた。
それは俺の正直な本音から展開する。
「お前、屋上来んのは良いけど、ダチは平気なのかよ」
「え……ああ、……まぁ。彼らも俺だけが友人関係ってわけでもないしね。交友関係が広いから、つるめる相手はそんなに固定的じゃないんだ」
「綿貫も割かし広い方だろ。気楽だってのは分かったけど、俺以外に話せるヤツはいねえの」
「それは……」
綿貫は言い淀んで、きまりが悪そうに口を噤む。
態々、生徒会長という立場が危ぶまれるような真似をしなくても、殆ど会ったばかりのような俺でなくても、綿貫には信頼に足る人間が周囲に居るだろうに。
俺と話すことを「気楽」だと感じているコイツに向けられた、昨晩からの素朴な疑念が顔を見せる。
綿貫は目にかかって煩わしそうな前髪をよける事もせず、手元に視線を落としたままだ。
膝の上で組んだ手の、中指とか人差し指とかを、編み糸のように絡ませながら、言葉を探している。
随分思い悩んでいる様子だった。
俺は食べかけの昼食を口に入れて、適当な会話を続ける。
「ま、お前が話しやすいならなんでもいいけど。俺は俺で生徒会長サマの愚痴聞くのが面白ぇし。遠慮なくベラベラ喋れる相手が俺で、それが良いってンなら、Win-Winだしな。綿貫がいいなら、それでいいよ。俺は、誰かの期待とか信頼を背負うほど、出来た人間じゃないんでね」
コイツからしたら、背負わされているか。
憂慮する綿貫から視線を外して、天を仰ぎ見る。
雲はコップの縁をなぞるように、視界の端から端を流れていき、単調な時間が微風につられて進んだ。
面倒な事を取り立てて聞いている自覚はある。
恐らく綿貫は、俺が嫌な気を起こさない為の、模範解答を探っているのだろう。
コイツが沈黙に潜っている間、手持ち無沙汰になった凡庸な思考回路が、せめて気ぐらい遣ってみろと感情を急かし立てる。
けれども俺はちっとも、性急に尻叩きをする善意に影響されることはなかった。
何故か?
斟酌する事が、誰しもにとって最善ではないことを知っているからである。
好きにしてくれ、と放任される方が遥かにマシだと思う時間だってあるのだ。それが心弛びとなったと呼べる日も。
だから俺は、綿貫の胸中ははっきり言ってどうでも良いと割り切れるのだ。
「……俺、人間関係上手くいったことないんだよね」
自問自答に浸れるほどの余裕を置き終えてから、綿貫は意を決したように、堅苦しい声色で話し始める。切り出された言葉は、鉄筋コンクリートの地面に落とされた。
一つずつ、一つずつ、吐かれていく独白は水溜まりのようだ。
「意外だな。人から好かれるのにか」
「あはは、そうなんだよね。そう、本当は……違う」
「違う」
綿貫の喉から滲み出る葛藤を反芻すると、アイツは首肯する。
絞り出される声の数々は、迷いを孕んでいて、不鮮明な感情の行く末を、一つに束ねようと必死になっている。
隙間なく固く組まれた両手の指が、窮屈そうに思えるほどだった。
「針生が俺に言った、百面相って言葉、正しいよ。俺は本当にその通りの人間だから」
平坦な声音でさらりと放たれた本音は、無機質そのものだ。内臓全てを取り除かれた、外見の美しい剥製。それがふと、頭に浮かぶ。
屋上で再会したあの日から、綿貫の"善人計画"は狂っていたのだ。
「人から好かれるための俺を演っている。だから、なんだろうな。きっと、どこかで違和感に気付かれちゃうんだよ」
その発言が、電流を脳に走らせる。
ああ。なんだ。
コイツはずっと、自分の違和感を自覚した上で、生きているのか。
綿貫であって、綿貫でない自分を、他でもない綿貫紡自身が、理解していたのか。
随分突飛な事をしている、凄い人間なのだなと、そんな月並みな感想を抱いた。
「あ、俺はもう気付いてたけどって顔してる」
「外れ」
「そう?まぁ、俺も針生にはなんかバレちゃいそうな気がしてたけどさ」
「へえ」
「……誰かと居る時の自分は自分じゃない気がする。何を考えるのも、何を思うのも、全部相手にとって都合のいい自分がそうしてるんだ。今だって、そうかもしれない
「人に嫌われるよりマシ、だけど俺はどんどん自分から遠ざかっているんじゃないかって、時々不安になる」
綿貫は組まれた指先を、不器用にも解かないまま、じっと機械的な言葉を噛んでいる。
一頻り、心労を吐露した後、綿貫がふと顔を上げて、こちらに視線を送ってきた。
「でも、針生と話すのは。違うんだ、なんとなく、不思議だけど。素でいても、そうでなくっても、君は良い意味で、どうでもいいって顔をしてくれる」
逸る気持ちを声に乗せながら、欣然と興奮気味に。
口にすることで、初めて自分の感情に気付いたみたいに、綿貫は意思表示をした。
「それがなんだか嬉しいんだよ」
相手にされないこと、どうでもいいと投げ捨てられること。気さえ配られず、誰かにも報われぬ、その虚しさが、心地好いのだと。
透明になろうが、不透明でいようが、暴かれない。晒されない。壊される脅威に怯えずに済む。
コイツは、俺が思っているよりもずっと、不安定だ。
寸分の狂いもなく、自分の調律をして、人の求める音を奏でる楽器のように、肉体を維持している。人々はそれを壊れない物と過信するけれど。
刃物が弦に触れれば、肉肌に突き立てたらば血が流れるのと同義に、ぷつんと弾けて切れる。
例えそれを腕利きの職人が直したとしても、何人にも手をつけられていなかった頃の音は、返ってこない。
──繊細。
「っは、そういう所を見せたらちっとは変わるかもしんねえのに、難儀なヤツ」
俺は綿貫に差し向けられた、小さな感悦をあしらうように、鼻で笑う。
綿貫は一生懸命に振り絞った勇気を、あっさり放られた事に驚いたのか、きょとんとしている。
「結局お前は、どうされたい。俺が聞きたいのはそこだけ」
「えっ……と」
「なんかあんじゃねえの、こうして欲しいとかそういうのが」
打って変わって口篭る綿貫の目が、ちらと俺の顔を捉える。故意に視線を交わしてやれば、コイツは露骨に顔を逸らした。
「いや、俺は……」
それは、今となっては疎遠になった昔の友人が、俺の表情を窺う時の仕草と酷似していた。
「読むな。読むほどの顔色もしてねえから。なんかあんなら、言ってみろ。なけりゃそれでいい」
「……っある、けど。君に言うのは傲慢だよ」
「上等だ」
綿貫はたじろぐ。
ここまで内情を曝け出されて、急速に縮まった距離を、今更元の状態に戻せるわけもないのだから。
いっそのこと、巻き込まれてやろうと思った。
何者にもなり難い、半透明な人間同士、多少の傷を舐め合って、徒党を組んでやろうと。
しかしこれでは埒が明かない。ただの押し問答が続く一方だろう。
俯いたまま、眉間に皺を寄せて、思い倦ねる綿貫の頬を俺は軽く抓ってやる。
不意打ちの攻撃に、小さい呻き声を上げ、赤みを帯びた肉肌を摩りながら、こちらに焦点を合わせる綿貫の顔は実に間抜けだ。
「じゃあ、俺がありのままのお前の、"請負人"になってやろうか」
「請け、負い……人って」
「お前は、素の自分でいられて、それを受け入れてくれるような関係性を望んでるんだろ。それが俺で補えるんなら、都合がいいじゃん」
数秒遅れて理解が追いついたのか、綿貫は首を振る素振りを見せたけれど、ぴたりと動きを止める。
「俺はお前に助けられた借りがあるし、それ以外で別に気遣うことはねえからさ。ま、分かりやすく言うと、心の請負人」
「セフッ!?い、いやいやいや、その言い方だと語弊がある!」
「それ以外言い表しようがねぇし。何でも傍で慰め合える恋人でもなく、ただの友人にしちゃ距離感が違いすぎる。実質合ってる」
「言葉選びのセンスの問題だろ!」
センスは悪いかもしれない。
しかし、関係性の呼び名としては、あながち間違いでもないのだ。
綿貫は本当の思いをぶつけて、欲を満たせる。
一方の俺には特に負担もなく、借りも返せる。
欲を満たし合うという意味合いでも、利害関係が一致しているこの関係は、もはやセフレと同義だった。
綿貫は呼称に対してブツブツお気持ちを連ねていたが、聞く耳を持たずに放置したままでいると、漸く冷静になったか、「本当にいいの」と聞いてきたのである。
「良くなきゃ言わねーよ。下手な距離感で、毎日接するよりずっといい」
「俺、きっと針生の想像している人間じゃないと思うよ」
「それも含めて、セフレだろ」
綿貫が怯えながらにしてきた質問に、直球を返すと、コイツは石でもぶつけられたみたいに、ダメージを受けて項垂れる。
それでも、「NO」とは言われない。
「彼女が欲しいとか、キスしたいとかそういうのを君に晒すかもしれなくても……?」
「お前にも性欲あったんだな」
「あるよ、人並みには……男子高校生だよ?思春期真っ盛りに決まってるじゃん」
「へーえ?ま、別に俺は気にしねぇけど」
「面白がってる……」
まるで俺が向こうの弱点を握り潰して、脅しているような光景だった。
すると綿貫は、俺の眼前に人差し指を突き出してきたものだから、思わずうっと引き下がる。
返事が来るものかと思いきや、コイツは端的にこう言い放つ。
「じゃあ期限」
「ん?」
「期限を決めよう」
「キゲンだ?」
期限?
内心でも同じような疑問符を連ねる。
「そう。関係性の期限を設けるんだ。君が俺のありのままを受け入れてくれる存在になってくれる事は有難い。でも、こういう義務的な関係は、きちんと目処を立てなきゃ、君の負担が大きくなる」
自分は、子供達が放課後に公園で遊ぶ為の待ち合わせをする感覚で、あっさりとした口約束をかわそうと思っていたのだ。
尤も、綿貫の想定している程には堅固なものではない。
「まどろっこしくねえか。俺、きっと忘れる」
「俺が覚えておくよ。そうだな、三ヶ月間にしよう」
「文化祭らへんまでか」
「うん。それまで、よろしくね」
手を差し伸べてきた綿貫に応じて、屋上で俺達はそんな約束事をした。
綿貫の"ありのまま"を受け入れてやること。
心のセフレとしての関係は、三ヶ月間であること。
具体的な事は何一つ定めていないし、これから固めていくつもりも俺としてはない。
アイツのお願いに答えるという、至って単純明快な依頼なのだから、そう複雑に考えても仕方がないだろう。
透明にも、不透明にもなり切れないのなら、いっそのこと、逆手にとってしまえばいい。
「都合が悪いことがあったら、聞いてなかったフリすっからさ」
「フリって、弱み握る人の言い方だよそれ」
「握っても、売れる奴がいるほど交友関係広くねえから、安心しろ」
「そういう問題じゃないやつ……!!」
綿貫は俺に揶揄される事に反発しながらも、嬉しげに笑う。発される一音一音は、滴り落ちる朝露のように、爽やかに弾ける。
コイツが発する俺の前での声は、鼓膜を優しく揺するだけだから、不思議とヘッドフォンが無くても安心できてしまう。
そんな小さな判断材料は、外界と関わり続けるメリットとしては十分な機能を果たしていた。
時間をかけてでも、この世界に馴染んでいける可能性があるならば、掴んで然るべきだろう。
とはいえ、そんな論理的な算段は後付けの、ハリボテにすぎないが。
俺は綿貫の柔い声に心を解されながら、胸の奥底にしまい込まれていた燭台の、放棄されていた蝋燭に、小さな火を灯したのだった。
走って来たのだろうか、随分息が上がっていて、肩で荒い呼吸を繰り返していた。
予想外の登場の仕方に、俺は唖然として、驚きのあまり目を見張る。固まった空気感を打ち壊すように、綿貫が声を発すれば、自然と止まっていた思考も動き出す。
やけに焦っている姿が、なんだか可笑しく見えてきて、堪えきれなくなった笑いを零せば、綿貫も同じようにケラケラ笑った。
何故そんなに急いだのかを尋ねてみると、アイツは「待たせたら悪いと思って」と、襟を寛げながら応える。
俺はずっとここに居ると伝えておいたはずだった。
それでも駆け込んできたのだと思うと、愚直さのあまりに頬が緩む。
小さなビニール袋を提げてきているあたり、どうやら購買のパン争奪戦に巻き込まれて、もみくちゃにされたようだ。
何を買ったのか聞けば、案の定「カツサンド」と答えられ、俺の心はまた僅かな浮遊感を帯びる。
ベンチ一つ分だった距離は、腕が触れ合う程までに縮まっていて、互いに肩を並べながら地べたに座る。
綿貫はパンの袋を開けながら、争奪戦が散々だったことを語った。
あの瞬間を前にすると、友情も絆も呆気ないとか、譲り合いもへったくれもないとか。
安定に不真面目さの抜けない俺は、全校生徒よりも少し早く、購買で昼食をゲットしていたから、何とも同情しがたかったが。綿貫は羨ましげだ。
カツサンドを一緒に貪りながら、俺は綿貫のぼやきを聞いていた。
食べている間、授業の話や放課後の話が二転三転しながら飛び交っていたが、話のネタが尽き始めてきたあたりで、自然と会話は昨日を軸にして巻き戻っていた。
それは俺の正直な本音から展開する。
「お前、屋上来んのは良いけど、ダチは平気なのかよ」
「え……ああ、……まぁ。彼らも俺だけが友人関係ってわけでもないしね。交友関係が広いから、つるめる相手はそんなに固定的じゃないんだ」
「綿貫も割かし広い方だろ。気楽だってのは分かったけど、俺以外に話せるヤツはいねえの」
「それは……」
綿貫は言い淀んで、きまりが悪そうに口を噤む。
態々、生徒会長という立場が危ぶまれるような真似をしなくても、殆ど会ったばかりのような俺でなくても、綿貫には信頼に足る人間が周囲に居るだろうに。
俺と話すことを「気楽」だと感じているコイツに向けられた、昨晩からの素朴な疑念が顔を見せる。
綿貫は目にかかって煩わしそうな前髪をよける事もせず、手元に視線を落としたままだ。
膝の上で組んだ手の、中指とか人差し指とかを、編み糸のように絡ませながら、言葉を探している。
随分思い悩んでいる様子だった。
俺は食べかけの昼食を口に入れて、適当な会話を続ける。
「ま、お前が話しやすいならなんでもいいけど。俺は俺で生徒会長サマの愚痴聞くのが面白ぇし。遠慮なくベラベラ喋れる相手が俺で、それが良いってンなら、Win-Winだしな。綿貫がいいなら、それでいいよ。俺は、誰かの期待とか信頼を背負うほど、出来た人間じゃないんでね」
コイツからしたら、背負わされているか。
憂慮する綿貫から視線を外して、天を仰ぎ見る。
雲はコップの縁をなぞるように、視界の端から端を流れていき、単調な時間が微風につられて進んだ。
面倒な事を取り立てて聞いている自覚はある。
恐らく綿貫は、俺が嫌な気を起こさない為の、模範解答を探っているのだろう。
コイツが沈黙に潜っている間、手持ち無沙汰になった凡庸な思考回路が、せめて気ぐらい遣ってみろと感情を急かし立てる。
けれども俺はちっとも、性急に尻叩きをする善意に影響されることはなかった。
何故か?
斟酌する事が、誰しもにとって最善ではないことを知っているからである。
好きにしてくれ、と放任される方が遥かにマシだと思う時間だってあるのだ。それが心弛びとなったと呼べる日も。
だから俺は、綿貫の胸中ははっきり言ってどうでも良いと割り切れるのだ。
「……俺、人間関係上手くいったことないんだよね」
自問自答に浸れるほどの余裕を置き終えてから、綿貫は意を決したように、堅苦しい声色で話し始める。切り出された言葉は、鉄筋コンクリートの地面に落とされた。
一つずつ、一つずつ、吐かれていく独白は水溜まりのようだ。
「意外だな。人から好かれるのにか」
「あはは、そうなんだよね。そう、本当は……違う」
「違う」
綿貫の喉から滲み出る葛藤を反芻すると、アイツは首肯する。
絞り出される声の数々は、迷いを孕んでいて、不鮮明な感情の行く末を、一つに束ねようと必死になっている。
隙間なく固く組まれた両手の指が、窮屈そうに思えるほどだった。
「針生が俺に言った、百面相って言葉、正しいよ。俺は本当にその通りの人間だから」
平坦な声音でさらりと放たれた本音は、無機質そのものだ。内臓全てを取り除かれた、外見の美しい剥製。それがふと、頭に浮かぶ。
屋上で再会したあの日から、綿貫の"善人計画"は狂っていたのだ。
「人から好かれるための俺を演っている。だから、なんだろうな。きっと、どこかで違和感に気付かれちゃうんだよ」
その発言が、電流を脳に走らせる。
ああ。なんだ。
コイツはずっと、自分の違和感を自覚した上で、生きているのか。
綿貫であって、綿貫でない自分を、他でもない綿貫紡自身が、理解していたのか。
随分突飛な事をしている、凄い人間なのだなと、そんな月並みな感想を抱いた。
「あ、俺はもう気付いてたけどって顔してる」
「外れ」
「そう?まぁ、俺も針生にはなんかバレちゃいそうな気がしてたけどさ」
「へえ」
「……誰かと居る時の自分は自分じゃない気がする。何を考えるのも、何を思うのも、全部相手にとって都合のいい自分がそうしてるんだ。今だって、そうかもしれない
「人に嫌われるよりマシ、だけど俺はどんどん自分から遠ざかっているんじゃないかって、時々不安になる」
綿貫は組まれた指先を、不器用にも解かないまま、じっと機械的な言葉を噛んでいる。
一頻り、心労を吐露した後、綿貫がふと顔を上げて、こちらに視線を送ってきた。
「でも、針生と話すのは。違うんだ、なんとなく、不思議だけど。素でいても、そうでなくっても、君は良い意味で、どうでもいいって顔をしてくれる」
逸る気持ちを声に乗せながら、欣然と興奮気味に。
口にすることで、初めて自分の感情に気付いたみたいに、綿貫は意思表示をした。
「それがなんだか嬉しいんだよ」
相手にされないこと、どうでもいいと投げ捨てられること。気さえ配られず、誰かにも報われぬ、その虚しさが、心地好いのだと。
透明になろうが、不透明でいようが、暴かれない。晒されない。壊される脅威に怯えずに済む。
コイツは、俺が思っているよりもずっと、不安定だ。
寸分の狂いもなく、自分の調律をして、人の求める音を奏でる楽器のように、肉体を維持している。人々はそれを壊れない物と過信するけれど。
刃物が弦に触れれば、肉肌に突き立てたらば血が流れるのと同義に、ぷつんと弾けて切れる。
例えそれを腕利きの職人が直したとしても、何人にも手をつけられていなかった頃の音は、返ってこない。
──繊細。
「っは、そういう所を見せたらちっとは変わるかもしんねえのに、難儀なヤツ」
俺は綿貫に差し向けられた、小さな感悦をあしらうように、鼻で笑う。
綿貫は一生懸命に振り絞った勇気を、あっさり放られた事に驚いたのか、きょとんとしている。
「結局お前は、どうされたい。俺が聞きたいのはそこだけ」
「えっ……と」
「なんかあんじゃねえの、こうして欲しいとかそういうのが」
打って変わって口篭る綿貫の目が、ちらと俺の顔を捉える。故意に視線を交わしてやれば、コイツは露骨に顔を逸らした。
「いや、俺は……」
それは、今となっては疎遠になった昔の友人が、俺の表情を窺う時の仕草と酷似していた。
「読むな。読むほどの顔色もしてねえから。なんかあんなら、言ってみろ。なけりゃそれでいい」
「……っある、けど。君に言うのは傲慢だよ」
「上等だ」
綿貫はたじろぐ。
ここまで内情を曝け出されて、急速に縮まった距離を、今更元の状態に戻せるわけもないのだから。
いっそのこと、巻き込まれてやろうと思った。
何者にもなり難い、半透明な人間同士、多少の傷を舐め合って、徒党を組んでやろうと。
しかしこれでは埒が明かない。ただの押し問答が続く一方だろう。
俯いたまま、眉間に皺を寄せて、思い倦ねる綿貫の頬を俺は軽く抓ってやる。
不意打ちの攻撃に、小さい呻き声を上げ、赤みを帯びた肉肌を摩りながら、こちらに焦点を合わせる綿貫の顔は実に間抜けだ。
「じゃあ、俺がありのままのお前の、"請負人"になってやろうか」
「請け、負い……人って」
「お前は、素の自分でいられて、それを受け入れてくれるような関係性を望んでるんだろ。それが俺で補えるんなら、都合がいいじゃん」
数秒遅れて理解が追いついたのか、綿貫は首を振る素振りを見せたけれど、ぴたりと動きを止める。
「俺はお前に助けられた借りがあるし、それ以外で別に気遣うことはねえからさ。ま、分かりやすく言うと、心の請負人」
「セフッ!?い、いやいやいや、その言い方だと語弊がある!」
「それ以外言い表しようがねぇし。何でも傍で慰め合える恋人でもなく、ただの友人にしちゃ距離感が違いすぎる。実質合ってる」
「言葉選びのセンスの問題だろ!」
センスは悪いかもしれない。
しかし、関係性の呼び名としては、あながち間違いでもないのだ。
綿貫は本当の思いをぶつけて、欲を満たせる。
一方の俺には特に負担もなく、借りも返せる。
欲を満たし合うという意味合いでも、利害関係が一致しているこの関係は、もはやセフレと同義だった。
綿貫は呼称に対してブツブツお気持ちを連ねていたが、聞く耳を持たずに放置したままでいると、漸く冷静になったか、「本当にいいの」と聞いてきたのである。
「良くなきゃ言わねーよ。下手な距離感で、毎日接するよりずっといい」
「俺、きっと針生の想像している人間じゃないと思うよ」
「それも含めて、セフレだろ」
綿貫が怯えながらにしてきた質問に、直球を返すと、コイツは石でもぶつけられたみたいに、ダメージを受けて項垂れる。
それでも、「NO」とは言われない。
「彼女が欲しいとか、キスしたいとかそういうのを君に晒すかもしれなくても……?」
「お前にも性欲あったんだな」
「あるよ、人並みには……男子高校生だよ?思春期真っ盛りに決まってるじゃん」
「へーえ?ま、別に俺は気にしねぇけど」
「面白がってる……」
まるで俺が向こうの弱点を握り潰して、脅しているような光景だった。
すると綿貫は、俺の眼前に人差し指を突き出してきたものだから、思わずうっと引き下がる。
返事が来るものかと思いきや、コイツは端的にこう言い放つ。
「じゃあ期限」
「ん?」
「期限を決めよう」
「キゲンだ?」
期限?
内心でも同じような疑問符を連ねる。
「そう。関係性の期限を設けるんだ。君が俺のありのままを受け入れてくれる存在になってくれる事は有難い。でも、こういう義務的な関係は、きちんと目処を立てなきゃ、君の負担が大きくなる」
自分は、子供達が放課後に公園で遊ぶ為の待ち合わせをする感覚で、あっさりとした口約束をかわそうと思っていたのだ。
尤も、綿貫の想定している程には堅固なものではない。
「まどろっこしくねえか。俺、きっと忘れる」
「俺が覚えておくよ。そうだな、三ヶ月間にしよう」
「文化祭らへんまでか」
「うん。それまで、よろしくね」
手を差し伸べてきた綿貫に応じて、屋上で俺達はそんな約束事をした。
綿貫の"ありのまま"を受け入れてやること。
心のセフレとしての関係は、三ヶ月間であること。
具体的な事は何一つ定めていないし、これから固めていくつもりも俺としてはない。
アイツのお願いに答えるという、至って単純明快な依頼なのだから、そう複雑に考えても仕方がないだろう。
透明にも、不透明にもなり切れないのなら、いっそのこと、逆手にとってしまえばいい。
「都合が悪いことがあったら、聞いてなかったフリすっからさ」
「フリって、弱み握る人の言い方だよそれ」
「握っても、売れる奴がいるほど交友関係広くねえから、安心しろ」
「そういう問題じゃないやつ……!!」
綿貫は俺に揶揄される事に反発しながらも、嬉しげに笑う。発される一音一音は、滴り落ちる朝露のように、爽やかに弾ける。
コイツが発する俺の前での声は、鼓膜を優しく揺するだけだから、不思議とヘッドフォンが無くても安心できてしまう。
そんな小さな判断材料は、外界と関わり続けるメリットとしては十分な機能を果たしていた。
時間をかけてでも、この世界に馴染んでいける可能性があるならば、掴んで然るべきだろう。
とはいえ、そんな論理的な算段は後付けの、ハリボテにすぎないが。
俺は綿貫の柔い声に心を解されながら、胸の奥底にしまい込まれていた燭台の、放棄されていた蝋燭に、小さな火を灯したのだった。

