あれから、綿貫が視界に入る機会が増えたような気がする。
登下校の電車や屋上、廊下や昇降口。
関わりを持ったことで、意識していなかった場所や空間に、注意を向けられるようになったことが原因だろうが、それはどうやら向こうも同じらしい。
視線がかち合ったからと言って、自発的に声を掛けられることも、大袈裟に手を振られることもない。けれど、俺と目が合うと決まって、アイツは目を開いてから、愛想良く笑った。
俺は社交的とはかけ離れているから、笑い返すことは出来ないが、会釈をするくらいの努力をするようになった。
こうした人間関係の変化で、学校生活に凹凸は出来るものの、それ以外は至って淡々と日々は進んだ。
ただ特筆すべきことが他にあるとするならば、もう一つ。
アイツが屋上に頻繁に顔を出すようになったという事。
何かしら理由をつけて、生徒指導部の目を掻い潜って、昼休みだけはあの場所に居座るのだ。
だから俺は、たった一人の休み時間を過ごす事が減った。
綿貫自身が何を思って、俺と接しているかは正直分からない。素の状態に近い自分を見られた為に後に引けなくなったか、はたまた純粋に仲良くなろうとしているのか。
アイツの事は、第一印象以外で掴みどころが無い。
そして今日も、綿貫は屋上に来る。
「あ、居た居た」
「寧ろいない日がねぇよ。不真面目な生徒だから」
「そうかな?俺の友達に比べたら、針生の方が真面目だと思うけど」
「お前の友達より?幾らなんでもそれは盛ってるだろ」
「いやいや、盛る必要性が無い……!話していたら、君がちゃんとしてる人だって分かるよ。俺の友達は、良くも悪くも緩いから。たまに相性が合わない時があるくらいね」
綿貫は、すっかり気に入ったカツサンドを頬張りながら、何気なく応答する。
「へえ」
さらりと呟かれた言葉に興味を抱き、じっと見つめれば、寸時流れた沈黙が破られる。
そして綿貫は少し言いよどみながら、
「それに……俺、あんまり直感とか外したことなくて。昔から」
と語った。
「直感?」
「なんとなく、相手の考えを読みがちでね。自分が直感と憶測を頼りにしているのがなんでか分からない時もあるけど。でも、何時もそのなんとなく、が当たって」
「俺と相手とかならどうにか凌げるんだけどさ。俺の友達と友達同士とかだと、難しくて。どっちの敵とか味方とかそういう風に分断したくないから」
「君に言うのも変だけど」と付け加えて軽く笑う綿貫は、どことなく自嘲気味だ。
俺が視線を外さずに、相槌を打つのを見て、ほんの僅かはっとしてから、場を繋ぐようにカツサンドを食べる。
これ本当に美味しいね、とか。
購買のパンって学校の近くのパン屋からなんだっけ、とか。
当たり障りのない会話をしながら、あどけなく笑う。
だから俺も、なんとなく。
コイツはきっと、この違和感に縛られて生きてきたのだろうと思っていた。
「……それ、疲れねえの」
「えっ?」
「俺はあんまりそういうの気にして生きてこなかったから、理解があるわけじゃねえけど。分かっちまうのって疲れるだろ。それなりに」
首にかけたヘッドフォンに触れながら、柄になく、あたかも自分事のように告げる。
「ま、あんまし無理すんなよ」
慰めとも励ましとも取れない声音だった自覚はある。俺の投げやりとも言える会話の節目に、綿貫は曖昧な返答をした。
目の前の綿貫は、綿貫であって、綿貫でない。
俺を助けたあの日も、屋上での再会も、友人関係を構築している今も。
アイツはアイツとして生きていないのだと、俺は漠然と察していた。
***
「珍しいな、あざみ君と校舎ですれ違うことがあるだなんて。今日は霰でも降るのかな?」
「てめぇ誰だっけ」
放課後。
帰路に着く俺の目の前に現れた、一人の学生によって、凹凸はある種の均衡を崩されるのである。
綿貫と出会ってからというもの、特に深い意味はないが、俺は以前よりも教室に足を運ぶようになった。
高校三年に進級してからも、まともに授業を受けていなかったから、クラスメイトの大半は知り合いの範疇にも入らない。
ただ一人、コイツを除いて。
俺は覚えていないフリをして、阻まれた道に肩を割り込ませる。
すると、案の定背中に回していた学生鞄を、相当の力で引っ張られ、全身が後方へと傾いた。
感じ慣れた執拗さに、盛大な舌打ちをしてから睨んでやれば、不敵に笑みを浮かべられる。
「ッにすんだよ」
「忘れているだなんて、有り得ないな。……髪はまた染めたようだね。相変わらずの不真面目さだ、感心するな」
鞄を掴む手を叩き落とそうとした時、振り上げた手を瞬発的に掴まれる。
硬く握られて僅かに軋む手首を注視している内、すうと、耳の横から髪の毛を掬われ鳥肌が立つ。
反射的に鞄を持っていた腕を振り上げ、それを弾いた。その中身は筆記用具と二冊のノートくらいで、重量はさほど無い。どこに当たろうと、怪我には至らないはずだ。
ヤツは不意の衝撃にうっと呻いて、手を離す。
「しつけぇな、てめぇみたいなの知り合いにいた覚えねぇよ」
「薄情者。もう高校一年の記憶は遠い昔になってしまったのかい」
「知らねぇっつってんだろ、ひったくり」
俺はふつふつと湧き上がる苛立ちを露呈させながら、階段の方へ爪先を向ける。
「まだ話は終わってない。これは風紀委員としての仕事だ。規則に則って従ってもらわないとね」
その目付きは、まるで濃煙だ。
空気をじわりじわりと侵食して、分厚い靄の中で烟り続ける炎を、瞳に宿している。
煌千寿。
俺が出会してきた人間の中で、頂点に君臨すると言っても過言ではない厄介な男。
赤の他人である方が、これ程までに幸福だと感じられる人間はそういない。
高校一年生の頃、素行不良に拍車がかかっていた俺に、真っ先に目をつけた風紀委員のクラスメイトが煌である。
しかし、ただ注意や生徒指導部に報告されるくらいなら、こうも記憶にこびりつかない。
問題は、煌の強固なプライドとその執拗さにあった。決して教師の権力に頼らない、愚直な姿勢が、何時しか俺への執着心へと形を変えていたのだ。
一時は、付き纏われて気が滅入りかけた事もある。そのくらい、関わりたくない人物なのだ。
「帰らせろ」
「ピアスが増えていたね。右に二つ、左に一つ」
「勝手に見て数えてんじゃねぇ、ッ触ろうとすんな」
俺の言葉に耳もかさず、虎視眈々と獲物を追い詰める猛禽類のように煌は接近する。
ヘッドフォンに伸ばされた手を、今度は強めに払ってやるが、ヤツは何一つ顔色を変えない。
「どうしてまた、こんな目の触れやすい所にのこのこ来てしまったんだろうね。捕まえてくださいと頼んでいるようなものだと気付けない浅はかさ。自分で辟易しないのかい」
「あ"?」
いちいち癪に触りやがる。
やけに目が逸れている煌の視線を追うと、教室札にピントが合わせられた。
そこには『風紀委員会使用』という看板が下げられており、俺は再び大きな舌打ちをする。
こんな所、通るんじゃなかった。とんだ盲点だ。
すると煌は、俺を明らかに嘲笑して、教室前に置かれた机の上にある、立て札を裏に返し、"使用中"の赤色に変えたのだった。
「まあ、少し話をしよう」
「するわけねぇだろ」
「キミは指導対象だ」
「教師でもない奴に指導される筋合いなんざねえ。陰湿に付き纏ってるそっちの方が、余っ程指導対象だろうが。テメェのそれは、ただの私怨だ。……次同じことしやがったら今度は殴る」
「は、やってみればいい」
俺はつかつか煌の元へ歩み寄り、手元の立て札をふんだくる。突然接近された事に、危機感を覚えたのか、ヤツは反射的に一歩退いた。
ああ、アホくさ。
白けた眼差しで一瞥してから、赤に変えられた札を戻し、呆れ混じりに背を向けた。
「──せいぜい、生徒会長には気をつけるんだな」
なんだ、それ。
別れ際、何の前触れもなく放たれた謎の忠告は、釣針のように意識を引っ掛けた。
けれども俺は、眉間に皺を寄せた煌から離れ、駆け足で校舎を出た。
駅までの道中、煌の言葉を思い返してみる。
ピアスを開けたのは、ほんの数日前の話だった。
俺はヘッドフォンをしていたから、あの時は煌からピアスの数や位置は見えなかったはずなのに。
どうして、正確に言い当てられたのだろうか。
普段屋上を住処にしていて、下校のタイミングも態々大勢の生徒とズラしているというのに。
一体どこで把握されたのか検討もつかない。
末恐ろしい男だと、つくづく思った。
それから。
『生徒会長に気をつけるんだな』
風紀委員で生徒会とも接点がある事は分かっているが、用心を促される理由が不明だ。
煌が一方的に敵対心を抱いているのか、はたまた、それ以外なのか。
「妙なのに、目付けられちまったよな俺も……」
小さな溜息に混じった独白が、風と共に流されていく。西の方へ目を向ければ、燃える茜が丁度激しく揺蕩う頃であった。
嫌な足止めをくらって、無駄な時間を過ごした動かぬ証拠だった。
「はあ……」
俺はまた、不機嫌さを子供のように晒け出しながら、ずかずか道を歩いていく。
歩道橋を渡り切り、人通りの多い商店街に差し掛かる曲がり角で、ふと、見覚えのある姿を視界に捉えた。
あれ。
「綿貫?」
その角には、煉瓦の壁が一際目を惹く和やかな雰囲気のベーカリーがあり、辺り一帯に焼きあがったパンの、芳しい匂いが立ち込めていた。
ほんのり、甘く優しい香りは、憤慨していた自分の心をすっかり宥める。
何時もは強く感じるそれも、今ばかりは苛立ちと中和されて、心地良さがあった。
学校と提携している店でもあるベーカリーの、立て看板を見る綿貫は、こちらに気付いていない。
昼休みに俺が教えたから、態々足を運んだというのだろうか。
律儀なヤツ。
しかし、校外で綿貫と会話をするほど親しい間柄でもない。俺達は偶然の再会からの延長線上を滑り渡っているだけ。言わば、何かしらの義務感が作用して、成立している関係。
綿貫からしても、その価値観は同じかもしれない。
別に友達になりたいなんて、言い合っていないし。
俺は気付かぬフリをして、通り過ぎる。
その時、入口の小さなベルを鳴らしながら、ベーカリーの店員が顔を出して、にこやかに綿貫に話しかけた。
「お客様、そろそろ閉店時間になっておりまして。何かお求めでしたら、是非店内の方で承りますので」
俺は遠目でそれを見守る。
ヘッドフォン越しのくぐもった雑踏の中、綿貫と店員は店先で軽く立ち話をし始めていた。
「俺、ここのカツサンドを最近初めて食べたんですけど、とっても美味しくて。購買だと争奪戦で、なかなか食べれないから、立ち寄ってみたんです。今日はもう売り切れになってしまったみたいなので、また明日来ようかなと」
「はぁ〜、有難うございます……! 」
「すみません、ずっとウロウロしちゃってて」
「とんでもないです。また明日、お待ちしております!」
……本当に、律儀なヤツ。
俺は止めていた足を再び動かして、綿貫に悟られる前に、歩みを進めた。
一瞬だけ、対岸通りの綿貫と目が合った気がしたけれど、敢えて気のせいだと視線を逸らす。
アイツが自然体でいる姿までもを監視するような真似事は、後ろめたさを感じざるを得なかったから、ただの通行人として景色に溶け込んだのだ。
街中ですれ違うヘッドフォンをした人々と、殆ど大差のない風貌で、ポケットに両手を突っ込みながら悠長に。
胸の内側が、僅かに熱を持っている。
マフラーを巻いた時の首周りとか、温まり初めたてのカイロみたいな、緩やかに高まる熱さと似ていた。
言ってくれりゃ、先に買っといてやるのに。
授業サボってるから、俺は毎回手に入れやすいし。
どうせ、お前も屋上に来るんだろうし。
俺は別に気にしねえのにな。
あれこれ思いを馳せながら、駅のホームまで辿り着けば、ものの数分で電車が到着する。
ラッシュにはまだ少し早い時間帯の車内は、丁度よく席が空いていて、窓明かりを受けて舞い上がった微小の埃が星屑のように輝いていた。
各駅停車の低い規則的な震動音が、温もりに抱えられた心をあやす揺り籠のように、ひそやかに鳴っている。
綿貫に巡らせていた思考は、徐々に速度を落として、微睡みの中へと染み渡っていく。
俺はうとうととして、睡魔に抗えず、袖仕切りに自身の頭を預けながら、浅い眠りについたのであった。
登下校の電車や屋上、廊下や昇降口。
関わりを持ったことで、意識していなかった場所や空間に、注意を向けられるようになったことが原因だろうが、それはどうやら向こうも同じらしい。
視線がかち合ったからと言って、自発的に声を掛けられることも、大袈裟に手を振られることもない。けれど、俺と目が合うと決まって、アイツは目を開いてから、愛想良く笑った。
俺は社交的とはかけ離れているから、笑い返すことは出来ないが、会釈をするくらいの努力をするようになった。
こうした人間関係の変化で、学校生活に凹凸は出来るものの、それ以外は至って淡々と日々は進んだ。
ただ特筆すべきことが他にあるとするならば、もう一つ。
アイツが屋上に頻繁に顔を出すようになったという事。
何かしら理由をつけて、生徒指導部の目を掻い潜って、昼休みだけはあの場所に居座るのだ。
だから俺は、たった一人の休み時間を過ごす事が減った。
綿貫自身が何を思って、俺と接しているかは正直分からない。素の状態に近い自分を見られた為に後に引けなくなったか、はたまた純粋に仲良くなろうとしているのか。
アイツの事は、第一印象以外で掴みどころが無い。
そして今日も、綿貫は屋上に来る。
「あ、居た居た」
「寧ろいない日がねぇよ。不真面目な生徒だから」
「そうかな?俺の友達に比べたら、針生の方が真面目だと思うけど」
「お前の友達より?幾らなんでもそれは盛ってるだろ」
「いやいや、盛る必要性が無い……!話していたら、君がちゃんとしてる人だって分かるよ。俺の友達は、良くも悪くも緩いから。たまに相性が合わない時があるくらいね」
綿貫は、すっかり気に入ったカツサンドを頬張りながら、何気なく応答する。
「へえ」
さらりと呟かれた言葉に興味を抱き、じっと見つめれば、寸時流れた沈黙が破られる。
そして綿貫は少し言いよどみながら、
「それに……俺、あんまり直感とか外したことなくて。昔から」
と語った。
「直感?」
「なんとなく、相手の考えを読みがちでね。自分が直感と憶測を頼りにしているのがなんでか分からない時もあるけど。でも、何時もそのなんとなく、が当たって」
「俺と相手とかならどうにか凌げるんだけどさ。俺の友達と友達同士とかだと、難しくて。どっちの敵とか味方とかそういう風に分断したくないから」
「君に言うのも変だけど」と付け加えて軽く笑う綿貫は、どことなく自嘲気味だ。
俺が視線を外さずに、相槌を打つのを見て、ほんの僅かはっとしてから、場を繋ぐようにカツサンドを食べる。
これ本当に美味しいね、とか。
購買のパンって学校の近くのパン屋からなんだっけ、とか。
当たり障りのない会話をしながら、あどけなく笑う。
だから俺も、なんとなく。
コイツはきっと、この違和感に縛られて生きてきたのだろうと思っていた。
「……それ、疲れねえの」
「えっ?」
「俺はあんまりそういうの気にして生きてこなかったから、理解があるわけじゃねえけど。分かっちまうのって疲れるだろ。それなりに」
首にかけたヘッドフォンに触れながら、柄になく、あたかも自分事のように告げる。
「ま、あんまし無理すんなよ」
慰めとも励ましとも取れない声音だった自覚はある。俺の投げやりとも言える会話の節目に、綿貫は曖昧な返答をした。
目の前の綿貫は、綿貫であって、綿貫でない。
俺を助けたあの日も、屋上での再会も、友人関係を構築している今も。
アイツはアイツとして生きていないのだと、俺は漠然と察していた。
***
「珍しいな、あざみ君と校舎ですれ違うことがあるだなんて。今日は霰でも降るのかな?」
「てめぇ誰だっけ」
放課後。
帰路に着く俺の目の前に現れた、一人の学生によって、凹凸はある種の均衡を崩されるのである。
綿貫と出会ってからというもの、特に深い意味はないが、俺は以前よりも教室に足を運ぶようになった。
高校三年に進級してからも、まともに授業を受けていなかったから、クラスメイトの大半は知り合いの範疇にも入らない。
ただ一人、コイツを除いて。
俺は覚えていないフリをして、阻まれた道に肩を割り込ませる。
すると、案の定背中に回していた学生鞄を、相当の力で引っ張られ、全身が後方へと傾いた。
感じ慣れた執拗さに、盛大な舌打ちをしてから睨んでやれば、不敵に笑みを浮かべられる。
「ッにすんだよ」
「忘れているだなんて、有り得ないな。……髪はまた染めたようだね。相変わらずの不真面目さだ、感心するな」
鞄を掴む手を叩き落とそうとした時、振り上げた手を瞬発的に掴まれる。
硬く握られて僅かに軋む手首を注視している内、すうと、耳の横から髪の毛を掬われ鳥肌が立つ。
反射的に鞄を持っていた腕を振り上げ、それを弾いた。その中身は筆記用具と二冊のノートくらいで、重量はさほど無い。どこに当たろうと、怪我には至らないはずだ。
ヤツは不意の衝撃にうっと呻いて、手を離す。
「しつけぇな、てめぇみたいなの知り合いにいた覚えねぇよ」
「薄情者。もう高校一年の記憶は遠い昔になってしまったのかい」
「知らねぇっつってんだろ、ひったくり」
俺はふつふつと湧き上がる苛立ちを露呈させながら、階段の方へ爪先を向ける。
「まだ話は終わってない。これは風紀委員としての仕事だ。規則に則って従ってもらわないとね」
その目付きは、まるで濃煙だ。
空気をじわりじわりと侵食して、分厚い靄の中で烟り続ける炎を、瞳に宿している。
煌千寿。
俺が出会してきた人間の中で、頂点に君臨すると言っても過言ではない厄介な男。
赤の他人である方が、これ程までに幸福だと感じられる人間はそういない。
高校一年生の頃、素行不良に拍車がかかっていた俺に、真っ先に目をつけた風紀委員のクラスメイトが煌である。
しかし、ただ注意や生徒指導部に報告されるくらいなら、こうも記憶にこびりつかない。
問題は、煌の強固なプライドとその執拗さにあった。決して教師の権力に頼らない、愚直な姿勢が、何時しか俺への執着心へと形を変えていたのだ。
一時は、付き纏われて気が滅入りかけた事もある。そのくらい、関わりたくない人物なのだ。
「帰らせろ」
「ピアスが増えていたね。右に二つ、左に一つ」
「勝手に見て数えてんじゃねぇ、ッ触ろうとすんな」
俺の言葉に耳もかさず、虎視眈々と獲物を追い詰める猛禽類のように煌は接近する。
ヘッドフォンに伸ばされた手を、今度は強めに払ってやるが、ヤツは何一つ顔色を変えない。
「どうしてまた、こんな目の触れやすい所にのこのこ来てしまったんだろうね。捕まえてくださいと頼んでいるようなものだと気付けない浅はかさ。自分で辟易しないのかい」
「あ"?」
いちいち癪に触りやがる。
やけに目が逸れている煌の視線を追うと、教室札にピントが合わせられた。
そこには『風紀委員会使用』という看板が下げられており、俺は再び大きな舌打ちをする。
こんな所、通るんじゃなかった。とんだ盲点だ。
すると煌は、俺を明らかに嘲笑して、教室前に置かれた机の上にある、立て札を裏に返し、"使用中"の赤色に変えたのだった。
「まあ、少し話をしよう」
「するわけねぇだろ」
「キミは指導対象だ」
「教師でもない奴に指導される筋合いなんざねえ。陰湿に付き纏ってるそっちの方が、余っ程指導対象だろうが。テメェのそれは、ただの私怨だ。……次同じことしやがったら今度は殴る」
「は、やってみればいい」
俺はつかつか煌の元へ歩み寄り、手元の立て札をふんだくる。突然接近された事に、危機感を覚えたのか、ヤツは反射的に一歩退いた。
ああ、アホくさ。
白けた眼差しで一瞥してから、赤に変えられた札を戻し、呆れ混じりに背を向けた。
「──せいぜい、生徒会長には気をつけるんだな」
なんだ、それ。
別れ際、何の前触れもなく放たれた謎の忠告は、釣針のように意識を引っ掛けた。
けれども俺は、眉間に皺を寄せた煌から離れ、駆け足で校舎を出た。
駅までの道中、煌の言葉を思い返してみる。
ピアスを開けたのは、ほんの数日前の話だった。
俺はヘッドフォンをしていたから、あの時は煌からピアスの数や位置は見えなかったはずなのに。
どうして、正確に言い当てられたのだろうか。
普段屋上を住処にしていて、下校のタイミングも態々大勢の生徒とズラしているというのに。
一体どこで把握されたのか検討もつかない。
末恐ろしい男だと、つくづく思った。
それから。
『生徒会長に気をつけるんだな』
風紀委員で生徒会とも接点がある事は分かっているが、用心を促される理由が不明だ。
煌が一方的に敵対心を抱いているのか、はたまた、それ以外なのか。
「妙なのに、目付けられちまったよな俺も……」
小さな溜息に混じった独白が、風と共に流されていく。西の方へ目を向ければ、燃える茜が丁度激しく揺蕩う頃であった。
嫌な足止めをくらって、無駄な時間を過ごした動かぬ証拠だった。
「はあ……」
俺はまた、不機嫌さを子供のように晒け出しながら、ずかずか道を歩いていく。
歩道橋を渡り切り、人通りの多い商店街に差し掛かる曲がり角で、ふと、見覚えのある姿を視界に捉えた。
あれ。
「綿貫?」
その角には、煉瓦の壁が一際目を惹く和やかな雰囲気のベーカリーがあり、辺り一帯に焼きあがったパンの、芳しい匂いが立ち込めていた。
ほんのり、甘く優しい香りは、憤慨していた自分の心をすっかり宥める。
何時もは強く感じるそれも、今ばかりは苛立ちと中和されて、心地良さがあった。
学校と提携している店でもあるベーカリーの、立て看板を見る綿貫は、こちらに気付いていない。
昼休みに俺が教えたから、態々足を運んだというのだろうか。
律儀なヤツ。
しかし、校外で綿貫と会話をするほど親しい間柄でもない。俺達は偶然の再会からの延長線上を滑り渡っているだけ。言わば、何かしらの義務感が作用して、成立している関係。
綿貫からしても、その価値観は同じかもしれない。
別に友達になりたいなんて、言い合っていないし。
俺は気付かぬフリをして、通り過ぎる。
その時、入口の小さなベルを鳴らしながら、ベーカリーの店員が顔を出して、にこやかに綿貫に話しかけた。
「お客様、そろそろ閉店時間になっておりまして。何かお求めでしたら、是非店内の方で承りますので」
俺は遠目でそれを見守る。
ヘッドフォン越しのくぐもった雑踏の中、綿貫と店員は店先で軽く立ち話をし始めていた。
「俺、ここのカツサンドを最近初めて食べたんですけど、とっても美味しくて。購買だと争奪戦で、なかなか食べれないから、立ち寄ってみたんです。今日はもう売り切れになってしまったみたいなので、また明日来ようかなと」
「はぁ〜、有難うございます……! 」
「すみません、ずっとウロウロしちゃってて」
「とんでもないです。また明日、お待ちしております!」
……本当に、律儀なヤツ。
俺は止めていた足を再び動かして、綿貫に悟られる前に、歩みを進めた。
一瞬だけ、対岸通りの綿貫と目が合った気がしたけれど、敢えて気のせいだと視線を逸らす。
アイツが自然体でいる姿までもを監視するような真似事は、後ろめたさを感じざるを得なかったから、ただの通行人として景色に溶け込んだのだ。
街中ですれ違うヘッドフォンをした人々と、殆ど大差のない風貌で、ポケットに両手を突っ込みながら悠長に。
胸の内側が、僅かに熱を持っている。
マフラーを巻いた時の首周りとか、温まり初めたてのカイロみたいな、緩やかに高まる熱さと似ていた。
言ってくれりゃ、先に買っといてやるのに。
授業サボってるから、俺は毎回手に入れやすいし。
どうせ、お前も屋上に来るんだろうし。
俺は別に気にしねえのにな。
あれこれ思いを馳せながら、駅のホームまで辿り着けば、ものの数分で電車が到着する。
ラッシュにはまだ少し早い時間帯の車内は、丁度よく席が空いていて、窓明かりを受けて舞い上がった微小の埃が星屑のように輝いていた。
各駅停車の低い規則的な震動音が、温もりに抱えられた心をあやす揺り籠のように、ひそやかに鳴っている。
綿貫に巡らせていた思考は、徐々に速度を落として、微睡みの中へと染み渡っていく。
俺はうとうととして、睡魔に抗えず、袖仕切りに自身の頭を預けながら、浅い眠りについたのであった。

