半透明のエトセトラ

 「ひっ」と掠れたような、上擦った声が反射的に零れる。

 自分の耳に触れる綿貫の方を睨みつけて、その手を牽制した。情けない声を聞かれた事に対しての羞恥心と、掌で転がされるているような苦い思いが一同に押し寄せると、顔にじわじわと熱が溜まっていく感覚がする。

 わなわなと震える俺を見て、綿貫は初め目を見開いたまま硬直していたけれど、次の瞬間には揶揄するような笑みを浮かべた。
 今コイツにどんな文句をぶつけても、きっと通用しないし、調子に乗るだけだろう。
 何せ、触るなと掴まれた手とは逆の手を、面白がって近付けようとしてくるのだから。

 こんなに意地の悪い奴だったか。人の顔色ばかり窺って、過剰に距離感を気にするような性分の男だったと思っていたのだが、どうやらそれもまた"仮面"らしい。

 俺は先回りしてアイツの反対側の手を弾き、警戒しつつ耳を抑えながら後退した。
 同時に。乾いた音が歩道橋に響くのを、綿貫はその反響が鉄骨に打ち付けられてずっと消えるのを、じっくり、宙に放り出された手を止めたまま聞いている。

 顔を見合せている状態に耐えられず、駅の方の商店街へと爪先を向けると、綿貫が名前を呼んだ。

 「……針生」

 「うっせぇ喋んな。近寄んな」

 「擽ったかった?」

 「わざと言ってんのかそれ」

 こちらは擽ったい所の騒ぎではない。
 ただでさえ人よりも数倍音を拾いやすい耳を持っているのだ、あんな至近距離で会話などされたら、堪ったものではないことくらい予想が着いて当然の話じゃないのか。

 俺の耳を『大事にしなきゃ』と言ったのは、お前だろう。

 そう、俺は言動の矛盾について咎めようと迫り上がる衝動を、ぐっと抑える代わりに盛大な溜息を吐いて、気を紛らわせた。
 綿貫は呆れ顔の俺を見て、またくすりと実に憎たらしく笑い、浮ついたステップで距離を詰め、そして肩を並べた。

 「まあ、出来れば俺は俺のままで針生と関わりたいんだけど。もし針生が、本当の俺が嫌い!ってなったら、いくらでも──」

 「俺はそんな猫被り屋なんざ絶対好きになんねえから。そもそも、あんな理由で付き合いたいとか小学生かよ。可愛いからとか、ちっとも嬉しくねえし。俺は男だし」

 コイツは確かに、恋人として俺と付き合いたいと言った。
 心のセフレという関係が、綿貫の頭のネジを一、二本飛ばしてしまったのかもしれない。
 たった数ヶ月の付き合いで、互いの何を理解したと言えるのだろう。俺は綿貫が何故告白するに踏み切れたのか分からず、気の迷いだと言い聞かせるように否定する。

 「男とか関係ないし、可愛いも本当だよ。俺が初めて君と会った時の第一印象だから、間違いない。人の特徴覚えるの早い方だから」

 「何、お前俺が駅でゼーゼー苦しんでる中、可愛いとか思ってたの」

 「…………うーん?」

 「否定しろよ」

 結局、コイツと付き合いたくない理由が増えただけであった。

 ダラダラと終着点のない話を展開しながら道を歩き、ホームに到着してからも、中身のない空論ばかりに時間を浪費している。
 綿貫が素であろうがいまいが、関係が続いていようがいなかろうが、俺の態度が変わることはこれからもないけれど、活き活きと喋る綿貫の声を聞いていると、自然とその明るさに絆されて、不意にもたれ掛かりそうになる自分がいた。

 学校という、他者からの評価がまとわりつく空間から解放された綿貫からすると、誰の目も気にしなくて良い場所は、やはり相当息がしやすいのだろう。
 まるで水を得た魚だ。

 俺は綿貫のころころ変わる表情を見つめていると、どうしてか、このありのままの姿だけは、誰に壊される事を許してはいけないという気持ちに駆られる。
 透明な仮面を壊して、暴いてみたいと思った俺の好奇心は確かに叶えられたけれど。それは俺が、綿貫に過度な理想や期待を抱いていなかったから、素のアイツが誰かの予想外でも、すんなり受け入れられたのだ。

 けれどもし、この関係を俺以外の人間と築いていたら。相手が綿貫の同級生や、友人、告白してきた女子だったら。
 きっと買い違えた商品みたいに「こんなはずじゃなかった」と告げられていたかもしれない。
 そうなったならば、綿貫は本来の自分という仮面をも壊されてしまうだろう。

 それは……なんだか嫌、だ。
 訂正、嫌な気がした。

 誰にも侵略されない、誰にも自分の気持ちを決め付けさせない。
 過去の俺は、そう抵抗することが敵わなかった。
 嫌の一つも言うことが出来なかったけれども、今は違うのだと信じたい。

 だから、もし綿貫が過去の自分と同じような目に遭う瞬間に対峙した時、俺は──。

 「……綿貫」

 「ん?」

 駅のホーム。共に電車待ちをしていた綿貫に、ぼそりと、呼び掛ける気力のない、小さな声で名前を呼ぶ。綿貫はこれに直ぐに気づいて、やや腰を曲げてご丁寧に俺が話すのを待った。

 見切り発車で言い始めたは良いが、次の言葉を決めかねて、俺は呼びつけたくせ沈黙を貫いている。
 だが、申し訳ないとは思わない。
 俺が駅で過呼吸を起こした時、献身的に介抱をしながら、内心『可愛い』だなんて思っていたコイツの暴露を聞いていなければ、少しは気も変わったろうが。

 本当に思い悩んでいる半分と、焦らして少し振り回してやろうという気持ち半分で、俺は電光掲示板をちらと見ながら、"答え"を考えた。

 到着のアナウンスが流れ始めた所で、俺は口を開く。

 「あの関係でいるのは嫌なんだろ」

 「え?そ、うだね。俺としては嫌というか、自分が納得しないから」

 「でもどのみち俺と関わってはいたい」

 「うん」

 俺は敢えて綿貫から視線を外し、電車の来る方向を眺めながら、ヘッドフォン越しに接近する走行音に耳を傾ける。

 「それなら、なってみるか」

 「え?」

 ザーッと電車の流れに合わせて、疾風が駅のホームに吹きすさぶ。綿貫の疑問符も掻き消す勢いで。
 この電車の扉が俺達の前に止まる前の、僅かな時間を逃すまいと、アイツの処理速度も無視をして話を続ける。

 「恋人関係ってやつ」

 綿貫に、聞こえただろうか。
 聞こえていなければ、仕方がない。こんな意味の分からないセリフを二度言ってやれるほど、俺の心は広くない。

 表情を見ている限り、思考が追いついていなさそうだ。小さく口を開けたまま硬直していて、俺と目も合いやしないのだから、処理が間に合っていないことは明らかである。

 こんな突飛な提案を持ちかけたのは、"同情"なのかもしれない。
 過去の俺と、ありのままでいられる居場所を求める綿貫への。

 だからこれは、何も両想いだというロマンチックな夢のある話でなく。
 あくまで、綿貫が俺の前では綿貫らしくあれることを土台にした上での提案だ。
 学校外で関係を継続するにはなかなか骨が折れるし、自然消滅するか意味の無いものになりそうなのだから、いっそのこと恋人紛いになってしまえば楽だろう。

 「俺の意識は変わんねぇよ。お前が好きにしたいなら、俺はそれでいい」

 「針生は、そうしたい?」

 そうしたいか、と問われると。否。
 かといって、そうしたくないのに無理に付き合ってるのかと問われても、否。

 俺ははっきりした答えを直ぐに返すことができず、扉が開いた電車の中へ間延びした声を上げながら乗り込む。

 「俺は針生の本音が聞きたい。俺がそうしたいから、じゃなくて。嫌な事は嫌って言って。俺に気は遣わないんでしょ」

 定刻通りに発車した電車には、乗客が数人疎らに座っていたが、綿貫は空いている席に腰を下ろそうとせず、俺の返事を待った。

 「……気なんて遣ってねぇよ。勘繰りすぎだ」

 俺は鼻で軽く笑いながら空席に座り、神妙な面持ちでいる綿貫を見上げる。

 「そ、れって……両想いってこと?」

 「なにをどうとったらそうなるんだよ。言ったろ、なってみるか(・・・)って。別にお前といて悪い気がしねえのは素直に認めるし、好きになるかどうかは今後のお前次第だから。だから、冗談じゃねえなら、それなりに本気でぶつかってこいよ」

 そうして笑ってみせてやれば、綿貫の頬が車内の白色光の下ではよく目立つ、瞳と同じ淡い薄紅色を帯びた。
 じっと下から覗かれるのが耐えられなくなったか、いそいそ綿貫は俺の隣に拳一つ分の隙間を空けて腰を下ろす。

 「……照れてんのお前」

 「照れてるように見える?」

 「あぁ、見える」

 「もっと表情筋鍛えなきゃな……」

 俺が赤くなっている顔を指摘してやると、綿貫は両手で自身の表情を覆い隠し、小さく背中を丸めた。少しの揶揄もストレートに受け止めてしまう綿貫を慰めてやるように、背中を軽く叩いてやる。

 「ハハッ、バカ真面目。俺の前でいちいち気にしてたら身がもたねぇって」

 「針生は俺に幻滅しないの?こんなに強引に好きになって欲しいとか、行ってるのに」

 「しねぇな。俺はそこまで自分にも人にも期待してないんでね。その方が相手も気楽だろ。俺は遠慮しねぇしお前を振り回すつもり。だからお前もお前でいいよ。寧ろあれくらいが丁度いい」

 綿貫は緩慢な動きで顔を上げ、俺を横目に見つめた後、車窓へ向き直る。それから、言葉を噛み締めるように暫く黙り、また俺を改めて見やり

 「……そっかぁ」

 と、そう顔をほころばせた。
 無くし物を見つけた子供が、それを胸に押し抱きながら手を繋いで家路に着くように。