半透明のエトセトラ

 返せ、とどれだけ強く促しても、綿貫は頑なにこれに応じようとしなかった。

 初めは両耳を塞いだまま、アイツが突発的な行動をとったことを後悔して、こちらに返しに来るものだとばかり思っていたけれど、一向にその気配はない。痺れを切らした俺は、強引にでも取り返そうと、間合いを詰めて手を伸ばす。

 しかし、あろうことか綿貫は、返す素振りを見せるどころか、俺の意に反してヘッドフォンを持ち上げる。
 見上げる首に角度がややつくくらいの身長差を埋めようとしながら、息が次第に乱れていく俺を見て眉を顰めるばかりで。

 正気かどうかを疑った。そんな意地の悪い行動をするようなやつでは凡そ俺の知る限りではなかったから。
 少なくとも、"俺の知る限り"では。

 「冗談でやってんなら殴る……ッ!!とっととそれ返せ……!!」

 綿貫に怒りをぶつける自分の声でさえ、耳が痛い。真剣さが伝わっていないのか、コイツが正気でないのか、分からずに同じ言葉を何度も繰り返す。返せ返せと兎に角焦るだけで精一杯だった。
 今の自分に、綿貫の心緒を察している余裕などどこにもない。

 すると綿貫は反対側の手で、ヘッドフォンを取り上げようと伸ばされた俺の右手を掴み、

 「冗談なんかでやるもんか」

 と絞り出すような声で言い放ったのである。

 関係を今日限りにしたいと告げた本人のする表情とは、到底思えないほど、険しい面持ちで。
 感情を抑え込み、怒鳴りも、声を張り上げもしなかったのは、俺への情けだろうか。

 言い返すタイミングを奪われ、心の中で纏まらない言葉達を掻き集めながら、綿貫の方を見やる。
 綿貫は俯き加減に逸らしていた視線で、俺の顔色を窺うのではなく、真っ直ぐな眼差しをこちらに向けていた。

 その薄紅色の瞳が、夕陽を反射して、炎のように燃えている。

 「俺は、確かに針生との関係に見切りをつけたよ。でもそれは、噂が原因じゃない。俺の評価が下がるからとか、そんな理由じゃないんだ」

 「じゃあなんだよ」

 俺が一歩踏み込んで尋ねれば、綿貫の左目がぴくりと痙攣する。聞かれたくないという気まずさや嫌悪が、露骨に顔に現れることを、俺以外の人間は知っているのだろうか。と、疑問とも小さな苛立ちとも例え難い感情が脳裏を過ぎる。

 しかし、自分の評価が下がることを、"そんな理由"呼ばわりするとは思わなかった。
 コイツにとっては、外から見えている自分の仮面が如何に精巧な造りを保てているかどうか、好まれるかどうかが最も重要だから。

 「その理由じゃなきゃ、なに。お前にとって他の奴らの評価は大事なもんだろ、保身に走るのは当然だ。それに最初から俺は、お前のことなんて……」

 だからこそ、俺の前にいる時の綿貫が、例え自発的に認めていたとしても、素の状態であるとは信じていなかった。

 人から好かれる自分を演じ分けられるならば、俺に好かれる綿貫紡も演じられて当然だからだ。
 結局はあの関係性も、虚構に過ぎない。
 薄々その事実に気付き始めていたから、綿貫に対してなんとも思わないように目を背けてきた。

 その方が都合が良かった。
 二人の関係を引き結んでいた糸が、何かの拍子に断ち切られたとしても、未練たらしく嘆くことはしなくて済むのだし。

 アイツ自体、ありのままの綿貫紡として生きることよりも、偽りの綿貫紡として生きることの方で慣れてしまっているのだから。

 そして周りの人間は、綿貫が誰に対しても完璧で優秀で、優しく平等であることを、密かに期待している。
 "綿貫紡ならきっと"そんな理想論やエゴで、無自覚に縛り付ける。

 何も知らない奴らの、中身のない言葉で、綿貫の意思も俺達の関係も、簡単に裂かれてしまうことに、無性に腹が立っていた。

 綿貫がそれを妥協していることにも。

 「針生…………怒ってる?」

 ふと、綿貫の目つきが和らぐ。

 「ヘッドフォン奪われて怒らねぇわけねぇだろ」

 「それはそうだけど……っ、でも違うように思うんだ、もっと別な事に」

 「俺の顔色窺ってる場合かよ。俺が腹立ってんの分かってんなら返せ。もう帰る。っおい……!」

 隙を見て空いている手を伸ばすと、綿貫は再びヘッドフォンを持ち上げて、俺から引き離そうとする。
 何がしたいのか全く分からず、心に這う黒い靄が一層濃さを増す。

 「このまま帰って欲しくないから、こうしてるんだ。言っただろ、冗談なんかじゃないって」

 「だったらなんだって聞いてンだ。ハッキリ答えろ、答える気がねぇなら帰らせてくれって」

 掴まれた右手を振りほどき、追い詰めるように捲し立てると、綿貫は殊の外食らいつき、まだ宙にあった俺の手をもう一度取りながら開口した。

 「ッ君と居て、本当の自分が分かるようになっていくのが、怖かったんだ」

 吐き出された綿貫の声は、鼓膜をびりびりと揺らして、音が途切れた後でも、暫く耳に消えずに残っていた。

 「俺の評価が下がるからじゃなくて、俺は自分に対して怖くなったんだ。俺がどんな顔で接したって、針生は俺に期待も幻滅もしなかった。俺が本当に何も偽らずに君と話をしている確証もないのに、ずっと受け入れてくれた」

 「わた……」

 「でも君と付き合えば付き合うほど、君以外の人の前でどんな顔をしていたか、分からなくなった。いつか嘘の顔だと気付かれて、壊れるんじゃないか、怖くなった。告白してきた女の子にキスされた時も、同級生から針生との噂について触れられた時も」

 口を挟む余地もなく、綿貫は浮かび上がった感情をそのまま言葉にするかのごとく、絶え間なく紡ぎ続ける。
 こちらに一途な眼差しを向ける双眸が、徐々に潤み始め、声は鼻にかかったように篭もっていく。

 俺はその様を黙って見守っていたが、綿貫は堪えきれずに落涙して俯いてしまった。

 そこでふと、自分が綿貫の繊細な、ガラスのような仮面の下を暴いてしまっていることに気がつく。罅が入った透明に繕ってきたそれを、くっつけて直すには、高温度の熱が必要だった。

 その熱を俺は持っていないのに、アイツの仮面を壊していたのかもしれない。

 「……あの関係を意識して君の隣に、ずっと居たら俺がダメになる。保身は保身なんだ。それは間違ってない。だから、学校で接触するのは避けるべきだと思った。君の言う通り、影響があると思ったし……。それに。俺は」

 次を言いかけたところでぷつん、と言の葉が途切れ、アイツは胸の上につっかえていた息を吐き切る。それからもう一度酸素を肺に送ってから、怯えたような声音で

 「俺は君が好きだから。針生にも、俺を好きになって欲しかった。俺が君にだけは嘘をついていないって、信じさせたい。本心が語れる関係だから、そうしているんじゃないって。君といるときだけは、周りの人間のことに気を取られなくて済んだんだ。自分をやめなくてよかったんだ」

 と、そう訴えた。

 俺と綿貫との間に、北風が一つ吹き抜けていき、地面に落ちていた木の葉を巻き上げると、からから音を立てて夕空へと行進させていく。
 哀愁を漂わせた僅かな時間(とき)の中で、あの風と共に舞った綿貫の声は、寂しさを包みこむ温さがあった。

 "好きになってほしい"。
 そのセリフは、どこか聞き覚えがあり、俺は止まっていた脳の歯車を回す。

 あれは、屋上で煌と綿貫が鉢合わせた後だった。

 煌が好いていた自分を、思い出させて欲しいと頼んだ綿貫に、俺は『お前を好きになったことがないから分からない』と答えて。
 ならば、と返された言葉がそれだった。

 本気になどしていなかったし、アイツが何を言おうと、俺はそうかと受け止めるだけの関係性だ。
 願いを叶える何でも屋ではない。
 それ故、気弱になった綿貫が無自覚に取る衝動的な言葉だろうと思っていたのである。

 俺の頭は滅茶苦茶な綿貫の主張を整理するだけで手一杯だったというのに、俺が帰ろうとした瞬間往生際悪く、声を張り上げたものだから、余計に煩雑になって仕方がない。

 だから。
 今聞こえている綿貫の声が、嘘か本当か、分からない。

 「本心でいられる関係に寄りかかって、君に想いを伝えたくないし、ああお世辞なんだなって勘違いされたくない。俺は、もっと違う形で君と話したい、ただ受け入れてもらうんじゃなくて、俺も針生のことを受け入れたい」

 どっちだ。今のコイツは、どっちで話している。

 「じゃ、関係を解消したいって言ったのは、俺と関わる事で演じられなくなった、素のお前が他の奴らに知られるのを避けたかったって事と、俺との関係をやり直したかったから、って事かよ」

 「そう」

 「は……嘘」

 俺は今までのような確証を持てないまま、手探りで綿貫の本心を知ろうと尋ねる。
 けれどアイツは首を横に小さく振って苦笑した。

 「い、言ったそばから疑われてる……。でも本当。この気持ちは、本当だよ」

 綿貫から説明をされても俺には納得ができなかった。
 確かに昼休みや放課後という短時間だけ素を許されて、それが終われば演者に戻らなければならないと考えると、負担は大きかったのかもしれない。

 それでも、互いに釣り合いの取れた関係性だったことに違いはなかった。ましてや、アイツが俺から好かれたいという理由だけで手放すなんて、やっぱり有り得ないと思ったのだ。

 好かれたいのは、誰の為だ。
 綿貫の為か、俺の為か。

 俺が周りと同じように、アイツを好きになれば、俺が変な目で見られることもなくなるだろうから?
 アイツが俺に好かれたら、煌から抱かれていた自分に対しての、好き(・・)が分かるから?

 頭の中で正解を模索する声が、思考を邪魔する。
 自分がかつて薄らと望んでいた、綿貫を覆う硝子の仮面を壊してやれたのに、本当のアイツは何一つ掴めない。

 「お前が、俺のこと好きなのが本当?」

 「うん」

 実際に言われたことを反芻してみても、いまいち納得がいかず、俺は首を傾げた。

 「なんで俺」

 「えっ、針生は俺に馬鹿って言ってくれるし」

 「は。なにそれ」

 わけが分からない。
 空いた口も塞がらず、不満を溜息に乗せる俺に相対して綿貫は呑気に、あっと声を上げる。

 「あと可愛いから」

 「あとってなんだよ、ついでみたいに言う所じゃねぇだろ」

 涙の伝った痕を擦って、頬を緩ませる綿貫に、調子を狂わされる。校内で見かけるような、同級生の奴らに向けるような笑顔とは違う優しさを帯びた表情に、心臓がどくりと跳ねた。

 単に驚いただけ。それ以上でもそれ以下でもない。目の前に映る綿貫は、俺が剥いでしまった仮面の裏側にいる、素のアイツなのかもしれないと思うと、妙に擽ったい気持ちになる。

 その中で、向けられた好きという感情が、俺の為でも、綿貫自身の為でもないと応えるような、素直な笑みに絡まっていた糸が自然に解れていく感覚がした。

 未だ掴まれている手首が落ち着かなくなって、俺は今度こそ振り払い距離を取る。綿貫は名残惜しそうに声を零したけれど、気を遣うことはしなかった。何時もそうしていたし、今更変える気もない。

 一度甘えられると思ったらば、子供みたいに泣くような男だ、真剣に相手をしていたら何時か子守りになるかもしれないし。
 そんな関係性に変わるのは幾らなんでもごめんだ。

 「はぁ……もういい。お前の言い分はなんとなく分かったし、帰る。なんか真面目に考えた俺が馬鹿だった」

 俺は今度こそ背を向けて、校門へと歩き出す。その後ろから、困惑の色を滲ませた綿貫の声が投げられるが、それに返事もせずつかつか歩いていった。
 ヘッドフォンをしていない両耳が、すうすうと風を通して冷えていくのに耐えながら。

 「え?っへ、ヘッドフォンは!針生!」

 すると後方から慌てて砂を蹴る足音がし始める。
 綿貫に追いつかれる前に、態と歩調を早めて距離を離そうとする俺へ、更に驚嘆する音も。
 このままだと遠くなるばかりだと思ったのか、地面を叩くリズムが早くなるのを見計らって、俺も走り出す。

 「うぇえ!?なんで受け取らないの?!」

 その声に応じてやるように、俺は綿貫の方へ振り返り、すうと息を吸った。

 「取ったなら責任もって返しに来いって意味だバーカ!」

 我ながら理不尽な暴論を、笑いながら投げつけてやると綿貫は露骨に眉を困らせる。
 直ぐに追いつくつもりで、最初からスピードを上げたのか、アイツは軽く息が上がっている様子だった。

 「──か、返しに行ってるのに!じゃあ逃げないで止まれって!」

 「あー聞こえねぇ聞こえねぇ。奪ったお前が悪い」

 両耳を塞いで聞こえないフリをして、俺と綿貫は歩道橋までの道のりを、幼稚な追いかけっこで繋いだ。
 辿り着く頃には、持久走をした後みたいにお互いじんわりと汗をかいていて、馬鹿みたいな絵面だったなと自嘲気味に笑った。

 歩道橋の手摺に腕を乗せて、もう地平線に沈みかけた太陽を眺めていると、ヘッドフォンを俺に戻した後、隣に並んだ綿貫が呟く。

 「針生は、どんな俺なら好きになってくれる」

 「泣き虫はお断り。前も言った」

 「じゃあ泣き虫じゃなかったら好きになってくれる?」

 俺は甘えるように小首を傾げてこちらを見る綿貫の額を、ぱちんと叩いてやり、「いやなんねぇけど」とツッコむ。

 「まずその頼んでんのがおかしいっつーの。ラブレターとか渡してくる奴の気持ちに寄り添ってから言え。俺にばっか好き好き言いやがって。普通の友達未満みてぇなのに」

 「本当に好きだから言ってるんだよ」

 「だから──」

 「付き合うなら針生とがいい。キスしてきた女の子にも、このラブレターを書いてくれた子にも、この好きはあげるつもりがないから」

 街路灯がカチカチ、と音を立てながら点灯する。
 あっという間に沈んでいった太陽の代わりに、そのぼんやりとした明かりが俺たちを照らしていた。
 綿貫は制服の内ポケットの、ラブレターをしまった場所を上からそっと手で撫でてから、迷いの無い動きで俺に視線を戻す。

 付き合うなら。
 そう聞き返せば、端的に勿論恋人としてと、先読みされていたかの如く返される。
 橋の下で往来する車の音も、電車の走行音も煩わしいはずが、不思議と鼓膜に響いてこない。

 身体が無意識に綿貫の声だけを拾おうとしてい たのである。

 「泣き虫をやめて、もし針生が俺のお願いを断らなくなるなら、きっと止められるよ。……もちろん俺は、素のままを知られてるから演技で止めていたらバレちゃうかもしれないけど」

 「でも、俺は、どんな綿貫紡にもなれるから。君に望まれれば、生徒会長にも、不良にも」

 語られる声に集中していて、頭の中は真っ白だった。反発しようとした言葉も、感情も磨りガラスの窓の向こう側に封じ込められている。
 気付けば綿貫はそっと、俺の耳へ口元を寄せて、その音以外届かない距離にいた。

 そうして反応が遅れている隙をついて、逃れないようにと耳に触れながら

 「本当の恋人にも、セフレにも、ね」

 と甘ったるい声で告げたのだった。