綿貫との距離が一層近くなったような気がしていた。
それは勿論、約二ヶ月近く授業以外の殆どの時間を共にしている時点で、それなりに関係性が深まる頃合なのだろうが。
とはいえ綿貫自身、まだまだ俺の顔色を頻繁に伺って、愛想笑いをする事もある。校舎内で見掛ける時の、完全無欠の生徒会長スマイルというやつである。
中でも俺にとって分かりやすいのが、その声音だ。
ひょっとすると、普段は完璧に調律が合わされている分、ちょっとしたボロに耳が違和感を覚えるよう鍛えられたのかもしれない。
笑顔を振りまき、明るく愛嬌の良い声で接する綿貫と、至って他人のフリをして廊下をすれ違う度に、「今日の昼休みは荒れそうだな」と予想がつく。
かなりの打率でぶち当たるものだから、きっとこの感覚は嘘じゃない。
今ばかりは、この過敏さに助けられている。
綿貫と行動するようになって以降、俺は真面目に授業に参加する事が増えた。
それ故に学校での滞在時間も伸びているわけで、委員会の仕事に引っ張りだこな綿貫とも屋上以外で接触する機会も多くなってきていた。
朝休みの時間。
偶々通りがかった生徒会室から、綿貫の声が聞こえて、自然にぴたりと足が止まった。
文化祭が近くなってきたからと、何かと朝から仕事があるようで、俺は心の中で労いつつ、和気藹々とする室内から漏れ出る雰囲気を感じる。
しかしどうにも、話が文化祭らしくない。
俺はヘッドフォンをしたまま、隣のクラスの友人を待つような顔をして、聞き耳を立てた。
「そういや綿貫会長。付き合ってる子とは最近どうなんすか?というか誰なんですか」
「ん〜、秘密」
「やっぱりかぁ……。もう女子なんて噂ばっかりしてるんすよ?俺達も気になることには気になりますけど」
「俺がこれ以上喋ったらまたどんどん広まっちゃうだろ?だから秘密主義者でいるよ、俺はね」
「まぁ会長ともなると、なんでもゴシップレベルっすから仕方ないか」
そういえば。
告白してきた女子に、綿貫は付き合っている子がいるという口実でフッたことを思い出す。
あれを未だ貫き通しているとは。
噂が広がることは予測できただろうに、綿貫は自分の影響力を見誤っていた。
墓穴を掘り状況的に危ういものの、アイツの不信感を覚えさせない自然な演技力に感心しながら、耳を傾け続ける。
「あ、そうだ。噂といえば、俺気になってたんすけど。会長、最近不良に絡まれてるってマジっすか?あの、問題児の」
カチッと、時計の短針と長針がぴったり重なり合った一瞬のような空気の硬直を感じる。
不良と問題児という二語でだけでも、語られているのが自分の事であると分かった。
この学校に、不真面目で目につくような人物が俺以外にいないという事を理解していたから、余計に過敏な反応をしてしまったのかもしれない。
俺は綿貫がどう答えるのか予想出来ず、小さな緊張を纏った心臓を抑えるように、組んでいた腕に力を込める。
後輩であろう生徒に尋ねられた綿貫の返答は、僅かに遅れていた。
「ええ?誰が言い始めたの、そんな噂。絡まれているっていうのは、どういう?カツアゲみたいな?」
綿貫は軽く笑い、真に受けていない様子でそう応えていたが、その声は表向きのアイツにしては珍しく、困惑の色が滲んでいる。
廊下で盗み聞きをしている俺の気持ちもまた、妙に上擦っていた。
「詳細までは知らないっすけど、そんな感じのニュアンスでしたよ。ほら、針生あざみって言うヤンキーと」
自分の名前に触れられた途端、脳が思考を停止した。綿貫がどう答えるか、そればかりに気を取られてしまう。
ヤンキーだなんだと噂されること自体はさして問題ではないし、廊下ですれ違えばコソコソと自分の話をされている事くらい日常的にある。
風評も事実が故に、俺が前に出て否定する気もさらさらない。
けれど、綿貫は俺のような人間とは本来無縁の位置にいる。接点のある所を傍から見れば、金でもたかられてるのかと思われてもおかしくないだろう。
俺と綿貫──二人だけの間に得はあっても、綿貫とコイツを評価する人間の間に、俺達の関係がある事で得られるものはない。
「針生、あざみ……」
綿貫は俺の名前を反芻したものの、会話を繋げることができなかった。
「屋上に一緒に行くところを見たって。本当なんすか?」
無知故に綿貫に詰め寄る後輩の声に、何故だか俺まで圧迫感を覚える。
綿貫がなんと答えようが、俺には瑣末な事なのだけど。
「うん。本当だよ」
「ガチですか?!なんでまた、あんな不良と会長が……どんな関係で?」
「何でもないよ。屋上って立ち入り禁止だから、注意してたのを一緒に行動してるっていう風に捉えられたんじゃないかな」
「あ〜、それはそうかも。ちょっと安心したっす。これで実は親友です!とか来たら俺椅子から転げ落ちてましたよ」
後輩の軽い笑い声から幾つか間を置いて、綿貫は困ったような重い声音で笑う。
「あ、あはは、ないない。親友は流石にまだない、かな」
「ああいう危ないのとは、関わらないのが一番っすよ会長」
どうだっていい事だ。
だって、今後輩と話している綿貫は、俺だけに見せる素の綿貫じゃない。
仮面を被って、好かれる自分を演じて、しかし周囲から浮かないように、自分に細工を施している。
だから、綿貫があの部屋の中で何を言っても、それは偽りだ。
偽りのはずだけど。
俺達の関係が、綿貫の口から"ない"事にされるのは、例え嘘だとしても耳に障った。
傷ついたわけでも、特別悲しいわけでもない。
ただ、俺と綿貫が利益の関係で成り立っていることを、今更ながらに噛み締めたら、やけに心が白けてしまったのだ。
何も無いわけじゃない。確かに、俺たちの間には──。
そうして、脳内に浮かんできた言葉の続きは、何処にもない。
「もし、俺が針生あざみ君と友達とかだったら、どう思う?」
そう尋ねた綿貫に、俺は無意識に俯いてた顔をはっと上げる。
「え?どう……?単純に疑問が湧くっす。関わってもメリットとか無さそうなんで」
「メリットかデメリットかで俺が人と関わってるって言いたいのかなそれは?」
「いやいや違うっす!でもアイツずっとヘッドフォンして、"俺に近寄んじゃねぇ"オーラ出してるし、隣校と喧嘩したりしてるし……そんなのと一緒って、会長らしくないから」
「……そっか、俺らしくない。……そうかもしれないね。関わらない方がいい、のかも」
綿貫は小さな同意を零した。
納得しているような、自分に言い聞かせるかのような独白じみた応答に、俺の頭を埋め尽くしていた葛藤の声たちが、パタリと止んだ。
俺はそれ以上立ち聞きをすることなく、教室へと向かう思いを捨てると共に、踵を返し屋上を目指したのである。
なんだろうか。
胸が気持ち悪い。
癪に触られたような、出処のない不快さと苛立ちが渦巻いている。
同時に背後で、生徒会室の扉が開く音が聞こえる。出てきた二つの足音の内、一つがその場に留まった。靴底と床の間から鳴ったキュッ、という摩擦音の矛先が、自分に向けられている事に気付く。
きっと綿貫が、俺を見つけたのだろう。
思わず振り返りそうになるのを堪えて、気怠げな足取りで廊下を歩く。
教室周りで固まっていた生徒の、変な物でも見るような視線や言葉が、全身を刺してきて、それが今ばかりは鬱陶しかった。
変な目を向けられる事くらい、なんとでもなかったのに。
俺はヘッドフォンを抑えながら歩調を早めた。
しかし、その足を止める声が体を貫いた。
「……ッ針生」
決して大きくはなかったが、俺の耳にも残る声。
アイツが誰かを呼び止めただけで、ざわ、と廊下の空気が一変するのが、電流のように皮膚に伝わっていく。嫌な予感がした。
恐る恐る振り向いてみれば、案の定綿貫がそこにいる。周囲は徐々に静まり返り、この瞬間を見つめる沈黙の観客と化した。
堂々と話しかけるなんて、馬鹿なことする奴があるか。演じてるならそのまま無視しろ、なんでこっちに来た。
よりにもよって、こんな公衆の面前で。
「……あ、いや、その」
しかも考えなしかよ。
"つい話しかけてしまった"と言わんばかりの震えが声に出ている。接点を持った以上、変な間が空けば誤解生まれ、噂所では無くなるだろう。
素の衝動に負けるなど、アイツらしくもない。
「ごめん急に……」
「生徒会長が俺に何の用。暇か?」
大袈裟くらいに冷たくあしらってやると、近寄ってきた綿貫の口元がひくりと歪む。
何も言い返さず、口ごもったままでいるヤツの顔を、俺は訝しむように見つめた。次第にその表情が、混乱の色に染まっていくのを察知して、二人の間だけに緊張感が走る。
綿貫は、自分で創り上げた完璧な"綿貫紡"に戻れなくなっていたのだ。
「……用がねぇなら行く。もう話しかけんなよな」
ただでさえ変な噂が流れていて、野次馬も居る状況下で、俺と綿貫の関係性が露呈するのはまずい。
俺は背を向けて、廊下を歩き始める。一歩一歩を踏み出す足がぎこちなくて、後ろを振り返りそうにもなったが、その気持ちは心の奥底にぐっと押し込んだ。
アイツの音が、それ以上追ってくることはなかった。
その後、綿貫は屋上に顔を出さないまま、時間が過ぎるのだった。
***
綿貫が現れなくなって丁度一週間が経過した頃のある昼休み。
色なき風が体温を下げるから、肌を擦りながら今日もアイツを待った。
否、待っているわけではないのだけれども。
別に、綿貫と関わりを持っていない時だって、俺はここに来ていたし。
何時もと同じ日々に戻っただけだ。
けれど、俺は外す必要のないヘッドフォンを、膝上に置いたまま、心のどこかで屋上の扉が開くのではないかと、ぼうっとアイツの虚像を見ていた。
そんな空っぽになりかけている俺を、まるで予期していたかのように、タンタンと階段を上る足音が鼓膜に届く。ゆっくりと開かれた戸の先に在る人影を、早く確認しようと、じっと動向を目で追った。
そこには確かに、綿貫がいた。
俺は内心、ここ一週間のことを尋ね尽くしてやる算段でいたが、いざ目の前にすると、何一つ言葉が出てこない。
「ずっと、居てくれているんだね」
考えている内に綿貫に先を越され、俺は流れるままに相槌を打つ。
「……別に、お前の為にここにいるわけじゃねぇし」
「それは確かにそうだった。ごめん、お邪魔しちゃって」
肩を竦めて苦笑する綿貫は、こちらに歩み寄り、ある地点でぴたりとその足を止めた。ベンチ一つ分の、間を残した場所で。
その距離の取り方に既視感を覚えていた俺は、疑念の残る顔を向ける。
綿貫は瞬時に俺が何を言わんとしているかを察して、罰が悪そうに視線を逸らした。
開示しにくいことでもあるのだろうか、と俺はアイツの"声"を待った。
表情だけで綿貫を判断する事は、毎日横に居ても出来ないから、そうする他ない。
腫れ物とさえ思っていたこの感覚過敏も、今となっては立派な機能を果たしているといえた。
一呼吸置いて、綿貫は逡巡した末に漸く開口する。
「針生に伝えたいことがあって」
重みのある、不安定な音が鼓膜に伝わり、防衛本能か身体が緊張する。
茶化しでも冗談でもない、哀しさが混じったその言の葉を、適当な一つ返事で済ませていいものだろうかと俺は躊躇った。
「久々に顔出したと思えば、いつになく真剣だな。どうした」
「……俺達の関係、ここで終わりにしよう」
気を紛らわせるように、膝上のヘッドフォンを触っていた己の指先が小さく跳ねる。
何れは終わりの来る期限付きの関係性なのだから、今更驚くことでもない。そんな事は初めから分かりきっていた。
未練がましく言及する程、深い関係でもなし。
だから、特段ショックを受けはしなかった。
寧ろ、自分のやけに冷静な心持ちの方が、驚きである。
せめて瞬時に、何故だと引き留めるような気持ちは向けるべきかと、俺は自分自身に義務感を抱いた。
「……三ヶ月、まだ経ってねぇけど」
「ごめん。こっちの都合で……俺が期限を決めたのに」
綿貫は腕をさすりながら応える。
その視線はかち合わない。俺がじっと、気まずくなるくらいに凝視してみても、表情は分からず、口数も極端に少なかった。
突拍子もなく別れを切り出すには、それなりに理由があるだろう。噂か、校内での自分のイメージダウンか、煌の牽制か。俺みたいなのと関わっているというだけで、要因は幾らでも浮かんだ。
俺と綿貫の間でしか、得は生まれないのだから、外界にとって望ましくない影響の方が遥かにあるだろう。
未練がましい気持ちが湧く前に、解消してしまった方が賢明だ。俺はそう思い至って、綿貫の決断に首肯した。しかしただ納得したでは終わらせない。
「関係解消は分かった。でも、切る前に、一つだけ聞きたい」
「な、なに?」
「その判断は、本当の綿貫紡がした事か」
懸念は、俺と違って綿貫には山ほどあるだろうけれど。綿貫自身に作られた都合の良い完璧なアイツを差し引いて、それが本音と合致していれば、何も言うことはあるまい。
しかしもし、アイツ自身が胸にしこりを持ったまま、関係を終えようとしているのなら、首を縦に振ることは出来なかった。
綿貫は俺から問われると、更に声音を暗くして言い淀む。
「もう今日限りでお終いなんだから、君が気にすることない」
嘘だ。
「終わりだとしても無かったことにはならねぇだろ。それに、今はまだ関係は切れちゃいねぇよ。お前が屋上から出ていくまでは」
「じゃあ、俺は、……ここから出ていくよ。短い期間、ありがとう」
これも嘘だ。
有難うなんて思っちゃいない。そんな、さよならみたいな言葉を吐くような音じゃない。
ここから出ていくつもりも、きっとないはずだ。
綿貫の声を聞いた俺にはそんな確信があった。
コイツが建前や偽りを口にする時、言葉と言葉の間に、妙な間がある。書き起こすには難しい、小指ほどの瞬間的にも思える程の短い呼吸が、笠雲のように声に乗しかかっているのだ。
それまで美しく奏でられていたピアノの、たった一音の調律の乱れは耳に障って仕方がない。
割り切っていると豪語していた胸中には、本音が次々と浮かんでは消えていた。
けれど、アイツが俺の前で素でいるという選択を手放して、社会や人から好かれる理想像の体現者になりたいと言うのであれば、結局止めることはできない。
それが本心ならば、尚更。
綿貫は俺に背を向けて、扉の方へとゆっくりとした歩調で進んで行く。
どうしてだか、その背中を見ていると、落ち着かなくなる。
「ッ綿貫……!」
胸騒ぎに堪えきれず、俺は咄嗟に綿貫を呼び止めてしまった。
これにアイツは瞬発的に振り向き、目を見開いたまま、何かを言いかけたような口を閉じる。
自分の中では、肩を叩くくらいの声量のつもりだったけれど、実際はその想定を超えるほどに大きな声が出たものだから驚いた。
そのせいで、喉元まで用意していた掛けるべき言葉をすっかり忘れてしまったのである。
綿貫は俺の二の言葉を待っているが、白紙になった頭では、伝えたいことも語ることができない。
「…………場所は空けといてやるから」
脳から絞り出された答えは、まるで戻ってこいとでも言っているようなものだった。
アイツはそれに相槌を打つことなく、ただぐっと唇を引き結んだ後、身を翻して屋上を後にしたのである。
残された俺は、暫く時が止まったような感覚に陥っていた。
それは勿論、約二ヶ月近く授業以外の殆どの時間を共にしている時点で、それなりに関係性が深まる頃合なのだろうが。
とはいえ綿貫自身、まだまだ俺の顔色を頻繁に伺って、愛想笑いをする事もある。校舎内で見掛ける時の、完全無欠の生徒会長スマイルというやつである。
中でも俺にとって分かりやすいのが、その声音だ。
ひょっとすると、普段は完璧に調律が合わされている分、ちょっとしたボロに耳が違和感を覚えるよう鍛えられたのかもしれない。
笑顔を振りまき、明るく愛嬌の良い声で接する綿貫と、至って他人のフリをして廊下をすれ違う度に、「今日の昼休みは荒れそうだな」と予想がつく。
かなりの打率でぶち当たるものだから、きっとこの感覚は嘘じゃない。
今ばかりは、この過敏さに助けられている。
綿貫と行動するようになって以降、俺は真面目に授業に参加する事が増えた。
それ故に学校での滞在時間も伸びているわけで、委員会の仕事に引っ張りだこな綿貫とも屋上以外で接触する機会も多くなってきていた。
朝休みの時間。
偶々通りがかった生徒会室から、綿貫の声が聞こえて、自然にぴたりと足が止まった。
文化祭が近くなってきたからと、何かと朝から仕事があるようで、俺は心の中で労いつつ、和気藹々とする室内から漏れ出る雰囲気を感じる。
しかしどうにも、話が文化祭らしくない。
俺はヘッドフォンをしたまま、隣のクラスの友人を待つような顔をして、聞き耳を立てた。
「そういや綿貫会長。付き合ってる子とは最近どうなんすか?というか誰なんですか」
「ん〜、秘密」
「やっぱりかぁ……。もう女子なんて噂ばっかりしてるんすよ?俺達も気になることには気になりますけど」
「俺がこれ以上喋ったらまたどんどん広まっちゃうだろ?だから秘密主義者でいるよ、俺はね」
「まぁ会長ともなると、なんでもゴシップレベルっすから仕方ないか」
そういえば。
告白してきた女子に、綿貫は付き合っている子がいるという口実でフッたことを思い出す。
あれを未だ貫き通しているとは。
噂が広がることは予測できただろうに、綿貫は自分の影響力を見誤っていた。
墓穴を掘り状況的に危ういものの、アイツの不信感を覚えさせない自然な演技力に感心しながら、耳を傾け続ける。
「あ、そうだ。噂といえば、俺気になってたんすけど。会長、最近不良に絡まれてるってマジっすか?あの、問題児の」
カチッと、時計の短針と長針がぴったり重なり合った一瞬のような空気の硬直を感じる。
不良と問題児という二語でだけでも、語られているのが自分の事であると分かった。
この学校に、不真面目で目につくような人物が俺以外にいないという事を理解していたから、余計に過敏な反応をしてしまったのかもしれない。
俺は綿貫がどう答えるのか予想出来ず、小さな緊張を纏った心臓を抑えるように、組んでいた腕に力を込める。
後輩であろう生徒に尋ねられた綿貫の返答は、僅かに遅れていた。
「ええ?誰が言い始めたの、そんな噂。絡まれているっていうのは、どういう?カツアゲみたいな?」
綿貫は軽く笑い、真に受けていない様子でそう応えていたが、その声は表向きのアイツにしては珍しく、困惑の色が滲んでいる。
廊下で盗み聞きをしている俺の気持ちもまた、妙に上擦っていた。
「詳細までは知らないっすけど、そんな感じのニュアンスでしたよ。ほら、針生あざみって言うヤンキーと」
自分の名前に触れられた途端、脳が思考を停止した。綿貫がどう答えるか、そればかりに気を取られてしまう。
ヤンキーだなんだと噂されること自体はさして問題ではないし、廊下ですれ違えばコソコソと自分の話をされている事くらい日常的にある。
風評も事実が故に、俺が前に出て否定する気もさらさらない。
けれど、綿貫は俺のような人間とは本来無縁の位置にいる。接点のある所を傍から見れば、金でもたかられてるのかと思われてもおかしくないだろう。
俺と綿貫──二人だけの間に得はあっても、綿貫とコイツを評価する人間の間に、俺達の関係がある事で得られるものはない。
「針生、あざみ……」
綿貫は俺の名前を反芻したものの、会話を繋げることができなかった。
「屋上に一緒に行くところを見たって。本当なんすか?」
無知故に綿貫に詰め寄る後輩の声に、何故だか俺まで圧迫感を覚える。
綿貫がなんと答えようが、俺には瑣末な事なのだけど。
「うん。本当だよ」
「ガチですか?!なんでまた、あんな不良と会長が……どんな関係で?」
「何でもないよ。屋上って立ち入り禁止だから、注意してたのを一緒に行動してるっていう風に捉えられたんじゃないかな」
「あ〜、それはそうかも。ちょっと安心したっす。これで実は親友です!とか来たら俺椅子から転げ落ちてましたよ」
後輩の軽い笑い声から幾つか間を置いて、綿貫は困ったような重い声音で笑う。
「あ、あはは、ないない。親友は流石にまだない、かな」
「ああいう危ないのとは、関わらないのが一番っすよ会長」
どうだっていい事だ。
だって、今後輩と話している綿貫は、俺だけに見せる素の綿貫じゃない。
仮面を被って、好かれる自分を演じて、しかし周囲から浮かないように、自分に細工を施している。
だから、綿貫があの部屋の中で何を言っても、それは偽りだ。
偽りのはずだけど。
俺達の関係が、綿貫の口から"ない"事にされるのは、例え嘘だとしても耳に障った。
傷ついたわけでも、特別悲しいわけでもない。
ただ、俺と綿貫が利益の関係で成り立っていることを、今更ながらに噛み締めたら、やけに心が白けてしまったのだ。
何も無いわけじゃない。確かに、俺たちの間には──。
そうして、脳内に浮かんできた言葉の続きは、何処にもない。
「もし、俺が針生あざみ君と友達とかだったら、どう思う?」
そう尋ねた綿貫に、俺は無意識に俯いてた顔をはっと上げる。
「え?どう……?単純に疑問が湧くっす。関わってもメリットとか無さそうなんで」
「メリットかデメリットかで俺が人と関わってるって言いたいのかなそれは?」
「いやいや違うっす!でもアイツずっとヘッドフォンして、"俺に近寄んじゃねぇ"オーラ出してるし、隣校と喧嘩したりしてるし……そんなのと一緒って、会長らしくないから」
「……そっか、俺らしくない。……そうかもしれないね。関わらない方がいい、のかも」
綿貫は小さな同意を零した。
納得しているような、自分に言い聞かせるかのような独白じみた応答に、俺の頭を埋め尽くしていた葛藤の声たちが、パタリと止んだ。
俺はそれ以上立ち聞きをすることなく、教室へと向かう思いを捨てると共に、踵を返し屋上を目指したのである。
なんだろうか。
胸が気持ち悪い。
癪に触られたような、出処のない不快さと苛立ちが渦巻いている。
同時に背後で、生徒会室の扉が開く音が聞こえる。出てきた二つの足音の内、一つがその場に留まった。靴底と床の間から鳴ったキュッ、という摩擦音の矛先が、自分に向けられている事に気付く。
きっと綿貫が、俺を見つけたのだろう。
思わず振り返りそうになるのを堪えて、気怠げな足取りで廊下を歩く。
教室周りで固まっていた生徒の、変な物でも見るような視線や言葉が、全身を刺してきて、それが今ばかりは鬱陶しかった。
変な目を向けられる事くらい、なんとでもなかったのに。
俺はヘッドフォンを抑えながら歩調を早めた。
しかし、その足を止める声が体を貫いた。
「……ッ針生」
決して大きくはなかったが、俺の耳にも残る声。
アイツが誰かを呼び止めただけで、ざわ、と廊下の空気が一変するのが、電流のように皮膚に伝わっていく。嫌な予感がした。
恐る恐る振り向いてみれば、案の定綿貫がそこにいる。周囲は徐々に静まり返り、この瞬間を見つめる沈黙の観客と化した。
堂々と話しかけるなんて、馬鹿なことする奴があるか。演じてるならそのまま無視しろ、なんでこっちに来た。
よりにもよって、こんな公衆の面前で。
「……あ、いや、その」
しかも考えなしかよ。
"つい話しかけてしまった"と言わんばかりの震えが声に出ている。接点を持った以上、変な間が空けば誤解生まれ、噂所では無くなるだろう。
素の衝動に負けるなど、アイツらしくもない。
「ごめん急に……」
「生徒会長が俺に何の用。暇か?」
大袈裟くらいに冷たくあしらってやると、近寄ってきた綿貫の口元がひくりと歪む。
何も言い返さず、口ごもったままでいるヤツの顔を、俺は訝しむように見つめた。次第にその表情が、混乱の色に染まっていくのを察知して、二人の間だけに緊張感が走る。
綿貫は、自分で創り上げた完璧な"綿貫紡"に戻れなくなっていたのだ。
「……用がねぇなら行く。もう話しかけんなよな」
ただでさえ変な噂が流れていて、野次馬も居る状況下で、俺と綿貫の関係性が露呈するのはまずい。
俺は背を向けて、廊下を歩き始める。一歩一歩を踏み出す足がぎこちなくて、後ろを振り返りそうにもなったが、その気持ちは心の奥底にぐっと押し込んだ。
アイツの音が、それ以上追ってくることはなかった。
その後、綿貫は屋上に顔を出さないまま、時間が過ぎるのだった。
***
綿貫が現れなくなって丁度一週間が経過した頃のある昼休み。
色なき風が体温を下げるから、肌を擦りながら今日もアイツを待った。
否、待っているわけではないのだけれども。
別に、綿貫と関わりを持っていない時だって、俺はここに来ていたし。
何時もと同じ日々に戻っただけだ。
けれど、俺は外す必要のないヘッドフォンを、膝上に置いたまま、心のどこかで屋上の扉が開くのではないかと、ぼうっとアイツの虚像を見ていた。
そんな空っぽになりかけている俺を、まるで予期していたかのように、タンタンと階段を上る足音が鼓膜に届く。ゆっくりと開かれた戸の先に在る人影を、早く確認しようと、じっと動向を目で追った。
そこには確かに、綿貫がいた。
俺は内心、ここ一週間のことを尋ね尽くしてやる算段でいたが、いざ目の前にすると、何一つ言葉が出てこない。
「ずっと、居てくれているんだね」
考えている内に綿貫に先を越され、俺は流れるままに相槌を打つ。
「……別に、お前の為にここにいるわけじゃねぇし」
「それは確かにそうだった。ごめん、お邪魔しちゃって」
肩を竦めて苦笑する綿貫は、こちらに歩み寄り、ある地点でぴたりとその足を止めた。ベンチ一つ分の、間を残した場所で。
その距離の取り方に既視感を覚えていた俺は、疑念の残る顔を向ける。
綿貫は瞬時に俺が何を言わんとしているかを察して、罰が悪そうに視線を逸らした。
開示しにくいことでもあるのだろうか、と俺はアイツの"声"を待った。
表情だけで綿貫を判断する事は、毎日横に居ても出来ないから、そうする他ない。
腫れ物とさえ思っていたこの感覚過敏も、今となっては立派な機能を果たしているといえた。
一呼吸置いて、綿貫は逡巡した末に漸く開口する。
「針生に伝えたいことがあって」
重みのある、不安定な音が鼓膜に伝わり、防衛本能か身体が緊張する。
茶化しでも冗談でもない、哀しさが混じったその言の葉を、適当な一つ返事で済ませていいものだろうかと俺は躊躇った。
「久々に顔出したと思えば、いつになく真剣だな。どうした」
「……俺達の関係、ここで終わりにしよう」
気を紛らわせるように、膝上のヘッドフォンを触っていた己の指先が小さく跳ねる。
何れは終わりの来る期限付きの関係性なのだから、今更驚くことでもない。そんな事は初めから分かりきっていた。
未練がましく言及する程、深い関係でもなし。
だから、特段ショックを受けはしなかった。
寧ろ、自分のやけに冷静な心持ちの方が、驚きである。
せめて瞬時に、何故だと引き留めるような気持ちは向けるべきかと、俺は自分自身に義務感を抱いた。
「……三ヶ月、まだ経ってねぇけど」
「ごめん。こっちの都合で……俺が期限を決めたのに」
綿貫は腕をさすりながら応える。
その視線はかち合わない。俺がじっと、気まずくなるくらいに凝視してみても、表情は分からず、口数も極端に少なかった。
突拍子もなく別れを切り出すには、それなりに理由があるだろう。噂か、校内での自分のイメージダウンか、煌の牽制か。俺みたいなのと関わっているというだけで、要因は幾らでも浮かんだ。
俺と綿貫の間でしか、得は生まれないのだから、外界にとって望ましくない影響の方が遥かにあるだろう。
未練がましい気持ちが湧く前に、解消してしまった方が賢明だ。俺はそう思い至って、綿貫の決断に首肯した。しかしただ納得したでは終わらせない。
「関係解消は分かった。でも、切る前に、一つだけ聞きたい」
「な、なに?」
「その判断は、本当の綿貫紡がした事か」
懸念は、俺と違って綿貫には山ほどあるだろうけれど。綿貫自身に作られた都合の良い完璧なアイツを差し引いて、それが本音と合致していれば、何も言うことはあるまい。
しかしもし、アイツ自身が胸にしこりを持ったまま、関係を終えようとしているのなら、首を縦に振ることは出来なかった。
綿貫は俺から問われると、更に声音を暗くして言い淀む。
「もう今日限りでお終いなんだから、君が気にすることない」
嘘だ。
「終わりだとしても無かったことにはならねぇだろ。それに、今はまだ関係は切れちゃいねぇよ。お前が屋上から出ていくまでは」
「じゃあ、俺は、……ここから出ていくよ。短い期間、ありがとう」
これも嘘だ。
有難うなんて思っちゃいない。そんな、さよならみたいな言葉を吐くような音じゃない。
ここから出ていくつもりも、きっとないはずだ。
綿貫の声を聞いた俺にはそんな確信があった。
コイツが建前や偽りを口にする時、言葉と言葉の間に、妙な間がある。書き起こすには難しい、小指ほどの瞬間的にも思える程の短い呼吸が、笠雲のように声に乗しかかっているのだ。
それまで美しく奏でられていたピアノの、たった一音の調律の乱れは耳に障って仕方がない。
割り切っていると豪語していた胸中には、本音が次々と浮かんでは消えていた。
けれど、アイツが俺の前で素でいるという選択を手放して、社会や人から好かれる理想像の体現者になりたいと言うのであれば、結局止めることはできない。
それが本心ならば、尚更。
綿貫は俺に背を向けて、扉の方へとゆっくりとした歩調で進んで行く。
どうしてだか、その背中を見ていると、落ち着かなくなる。
「ッ綿貫……!」
胸騒ぎに堪えきれず、俺は咄嗟に綿貫を呼び止めてしまった。
これにアイツは瞬発的に振り向き、目を見開いたまま、何かを言いかけたような口を閉じる。
自分の中では、肩を叩くくらいの声量のつもりだったけれど、実際はその想定を超えるほどに大きな声が出たものだから驚いた。
そのせいで、喉元まで用意していた掛けるべき言葉をすっかり忘れてしまったのである。
綿貫は俺の二の言葉を待っているが、白紙になった頭では、伝えたいことも語ることができない。
「…………場所は空けといてやるから」
脳から絞り出された答えは、まるで戻ってこいとでも言っているようなものだった。
アイツはそれに相槌を打つことなく、ただぐっと唇を引き結んだ後、身を翻して屋上を後にしたのである。
残された俺は、暫く時が止まったような感覚に陥っていた。

