半透明のエトセトラ

 俺にとって、世界とは剣山(けんざん)のようなものであった。

 ありとあらゆる刺激に満ち満ちていて、気の休まる場所など一つもありはしない。

 街中に飛び交う人々の無機質な雑踏は、猛烈な雹。
 クラスや商店街にあるショッピングモールの中で、混ざり会う声は、まるで砂嵐だ。

 通りをすれ違う人から漂う、香水や定食屋の匂いは鼻腔を突き抜けて痛いから、大抵善し悪しさえ分からない。
 光の眩さを、美しいと感じたこともない、それは忽(たちま)ち網膜を叩く金槌に変わってしまうから。

 芸術家や音楽家達が、人々の心を動かす為に見初てきた物は、俺の前では無骨な武器になる。

 俺はそれがどうしても悔しくて、一度だけ母に泣きついたことがある。
 "どうして俺だけこんな体なの"と。

 聡明な母は俺を慰めるように言った。
 「この世にある見えない物までも愛せるように、神様がそうした」と。

 何処までも優しい声だった。けれど。
 違うと思った。

 俺は、神様から"世界の何も、愛すな"と言われているようだったから。


 ***

 朝八時。平日の通勤通学ラッシュ。

 階段から転げ落ちる勢いで走る会社員、集団で登校する学生に子連れ。
 駆け込み乗車をするなと注意する駅員の声も虚しく、電車が到着するなり、どたどた切羽詰まって人が押し寄せる。

 そうした人々の生活の流れを、一つの空間に閉じ込めて、凝集させながら、ゆらゆら揺れる時間。

 即ち──満員電車。

 俺の最も苦手なもの。

 『まもなく、三番線に電車が到着いたします。危ないですので、黄色い線の内側までお下がりください』

 お決まりのアナウンスがホームに響き渡ったのを合図に、俺は前に背負ったリュックサックからヘッドフォンを取り出す。
 中学まではイヤーマフを装着して一日中動いたけれど、耐性がついたからか、それほどの努力は必要なくなった。
 高校に上がる段階で、特別扱いをされるのが嫌だからという我儘で、ヘッドフォンに変えることを選んだ。

 ただの反抗だった。
 "自分から特性を公表せずに生活するなら、他者に適切な対応をされずとも文句は言えないぞ"と父からは釘を刺された。

 それでも、良かった。

 特別扱いは単なる孤独に過ぎないから。

 徐々にスピードを落とし、止まった車体の扉に我先にとぞろぞろ人が集まる。
 開いた瞬間、足を踏み出した俺の背を、荷物やら人の手やらが押しやり、半ば蹴躓くように奥の方へ乗車した。

 何より、今日は電車が遅延しているうえ、雨がしとしと降っていて、混雑に拍車がかかっている。あまりに最悪のコンディションと言っていい。

 ああ、気が重い。息苦しい。

 人の熱気と湿度の高さで、じんわり汗ばむ背中に張り付くシャツが気持ち悪いし。
 多種多様な香水とか、制汗剤とか、湿気や汗の匂いなんかが、無尽蔵に掻き混ぜられていて、マスク越しに鼻の奥がツンと痛んできている。

 それでも、俺はただ音楽を聞いている学生のように、何も気に止めていない様子で、暫し電車に揺られていた。

 この時までは。

 途端に、流れを覆さんばかりの車内アナウンスが流れる。

 『緊急停止いたします。お近くの手すりや吊革にお掴まり下さい。繰り返します─』

 一瞬ドクン、と確かに心臓が息を止めたのが分かった。
 ブレーキをかけた瞬間、ただでさえ、おしくらまんじゅう状態の車内は一方向に殊更密集する。
 手前の方でどうにか堪えていた、小柄な女子高生の「きゃ」と言う潰れるような悲鳴が聞こえた。

 かく言う俺も、大柄な会社員二人の間に挟まれて、頼みの綱と吊革を掴もうと伸ばした手は、虚空を掠め、倒れかける。
 進行が止まると、今度は前の方へ全員の身体が、一本の糸で纏められているかのように引き戻され、口々に驚きの声が漏れた。

 その時、会社員の抱えていたリュックがぶつかり、衝撃に耐えかねたヘッドフォンが、自分の耳からするりと外れたのである。

 「あ」と思う頃には、床に落ちていて。

 拾う為に身を捩ることも敵わず、内心酷く狼狽した。

 ヤバい。早く拾わねぇと……っ。

 周囲の音が直に鼓膜を叩き始め、そうして、緊張に固まっていた心臓が、必死に血を回そうと思い返したように焦り出す。

 『ただいま、前方の踏切にて緊急停止信号があった為停止いたしました。駅員による確認を行う為、発車まで少々お待ちください』

 突如流れた車掌の声に肩が跳ねる。反射的に両耳を塞ごうとしたが、それも心許ない。

 落ちたヘッドフォンに気付いていた人は居たけれど、動きに制限のある車内では、気が咎めてしまい、慮りさえ現せないようだった。

 俺は、パッと頭上の電光掲示板に目をやる。
 あと一駅か二駅程度なら、耳を塞いで凌げばいい。出来るだけ、早く動き始めてくれさえすれば。そう願って。

 けれども願いは虚しく、まだ目的の駅まで片手を超えるくらいにはあった。俺は自分を安心させるように、胸を擦りながら、気を落ち着かせることだけを考えた。

 暫く人と人との間で揉みくちゃになっていると、

 『電車が発車いたします。ご注意ください。尚、お隣の駅で安全点検を行います。この為、八分ほど遅れが生じる見込みとなっております。お急ぎのお客様、大変申し訳ございません』

 アナウンスが流れる。淡々とした、無線のような声。
 それまで沈黙していた車内からは、小さなぼやきが上がり始める。
 俺は溜息をつく人々に相対して、ほっとしていた。

 次の駅で一旦降りよう。

 ヘッドフォンを拾って、それから──。

 しかし、思考している内に、心臓がバクバクと生き急ぐ。掴みようのない漠然とした不安感。
 動き出す電車の速度は緩慢で、車輪と線路の衝突する音が耳を劈くようだった。

 「ッ……」

 逃げ場のない完全な密室で、頼りの防音具もない。一つの知覚が過敏になると、それにつられてか、全ての感覚が研ぎ澄まされる。
 無意識に溶け込んでいた不快感が浮上して、血流に混ざって全身を巡っていけば、当然正気ではいられなくなる。

 人間が生きていく為に発達した五感は、さながら俺の精神を蝕む悪魔だった。

 真っ青になっていく脳内への恐怖と、肺に栓をされたかのような息苦しさから解放されるために、車窓に目を向ける。

 その先で、一人の学生と静電気ほどの僅かな時間、視線がぶつかった。パチン、と。
 数えられる明確さもない、ごく自然的な偶然だった。しかし、俺は直ぐにその刹那を忘れる。

 早く、駅に。外に。

 そればかりに支配されていたからだ。

 群衆が動けば、ヘッドフォンにだって手が届く。けど。
 もし今ここで、電車がすれ違ったり、大きな音が流れたりしたら。
 そんな取り留めもない、漠然とした不安だけが胸に募り、俺の思考回路はどんどん麻痺していく。

 もう白み始めた視界の中で漸く、電車が止まった。気付けば、立っているのもやっとの状態になっていて、足の踏ん張りも効かなくなっていた。

 ヘッドフォンを拾おうという算段は、渇いた泥団子みたいに崩れ去り、俺は出口へと流れる人の波に無抵抗のまま押しやられる。
 驚くほど、なんの余力も無かった。

 「は、……っは、ッう、」

 ホームに出るなり、安堵を知った恐怖心が更に肥大化し、あまりの切迫感に耐えきれず、端の方でずるずると蹲る。
 けれども、一時停車するせいか、外は待機する人や乗り込む人でごった返しており、車内の数倍の棘が全身を刺した。

 ああ、これ今日は学校行けねえ、かも。
 また指導室行きだ。叱られる。

 苦痛の中、辛うじて機能する理性で、茫然とそんな事を憂慮していた時。
 再びパチン、と何かが胸の中で爆ぜた。

 「大丈夫……?これ、君のヘッドフォンだよね」

 「ッぁ……?」

 態々俺の前方に回り込んでしゃがみ込み、心配そうに眦を下げる学生が一人。
 金髪が目立つ、人に好かれそうなヤツだった。

 「ずっと体調が悪そうで心配だったんだ。あれだけ人が居て、緊急停止なんかなったら、怖くもなるよ」

 そう言いながら、俺の耳にヘッドフォンを着ける。
 まるで、それが重要な事だと分かっているかのような、躊躇いのない手つきだった。
 見ず知らずの学生に対して、背中を擦りながら、なるだけ奇異的に見られぬように気配りをする様は、俺からすれば明らかな違和感で。

 「ハンカチ、口に当てて。一旦呼吸整えよう、背中叩く音に合わせて声かけるから、そのタイミングで呼吸して」

 「……わ、りぃ……」

 そうプログラムされているみたいだと、無神経に思った。
 渡されたハンカチからは、微かに柔軟剤の香りがした。

 「いいヘッドフォンだね、それ。俺もそろそろ買いたいなぁ」

 赤子でもあやすような具合で、規則的に背中を叩かれ続けながら、俺は少しずつ呼吸を整えていく。その間、この学生の声を聞いていたが、それが妙に落ち着いた。

 パチパチと頭の中で爆ぜ続ける火花が、水の中に吸い込まれた時、肺に詰まっていた栓がやっと抜ける。

 「……なん、で、俺のことわかって」

 「えっ。見るからに顔色が悪そうだったから……かな。同じ八篠(やしの)高校の制服着てたから印象的で」

 そういう事を聞きたいわけじゃない、が。
 でも、そうか。どうりで、見覚えのある服だと思った。

 俺は一人合点がいって、下手な相槌を打つ。
 それに合わせて、学生は言葉を続けた。

 「あと、目が合ったからさ」

 「んなことあったか」

 「俺的には合ったような気がしたんだ」

 「へえ」

 人懐っこい微笑み。裏が無さそうな善良な人間。柔らかくて、どこか温度のない"声"。
 目が合ったと言われれば、不思議とそんな気がしてくるものだが、残念ながら記憶に無く、再び曖昧な相槌を繰り返す。
 それでも、小さく肩を竦めて苦笑する様に、僅かばかり気が緩んだ。

 「……っにしても、あの満員電車の中でか?俺は車両が一緒かどうかも知らなかったのに、よく見てんだな。"人の事"」

 俺がそう呟くと、学生は不意でも突かれたように瞬きを数回繰り返してから、また健気に笑った。

 「……あはは、そうかなあ?」

 「俺だったら気付かねぇわ」

 膝に着いた砂埃を払いながら、壁に手を付き立ち上がる俺を慌てて支えようとする姿は、献身的すぎるというかなんというか。

 絵に書いたような根っからの善人すぎた(・・・)。

 そんな風に、どことなく、コイツの"声"が、完璧に調律をされた、機械みたいに聞こえたのだ。
 悪く言えば、人間味がなく、プロのピアニストが、楽譜を見ながら弾くような、揺るがなさ。

 その音色は、確かに綺麗で、美しくて、聞き惚れてしまうようなものだけれど、音楽記号や維持し続ける時間、コンマ単位の調節さえも計算し尽くされた演奏に、色はない。



 それから次の電車が来るまで与太話を、忙しなく動き回る人の流れを気にせずにした。
 名前も聞かず、変に探り合わず、ただ偶然に巡り会っただけの、それまでの関係のように振る舞い振る舞われながら。

 しかしそれが、丁度良かった。
 丁度良くもあり、微レ存の違和感だった。

 「ヘッドフォン、あんがとな。今日は家帰るわ」

 「気をつけて帰ってね。あ、学校に連絡忘れないように」

 「おう」

 名前も知らない、同じ学校のヤツが、到着した電車に乗り込む姿を見届けてから、俺は反対側のホームへ向かう。


 「……あ、名前聞きはぐった」