死神憑きの契約妻~旦那様の大事な人は私もお守りいたします~

「俺が貴女との結婚を望むのは妹のためだ」
「……妹君のため?」

 座敷で対面して座る軍人服の縁談相手、槙野塚孝弥が世間話もほどほどに告げる。縁談用のいつもより明るい着物に慣れない私がどういう意味かと聞き返すと、不機嫌な彼が茶を飲みながら説明した。

「我が家は代々、異能を持った者が生まれてくる。今代は妹がそれに該当し、次期当主となることが決まっている」
「ええ、存じております。槙野塚家、初の女性当主であると」
「日之影家のご令嬢、宮子嬢ならすでに理解しているだろうが、俺は長男でありながらも異能を持たないため、当主にはなり得ない。その座は潔く妹に譲り渡すつもりだ」

 ええ、ともう一度頷くと、彼はひと口含んだ茶を乱暴に机へ置く。

「しかし多くの女性は〝当主の妻〟という座を狙って俺に近付いてくる。妹が次期当主であると知っていて、わざわざ蹴落としてまで俺を当主とし、その妻に成り上がろうと画策する」
「それは……随分と過激なことでございますね」
「俺はこれまで、そういった女性たちのせいで妹が傷付けられる場面を何度も見てきた」

 鋭く細められた瞳に怒りの色が滲んでいる。その〝女性たち〟の中に、まるで私も含まれているかのように感じた。

「妹は気が弱く純粋で、騙されやすい。優しい言葉をかけられればすぐに心を許してしまう。その性格を利用され、下劣な方法で何度も貶められてきた。俺はもう自分のせいで妹を危険に晒したくはない。それならば俺の妻の座とやらをさっさと無難な人物に差し出せばいい、と考えた」
「その『無難な人物』が私、ということですね」
「そういうことだ」

 彼の意図を早々に理解して、なるほどと心の奥で呟いた。由緒ある槙野塚家の長男から〝世間体に問題のある私〟に突如として縁談が申し込まれた理由、それは愛や恋などといった感情的なものでは決してない。

「焔堂稲荷の守り人として名高かった日之影家の長女という貴女なら、たとえ〝死神憑き〟と曰くのある女性であろうと誰も文句は言えまい。稲荷の守り人は我が家よりも遥かに位の高い身分だから、俺も婿に収まりやすい」
「仰る意味はよく分かりました」

 最後まで言われずとも、私の口は理解の意を言葉にしていた。そして、彼が縁談の内容を詳しく説明する間もなく、冷静な脳が先回って答えを吐き出した。

「この契約結婚、謹んでお受けいたします」



 各地で祀られた神がそれぞれ住まう城――神社は、日本の人々にとって大きな拠り所であった。正しき神はそれを信じる民を護り、強い庇護を与えてくれるとされている。
 そして、その神社を守る役目を担った〝守り人〟には、神から祝福として異能を授けられるというのが古くからの理であった。

 罪人の心の声を聞く耳、大切な者を守り抜く防壁を作り出す手、穀物を育て自然を育む舞を踊る脚。神の与える異能は民にとって希望であり、また神にとっても自身の社を守る重要な要であった。

 槙野塚家は槙野神宮の守り人を代々務めている、元は武家の家柄だ。初代槙野塚の当主が闘いに出向く際、勝利と人々の安寧を祈っていつも同じ場所で心身統一をしていたことが日本の武の神に見初められ、強い武力を得たとして社を建てられた。
 やがて闘いが終わり、時代が移り変わっても、槙野塚の守る土地の民たちは神と彼らを崇め続けた。そうして槙野塚家は今では由緒正しき家格を得たのだ。

 そんな素晴らしい歴史を持つ槙野塚家の長男が、その苗字すら捨ててもいいと言っている。――肩書きなど名ばかりの、曰く付きの女に。

「……日之影家のご令嬢ともなると、随分と冷静なものだな」

 先程まで強気な態度を見せていた槙野塚孝弥は、特に悩む素振りのない私を怪訝な表情で見つめている。疑っているような、警戒を隠しもしない顔つきだ。

「まだ契約内容も詳しく伝えていないというのに、易々と結婚を引き受けるとは……。自分に不利な条件を提示されるとは思わないのか?」
「そんなことには構っていられませんから。それに、当主を失った日之影の名は直に廃れるもの……そんな家の婿に入るという貴方の方が代償は大きいはずです」

「まだ長子の貴女がいるじゃないか」
「私も貴方と同じく当主にはなり得ません。異能がないどころか、日之影の全てを燃やした〝死神〟に憑かれているのですから」

 時代がまだ神社という言葉を生み出して日も浅い頃からとある稲荷神社の守り人を務めてきた、日之影家。初めは焔堂という小さな村のしがない長だった。
 日照りが強い地域で、水分が枯渇し食物が育たない村は深刻な飢餓に苦しんでいた。

 そんなあるとき、村にどこからともなく二匹の狐が現れる。水も食事も得られず弱った狐たちは村の中心で倒れ、悲しきかなその生を終えようとしていた。哀れんだ村長は自身のなけなしの水と食糧を分け与え、二匹を生き返らせた。

 生気を取り戻した狐たちは焔堂の地を気に入り住み着くようになる。すると唐突に雨が降るようになり、枯渇した大地を潤した。育たなかった食物がみるみるうちに育つようになり、やがて村は飢餓を乗り越えた。

 焔堂の村人たちは狐を『神の使いだ』と言って小さな祠を建てると、焔堂稲荷と名付けて狐ごと崇めた。狐たちは村長の血筋を継ぐ日之影の者の中から、神が眠る稲荷の守り人を選んでいるとされ、地名が変わった今も尚その言い伝えは語り継がれている。

 ――しかし、そんな日之影家も長い歴史の末、私の代で途絶えようとしていた。十五年前、私がまだ十歳の頃、日之影家の前当主である父が異能持ちの子を生むことなく亡くなったからだ。

 原因不明の火事だった。逃げ遅れた母と使用人たちも同様に、火の海で亡くなった。生き残ったのは、たまたま熱で乳母と病院に出向いていた私だけだった。
 幼い私が親族に引き取られ暫くして、まだ四十になったばかりの乳母も原因不明の病に倒れ亡くなった。中途半端に私だけが生き残ってしまったせいか、親族たちは皆して私を呪いのように扱った。

『日之影宮子に近付くと、死が迎えにやってくる』

 いつからか私は、世間で〝死神憑き〟と揶揄されるようになっていた。

「日之影の長子とは名ばかりで、全てを壊した私の魂は稲荷神に認められませんでした。我が家の仕来りでは、異能を持たない者はたとえ本家の子であろうと守り人の役目を引き継ぐことはできません」
「宮子嬢の金色の瞳は、歴代当主にもない唯一無二のものだと聞いたが」
「瞳なんてただの飾りですよ。本来なら幼少の間に覚醒するはずの異能が二十五になっても表れないのですから、ただ色素が薄いだけなのでしょう。この通り、肌も恐ろしいほどに白いですから」

 長く伸びた漆黒の髪を顔から除けて、人形のように不気味な肌を見せつける。
 亡くなった父と母は瞳ばかりを見て『きっと素晴らしい異能を授けられているのだ』と期待していたけれど、今も尚その兆候はない。もはや呪いの異能であると考えた方がしっくりくるまである。

 私は外れたのだ、後継者候補から。

 今までに例はないが、複数ある親族の中で異能を持つ者がもし現れたら、守り人の務めもその親族に明け渡され、日之影の名は完全に潰えることとなる。私が異能を覚醒できなかった今では、誰の子が守り人に選ばれるかと親族たちは牽制を始めていた。
 稲荷の守り人、それは家格をも変動させる地位であるため、皆その地位を狙っていた。

 随分前に諦めのついた話を感情もなく告げると、槙野塚孝弥の顔はさらに険しくなった。

「さっきから貴女はこちらになんの期待もしていないように見えるが、婿となる俺との間に子ができれば、日之影の血を絶やすこともなければ次代の後継者を生むことも可能なはずだろう。なぜそこまで己の未来を捨てているんだ」

「私が〝死神憑き〟だからですよ。これまで多くの命が私の周りで失われたのに、自分の子まで死神に連れられてしまっては悲しいではありませんか」
「偶然かもしれないのにそんな迷信のような曰くを信じているのか」
「偶然にしてはあまりに無情ですもの」

 それに、と腕を組み背もたれに体を預ける彼を見る。

「貴方様だって、私との子を望まないでしょう?」
「どうしてそう思う」

 否定もせずまっすぐこちらを睨む。彼の瞳は警戒心の強い獣のようで、短く整えられた銀糸にも似た毛髪は、その警戒心をさらに際立たせる。

「対面してからずっと、私への嫌悪が滲み出ています。言葉の節々にも怒りや憎しみを感じますし、妹君のための結婚であると端から宣言しておられますから、そのような戯れはお望みにならないだろう、と。槙野塚の姓にもあまり執着がないようですし、わざわざ嫌悪している相手と子を生み育てようとは思っていないのでは、と推察いたしました」

 感じたことを包み隠さず伝えると、彼の眉間のシワはより深くなったが、先程より少しばかり気まずさの滲む顔で口を開いた。

「……言い訳をする気はない」

 だが謝る気もない、とその瞳はまた鋭くなる。

「今までの経験から女性に対して良い印象がないからな。死神がどうとかいう話には一切の興味はないが、貴女のことも簡単に信用はできない」
「構いません。気にしておりませんから」
「分かっていて、まだ結婚を受け入れるつもりなのか」
「ええ。これから貴方様の口にする条件が何であろうと、私の答えは変わりませんもの」

 落ち着いて揺るがない決意を口にする。私よりも彼の方が困惑しているようで、眉は左右それぞれ上がったり下がったりを繰り返している。

「それよりもお聞きしたいのは、私の条件も聞き入れてもらえるのか、という点です」
「条件……? ……ああ、無理難題でなければ検討しよう」
「私からの条件は一つだけ。日之影の親族のいない家に私を置いてほしいのです」

 家族を亡くした私が引き取ってもらった親族、花屋敷家では私を人として扱ってくれる者はいない。まるで化け物であるかのように噂され、物置も同然の狭く暗い部屋へ入れられ、使用人にすら遠巻きに陰口を言われる日々。挙句の果てには、誰も世話をしてくれないからと使用人の真似事で家事をしている私を、一人娘の貴音にしつこく邪魔される始末。

 自由がないどころか、人としての尊厳すら踏みにじられる行為の数々に、私の心は疲弊していた。

 しかし、槙野塚の長男から私を指名しての縁談が申し込まれたと聞いて、微かでも未来に希望が見えたのだ。
 長かった地獄からようやく抜け出せるかもしれない、と。

「夫婦で住む家を新しく用意するのでも、別居婚で私一人をボロ屋に閉じ込めても構いません。とにかく、花屋敷家から私を連れ出してほしいのです。それさえ叶えてくれるなら、私は貴方様――いえ、孝弥様の求める通りの妻になると約束しましょう」

 背筋を伸ばし、堂々と瞳を合わせる。はっきりと意思を主張したつもりだったが、彼の顔は拍子抜けと言わんばかりに引きつった。

「……わざわざ言われなくても、貴女には初めから槙野塚の屋敷でしばらく過ごしてもらうつもりだった。妹が無事に当主の座を継ぐまで、俺も屋敷を出るつもりはないから」
「まあ……本当ですか? それはとても有難いです」
「……まさか、貴女の言う条件とやらはそれだけだと言うのか?」
「ええ。これ以外に望むものはありません」

 嘘は言っていないのに、意味が分からない、と彼は肩の力を抜き背を丸くする。

「大抵の女性は契約内容を聞けば文句をつけるだろうと考えていたが、内容すら聞かずにそんな微妙な条件だけ突き出すとは……貴女はどうやら俺の知る女性とは大きくズレているようだな」
「もう私を信用してくださるのですか?」
「いいや、興味のないふりをして狡猾に俺を騙し、妹に手をかける可能性もある。……だが、今のところ俺には貴女が一番都合が良いことに変わりない」
「では、契約成立ということでよろしいでしょうか?」

 急かすように問うと、彼は僅かに悩んでから頷いた。そうしてやっと話された契約内容は、想像の範疇から出ないありきたりなものであった。夫婦としての義務や子は望まない、恋や愛を求めない、婿として日之影家に迎え入れる、といった既に聞いた内容ばかり。

 そして彼にとって最重要な項目〝妹君を害さない〟――これが破られたとき、彼は容赦なく私を切り捨てると言い放った。

 しかしこれも私にとって厳守するのは容易なこと。私は彼の妹君に嫉妬することもなければ、槙野塚当主の妻という座にも関心がない。可愛い義妹をいじめる理由などないのだ。

「もし妹に危害を加えれば、妻といえど俺は容赦しない」

 鋭く睨みつけ何度目かの忠告をする、やがて夫となる人に、承知しましたと私は沈着な態度で返事をした。

 このひと月後、日之影家最後の娘である私と槙野塚孝弥の祝言はつつがなく挙げられた。そして良家の女性たちが羨んでいた彼の姓は、廃れゆく日之影へと変わったのだった。



 祝言を終え、ついに花屋敷の家を出る日。少ない手荷物だけを持って、約束の正午より早く屋敷の門前に立った私に、従妹である貴音が不服そうに声をかけてきた。

「……どうして宮子お姉さまなのかしら」
「……何のこと?」
「槙野塚のご子息との結婚相手に選ばれた理由に決まってるでしょ?」

 派手な花柄の着物をまとい、最近流行りの塗料で肩までのやわらかい髪を茶色く染めた貴音に喧嘩腰で問われるも、私はいつものように態度を崩さない。

「さぁ……私にはさっぱり」
「いくら本家の娘だからって、異能も女としての魅力もないお姉さまを選ぶくらいなら、若くて華やかなあたしの方があの方の隣に相応しいのに」
「そうね。運が良かったのかしら」

 貴音を見ず、ただひたすらに夫となった人の到着を待つ。普段通り笑みも浮かべず関心を示さない私に苛立ったのか、貴音は声を張って大きなため息を吐いた。

「あーあ、お姉さまみたいな暗くて陰気で愛嬌の一つもない女が妻だなんて、孝弥様もお可哀想~。顔は少し怖いけど、焔堂の古臭い仕来りと違って、妹君がいらっしゃらなければ槙野塚の当主にもなれたって噂だったのに」
「旦那様は始めから妹君が当主になることに賛成していたから、そんなもしも話は無意味だわ」

「あ、そう……。でもお姉さまって地味でつまらないくせに性格は嫌味なところがあるし、あの方もすぐに後悔するんじゃない?」
「心配ありがとう。けれど貴女が私の言葉を嫌味のように感じるのは、自分がよく嫌味ばかり口にするからじゃないかしら」
「なっ……!」

 淡々と言い返したのが癇に障ったようで、貴音の声には分かりやすく不快の色が込められた。しかし声を荒げる直前で冷静さを取り戻したのか、息を整えた後に冷笑の音が漏れる。

「フフッ、そうやってあたしのことをバカにしていたらいいわ。どうせお姉さまはあちらの家でも忌み嫌われて、一人になるんでしょうから」
「どうしてそんなことが言い切れるの」

 自信あり気に言う貴音の顔をこの日初めて見てみると、その口元は下劣な笑みを浮かべていた。

「だってお姉さま、〝死神憑き〟だもの」
「…………」
「聞いたのよ、祝言の日のこと。お姉さまの支度を手伝った使用人が、調理場で大火傷を負ったって」

 顔を逸らした私に無理やり迫る貴音。あの日の悲劇について私が詳細を知っているということは、貴音には筒抜けらしかった。

 祝言の直前、花屋敷側の使用人が一人、私の支度に付いてくれていた。使用人歴が長い五十手前の婦人で、花屋敷家に忠誠心の強い有能な人だと聞いていたが、彼女も他の者と同じく私に偏見を持っていた。

 体に触れれば死神に殺されるのでは、と過剰に恐れた彼女は私に激しい暴言を浴びせ、支度を途中で放棄して調理場の作業に行ってしまったのだ。一人残された私は、慣れない白無垢を自分の手で着付けるしかなかった。

 そのすぐ後のことだ。調理場へ逃げた彼女が、不運な事故で体の半分がただれるほどの火傷を負ったと聞いたのは。

「調理場でネズミが出たのに驚いて転んだ後、火にかけていた大鍋が頭上に落ちてきたんですって。あまりに悲惨な火傷で、仕事が続けられないどころか外にも出られなくなって、今も床に伏しているらしいわ。誰も鍋には触れていなかったし、竈の火も弱く調整されていたはずなのに、勝手に落ちた鍋の中身は高温だったから、調理場の使用人たちも驚いたみた~い」
「……そう」

「その前だって、お姉さまのことを悪く言っていた令嬢が、父親の輸入してきた紙巻タバコの灰から着物に引火して、脚に酷い火傷を負ったでしょう? 可哀相に……まだお若いのに歩くこともままならなくなって、嫁ぎ先もなくなったと嘆いていると聞いたわ」

 わざと挑発するみたいに過去を掘り返してくる貴音は、それらの事故が私の死神の仕業であると思い込んでいるようだった。確かに使用人の件も令嬢の件も、私と火が関わっているのは明白だったが、信じたくない気持ちで目を逸らしてきた。

 令嬢に関しては、槙野塚子息との婚約について手紙で難癖をつけられただけだったから、直接関わったわけではなかったため、余計に自分の呪いのせいだとは思いたくなかったのだ。

 私のせいだと言うのなら、いったい何と自分を責めたらいいか分からない。

 貴音は私の罪悪感を煽りたいのか、黙っている私にさらなる追い打ちをかける。

「日之影の事故といい今回のことといい、お姉さまに憑いた死神って、随分と火がお好きみたいね」

 思い出されるのは、赤々としたあの日の燃え盛る炎。バチバチと音を立て、無慈悲に家屋を飲み込んだ火の塊。
 まるで『両親を殺し、日之影を潰したのはお前だ』と言うような言葉の槍に、胸の奥が強く痛み出す。

「どうせ、お姉さまの死神は槙野塚の次期当主にだって手を下すわ。お姉さまに少しでも悪い態度を見せれば、火傷の一つや二つは……そうしたら孝弥様も、お姉さまのことなんてあっという間に忌み嫌い、離縁を言い渡されるでしょうね」
「……そんなことにはさせないわ」
「どうかしら? まあ、日之影前当主から渡された強力な厄除けを持ってる私には、お姉さまの死神なんてどうでもいいけど」

 貴音がこれ見よがしに袂から取り出したのは、亡くなった父が生まれたばかりの彼女に授けた手製のお守りだった。人の好い父は親族が子を生むたび稲荷へ参拝し、心を込めたお守りを作りそれを授けていた。お守りには子らへの父の優しい思いと、稲荷神の強力な庇護が込められていると伝えられ、貴音もそれに守られているのだろう。

 その証拠に、どんなに貴音が私を堂々と貶しても、彼女だけはなんの不幸にも見舞われない。

「きっと前当主様は、呪いに犯されたお姉さまからあたしを守ってくださっているんだわ」

 どことなく父を感じる懐かしいお守りを、貴音の指は弄ぶように雑に握る。
 私のお守りは火事のすぐ後にどこかへ置き忘れてしまったようで、もう手元にはなかった。ゆえに貴音の雑な扱い方が不快だった。彼女のものがちょうど私と同じ柄だったので、自分のお守りを弄ばれているように感じるのだ。

「あらお姉さま、これから愛しい旦那様が迎えにいらっしゃるというのに、お顔が怖くってよ?」
「…………」

 隠せない苛立ちを小さな息で吐き出し、私はまた正面を向いた。反論もなくつまらなかったのか、貴音は不機嫌になるとお守りを仕舞い、フンッと鼻息を吐く。

「とにかく、宮子お姉さまはこれからも死神と生きていくんだから、孝弥様に愛されるだなんて期待しないことね」
「……愛されたくて結婚したわけじゃないわ。彼だって、私に愛を求めているわけじゃないもの」

 無感情で静かに告げると、偉そうだった貴音の声が僅かに揺れた。

「ねぇ、それってどういう――」

 そして貴音が疑問をぶつけようとしたとき、遠くから馬車の音が響きだした。花屋敷の門へ続く塀にまっすぐ沿って走ってきた馬車は、私と貴音の前で緩やかに足を止める。
 屋根とガラス扉の付いた良質な馬車から眉をひそめて降りてきたのは、待ちわびていた旦那様だった。

「お待ちしておりました、旦那様」
「……ああ」

 無言で降りてきた旦那様に私から声をかけると、貴音の姿を映した目に嫌悪の色が滲む。

「なぜ花屋敷家のご令嬢がいる。見送りは誰もよこすなと伝えたはずだが」

 不快感を微塵も隠さない旦那様は、貴音がここにいることが気に入らないらしい。女性に苦い思い出のある彼にとって、貴音のような分かりやすい良家出身の女性は特に嫌悪の対象なのだろう。

 しかし貴音は、旦那様のさらに濃くなった眉間のシワを見ても、華やかな笑みを浮かべて見せた。

「ようこそお越しくださいました、孝弥様。言伝は聞いていましたが、今日は大好きな宮子お姉さまの門出でございますから、どうしてもお見送りがしたくて参りましたわ」

 先程までの私への態度とは打って変わって、純粋無垢な少女のように瞳を輝かせ彼へ近寄る。

「孝弥様っ! もしよければ、我が家で少しお茶をしていきませんか? お姉さまが出て行かれる前に、三人でお話しできたら嬉しいのですが」
「結構だ。そんな時間はない」
「せっかく日之影の姓になられて我が家とも繋がりができたのですから、少しくらい親交を――」
「貴女と慣れ合うつもりはない」

 若々しい貴音のねだるような声も冷たくあしらう旦那様は速足で彼女を横切り、私の前に立った。そして手荷物に目をやると、ひそめていた眉を非対称にする。

「荷物が少ないな。それだけか」
「ええ、大事なものは昔全て燃えてしまいましたから」
「…………」

 何と言っていいか、と居心地悪そうに頭を掻いた旦那様は、奪うように風呂敷を取ると早々に馬車へ戻り始めた。

「行くぞ。貴女も早くここから出たいだろう」
「……ありがとうございます」
「ちょっ、孝弥様! お待ちを――」

 長い脚でさっさと歩く旦那様の後を追う。瞬時に二度も素通りされた貴音が呼び止めようとするが、旦那様は振り向かない。
 体裁のためか、律儀に馬車の前で手を差し出す彼。愛想はないけれど夫として礼儀を果たそうとしてくれるその姿に、貴音に乱された私の心は不思議と穏やかになっていった。

 軍人らしい無骨な手にそっと触れ、馬車の足かけを上る。

「それでは花屋敷家のご令嬢、これで失礼。俺が責任もって宮子を預かるので、彼女のことはどうぞご心配なく」

 冷え切った目線だけを貴音に向けてすぐに馬車へ乗り込んだ旦那様は、まだ何か言いたそうな貴音に構わず扉を閉めると、御者へ出発の合図を送る。御者は貴音の甲高い声をかき消すように馬を走らせ、花屋敷の家を後にした。

 ……静かな車内、馬の足音だけが響く空間で口火を切ったのは、腕を組んで深く背もたれに体を預けた旦那様だった。

「貴女があの家を出たがった理由はおおむね理解した」
「……あれだけの接触でですか?」
「花屋敷の令嬢は俺が今まで出会った女性たちと同じ目をしているからな。欲が滲んだ嫌な目だ」

 過去の揉め事を思い出したのか、苦虫を噛み潰したように顔を歪める。

「着物の柄や色はまるで自分が嫁ぐかのような派手なもので、貴女の紺色の着物より印象が残るよう計算されていた。華やかな自分の見た目に過剰なほど自信があり、本家出身の従姉を妬む、良家の令嬢らしい女だ」
「……否定はできません」
「俺があのまま屋敷に上がり込んでいたら、気味の悪い笑みで槙野塚の内情を探ろうとしていただろう。挙句の果てには妻の目の前で俺に色を使い誘惑していたかもしれない。そんなことをしても無駄だというのに」

「……貴音は十八になってから良家との縁談に力を入れていたところでしたから、いきなり貴方様との結婚が決まった私が気に入らないのでしょう」
「だからといって、妻を迎えに来ただけの俺の感情も無視して、縋るように寄ってくる様にはいい気はしない」
「そうですね。あの子の代わりにお詫びします」

 小さく頭を下げると、旦那様の声は途端に戸惑いを帯びた音に変わった。

「貴女に謝らせたかったわけではない」
「ですが、私の従妹が旦那様を不快な気持ちにさせてしまったので」
「俺が祝言を急いだのに貴女を屋敷に迎える準備が遅れてしまったのが原因だ。貴女が頭を下げる必要はどこにもない」
「……では、旦那様の寛大なお言葉に甘えますわ」

 ありがとうございます、と素直に頭を上げる私を、旦那様はまた怪訝な瞳で見つめる。目が合う度に眉間のシワの濃さが変動するものだから、あまり表情がやわらかくない私も、面白い人だと思わず笑いそうになった。

「……その『旦那様』というのは何だ」
「? 夫になった方のことは、皆そう呼ぶものでは?」
「俺は日之影の婿に入った身だ。俺よりも貴女の方が位は高いはず。そんな主人のように扱われる義理はない」
「いいのですよ。これは貴方様への勝手な敬意なのですから。何も考えず、そのまま受け止めてくださいませ」
「…………」

 答えに納得がいっていない様子の旦那様は、再び口を閉ざしてしまった。

 緩やかに流れる景色を窓から眺めながら、耳には不機嫌な旦那様の息遣いと馬の足音だけが入ってくる。花屋敷家では長らく訪れなかった静寂でのどかな時間に、強かな怒りばかりを溜め込んでいた胸はスッと軽くなる。まるで憑き物が落ちたようだ。

 僅かに旦那様を見てみたら、眉間にシワを寄せたままその目は閉じられていた。

 ああ、この方と契約結婚できてよかった……。

 明かな眠ったふりで時間を潰そうとしている彼に、無意識に思っていた。
 そうして道中は、深い感謝を抱きつつ平穏な時に思いを馳せたのだ。



 槙野塚の屋敷に着いたのは、出発して三時間ほど経った頃だった。栄えていた都から外れた、山近くの広い屋敷。青かった空は赤く色づき、自然豊かな屋敷を黄昏色に染めていた。

 旦那様と共に馬車を降り、屋敷の戸を開け中へ入ると、か細い声が私たちを出迎える。

「孝弥お兄様、おかえりなさいませ。み、宮子様、ようこそおいでくださいました」

 緊張して震えた声で出迎えてくれたのは、まだ幼さの残る愛らしい顔立ちの少女。旦那様よりも色のない極めて白に近い髪、薄く赤みを帯びた丸い頬、兄妹で似ても似つかない垂れ下がった眉――槙野塚家の次期当主、詩季様だ。
 祝言の場でも目にしたが、近くで見ると誰もが息をのむほどの愛らしさであると断言できる。

「ごきげんよう、詩季様。本日はお出迎えをありがとうございます」
「い、いいえ! とんでもございません……!」

 慣れない様子で困った表情をする詩季様は、話によると齢十六になったばかり。彼女のそばには使用人の女性が一人立つだけ。槙野塚の現当主とその奥方様は、出迎えには来ていないようだ。

「ご当主様は……」
「ち、父は、病で容態の悪い祖父の見舞いで、母と共にしばらく不在にしております。その、ですから今は、次期当主として私が当主の代理を務めておりますので……えっと、それで……」
「つまり槙野塚で今一番に偉いのが詩季ということだ。くれぐれも無礼のないようしてくれ」
「分かりました」
「お、お兄様……! そんな言い方……」

 妹君の言葉に素早く補足する旦那様の袖を、うろたえる詩季様が小さく掴む。兄が私に対して粗雑な態度をとるのが、信じられないという様子だった。

「お気になさらないでください、詩季様」
「で、でもっ……ご自分の伴侶にこのような態度は……」
「私は気になりませんわ。旦那様は詩季様思いのお優しい方だと存じておりますので」

 洋靴を脱いでいた旦那様の動きが止まり、何事か、というような目でこちらを凝視する。
 なぜそんな目で見られるのか分からず、私は首を傾げてしまう。

 そのまま数瞬見つめ合っていると、気まずそうな詩季様が声を発した。

「……あの、み、宮子様、どうか敬語はお止めください。宮子様はかの素晴らしき日之影のお方で、お兄様の奥方様……私は義理の妹となりますので、そのように丁寧なお言葉は必要ありません……」
「いいえ、一時的とはいえ詩季様は槙野塚家の当主代理を務めていらっしゃる方、日之影の姓だけを名乗る私よりずっと高貴なお方でございます」
「そ、そんな……過剰です……」

 お気遣いは無用です、と断りを入れる私に、お若い詩季様は困惑の表情を見せる。その顔があまりにも寂し気で、意図せず距離を取ってしまったみたいで少し申し訳なくなった。
 しかし旦那様との約束を意識して態度を変えることのない私に、詩季様もすぐに諦めたようだった。

 そうして若干の距離を感じる詩季様と旦那様に部屋まで案内された。
これから私が過ごす部屋は、旦那様とは別室。簡素でありながらも、女性に必要なものは全て揃っている南向きの部屋だった。

「明るい……」
 夕刻だというのに障子を開けると光が差し込む部屋を見て、小さく声が漏れた。

「元は客室だった部屋だ。他より少し狭いが耐えてくれ。物も最低限しか置いていないから、不便があったら使用人に頼んだらいい」
「いいえ、不便なんて……十分でございます。むしろ、これだけ明るい部屋をあてがっていただき感謝を申し上げますわ」
「……感謝?」

 心からの御礼を告げたら、旦那様はまた怪訝に眉をひそめる。さっきから何かおかしいだろうか。そう聞いてみようかと口を開きかけたが、それではまた夕餉の時に、と旦那様は襖を閉めてしまわれた。足早に去る音と詩季様の兄を咎める声が聞こえてきたけれど、それらの音はすぐに遠くなった。

 一人になった部屋の中央に腰を下ろし、陽が赤く差し込む障子の外を見つめる。そしてぐるりと部屋を見回し、深呼吸をした。

鏡台、箪笥、火鉢が置かれた普通の部屋で過ごすのは、いったいいつぶりだろう。

花屋敷の家では、ずっと窓もない物置小屋のような空間で過ごしていた。もちろん最低限の家具もなければ、化粧道具も与えられない。耐えきれなくて家事という名目で一日に何度も外に飛び出したけれど、本当は敵ばかりの外になんて出たくなかった。

長いこと誰にも邪魔されず一人で落ち着ける空間を求め、今ようやく手に入れることができたのだ。
 こんなに幸せなことがあっていいのだろうか。

 たとえ妹君を守るための打算でも、この安堵を与えてくれた旦那様には感謝以外の言葉は出てこない。いや、それだけでは足りないくらいだ。

「……旦那様に、私も御恩を返していかないといけないわ」

 呟いた声は決意になり、未来に期待もしていなかった心を照らす。

 翌朝から、私は決意を胸に調理場に立った。

「み、宮子様、お食事のご用意は使用人の務めでございます! どうかお止めください……!」
「気にしないで。どうせやることもないのだから」

 慌てた使用人が包丁を握る私を制止しようとするが、気にせず食材を切っていく。使用人は迷いなく調理を進める私の手際を見ると、不思議そうな顔で立ち尽くしていた。きっと、日之影の娘が調理などできるはずがない、と想像していたのだろう。

 やがて全ての調理が完了し、私は使用人と共に茶の間へ食事を運んだ。茶の間にはすでに旦那様と詩季様が身支度を整えた姿で座っていた。
 旦那様は前掛けを身に着けて使用人のように動く私に驚いたらしく、分かりやすく目を見開いている。

「な、なぜ貴女が給仕の真似事をしている」
「素晴らしい部屋をご用意いただいたので、御礼に食事の準備をお手伝いさせていただこうかと。ご迷惑でしたか?」
「……いや、迷惑ではないが」

 旦那様の前に食事を並べながら応答する。使用人のように完成度の高いものではないが、一汁三菜を意識した一般的な食事にはできたはず。そう説明して、どうぞお召し上がりください、と二人へ告げると、躊躇う旦那様より先に詩季様が箸を動かした。

「……美味しい……宮子様、とても美味しいです!」
「詩季様のお口に合ったのならよかったですわ」
「お口に合うどころじゃありません! すっごく美味しいです! ここに並ぶ全て、宮子様が作られたのですか?」
「ええ、ほとんど。ですが使用人の仕事を奪ってしまったのは申し訳なかったですわ」

 無邪気に箸を進める詩季様とお話していると、躊躇っていた旦那様の手も味噌汁に伸ばされていた。それを口に含んだ旦那様は、静かに感想を呟く。

「……確かに美味い」
「そうですか、安心しました」
「……だが、あまり使用人を困らせないでくれ。彼女に給金を支払っている以上、これは貴女の仕事ではないのだから」
「……はい、勝手をいたしまして申し訳ありません」

 御礼のつもりがかえって迷惑をかけてしまった。旦那様の最もな注意で反省し、頭を下げると詩季様が声を荒げる。

「お兄様! 宮子様はご親切でしてくださったのに、どうしてそう嫌味なことばかり言うのですか!?」
「騒ぐな、詩季。食事中だぞ」

 食事を進めながら平然と言われ、詩季様は頬を膨らませて崩していた姿勢を整える。

「昨日から思っていましたが、お兄様の宮子様への態度は非常に横柄です。お父様もお母様も心配していましたけど、まさかこれほどあからさまとは思いませんでした。女性が得意でないのは分かりますけど、せめて失礼がないように振舞ってください!」
「詩季様、私は気にしておりませんので……」
「気にしてくださいませ、宮子様!」

 べつに平気であると告げようとしたら逆に注意されてしまい、すみません、と思わず零れてしまう。

 そのような状況でも無言を貫いていた旦那様は、ぐいと味噌汁を飲み干すと箸を置き、席を立った。

「では、俺は仕事に出る」
「ちょっ、お兄様! まだ話は終わっていません!」
「話は帰ってからにしてくれ、詩季」

 手早く制服の襟を整え出ていこうとする旦那様に合わせ、私も席を立とうとする。

「旦那様、お見送りを――」
「必要ない。貴女は日之影の仕事に専念してくれ」

 はっきりと断られ、立ち上がる前に旦那様は行ってしまわれた。詩季様と茶の間に残された私は、旦那様の食事していた器に視線を移す。
 器は全て空、米粒や小さな具すら綺麗に平らげられていた。女性に不信感があるにも関わらず、黙って全て飲み込んでくれたのだと理解したら、胸の奥はほのかに温かくなる。

「申し訳ありません、宮子様……。お兄様があんな態度で、きっとガッカリされましたよね……」
「いいえ、感謝こそすれ、ガッカリなんてとんでもないことです」
「…………?」

 空になった器を見つめ否定する。妹君への思いといい、女性に不信感を抱いたきっかけといい、彼の心の中にあるものがいつも徹底して家族であるということは明白だった。そして今は、仮初とはいえ私もその一部である。

彼はきっと不器用なだけなのだ。だからこそ、何が仕込まれているかも分からない食事を完食してくれた。
 それだけで十分、彼の誠実さが伝わってくる。



 その翌朝も、私は自分にできることを考えた。考えた結果、庭の掃き掃除に落ち着いた。
 出勤前の旦那様にはまたしても怪訝な顔をされたけれど、他に仕事は見つからなかったのだ。

「日之影の仕事に専念を……なんて旦那様は仰っていたけれど、今は花屋敷家の伯父様が代理で稲荷の管理をしてくれているし、後継者問題もそれぞれの代表たちが話し合っていて、私にできることは何もないのよね」

 使用人の仕事を奪うのはよくないと分かっているけれど、たいした役目もない私にはこの程度の手伝いしか役に立てそうもない。
他に何かできればいいのだけれど……。そんな独り言を呟いて庭先で枯葉を集めていたら、門前に一台の馬車が停まった。

 詩季様にお客様かしら、と馬車から降りてきた年若い令嬢を目で追う。令嬢は足早に玄関まで向かうと、ごめんください、と声を上げた。出てきた使用人が応対し、中へ迎え入れられたのを見て、やはり詩季様のお客様なのだと私はまた枯葉を掃くのに集中した。

 しばらくして庭の掃除を終え、屋敷の中に戻ると使用人の姿を探した。集めた枯葉をまとめたものをどこに捨てればいいか聞こうと思ったからだ。
 茶の間にも調理場にも使用人の姿が見当たらず、さらに奥まで進んでいくと、通りすがった客間から女性の声が聞こえた。一つは詩季様の声で、もう一つはおそらく先程の令嬢だろう。

 邪魔をしてはいけないから、と中には入らずその先へ行こうとした。けれどその瞬間、突如として食器の割れる音と怒号が響き渡った。

「本当に使えないわね、その力!!」
「キャアッ!?」

 同時に詩季様の悲鳴が聞こえ、慌てて客間の襖を開けると、畳に倒れ込む詩季様の姿が映った。対面には激高する令嬢、そして畳にはお茶と茶器が散乱している。茶器は破損し、畳だけではなく詩季様の着物にも散った液体が付着していた。

「貴女を信じていたのに、こんな形で裏切るなんて!!」
「う、裏切るだなんて……私は始めからこの力が万能ではないことを説明したはずです……」
「うるさい!! 言い訳なんて見苦しいわ!!」

 状況が見えないなか、倒れ込む詩季様に駆け寄り何事かと問うと、怯えきった詩季様は弱弱しい声で説明してくれる。

「この方は、ご自分と孝弥お兄様が将来的に結ばれるかを私の能力で〝視てほしい〟と前々から仰っていて……」
「……おおかた理解できました」

 少ない説明で瞬時に頭に浮かんだのは、旦那様の言葉。

『当主の妻という立場を狙った女性』

 十中八九この令嬢は、自分が旦那様の妻となり、槙野塚の家に入り込みたかった者だろう。そのために、詩季様の異能を利用しようとしたのだ。

 詩季様の異能――〝予知夢〟は、夢で未来に起こる出来事を詩季様に伝えてくれると聞いたことがある。令嬢はその能力を利己的な目的で利用しようとして、失敗したのだろうことが窺えた。

「孝弥様と結ばれる未来はあるのかと聞いてから半年が経ってまだ答えが出ず、挙句には日之影の行き遅れの婿に入るだなんて!! それならと離縁の可能性について聞いたら、予知もせず憶測で『それだけは有り得ない』ですって……!? 私のことをバカにするのもいい加減にして!!」

「バカになんて……。そ、そもそも……この力は私が望んだものを自由に視られるわけではなく、未来で起こることを突発的に映すというだけのものです……それも断片的に……。貴女の望むものが視られる保証なんてどこにもないのに……」
「そんなことを言って、本当は私の邪魔をしたかっただけなのでしょう!? だから孝弥様の結婚の知らせすらよこさなかったんじゃない!?」

 一方的に詩季様を責め立てる令嬢は、興奮状態に陥っているのか再びそばにあるものを投げつけようとする。その動きを察知して、詩季様を支えていた私は令嬢の腕を強く掴んだ。
 動きを止めた令嬢は、怒りの込められた瞳で私を見る。

「これ以上の無様な行いは止めなさい」
「なんですって!?」

 ハッキリと告げると、怒りの矛先は私に向けられた。しかし、自身の欲で動く令嬢なんてものは貴音で慣れているため、私の手は力を緩めない。

「貴女がどこのご令嬢かは知らないけれど、詩季様は槙野塚家の当主代理、こうして手を上げていいお方ではないのよ」
「使用人ごときがこの私に説教なんて、お父様に言えばどうなるか分かっているのでしょうね!?」

 荒ぶる令嬢は私の手を無理に振り払い、怒号を浴びせてくる。どうやら彼女は、私を日之影の娘であるとは知らない様子だ。

「お父様はこの街の商家をまとめる権力者、貴女のような生意気な使用人なんて家族ごと町から追い出すことだってできるのよ!!」
「……お父上の権力を振りかざして価値あるお方に手を上げ、そのうえ横柄な態度で振舞うなんて、自分の浅はかさを恥じなさい。それに、肩書や身分だけを振りかざすなら、貴女のお父上よりも私の方が立場は上よ」
「はあっ……!?」

 怯んだ令嬢を見下ろすように、腰を上げた私は彼女の正面に立つ。

「私は日之影宮子。孝弥様の妻よ」
「なっ……!?」
「それだけ権力に詳しいのなら知っているでしょう。この辺り一帯の農作を加護する焔堂稲荷が代々、日之影家に管理されているということを。貴女のお父上がまとめるという商家は全て、我が家の名を出せば簡単に買収できてしまうのよ」

 焔堂稲荷は豊穣の神を祭る。かつては日照りが強く枯れかけていた焔堂の地から、現在の街まで大規模に豊作が広がったのは、焔堂稲荷の神とそれを守る日之影家のおかげであると言われている。ゆえにその加護がなくなれば、瞬く間に強い日照りが復活し農業は衰退、街は衰えるだろうと信じられていた。農業とはそれほどに、私たちの生活の礎となっている。

 つまりこの街の安寧は焔堂稲荷に握られており、それを守る日之影家は街の誰よりも強い権力者であると言えた。

「も、申し訳ございません!! 日之影宮子様とは露知らず無礼を働きました……!!」
「謝る相手が違うわ」

 私の素性を知った途端、打って変わって頭を下げる令嬢に、私は圧を込めた毅然とした態度で接する。

「私ではなく、詩季様に謝罪するべきでしょう。槙野塚家はこの地を守った武家のお家、商家を取り仕切るだけの貴女のお家とは身分も格も大きく違うのよ」
「は、はい……申し訳ありませんでした、詩季様……」

 素直に謝罪に応じる姿から見て、彼女が侮っていたのは槙野塚家ではなく、詩季様であると察せられた。まだ若く気が弱い詩季様なら、強気で振舞っても許されると思っていたのだろう。
 実に滑稽で、醜い思考である。

「そもそも、どうしてこのような愚行に走るの。貴女が孝弥様との結婚を本気で望んでいたなら、彼が大事に思うご家族に手を出すなんて到底有り得ない行いだわ」
「そ、それは……」
「貴女は端から孝弥様を見ていたのではなく、〝槙野塚〟という家格を手にすることだけを考えていたのでしょう」

 言い淀む令嬢。私の物言いに怖気図いているのか、言い返してくる様子はない。

「良家の男性と結婚したいという利己的な目的のために詩季様の力を利用しようとするなんて、浅はか極まりないこと。そのような邪な考えゆえに、孝弥様は貴女との結婚を望まなかったと理解しなさい」
「は、はい……」
「貴女の結婚したかったお相手が結婚したのはこの私、文句があるなら今後は私に言うことね」

 すっかり勢いをなくした令嬢に最後の圧をかけ、もう帰るようにと告げる。令嬢が青い顔をして逃げるように立ち去ると、私と詩季様は二人きりになった。

 すぐに詩季様の方へ振り返り、再び膝をつく。

「詩季様、大丈夫ですか? 火傷や怪我は……」
「い、いえ! 特に怪我はありません……!」
「よかった……」

 怪我がなく安堵したところで、遅れて駆け付けた使用人が小さく悲鳴を上げる。着替えの用意と破片の散らばった茶器を片付けるよう命じると、使用人は急いで着替えと布を取りに行った。

 使用人を待つ間、持っていた手拭き用の布で詩季様の着物を拭きながら聞いてみる。

「あの、このようなことはよくあるのですか?」
「……お恥ずかしながら、頻繁に。皆さまお兄様が不在にしている時間によく訪れるのですが、私が未熟なせいで上手くいなせず、こうした揉め事になってしまって……」
「都度ご相談はされないのですか?」
「短気なお兄様のことなので、相談すれば家同士の揉め事に発展してしまいそうで、怖くて……」

 気持ちは分からないでもない。旦那様の性格上、自分との結婚を求めて妹君に接触したと知れば、相手側の当主も巻き込んでの話し合いになろうことは明白だ。妹君に害が及んだと知ろうものなら、尚更。

 そのような事態になれば、槙野塚の現当主も立ち会わなければならなくなる。相手側の家柄が良ければ良いほど、騒動は大きくなるに違いない。

「お父様とお母様がいる前では皆さまお優しいのに、私一人になるといつもこんなことに……。今度は宮子様にも手を煩わせてしまって、自分が情けないです……」

 今にも涙を零しそうな、齢十六になったばかりの当主代理。お若い詩季様には、欲にまみれた女性や大人たちを自らの意思で判断することはまだ難しい。あのように勝手な理屈で暴言を吐かれても、強く言い返すことすらできない純粋さは、彼らの餌食になりやすい。

 家族に迷惑をかけたくない。そんな幼く純粋な心根を前にして、私は旦那様への御礼として自分にできることが、今しっかりと見えてきた。

「……詩季様」
「……はい」

 彼女の乱れた白髪に触れ、目を合わせる。

「これからは、旦那様に代わって私が貴女様をお守りします」
「――え?」



 以降、私は使用人の仕事を手伝いながら、詩季様に降りかかる揉め事の仲介を務めた。

旦那様と親しくなりたかった令嬢は多かったらしく、週に何度も別々の令嬢から訪問があった。それだけでなく、詩季様が当主代理と聞いて槙野塚家を貶めようと企む大人たちも屋敷を訪ねてくる。

 私はそんな彼らを、面倒な問題が起こる前に突き返した。詩季様と違い、常に強気な態度を崩さない私に皆して顔を歪めたかと思うと、最終的には腰を低くして帰っていく。日之影の名が恐ろしいのか、それとも私に気圧されているのか、どちらかは分からない。

しかし、なぜか旦那様の結婚を諦めない令嬢たちは絶えず現れた。普通、すでに結婚してしまった相手の妻を目指そうとする者はいない。皆が皆、旦那様に思いを寄せているのかというと、決してそのような様子もない。

 なぜ懲りないのかと不思議に思っていたら、詩季様が教えてくれた。

「多分……お兄様の性格上、結婚生活が長くは続かないと思っているんだと思います……」

 なるほど、と腑に落ちた。彼の女性嫌いは彼女たちにとって周知の事実。私と結婚したからといって、その関係はすぐに終わるだろうと憶測されているのだ。
 良家に嫁げるならば、後妻でもなんでもいい。そういう思考なのかと納得したものの、ますます理解に苦しむ。

 詩季様はというと、私が図々しく口を挟むのを面倒に思うこともなく、申し訳なさそうにいつも感謝してくれた。旦那様の留守中、代わりに彼女を守ることができているのならば、たとえ旦那様に伝わらなくとも恩を返せている気になった。

 仕事で不在がちの旦那様も、ここ最近少しずつ私に心を開いてくれているように感じた。態度はあまり変わらないけれど、眉間のシワが段々と薄くなっている。

 このまま二人と良い関係を築けるのでは。なんて淡い期待を抱いた頃だった。

 ――貴音が屋敷に現れたのは。

「あら宮子お姉さま、しばらくぶり。会いたかったわ」
「……嘘を言わないで。何しに来たの」
「フンッ、嫌な言い方。お客様なんだからもっと歓迎してよ」

 最後に会ったときと変わらない尊大な態度に、怒りを通り越して呆れてしまう。もう一度何の用かと聞くと、貴音は不遜な声で返答した。

「大好きなお姉さまに会いに来たに決まってるでしょ? 何年も一緒に暮らした従姉妹なんだから」
「わざわざ会いに来るほど貴女が私を慕ってくれていたなんて、初耳ね」
「生まれて初めて口にしたんだから当然じゃない」

 本当は思ってなんかいないのだと暗に告げてくる堂々とした口ぶり。子供っぽくて気性が荒い貴音だが、他の令嬢たちとは違う強い精神性に感嘆せざるを得ない。日之影という姓に動じる必要のない、親戚という立場ゆえの強さだろうか。

 心の中で密かに貴音の分析をしていると、山上の槙野神宮まで守り人代理の務めを果たしに行っていた詩季様がちょうど帰宅してきた。

「宮子様……? 玄関先でどうしたのですか?」
「まあ! もしかして槙野塚詩季様でいらっしゃいますか!?」

 詩季様の姿を捉えた瞬間、貴音はよそ行きの無邪気な顔で詰め寄った。

「はじめまして! あたし、花屋敷貴音と申します! 宮子お姉さまの従妹なんです!」
「え? あ、はいっ……! はじめまして……!」
「お歳も近いことですし、仲良くしてくださると嬉しいです!」

 貴音に満面の笑みで挨拶された詩季様は、その距離感に戸惑いつつも口角を上げた。
距離は近いが感じのいい接し方だと傍目には思う。だからか、詩季様も彼女が私を虐げていたとは微塵も思っていなさそうだった。

「早速なんですが、本日はお姉さまの親戚として、詩季様にご相談があって参りました」
「な、なんでしょうか? 宮子様のご親戚ですから、私にできることならご協力します……!」
「フフッ、ありがとうございます! 実は……」

「お姉さまと孝弥様の婚姻関係を、解消してほしいのです!」
「――は?」

 詩季様が声を零す前に、私の声が漏れていた。突拍子もない相談に、詩季様の表情も固まっている。

「もちろん、ただ婚姻関係を解消するわけではありません! お姉さまの代わりに、あたしが槙野塚家に嫁ぎますわ!」
「と、嫁ぐ、と言われましても……」
「……貴音、貴女何を言ってるの」

 固まっていた詩季様の顔が困惑の色を浮かべたのを確認して、意味の分からない話に疑問を呈した。すると貴音は悪びれもなく、くだらない憶測を語り始める。

「あたし、お姉さまから直接聞きましたの。『孝弥様はお姉さまに愛を求めてはいない』って。孝弥様が愛のない結婚を選ばれたということは、つまりお姉さまに何か弱みを握られているのではないかと考えました」

 貴音の眉は、同情を誘うかのように垂れ下がる。

「身内の恥ではありますが、お姉さまは死神に取り憑かれています。実際にお姉さまと関わった人は次々と災難に見舞われていますし、あたしも何度か大きな怪我を負いました。日之影の家だって……。お姉さまはその死神を利用して、縁談の場で孝弥様を脅して結婚の約束を取り付けたのではないかと思うのです。それこそ、大事なご家族の命が惜しければ、なんて脅し文句で!」

唖然とする詩季様。私もまた、身に覚えのない話が含まれていることに驚きを隠せなかった。
 確かに私の呪いが人を傷付けたことがあるという点は否定できないが、少なくとも貴音はそれによる害などなかったはずだ。

 さりげなく私を極悪な女に仕立て上げようとしている。幼稚で姑息なやり方に、ふつふつと怒りは込み上げる。

「ですから、いろいろと問題のあるお姉さまよりあたしが孝弥様の妻となり、槙野塚のお家に嫁ぐ方が安心だと思います! それに孝弥様も、槙野塚という素晴らしい姓を手放すより、嫁を娶ってその姓を受け継ぐことを望んでいるでしょうから!」

 縁談の席で旦那様が口にした契約内容を知らない貴音の、勝手な言い分であった。彼女はそれがまるで真実であるかのように語り、親切心からこの提案をしているのだと甘えた顔で主張する。

 腹の奥底で滾る怒りに、拳に力が入る。

 しかし、私の怒りが爆発するより早く、詩季様の唇が動いた。

「……ありえません」
「え?」
「宮子様がお兄様を脅して結婚の約束を取り付けたなんて、ありえません!!」

 初めて聞いたか弱い少女の声量に、怒りの感情が抑え込まれる。

「宮子様は凛として逞しい人です。私のことをいつも助けてくれますし、それをお兄様に自ら言って株を上げるようなことはしない、とても謙虚な人です。そんな人がお兄様を脅すだなんて、信じられません。そもそも疑り深いお兄様が悪い人に引っかかるとは思えませんし、お兄様が槙野塚の姓を手放すことに未練があるという言い分も、憶測で筋が通っていませんし……貴女の言っていることは全てでたらめだと思います!」

 ……はっきり言った、と思わず声に出そうになった。
気持ちを押し殺すことの多い性格だと思っていた詩季様が珍しく率直に否定したので、貴音と同じく私も言葉を失った。

「宮子様のご事情は知りませんが、私は今までその死神というものに害を加えられたこともありません。貴女が勝手に宮子様を死神憑きだと吹聴しているだけではありませんか!?」
「詩季様……」

 花屋敷での私の扱いも知らないはずなのに、強く庇ってくれるその姿に怒りは消えていく。代わりに感じたことのない喜びが胸をあたたかくした。私を信じたまっすぐな言葉に感動したのだろうか。

「……なーんだ、もうお姉さまが懐柔済みなのね」

 詩季様の態度に猫を被るのはやめたのか、貴音の顔はいつもの可愛げのない表情に戻った。そして無礼にもほどがある口ぶりで、私だけでなく詩季様も攻撃しはじめる。

「槙野塚の次期当主は扱いやすくて心も幼いって聞いたのに、お姉さまに先を越されたんじゃどうしようもないわ」
「貴音、これ以上恥になるようなことを言うのはやめなさい」
「花屋敷は日之影の分家よ? 身分的に、こんな娘を貶したくらいで無礼になんてならないでしょ?」
「身分の話ではないわ。人としての礼節を欠いていると言っているの」

 詩季様が当主代理を務めている今、その身分とやらが逆転するのに貴音は気付いていない。分かっていて彼女を貶しているのなら、より質が悪い。
 それについて指摘しようと口を開きかけたところで、不安げな声が詩季様から零れ出た。

「扱いやすくて幼い……? 私、皆様にそう言われているのですか……?」
「ええ。ちょっと優しくすればすぐに懐いて、不吉なことを示唆したら簡単に言うことを聞くバカな子だって、良家の令嬢たちの間ではもっぱらの噂よ」

 配慮のかけらもない貴音の言葉に、詩季様の表情は一気に曇る。その様子に、嫌な予感がよぎった。

「孝弥様に近付くならまずは貴女から懐柔するべきって手引きも出回ってるわ。十六にしては幼すぎて当主なんて重役が務まるはずない、とも。だから皆侮って、何度も貴女を訪ねてくるのね」
「貴音、やめなさい」

「侮られる方にも責任があるんじゃない? このままだとすぐに蹴落とされるでしょうね。さっさと孝弥様に引導を渡してあげたらよかったのに、当主の座にしがみつくからそうなるのよ」
「貴音」

 言葉で止めようとしたが、もう遅い。時期当主の重圧で圧し潰されそうだった詩季様の心は、造作もなく崩れてしまった。
 両目から大粒の涙を零す詩季様は地面に膝を落とし、手のひらで顔を覆う。悲しみに打ちひしがれ、悔しさを抑えきれない心の内が明瞭に聞こえてくるようだった。

「あーあ、泣いちゃった! このくらいで泣くなんて、本当に子供なのね。その程度の精神性なら、荷が重い当主の座なんて捨てちゃえばー?」

 明確に傷付けることを目的とした、品性を感じられない貴音の煽りに、収まっていた怒りの感情が蘇る。高く響く笑い声と、くぐもった詩季様の悲しむ声で、その怒りは瞬く間に増長した。

 ――次の瞬間には、私の体は炎の渦に包まれていた。

「……貴音、もう許さない。詩季様を傷付けるなら、いくら従妹でも容赦しないわ!」
「キャアッ!? 何!?」

 激しい怒りに支配された私は、感情と炎に飲み込まれた。視界は赤と黄の混ざった、他に色のない世界に染まる。

「私だけを苦しめるならともかく、詩季様まで……性格の歪んだ貴女には、痛い目をみる必要がありそうね……」
「や、やだ!! やめて、来ないで!!」

 始めて見る私の姿に怯えた貴音が、尻もちをついて後退る。しかし容赦なく歩を進めると、私のまとった炎が貴音の着物に燃え移った。

「いやぁ!! 何よこれ!!」

 貴音は着物を振って消そうとするが、炎はゆっくりと燃え広がり、一向に消えそうにない。鮮やかな柄のつく朱色の着物は、溶けるように燃えていく。

 その様子を静かに眺めていると、微かに声が聞こえた。

「狐……」

 涙を流していた、詩季様の声だ。その声で我に返った私は、詩季様に意識を傾ける。
 それと同時に、熱くなっていた体温が元に戻り、体を包んでいた炎も消え失せた。

 だが、貴音の着物に移った炎だけは消えていない。

「ああ!! いや!! やめてぇ!!」

 高い悲鳴を上げた貴音はきつく縛られた帯を解くことができず、着物を着たまま走り去っていった。ジワジワと燃え広がる炎からは逃げることなどできないだろうに、逃れようと必死であった。

 何が起きたか分からない私は呆然とその後ろ姿を眺めていたが、やがて入れ替わるように馬車の音が聞こえ、正気に戻る。
 仕事に出ていた旦那様が帰宅した馬の音だ。

 降りてきた彼は玄関先で佇む私と地面に座り込む詩季様を見て、取り乱したように顔を引きつらせる。

「――どうした!! 詩季!!」

 私の横を通り過ぎ、迷わず詩季様を気にかける旦那様。
 彼は愛する妹君の涙の痕に気が付くと、鬼の形相で私を睨む。

「これはどういうことだ!! 詩季に何をした!?」
「いえ、これは――」
「妹に危害を与えたら容赦しないと言ったはずだ!!」

 激高する旦那様には、私の声は届きそうにない。

 それもそのはず。私の足元には雑草の焦げた跡が残っていた。不自然なその状況は、旦那様の目には私が詩季様を傷付けたように見えるのだ。

「詩季が貴女に心を許しているからと放っていたが……結局、貴女も他の女性と同じということか!!」
「お兄様、違うんです!! 宮子様は――」
「お前は黙っていろ!! 俺は彼女に聞いている!!」
「…………」

 愛する妹君を強く抱き、冷静さを失った旦那様を前にして、下手に言い訳をすべきではない、とやけに理性的な心が導いた返答は……謝罪だった。

「申し訳ございません」
「宮子様!!」
「詩季様を悲しませたのは事実でございます」

 今は何を言っても彼の癪に障る。そう考え深く頭を下げた。原因は私の従妹なのだから、親族である私が謝罪するのも適切である。

 旦那様は私の謝罪に言葉を飲み込んだかと思うと、声を落として口にした。

「……貴女ならもしかしたら、と少しでも期待したのが間違いだった。もう部屋からは出ず、大人しくしていてくれ。妹にも二度と近づくな」
「……分かりました」
「そんな……お兄様!!」
「詩季、お前の話は落ち着いてから聞く」
「ちょっと、待って!! お願い、話を聞いて……!!」

 兄に抱かれ、屋敷の中へ連れられながらも私を擁護しようとする詩季様。私はそんな彼女に心配しないよう視線を送り、玄関の戸が閉まるのを見守った。



 それから数日、私は静かな部屋で長い時間を過ごした。旦那様の言いつけを忠実に守り、湯浴みのとき以外は外に出ず、あの日自分の体に起こったことを考えた。

 あれは異能なのか、それとも死神の呪いなのか。今一度と再現しようとしても、体に炎はまとわない。確かめる術もなく、私は考えるのをやめた。

 もしあの力が異能ではなく、死神の呪いだとすれば。貴音に言われたことが全て真実になる気がしたからだ。
 いつかの使用人や令嬢が酷い火傷を負ったのも、日之影の家が燃えたのも、全て……私の呪いのせいだと確証づけてしまう。そんな不安に駆られ、仮にでも結論を出したくはなかった。

 一日の時間が長く、どうしても考えてしまうのを止めたくて、同じ本を何度も読み返しては時間を潰した。

 しかしそんな私を、接近禁止を言い渡されたはずの詩季様が、旦那様のいない時間に毎日訪ねてきた。旦那様に叱られるわ、と告げたら問題ないと首を振る。

「ごめんなさい、宮子様……。良心から庇っていると感じるみたいで、私が何を言っても信じてくれなくて……。お兄様は頑固だから、自分で見たこと聞いたことしか事実として受け止められないんです……」
「いいのですよ。屋敷を追い出されたわけでもありませんから」

 誤解はほとぼりが冷めた頃に解けばいい。そう伝えると、詩季様は誰にも言ったことがないという話を静かに聞かせてくれた。

「実は私……宮子様がお兄様の奥方様になること、予知夢で視ていたんです。随分昔に」
「え?」
「宮子様が誰かから私を助けてくれるところも視ました。だから、宮子様のことは始めから怖くなかったんです」

 信じがたいが、それが異能なのだとどこか納得もする。

「宮子様には、狐の守護が憑いているのですね。炎が燃え盛る一瞬、宮子様の両側に二体の狐の姿が見えました。あれはきっと、宮子様の異能ですよ」
「……死神かもしれませんわ」
「いいえ、それはありえません。私の目は確かですから」

 異能の持ち主がはっきり断言する。それでも私は信じることができず、彼女の話を聞き流した――。

 ある日の夜更け、眠っていた私は目を覚ました。暗いはずの外が明るく、深夜にも関わらず部屋を照らしていたからだ。
 障子を開け外の様子を覗くと、真っ先に異変が飛び込む。

「山火事……? ……いいえ、あれは槙野神宮の位置!」

 寝間着姿で急いで外へ出たら、異変はさらに明らかとなる。

 ――山が燃えている。それも、槙野神宮の位置する一部分のみが。火の手の上がり方からして、燃えてからそう時間が経っていないことが窺える。

 急ぎ誰かに伝えるため戻ろうとするが、玄関の女性用足袋が一足ないことに気が付いた。詩季様のものだ。きっといち早く異変に気が付いて、現場へ向かったのだろうと推測できた。

 もしかしたら詩季様に危険が及ぶかもしれない。そう思ったら、私は誰に知らせるでもなく駆け出していた。

 山に入り、槙野神宮に繋がる長い石段を上がっていくと、古いけれど凛と立つ鳥居が見える。そこを潜り参道を抜ければ、赤々しい炎を上げた本殿が映った。
 巨大な本殿を包み込むようにして、激しい炎が揺れている。木々に火が燃え移り、山火事まで発展するのは時間の問題のように思えた。

 どうして突然こんな火が、どうやって鎮火すればよいのか。混乱した脳内で思考が巡り、まず詩季様の姿を探すべく本殿前まで駆けたとき、嫌な声が聞こえた。

「こんばんは、お姉さま。早かったわね」
「……貴音」

 足を止め見据えた先には、悠長に炎を眺める貴音の姿があった。傍らには、膝を崩して泣きじゃくる詩季様の姿もある。

 一目散に詩季様の元へ駆け寄ると、涙でぐしゃぐしゃな彼女がしがみついて事の説明をしてくれた。

「私、私……夢で本殿が燃えるのを視たんです……! まさかと思って外に出たら、本殿の方から小さく光が漏れていて……駆け付けたら一瞬でこんなことにっ……!」
「ええ、ええ……まずは鎮火の方法を考えましょう。このままでは全て燃えてしまいます」

 震えながら必死に伝えようとする詩季様を宥め、井戸の場所を探そうとした。すると詩季様の細い手が力強く私の布を引っ張り、最も伝えたかったことを口にする。

「花屋敷貴音様が、火をつけたんです……!!」
「……なんですって?」

 時が止まったかのように思考が停止する。

「私が本殿に駆け付けたとき、すでに貴音様がここにいたんです……! ご自分の意思で油を撒いたと言って、炎の上がる様を見て笑っていました……っ!!」

 体の奥から湧き上がる、高熱。怒りに飲まれそうになる気持ちを堪え、貴音と瞳を合わせた。

「……本当なの、貴音」
「ええ、本当よ。周辺に油を撒いて本殿に火をつけたわ」
「どうしてそんなことを!!」

 感情的になる私を嘲笑の笑みで見つめる貴音は、得意げに語った。実に非道で、くだらない計画を。

「この間、お姉さまの炎を見て感じたのよ。随分と遅かったけど、日之影の異能が目覚めてしまったんだわ、って。だから、槙野神宮を燃やしてお姉さまに責任を擦り付けようと思ったの。お姉さまの力が原因で燃えたということにして」

「いったい何のために……」
「決まってるじゃない。お姉さまが孝弥様に捨てられ、日之影の当主になれないようするためよ」

 強張る表情。しかし貴音は無邪気に笑う。

「お姉さまも日之影も、昔から嫌いだったのよね。先祖に恵まれただけのくせに偉ぶって、同じような歴史がある親戚のことは分家と区別する。本家に生まれたお姉さまは蝶よ花よと大事にされ、誕生日にはいろんな人から祝福される。分家のあたしはどんなに愛嬌を振りまいても、たいして見向きもされないのに。しかもあたしが狙っていた歴史あるお家と縁談を結ぶだなんて、贅沢にもほどがあるわ。だから孝弥様からも槙野塚からも、お姉さまが徹底的に嫌われるような事件を起こそうと思ったの」

「貴女、まさか自分が孝弥様の妻になるためだけにこんなことを……?」
「それだけじゃないわ。恵まれたお姉さまに不幸のどん底に落ちてほしかったの。火事の原因がお姉さまだと思われれば、その異能も〝死神の呪い〟として信憑性高く受け取られるでしょう? そうしたら必然的に当主にもなれなくなる。神社を燃やす異能なんて、聞いたことないもの」

 言葉を失う私の代わりに、詩季様が精一杯の声を張り上げる。

「あ、貴女の思惑通りにはいきません……! なぜなら、槙野塚の当主代理である私が、この目で貴女の犯行を目撃したからです!」
「ええ、そうね。だから最後に、詩季様のことも本殿と共に燃やしてしまおうと思うの」

 足元に置いていた桶を抱えてこちらに向ける貴音は、中身を見せつけるようにこの先の行動を語った。

「本殿が燃え、詩季様がいなくなれば、目撃者はお姉さましか残らない。得体の知れない炎で家族を亡くし、妥協で愛のない結婚をした孝弥様が、果たしてお姉さまの言葉なんて信じるかしら?」
「…………」
「それに、槙野塚の次期当主がいなくなれば、孝弥様が当主の座を継ぐことになる。彼の妻にさえなれれば当主の妻にだってなれるのだから、一石二鳥よね」

 あははは!! と高く笑い声を上げる貴音の顔は、欲望にくらんで醜い化け物のようになっていた。これこそまさに、何かの呪いのようだ。

 不気味な顔でえくぼを作る貴音は、詩季様に向かって大きく桶を振りかぶる。

「さぁ、詩季様。油をかけて差し上げますわ。しっかり被った方が燃える際の苦しみが減りますよ」

 詩季様を支える私もろともかけてしまえばいい、と容赦のない貴音の姿に、唖然としていた私の口はぼそりと吐いた。

「呆れたものね……つまらない理由で取り返しのつかない罪を犯し、神の怒りを買うなんて」
「……? 何を……」

 縋りついていた詩季様の手を解き、確かな足で彼女の前に立つ。貴音は振りかぶった動作を止め、私を警戒の眼差しで見つめる。

「貴女、今自分の影がどうなっているか、分かっているの?」
「……は?」

 本殿の炎に照らされて浮かび上がる、罪人の影。その影は何かに襲われたように激しく悶えており、実際の姿とは異なっている。
 神の怒りが、彼女を攻撃しているのだと容易に理解できる。

 そして私もまた、熱くなる体温を感じあの日の炎に身を包まれた。

「か、影って……何を言ってるの? それにその炎、またあたしを燃やそうっていうの? 狐だかなんだか知らないけど、前当主様のお守りのおかげかこの間だって結局すぐ消えたし、そんなの怖くもなんともないわ!」
「そう……詩季様だけじゃなく貴女にも、狐の姿が見えているのね……。それならこの力は、本当に死神の呪いなんてものではないということ……」

 計算なく吐かれた言葉に、私の抱いていた不安はかき消された。

「ありがとう、貴音。大嫌いな貴女の言葉なら、気遣いや優しい嘘ではないと信じられるわ」
「何を……!?」
「槙野神宮の神はお怒りよ。醜い嫉妬と強欲で社を穢した貴女を、大罪人として必ず罰するわ」
「何よ……! お姉さまに何の権限があって……!」

「宮子に権限がなく、神が手を下さなくとも――俺に権限がある」

 想定していなかった声に、全員の視線が石段の方へ集中する。石段を上がり現れたのは、いつもの軍服ではない着物姿の旦那様だ。

「孝弥様!?」
「旦那様……どうしてここに……?」
「これだけ派手に燃えていれば、気付かず眠っていても誰かしら起こしに来るものだ」

 驚く声に淡々と答えると、旦那様はまっすぐ私の傍に寄る。

「それは冗談だが……詩季から先日の事情を聞かされ、ずっと花屋敷貴音を警戒していた。俺と宮子に執着をしているようだったから、また何か企むだろうと。まさかこんな夜更けに神社の放火なんて愚かな真似をするとまでは想像していなかったが」

 旦那様に名前で呼ばれることが多くない私は、先日の雰囲気と違う彼の態度に違和感を抱いた。しかし、彼の眉間を見たらその違和感に納得がいく。

「……宮子、すまなかった。俺の知らないところで何度も詩季を守ってくれていたのに、貴女の言葉を何も聞かず責め立ててしまった」
「……いいえ、気にしておりませんわ」
「前から思っていたが、貴女は少々気にしなさすぎる。もっと俺を責めてくれ」
「え、はぁ……?」

 真剣な声で謝罪したかと思えば、今度は妙な指摘をされてしまい返答に困る。
 何がおかしいのか彼は小さく初めての笑みを見せると、貴音に向き直った。

「俺は軍部の人間だが、役所の規則として犯罪者の拘束は許可されている。花屋敷貴音、貴女を放火の現行犯で拘束させてもらう」

 旦那様は迅速に動き、貴音の体を拘束する。逃れようと彼の腕の中で必死に暴れる貴音は、油の入った桶を私と詩季様の方へ蹴り上げた。

「い、嫌、離して!! こんなの全部間違いよ!! あたしは悪くない!! お姉さまの……お姉さまのせいだわ!!」

 詩季様の傍へ転がった桶は、中身が漏れて空になっているが、木の隙間まで油が染みている。気を取られた旦那様が拘束を緩めた隙を見て、腕から逃れた貴音はマッチを取り出した。

「もう……全部燃えてしまえばいいんだわ!!」

 火のついたマッチは桶に向かって投げられる。一直線に火の向かう先は、私と詩季様の位置。

「詩季、宮子――!!」

 心配の浮かぶ旦那様の声が耳を支配する。マッチは桶の付近に力なく落ち、地面に漏れた油に引火し勢いよく伝ってくる。そのまま桶にまで引火し、詩季様の体を燃やすまで数秒の時間すらないとその刹那で確信した。

 気付けば体は、詩季様の全身を隠すように包んでいた。

 赤黒い炎は瞬く間に無力な私たちを覆い、高温で燃やしつくそうとする。
 だが、貴音の高らかな笑い声が響くのに、私の体は温度を感じなかった。胸に強く抱いた詩季様も、不思議そうに私を見つめる。

「宮子様……これは……」
 苦しみの感じない詩季様の声に耳を傾ける。――そのとき、ようやく傍に二体の狐の姿を捉えた。

 初めて目にする狐は、神の使いと言われるに相応しい凛々しく高貴な姿をしていた。

 狐たちはその金色の瞳で私たちを熟視すると、二体同時にけたたましい鳴き声を上げる。全身の肌に鳥肌が立ち、地面が激しく震えるほどの、強い叫び。
 それを合図にしてか、私たちを覆っていた炎は音もなく消え失せた。互いに火傷の一つすらなく、不思議な出来事に二人して顔を見合わせる。

 意味が分からないまま安堵する旦那様の背後で、貴音は歯を食いしばり怒りを露わにした。

「どうして!! どうしてよ!! 異能なんてバカみたい!! 万能な力なんて、なんでも持ってるお姉さまよりあたしに寄越しなさいよ!!」
「――おいっ、待て!! 逃げるな!!」

 幼稚に吐き捨てた貴音は全速力で駆けていく。旦那様が追いかけようとするが、気付くのに遅れてしまう。

けれど貴音は駆けた拍子に袂から何かを落とし、それに注意が向き振り返る。地面に落ちたのは、お父様手製のお守りだった。

 お守りが貴音の手から離れ、地面へ落ちた瞬間、本殿を焼く炎の中からメキメキと木の軋む音が鳴りだした。そして本殿を支えていた柱の一つが、炎を帯びたまま貴音に向かって倒れていく。

 頭上を見上げた貴音は迫りくる巨大な柱に大きな悲鳴を上げた。しかし、高温の柱は容赦なく貴音の上に倒れ、やがて悲鳴も消えてしまう。

 ――少しして、私は落ちたお守りを拾いあげた。随分前に無くしてしまった、父が私のために作ってくれたものと同じ柄のお守り。赤い布地には表と裏に狐が刺繍され、稲荷に伝わる二体の狐を象徴している。

 口元の糸が解れているのに気付いて、中身を取り出してみた。すると中からは、小さな護符が一枚出てきた。開いてみるとそこには私の名前。

 ああ、これは父が私に作ってくれたお守りだったのね。どうりで強力だと思った……。

 無くしたはずのお守りが貴音に盗まれていたのだと知り、同じ柄であった理由に気付く。無くしたのは私ではなく、貴音だったのだ。

 久し方ぶりに香る父の微かな残り香を抱きしめ、旦那様と詩季様の元へ戻った。

「この度は、私の従妹が申し訳ございませんでした。お二人を危険に晒した挙句、槙野神宮の本殿を燃やして……この責任は必ず果たします」
「貴女は悪くないのだから、責任をとる必要はない。責任をとるとすれば花屋敷家の者だろう」

 詩季様を支えながら寛大なお言葉をかけてくださる旦那様に、それでも気が済まないと私は首を振る。

「本殿は今もなお燃え続けています。これだけ燃えていれば、修復にはかなりの時間を要するでしょう……。それほどの火事を引き起こしたのですから、日之影の娘として何かしらの責任はとらなければなりません。それこそ、契約の解除など――」
「必要ないと言っているのに、分からない人だな……」

 困ったように頭を掻く旦那様は、それより、と話を切り替える。

「貴女はどうして……ずっと詩季を守ってくれていたんだ? 今回も、自身の異能がどういうものか理解していなかったにもかかわらず、危険を冒してまでその身を挺して守ってくれただろう?」
「だって詩季様は、旦那様の大事なお方でございますから」

「私を救ってくれた旦那様が守りたいものを、私が守るのは当然のことでございますわ」

 無意識に綻ぶ口元。花屋敷に引き取られてから一度も動かなかった口角が、このとき久しぶりに動いた。

「……そうか。貴女はやはり、今まで出会ったどの令嬢とも違う、妙な人だ」

 ――けれど美しい。

小さくそう呟いて、旦那様は私の手を取り甲に口づけた。そして射抜くように鋭くまっすぐな眼差しで、私の瞳を覗く。

「初めに言った契約は解除する。これからは、本当の夫婦として貴女の傍に俺を置いてくれ」
「……ええ、もちろんですわ、旦那様」

 傍で見ていた詩季様の嬉しそうな笑い声が耳をくすぐり、私たちは笑い合った。

 燃え盛る炎が照らすなか、私たちは真の愛を交わしたのだ。