あぜ道と、デジタルの光

配信を強制終了した後の寝室は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。
スマートフォンの画面は、何事もなかったかのように黒いガラスの板に戻っている。ただ、私の指先だけが、冷や汗をかいたままかすかに震えていた。


「本当に、ケンジ君なのだろうか……」


暗闇の中でぽつりと言葉をこぼしてみる。その声は、配信中の「ハル」の張りのある声とは似ても似つかない、ただの、年老いた人間の掠れた独り言だった。


もし本当に彼なら、四十年ぶりの再会が、まさかこんなバーチャルな空間になるとは夢にも思わなかった。
その時、手元でスマートフォンが短く震えた。


アプリのダイレクトメッセージの通知。送信者は「ケン」。


『驚かせてしまって、本当にごめん。でも、ハルさんの声の端々に残る、あの懐かしいイントネーションを聴いたとき、どうしてもハナちゃんの声と重なって、黙っていられなくなったんだ。違っていたら、このメッセージは無視してくれていい』


画面に表示された文字を、何度も何度も読み返す。


「ハナちゃん」と私を呼ぶその文字は、冷たい液晶の上にあっても、温かな体温を持っているように見えた。
無視することなんて、できるはずがなかった。あの雷の鳴った夏の日、真っ二つに割れた楠の割れ目から、小さな緑の芽を最初に見つけたのは彼だった。私たちは、あの田舎の小さな集落で、確かに同じ時間を分け合って生きていたのだ。


私は震える指で、ゆっくりと返信を打ち込んだ。


『……ケンジ君、だよね。よく、分かったね』


メッセージは、すぐに既読になった。


数分のやり取りの後、私たちは「次の日曜日の午前十時、町外れにある道の駅の喫茶コーナーで会う」という約束を交わした。
それから日曜日までの数日間、私の心はどこか浮ついていた。庭の草をむしっていても、スーパーで買い物をしていても、頭の片隅にはいつも「あの頃」の記憶が明滅していた。


そして、日曜日。


私は、タンスの奥から数年前に買った、少しだけ小綺麗な藍色のブラウスを引っ張り出して身にまとった。鏡の前に立ち、白髪の混じりはじめた髪を丁寧に整える。


「こんな姿を見せて、がっかりされないだろうか」


スマートフォンの画面の向こうにいる「銀髪の麗しき青年・ハル」と、鏡の中にいる「ありのままの五十代の私」。その落差に、足がすくみそうになる。


けれど、もう後戻りはできなかった。


道の駅「あじさいの里」は、地元の新鮮な野菜や山菜を買い求める人々で、朝からそれなりに賑わっていた。
喫茶コーナーの片隅にある、木製のテーブル席。


私は少し早めに到着し、注文したアイスコーヒーのグラスに結露する水滴を、指先でなぞりながら待っていた。
十時ちょうど。


自動ドアが開き、一人の男性が入ってきた。
少し背が丸まり、髪には白いものが目立つ。手には年季の入った革のセカンドバッグを抱えている。だが、その切れ長の、どこか優しげな目元を見た瞬間、私の胸の奥で、カチリと時計の針が巻き戻った。


「……ケンジ君?」


私が小さく声をかけると、彼はハッとしたようにこちらを向き、それからゆっくりと破顔した。


「ハナちゃん、だね。……やっぱり、ハナちゃんだ」


彼は私の向かいの席に腰を下ろした。
お互い、最初に口から出たのは、自分の変化に対する自嘲的な苦笑いだった。


「ひどいもんだろう。あんなにすばしっこかった俺が、今じゃ階段を上るだけで息が切れる」
「私だって同じよ。鏡を見るたびに、ため息が出るわ」


だが、注文したホットコーヒーが運ばれてくる頃には、私たちの会話は、まるであぜ道を並んで歩いていたあの頃のように滑らかになっていた。


「それにしても、驚いたよ」


ケンジ君は、コーヒーのカップを見つめながら、しみじみと言った。


「仕事の付き合いでスマートフォンを使い始めてさ、最近の若者がどんなものを見ているのかと、なんとなくあのアプリを開いたんだ。そこで、たまたまお勧めに出てきた『ハル』さんの声を聴いた」
「……恥ずかしいわね。私の、あんな声」


「いや、本当に素敵だった。最初は、ただ『落ち着く声だな』と思って聴いていたんだ。都会で一人で暮らしていると、夜が静かすぎて、耳が寂しくなるからね。でも、ハルさんが話す田舎の風景や、雨の日の匂い、そして楠の話……それを聴いているうちに、昔、自分が知っていた誰かの記憶と、ピタリとパズルが合わさるような感覚がしたんだ」


ケンジ君は、少し照れくさそうに笑った。
彼から語られたその後の人生は、決して平坦なものではなかったという。


都会の会社で働き、結婚し、子供を育て上げた。しかし、数年前に奥さんを病気で亡くし、今はまた、この静かな田舎の隣町に戻ってきて、一人暮らしをしている。


「仕事も引退して、子供たちも巣立ってね。一人になると、本当にやることがないんだよ。テレビを見ても面白くない。ただ、日が昇って、日が沈むのを待つだけの毎日さ。……だから、ハルさんの配信は、俺にとって唯一の、夜の楽しみだったんだ」


彼のその言葉を聴いたとき、私の胸に、切なさと、それから名付けようのない熱い感情が込み上げてきた。
私の声は、アバターの力を借りて、遠い都会の若者たちだけでなく、すぐ近くの町で孤独を感じていた幼馴染の心をも救っていたのだ。


「ケンジ君」


私は、アイスコーヒーのグラスから手を離し、彼の目を真っ直ぐに見つめた。


「もし、その毎日が退屈なら、私と一緒に、新しい『遊び』を始めてみない?」