あぜ道と、デジタルの光

五月の風は、少しだけ湿り気を帯びて、田植えの終わったばかりの田んぼを渡ってくる。
私の住むこの町には、大きな音を立てるものは何一つない。時折、遠くの国道を走る大型トラックの走行音が、地鳴りのように低く響くくらいだ。


私の名前は、ここでは伏せておこう。この町の人々にとっては、私は単なる「庭先で草取りをしている、少しお喋りが苦手な五十代の女性」でしかないからだ。


朝六時に起き、仏壇に手を合わせ、庭の雑草と格闘し、地元のスーパーで特売の卵を買う。それが私の日常であり、私の世界のすべてだと思っていた。


だが、夜の十時。


古い木造住宅の雨戸を閉め、厚手のカーテンを引いた時、私の「もう一つの人生」が始まる。
机の上に置いたスマートフォンを、愛用の三脚に固定する。画面を数回タップし、専用のアプリを起動させる。すると、暗い画面の中にパッと光が灯り、一人の「青年」が姿を現す。


銀髪のショートカットに、知的な縁なしの眼鏡。少しミステリアスな微笑みを浮かべたその姿は、私がAI画像生成ツールを使って、数日かけて作り上げた理想の分身だ。


名前は「ハル」。


設定は、異世界のどこかにある、古い図書室の司書。
現実の私の、日焼けした手も、目尻の小じわも、五十年の歳月が刻んだ疲れも、この画面の中には存在しない。


「こんばんは。今夜も、秘密の図書室へようこそ」


私は、スマートフォンのマイクに向かって、少しだけ低めの、落ち着いたトーンで語りかける。
エフェクトや加工を施しているわけではない。ただ、このアバターを纏うと、自然と言葉が滑らかになり、声に張りが生まれるのだ。


『ハルさん、待ってたよ!』
『今夜も落ち着く声だなぁ』
『都会は今日も暑くて死にそうだったよ、癒やして……』


画面の下から、滝のようにコメントが流れてくる。
リスナーのほとんどは、私の半分も生きていないような若者たちだ。彼らは私を、自分たちと同じ、あるいは少し年上の「格好いいお兄さん」だと思っている。


私が昼間、腰をさすりながら草むしりをしていたことなんて、彼らは知る由もない。そして、それでいいのだ。この匿名性こそが、私にとっての救いだった。


「今日は、私の住んでいる場所の話を少しだけしましょうか。……といっても、どこだかは秘密ですけれど。今、窓の外ではカエルの大合唱が聞こえています。都会の人には騒音かもしれませんが、私にとっては、季節を教えてくれる大切なオーケストラなんです」
私の何気ない、田舎の日常の話は、なぜか若者たちに受けた。


コンビニまで車で十五分かかること。


近所の人から大量のキュウリを貰って、毎日漬物を食べていること。
夜になると空が星で埋め尽くされ、宇宙の中に放り出されたような気分になること。


彼らにとって、私の語る「不便な日常」は、まるでお伽話のような非日常として響くらしい。


フォロワーは日に日に増え、今では配信を始めれば数百人が集まるようになった。応援のギフト(投げ銭)も、馬鹿にできない金額になってきている。私のささやかな「副業」は、いつの間にか、自分でも驚くほどの規模に成長していた。


しかし、その安定は、一人の新しいリスナーの登場によって、音を立てて崩れ始めることになる。
それは、配信が始まってから一時間が過ぎ、私が少しリラックスして、昔話を始めた時だった。


「……そういえば、私が通っていた小学校の裏には、大きな楠(くすのき)があったんです。四十年前の夏、大きな雷が落ちて、幹が真っ二つに割れてしまったことがあって。子供心に、もうこの木は死んでしまうんだと、とても悲しかったのを覚えています」


私は、懐かしい記憶を辿るように、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「でもね、翌年の春になったら、その焦げた幹の隙間から、瑞々しい新しい芽が出てきたんです。それを見た時、命っていうのは、私たちが思うよりずっと強くて、しぶといものなんだなって。……そんなことを、ふと思い出しました」


コメント欄には『いい話だね』『ハルさん、感受性が豊かだ』といった言葉が並ぶ。


その時だ。


『……その楠、三反田(さんたんだ)小学校の裏のやつだろ?』


一つのコメントが、私の視界に突き刺さった。


ハンドルネームは「ケン」。


三反田。それは、今は統廃合でなくなってしまった、私の母校の名前だ。
背筋に冷たいものが走る。私は動揺を悟られないよう、必死に声を整えた。


「三反田……? さあ、どうでしょう。似たような名前の学校は、全国にたくさんあるんじゃないかな」


だが、ケンという人物は、さらに追い打ちをかけるように書き込んだ。


『いや、間違いない。あの雷の年、校庭で理科の実験をしていた時に鳴ったんだよな。ハナちゃん……お前、ハナちゃんだろ?』


「ハナちゃん」。


それは、私の本名から取った、当時の親しい友人だけが呼んでいたあだ名だ。
四十年もの間、誰からも呼ばれることのなかったその響きが、デジタルの画面を通じて、私の心臓を激しく叩いた。


私は、返事をすることができなかった。


マウスを握る手が震え、アバターの眼鏡の奥の瞳が、私の動揺を映して不自然に揺れる。


「……ごめんなさい、今日は少し、喉の調子が悪くなってしまったみたい」


私は逃げるように配信終了のボタンを押した。
画面が暗転し、静かな、あまりにも静かな田舎の夜が戻ってくる。


手元のスマートフォンは、熱を帯びて熱い。
私は暗闇の中で、浅い呼吸を繰り返しながら、ただ呆然と立ち尽くしていた。
なぜ。どうして。
あの、泥だらけになって一緒に楠の芽を探した、幼馴染のケンジ君なのだろうか。
私の「秘密の王国」の扉が、今、外側から激しくノックされていた。