高嶺の花くんは隣のあいつが気になる。

花村麗だって、いつでも完璧ってわけじゃない。

ジョギングはした。
新聞配達のおじさんに挨拶した。
今朝もあの猫はいなかった。
だから、涼太もいなかった。
日焼け止めもちゃんと塗ったし、朝ごはんを食べて、歯磨きした。

それなのに、忘れ物のチェックを忘れた。
涼太に調べるのを禁止された鍵マークの意味。
ずっと頭の中で考えていたせいだ。
だから、涼太のせい。

「……ない」

机の中を見る。

「……ない」

カバンの中を見る。
やっぱりない。
友達のところから戻ってきた涼太が、椅子を引く音にも気づかなかった。

「花村。……花村。……ん?どうした?」

「現代文の教科書、忘れた」

「え、珍し」

「僕、借りてくる」

「誰に?」

「分かんないけど、隣、行ってくる」

机に両手をついて、勢いよく立ち上がったものの、同じ勢いで心臓が冷えていく。
たぶん、誰かしらに声をかければ、貸してくれるだろう。
でも、その人が白い目で見られる可能性がある。
そんなの嫌だ。
僕のせいなんて、思いたくない。
こういうとき、僕はどうしたらいいんだろう。

「花村、隣のクラスに知り合いいるの?」

「……いない」

「俺が貸す」

「いいの?」

「俺を頼ればいいじゃん」

靴の底がキュッと鳴る。
コクンと唾を飲む音が、やけに体の中に響いた。
僕が守られるのは可愛いから。
それが普通だった。
それなのに、涼太を頼ってもいいの?
白い目で見られるかもしれないのに。
意地悪なことを言われるかもしれないのに。

「……なんで涼太は平気なの?」

「なにが?」

「なんでもない。……ありがと」

涼太が机を浮かせた。
お昼休みにサッカーでもしてきたのか。
ブレザーを脱いで、ワイシャツの袖も捲りあげている。
滑らかな肌に、弾力のありそうな筋と血管。
触ってみたらどんな感じなんだろう。
考えているうちに、僕と涼太の机がくっついた。

「座ろう」

「……うん」

肘がぶつかる。
汗ばんだ涼太の熱が伝わる。

気怠げな雰囲気をまとっていた教室。
目が覚めたみたいに、空気が大きく揺れた。

「あの二人、近くない?」

「花くん、嫌じゃないのかな」

「むしろ涼太がすごいんだけど」

顔を上げる。
前後左右から集まる視線。
僕の指先がジリジリと痺れてくる。
見られるのは慣れてる。
でも、今はあんまり見てほしくない。
僕、いつもの顔できてるのかな。
涼太はどんな顔してるんだろう。
見つめるけど、あまりにも普通で力が抜ける。

「花村?」

「やっぱり、涼太のせいだ」

「なにが?」

「……なんとなく」

「ふぅん」

涼太はなんの躊躇いもなく、くっつけた机の境目に教科書を置いた。
涼太にとって、空気は読むものじゃないらしい。
僕とは違う、ゴツゴツした長い指。
さらりとページをめくる。

「涼太、近くない?」

「そうか?普通だろ」

「嫌じゃないの?変な目で見られるよ」

「花村のせいじゃないし」

次の言葉が見つからず、見つめる教科書。
錆で汚れたほっぺたを思い出す。
頬杖のふりして、そっと撫でてみた。
カーテンを揺らす風が、僕たちの間にふわりと落ちる。

「さっきごめん。涼太のせいにして。今朝も」

「ん?よく分かんないけど、謝罪は受け入れる」

チャイムが鳴った。
いそいそと教室に入ってきた先生は、チラッと僕たちを見ただけで、すぐに授業を始めた。
良かった。
先生がなにか言ったら、また注目されちゃう。

「あ、消しゴム。なくしたかも」

「貸す」

「涼太、シャーペンの芯……」

「やる」

「涼太、僕の字見て。なんか変かも」

「大丈夫。ちゃんと読める」

「ねぇ、涼太」

「なに?」

「……なんでもない」

なんだろう。
なんか物足りない。
ペンケースの中を見てみたり、机に手を入れてみるけど、他に忘れ物はなさそう。
困ってることはないはずなのに、ずっと探してる。

「やっぱり、なんでもある」

「なに?」

「僕の顔見て。今日もちゃんと可愛いかどうか」

「……今、授業中」

ぷいっと顔をそむけた涼太。
面白くなくて唇をとがらせる。
あーあ、この様子じゃ、僕の欲しい言葉は今日ももらえないんだろうな。

「……?」

なんで僕、こんなに涼太の言葉が欲しいんだろう。
生まれたときから可愛いって言われてきた。
でも、僕自身がそれを望んだわけじゃない。
ジョギングだって、スキンケアだって、爪だって、みんなの言葉に見合うように努力してるだけ。
可愛いと思われたくて始めたわけじゃない。
じゃあ、なんで涼太には言ってほしいんだろう。
……ぜんっぜん分からない。

今夜は寝られないかも。
七時間睡眠に支障が出そうだから、僕は授業に集中することにした。

明日の朝は、ちゃんと忘れ物チェックしないと。