高嶺の花くんは隣のあいつが気になる。

勉強は花村麗のライフワークだ。

可愛いだけじゃ生きていけない。
いや、もしかしたら生きていけるのかもしれないけど、可愛い僕は勉強だってできたほうがいいだろう。
知らないことを知るのは好きだ。
できないことができるようになったら嬉しい。
だから、勉強は嫌いじゃない。
それに――
分からないことをそのままにしておくと、七時間睡眠に支障が出る。
僕の可愛さに少しでも翳りが出たら、がっかりする人もいるかもしれない。

今日も放課後、図書室へ行く。
テスト前だからか、いつもより人が多い。
普段は口酸っぱく「静かに!」を言う司書の先生も、笑い声以外は黙認しているようだ。
顔は渋いけど。

窓際の僕の席。
別に僕の席って決まってるわけじゃないのに。
四人掛けのテーブルが、そこだけパラレルワールドに引き込まれたみたいに、ぽつんと空いていた。
テーブルに近づく。
ざわめきが小さくなる。
古臭い木の椅子に手を添えて、そっと撫でた。
いつもの手触り。
今日もここにいてくれた。
……なんて、椅子に思うのも変だけど。
僕が座ると、またざわめきが戻る。
僕以外の誰にも触れられないここは、いつも少しだけ冷たい。
一度だけ窓の外を見て、カバンの中から参考書を取り出した。

ページをめくる音。
シャーペンがノートを滑る音。
小さな笑い声と、慌てたような「シー!」の声。
全部が霞んで遠くなったとき――
空気を切り裂くように、椅子が床をひっかく音が、すぐ隣で聞こえた。
バサバサと降ってきた教科書が、僕の右ひじに当たる。
顔を上げると、涼太が僕を見ていた。
珍しく眉間にシワなんか寄せている。

「花村、分かんないとこある」

「そうなの?」

「あのさ、ここ」

数学の教科書を広げて、指を突き立てる。
人差し指の外側に、赤褐色の線が見えた。
引っかかれたような傷。
この前はなでなでしないって言ってたのに。

「分かる?」

「僕に分からない問題があると思う?」

「そりゃ、あるだろ。……この公式さぁ」

「あぁ、これはひっかけだから……」

教えるなんて一言も言ってない。
それなのに、涼太は当たり前みたいに次々とページをめくった。

「これも分かんない」

次は英語の教科書を開く。

「これは前置詞によって意味が変わる」

「それが分かんない」

「えぇ〜、そこから?」

「そこから」

ルーズリーフを一枚出して、シャーペンを握り直した。
一番上の行に、教科書の英文を書き出す。
涼太の肩がトンとぶつかって、字が乱れる。
先生にも褒められる僕の字が、ヘビみたいにグネグネしてる。
手元を覗く涼太の黒髪が、僕の視界を邪魔した。
シャンプーのにおいなのか?
日向ぼっこしている猫みたいなにおいがした。

「ん?なんて書いてある?」

「えーと」

「読めない」

視界に黒が増える。
消しゴムを探すと、筆箱の裏に隠れていた。

「……涼太の髪のせい」

右手にシャーペンを握ったまま、左手で書いたばかりの字を消す。
涼太が背中を仰け反らせて、木の椅子がギシッと軋んだ。

「すげー、器用」

「なにが?」

「そうすれば持ち替えなくていいんだな」

「まぁね」

「俺も練習する」

それからしばらくは、涼太が左手で消しゴムをこするのを、頬杖をついて眺めていた。
不規則なリズム。
僕のルーズリーフがぐしゃぐしゃになっていくのが、なぜか面白かった。