高嶺の花くんは隣のあいつが気になる。

花村麗の朝は早い。

耳障りな電子音にカッと目を開けた。
スマホの画面をタッチ、時刻は午前五時。
よし、きっかり七時間睡眠。
カーテンを開けて、白み始めた空に目を凝らす。
うん、雨は降らなそう。
着替えてから誰もいないキッチンに降りて、まずは一杯の白湯を飲む。
軽くスキンケアをして、日焼け止めはマスト。
さらにネックカバーつきのキャップをかぶる。
きゅっと靴ひもを結んで、静かに玄関のドアを開けた。

「行ってきます……」

ストレッチをしてからタッタッと走り出す。
靴の裏を押し返すアスファルトの感触を確かめながら、まずはゆっくり。
少しずつ加速していく。

いつもと同じ朝。
いつもすれ違う新聞配達のおじさんと交わす「おはようございます」
いつもの曲がり角で、僕は初めて足を止めた。
「あ、猫」
茶色のような、黒のような。
さきっちょの曲がったしっぽが塀の向こうに消える。
なんだか鍵みたい。
誘われるようにして、いつもと違う通りに入った。

「おーい、猫ー」

僕に堂々とお尻を向けながら歩く後ろ姿に呼びかける。

「君、僕より可愛いってほんと?」

「………」

「君の毛並みって、何か特別な手入れしてるの?」

「………」

「僕と勝負してみる?」

「……みゃあ」

しっぽがさっと地面をなぞった。
僕なんかちっとも見ようとしない目が、何かを見定めている。
そわそわと前足を踏み込んだと思ったら、するりと塀の上に飛び乗った。

「おぉ、やるねぇ」

エアー拍手。
ゆっくり近づく。
猫は一瞬だけ僕を見たけど、何事もなかったように自分磨きに勤しんでいる。
そっと持ち上げた手。
縞模様の耳の間を撫でてやると、うっとりと目を閉じた。

「パシャ」

聞き慣れない音に、ピクッと指が跳ねる。

「……?」

「パシャ、パシャ」

道の先に目を向けると、スマホを構えた男。
半分だけ朝日に照らされた顔には見覚えがあった。

「涼太?」

白いパーカーに黒いハーフパンツ。
むきだしのふくらはぎが、じりじりと近づいてくる。
なかなかいいヒラメ筋だ。

「もしかして、僕のこと撮った?」

涼太がスマホの画面をじっと見る。
ちょっとだけ口の端が上がった。

「あー……撮ったな」

「やっぱり」

「猫撮ろうとしたところに花村が写り込んだんじゃん」

「………」

「動くなよ」

「なんで?」

「逃げるから」

「僕より猫?」

「猫」

また即答。
塀の上に視線を戻す。
涼太のお目当ての猫。
もっと無でろとでも言うように、目を閉じたまま頭を伸ばした。
柔らかい顎の下をくすぐると、ゴロゴロと微かな振動が伝わる。

「君、僕より可愛いの?」

猫は答えない。
首の後ろを爪でかくと、ピクピクと耳が動いた。
静かな通りに響く涼太の笑い声。
スマホを持った手を下げて、口元に手の甲を当てている。

「花村ってやっぱり面白い」

「どこが?」

「猫としゃべってる」

首を傾げる。
さすがの僕にも猫の言葉は分からない。
それに、猫は僕と会話する気はなさそうだ。
涼太が近づいてくる。
反射的に一歩下がると、猫は「みゃあ」と不服そうに鳴いて、塀の向こうに消えた。

「あ」

「動くなって言ったのに」

「涼太がこっち来るから」

「なんで?」

「分かんない」

涼太は首の後ろをガシガシとかいて、僕に背を向けた。

「じゃ、帰るわ。またあとでな」

「……待って!」

思わず呼び止めたけど、話す言葉なんて用意してない。
涼太は不思議そうに僕を見ている。
塀に伸びる影を睨んでから、口を開いた。

「……猫」

「うん」

「猫の写真、見せて。今、撮ったやつ」

「あぁ」

スマホを操作する涼太に歩み寄る。
僕が覗き込むと、涼太の手が一瞬だけ止まった。
僕と猫の写真。
何枚撮ったんだってくらい、映画のフィルムみたいに並んでる。
僕の顔は三分の一くらい帽子に隠れてた。

「なんか花村、いつもと違う顔してる」

「僕はいつも可愛い」

「はいはい」

「この写真、消して」

「なんで、やだよ」

「なんか嫌」

涼太がくっくっと笑う。
親指の先が画面に触れて、僕の変な写真が拡大された。

「これ、送るわ」

「人の話聞いてた?」

「俺は気に入ってるから」

「………」

「花村?」

「なんで?」

「なんとなく」

ランニングシューズの爪先をトンと地面に立てる。
小さな石ころが転がって涼太の靴に当たると、ちょっとだけ僕の頬が上がった。