隣のあいつがいない。
それは、花村麗にとって小さな大事件だった。
「おはよう」を言う相手がいない。
何秒で目が合うかのゲームができない。
困ったとき――困っていないときでも――頼れる人がいない。
重く湿った風がカーテンを揺らして、僕はそっと腕をさすった。
何度見たって涼太はいない。
分かっていても、つい見てしまう。
本当は今日、謝りたかった。
わがままを言い過ぎたこと。
僕から誘ったのに、先に帰ったこと。
それで、ちゃんと『僕と友達になって』を言いたかったのに。
「あれ?涼太、休み?」
「風邪だってー」
「へぇ、珍しい」
……風邪、ひいちゃったんだ。
クラスメイトたちの会話は、僕への称賛の言葉よりずっと耳に残った。
『風邪、大丈夫?』
『よかったら、連絡先交換しない?』
涼太に伝えたい言葉がどんどん積み重なっていく。
お昼休み。
「あいつ、今日休んだの?なんだよ、俺に連絡来てねぇんだけど」
涼太の席に座ったのは、見覚えのある男子だった。
クラスは違うけど、よく涼太をお昼ごはんに誘っている。
でも、教室の中にまで入ってくるのは初めてだ。
日焼けした肌、 がっちりした肩幅、きちんとセットされた短い髪。
涼太とは正反対。
鼻にシワを寄せる笑い方も、全然違う。
名前は確か……
「うわっ、花くん?!……え、俺のこと知ってます?」
じっと見ていたら目が合ってしまった。
しかも、話しかけてきた。
教室のざわめきが大きくなる。
涼太が僕に話しかけたときよりもずっと。
当の本人は、状況が分かっているのかいないのか、やたらにこにこしている。
「俺、青木ゆうすけっていいます」
「ゆうすけ?」
「そうっす。ちなみに涼太とは幼馴染」
「僕、花村麗」
「知ってる知ってる。麗くん、噂通りだね」
「噂?」
「うん。やっぱり可愛いねぇ」
なんだ、そっちの噂か。
涼太が僕のこと、何か言ってたのかと思った。
小さく息をついて、前に向き直る。
そんな僕に、ゆうすけはズイッと身を乗り出してきた。
「涼太から聞いてますよ〜、麗くんのこと」
「え、なんて?」
思わず聞く。
ゆうすけは質問に答えず、僕の顔を見つめる。
……うぅ、穴が空きそう。
パチパチと瞬きすると、ゆうすけはさらに近づいてきた。
大丈夫?
後ろ、すごいザワザワしてるけど。
「涼太のやつ、風邪ひくと食欲なくなるんすよね〜」
「そ、そうなんだ」
「麗くん、今日って暇?」
「なんで?」
「涼太のお見舞い、頼んでもいいっすか?」
結局、涼太が僕のことをなんて言ってたのかは分からなかった。
放課後。
右手には住所が書かれたメモ。
左手にはプリンやらゼリーやらを入れた袋。
僕は、駅前の二階建ての家の前に立っていた。
「僕は、涼太くんのクラスメイトの花村って言います」
「課題のプリントを届けにきました」
「よかったら、これもどうぞ」
歩きながら練習してきたセリフ。
口の中で繰り返す。
ただのお見舞いなのに。
袋の中をもう一度確認すると、ぎゅっと目を閉じた。
「ピーンポーン」
くぐもったチャイム。
しばらく待つ。
もう一度鳴らそうか。
そう思ったとき、「ガチャリ」と重たい音がして、ドアが開いた。
「……え?花村?」
顔を出したのは、涼太だった。
鼻にかかった、掠れた声。
肩を上下させて、荒い息を吐いている。
焦点の定まっていない目は、僕のおでこと口のあたりを行ったり来たりしている。
「涼太?……おうちの人は?」
「仕事」
僕から距離をとるように、後ろへ下がる。
ふらついた涼太の腕を、思わず掴んだ。
躊躇う暇もなく、僕はドアの内側に足を踏み入れていた。
「ごめん、上がらせてもらう」
「でも、移る」
「いいから」
グイグイと背中を押す。
大人しくベッドに潜り込んだ涼太は、いつもより小さく見えた。
「熱は?」
「三十八くらい」
「なにか食べた?」
「無理」
「薬は?」
「飲んだ」
「食べないのに飲んだの?!」
「……うぅ」
僕の矢継ぎ早の質問に答えられるくらいだから、そんなに重症じゃないだろう。
でも、熱が高い。
おでこに手を当てようとして、拳を握った。
ちゃんと体温計で測ったほうがいい。
「氷枕は?」
「分かんない。たぶんある」
「キッチンに入っても大丈夫?」
「うん」
袋を持って立ち上がる。
なにかを訴えるような目が追いかけてきたけど、僕が部屋を出るまで、涼太は口を閉ざしていた。
買ってきたプリンとゼリーを冷蔵庫へ。
冷凍室を開けると、氷枕はすぐに見つかった。
涼太の頭の下に敷いて、もう一度階下に向かう。
さっき、冷蔵庫にゆでうどんがあるのが見えた。
ちょっと迷ったけど、僕は生まれて初めて人の家のキッチンに立った。
「涼太、うどん作ったけど食べる?無理ならゼリーだけでも……」
「うどん」
やや被せ気味の返事。
涼太はのそりと起き上がった。
うどんを完食すると、「ごちそうさま」と両手を合わせる。
食欲、ないんじゃなかったの?
でも、さっきよりずっと顔色がいい。
肩の力が抜ける。
勝手に上がる口角をごまかすように、涼太の肩を押した。
「ほら、また横になって」
「うん」
素直に言うことを聞く涼太。
なんだか子どもみたい。
僕はベッドに背中を預けて座る。
伸ばした足の爪先が、ぎこちなく左右に揺れた。
「僕、わがままでごめん」
「……大丈夫」
「また困らせるかもしれないけど」
「……うん」
「僕と、友達になってほしい」
「……」
返事がない。
膝立ちになって顔を覗くと、重そうに瞼が下りていた。
「寝ちゃった?」
「……」
おでこにかかった前髪を指先で払う。
白くて丸いおでこ。
引き寄せられるように近づく。
「……ん……花村は」
ハッとして背筋を伸ばした。
僕、なにしようとしてたんだろう。
涼太のまつ毛の先が震えて、少しだけ口を開いた。
「友達より……特別な存在……だよ……」
今聞いたばかりの言葉を、頭の中で反芻する。
友達より特別……?
それ、どういう意味なんだろう。
もしかして、親友……とか?
そう思うと、口元が少しだけ緩んだ。
……でも。
近くにあったクッションを引き寄せて、ぎゅっと胸に抱える。
僕に大きな疑問を残した涼太の寝顔は、つつきたくなるほど穏やかだった。
それは、花村麗にとって小さな大事件だった。
「おはよう」を言う相手がいない。
何秒で目が合うかのゲームができない。
困ったとき――困っていないときでも――頼れる人がいない。
重く湿った風がカーテンを揺らして、僕はそっと腕をさすった。
何度見たって涼太はいない。
分かっていても、つい見てしまう。
本当は今日、謝りたかった。
わがままを言い過ぎたこと。
僕から誘ったのに、先に帰ったこと。
それで、ちゃんと『僕と友達になって』を言いたかったのに。
「あれ?涼太、休み?」
「風邪だってー」
「へぇ、珍しい」
……風邪、ひいちゃったんだ。
クラスメイトたちの会話は、僕への称賛の言葉よりずっと耳に残った。
『風邪、大丈夫?』
『よかったら、連絡先交換しない?』
涼太に伝えたい言葉がどんどん積み重なっていく。
お昼休み。
「あいつ、今日休んだの?なんだよ、俺に連絡来てねぇんだけど」
涼太の席に座ったのは、見覚えのある男子だった。
クラスは違うけど、よく涼太をお昼ごはんに誘っている。
でも、教室の中にまで入ってくるのは初めてだ。
日焼けした肌、 がっちりした肩幅、きちんとセットされた短い髪。
涼太とは正反対。
鼻にシワを寄せる笑い方も、全然違う。
名前は確か……
「うわっ、花くん?!……え、俺のこと知ってます?」
じっと見ていたら目が合ってしまった。
しかも、話しかけてきた。
教室のざわめきが大きくなる。
涼太が僕に話しかけたときよりもずっと。
当の本人は、状況が分かっているのかいないのか、やたらにこにこしている。
「俺、青木ゆうすけっていいます」
「ゆうすけ?」
「そうっす。ちなみに涼太とは幼馴染」
「僕、花村麗」
「知ってる知ってる。麗くん、噂通りだね」
「噂?」
「うん。やっぱり可愛いねぇ」
なんだ、そっちの噂か。
涼太が僕のこと、何か言ってたのかと思った。
小さく息をついて、前に向き直る。
そんな僕に、ゆうすけはズイッと身を乗り出してきた。
「涼太から聞いてますよ〜、麗くんのこと」
「え、なんて?」
思わず聞く。
ゆうすけは質問に答えず、僕の顔を見つめる。
……うぅ、穴が空きそう。
パチパチと瞬きすると、ゆうすけはさらに近づいてきた。
大丈夫?
後ろ、すごいザワザワしてるけど。
「涼太のやつ、風邪ひくと食欲なくなるんすよね〜」
「そ、そうなんだ」
「麗くん、今日って暇?」
「なんで?」
「涼太のお見舞い、頼んでもいいっすか?」
結局、涼太が僕のことをなんて言ってたのかは分からなかった。
放課後。
右手には住所が書かれたメモ。
左手にはプリンやらゼリーやらを入れた袋。
僕は、駅前の二階建ての家の前に立っていた。
「僕は、涼太くんのクラスメイトの花村って言います」
「課題のプリントを届けにきました」
「よかったら、これもどうぞ」
歩きながら練習してきたセリフ。
口の中で繰り返す。
ただのお見舞いなのに。
袋の中をもう一度確認すると、ぎゅっと目を閉じた。
「ピーンポーン」
くぐもったチャイム。
しばらく待つ。
もう一度鳴らそうか。
そう思ったとき、「ガチャリ」と重たい音がして、ドアが開いた。
「……え?花村?」
顔を出したのは、涼太だった。
鼻にかかった、掠れた声。
肩を上下させて、荒い息を吐いている。
焦点の定まっていない目は、僕のおでこと口のあたりを行ったり来たりしている。
「涼太?……おうちの人は?」
「仕事」
僕から距離をとるように、後ろへ下がる。
ふらついた涼太の腕を、思わず掴んだ。
躊躇う暇もなく、僕はドアの内側に足を踏み入れていた。
「ごめん、上がらせてもらう」
「でも、移る」
「いいから」
グイグイと背中を押す。
大人しくベッドに潜り込んだ涼太は、いつもより小さく見えた。
「熱は?」
「三十八くらい」
「なにか食べた?」
「無理」
「薬は?」
「飲んだ」
「食べないのに飲んだの?!」
「……うぅ」
僕の矢継ぎ早の質問に答えられるくらいだから、そんなに重症じゃないだろう。
でも、熱が高い。
おでこに手を当てようとして、拳を握った。
ちゃんと体温計で測ったほうがいい。
「氷枕は?」
「分かんない。たぶんある」
「キッチンに入っても大丈夫?」
「うん」
袋を持って立ち上がる。
なにかを訴えるような目が追いかけてきたけど、僕が部屋を出るまで、涼太は口を閉ざしていた。
買ってきたプリンとゼリーを冷蔵庫へ。
冷凍室を開けると、氷枕はすぐに見つかった。
涼太の頭の下に敷いて、もう一度階下に向かう。
さっき、冷蔵庫にゆでうどんがあるのが見えた。
ちょっと迷ったけど、僕は生まれて初めて人の家のキッチンに立った。
「涼太、うどん作ったけど食べる?無理ならゼリーだけでも……」
「うどん」
やや被せ気味の返事。
涼太はのそりと起き上がった。
うどんを完食すると、「ごちそうさま」と両手を合わせる。
食欲、ないんじゃなかったの?
でも、さっきよりずっと顔色がいい。
肩の力が抜ける。
勝手に上がる口角をごまかすように、涼太の肩を押した。
「ほら、また横になって」
「うん」
素直に言うことを聞く涼太。
なんだか子どもみたい。
僕はベッドに背中を預けて座る。
伸ばした足の爪先が、ぎこちなく左右に揺れた。
「僕、わがままでごめん」
「……大丈夫」
「また困らせるかもしれないけど」
「……うん」
「僕と、友達になってほしい」
「……」
返事がない。
膝立ちになって顔を覗くと、重そうに瞼が下りていた。
「寝ちゃった?」
「……」
おでこにかかった前髪を指先で払う。
白くて丸いおでこ。
引き寄せられるように近づく。
「……ん……花村は」
ハッとして背筋を伸ばした。
僕、なにしようとしてたんだろう。
涼太のまつ毛の先が震えて、少しだけ口を開いた。
「友達より……特別な存在……だよ……」
今聞いたばかりの言葉を、頭の中で反芻する。
友達より特別……?
それ、どういう意味なんだろう。
もしかして、親友……とか?
そう思うと、口元が少しだけ緩んだ。
……でも。
近くにあったクッションを引き寄せて、ぎゅっと胸に抱える。
僕に大きな疑問を残した涼太の寝顔は、つつきたくなるほど穏やかだった。



