「俺は貴方と必要以上に関わる気はない」
今しがた顔を合わせたばかりの夫から向けられた冷たい視線と言葉に菖蒲は混乱と共に怒りを覚えた。
人との円滑なコミュニケーションに必要なのは、上部だけでも取り繕えるかどうかだ。例え嫌悪感があろうとも表には出さずに友好的に接するべきである。これから一緒に暮らすならばなおのこと大事なはず。
軍に所属するお偉いさんだか何だか知らないが、不遜な態度に苛立つ。
しかし、菖蒲は常識を携えた美少女なので、はいはいそうですか、なんて不貞腐れた態度は取らない。目の前の自己中男とは違うのだ。
「……はい、不束者ですが、これからよろしくお願いいたします」
わざと憂いを帯びた表情で殊勝な態度を取れば、菖蒲と結婚した男——紅月はふんと鼻を鳴らし、去っていった。
嫌なやつ。
それが、婚約者である雨宮紅月の第一印象である。
そもそも、何故あんな男と婚約することになったのかというと、海よりも深い事情があった。
佐々木菖蒲は、自他ともに認める美貌と才能に恵まれている。艶やかな黒髪に大きく澄んだ瞳、均等のとれた完璧な配置の顔のパーツ。
菖蒲は幼少期からお姫様みたいと周りに持て囃され、チヤホヤされて生きてきた。調子に乗る人間はいつか足元を掬われるという祖母の教えにより性格さえも表面上は慎ましく可憐に見えるようにし、誰からも好感を覚えて貰えるようにしてきたのだ。
その結果、菖蒲はこれまで誰かに嫌われた経験は、ほとんど無い。
しかも、菖蒲が特質しているのは美貌だけではなく、その才能にあった。
世の中には『能力』ある人とない人がいる。『能力』とは特殊な力のことで、人によって有しているものに個性があり、火や水を操れる人や、植物を成長させられる人、動物と話せる人など多種多様だ。その力にも差があり、線香花火のような小さな火しか灯せない人もいれば、打ち上げ花火のような大きなものを扱える人もいる。
菖蒲は人に触れることで未来を予知したり、過去を見ることができる。今年で十八歳になった菖蒲はその力を使って、占い師をしている。
これが、かなり儲かる。
「その男性は嘘を吐いていますよ。別の会社からのスパイです」
古めかしい壺や高そうな絵画などの装飾品や豪奢な調度品が並んでいる屋敷の一室で、ソファに腰を下ろした菖蒲は前方に座る男性に淡々と告げた、すると男性は愕然とした顔をした後に「やっぱりか」と呟いた。
「怪しいとは思っていたんだ。君に聞いてよかったよ、これで決心ができた」
男性はこの豪邸の主人で、大きな会社の社長をしている。時々な闇ごとがあることこうして占ってほしいと依頼をしてくる顧客だ。かなり羽振りがよく、菖蒲の懐は彼のおかげで潤っている。
菖蒲は外していた薄手の手袋をはめ直しながら言う。
「満足していただけてよかったです」
「また頼むよ」
そう言って男性は懐から封筒を取り出して菖蒲に差し出した。厚みのある封筒を受け取り中を確認してからにっこりと微笑む。
「いつもありがとうございます。これからもどうかご贔屓に」
「ああ、いつでも専属になってくれてもいいんけどね」
男性の手が菖蒲に伸びるのをさっと避け、立ち上がる。仕事が終わったのに長居している理由はない。
「また、よろしくお願いしますね」
菖蒲は愛想笑いを浮かべて屋敷を出た。
屋敷が見えなくなった所でカバンの中にしっかりと封筒があるのを確認し、ほっと安堵の息を吐く。中には十万円入っている。これがあれば、今月の生活には困らないだろう。
頭の中で使い道を考えて、家賃やら高熱費、それから食費などで次々と出費がかさんでいくのにため息が漏れていく。
菖蒲の家は、母子家庭で母は働いていないので菖蒲の稼ぎで生活している。普通の企業で働くよりも稼げるのだが、母がストレスが溜まると散財する癖があるせいで貯金は無い。
お金を隠していても何故か見つかり、一向に貯まる気配がなくいつも不安を抱えなければならない。
母の前で弱音など絶対に吐かないように気をつけている分、一人になると少々落ち込んでしまう。
「ダメダメ、しっかりしなさい菖蒲」
自宅が見えてきたので、一度立ち止まりパンっと頬を叩いたあと、にっこりと笑顔を浮かべて自宅の扉を開けた。
「ただいま、お母さん……」
母はいつも家にいて、この時間はリビングにいるはずだが、その姿が見えない。家の中は電気がついておらず暗いのも気になる。珍しく買い物にでも行っているのだろうか、と台所を覗き込み——床に倒れている母の姿を見つけ、目を見開いた。
「お母さん!」
急いで駆け寄り、肩を叩くが全く反応がない。慌ててスマホで救急車を呼ぶ。
救急車を待っている間、母の未来を見ようかと思ったが、悪い未来が見えてしまった時が怖くて手袋を外せなかった。
その後、やってきた救急車に乗せられ母と共に病院へ向かい、母は緊急手術となった。手術後、麻酔がまだ残っているせいで母はぼんやりしておりまともに会話はできなかったが、手術は無事に終わったらしい。
一人で自宅へ帰りながら菖蒲は安堵と共に不安感を募らせていた。
母が無事ならばなんでもいい、と言えるほど菖蒲は楽観的ではない。母の入院費を菖蒲が稼がなくてはいけない。手術代だけでもかなり持っていかれるだろうから、金がいくらあっても足りない。
「どうしよう」
「どうかしましたか」
俯いて歩いていた菖蒲は前方から聞こえてきた声に体を跳ねさせ、顔をあげると自宅の前に着物姿の女性とスーツを着た男性が立っているのが見えた。どちらにも見覚えはないが、雰囲気と佇まいから菖蒲のような平民とは別次元の人間だとわかる。
「どちら様ですか?」
警戒しながら尋ねると女性に促される形で、スーツ姿の男性が菖蒲に歩み寄ってきた。
「私、雨宮家にお仕えしているものです。佐々木菖蒲さん、あなたにお話があって参りました」
「お話って……」
「ここではなんですから、お自宅の方にお邪魔してよろしいですか?」
男の言葉には有無を言わさない圧があり、押し切られる形で二人を家へ招いた。
「私、雨宮鶴美と申します」
女性は玄関から中には入ろうとせず、その場で軽く会釈をした。鶴美は五十代くらいでおっとりしている見た目をしているが、無遠慮に部屋を見渡す様子から横柄さが滲んでいる。
家の中を無遠慮に見てから「ここで大丈夫です」と宣った。
貧乏人の家には入りたくないらしい。それならそれでいいと菖蒲は上り框から女性を見下ろしながら頭を下げた。
「ご存知のようですが、佐々木菖蒲と言います。どういったご用で来られたのでしょうか」
菖蒲の言葉に答えたのは、スーツの男だ。
「貴方に雨宮家時期当主である紅月様と結婚していただきたいのです」
「は?」
何を言われたのか理解できなかった。
「ごめんなさい、何かおかしな話が聞こえてきたんですけど、もう一回言ってもらっていいですか?」
「ですから、こちらの雨宮鶴美様のご子息である紅月様と婚姻して頂きたいのです」
何度聞いても同じ回答が返ってきた。
困惑しきっている菖蒲に対し、対面しているふたりはさも当たり前だとばかりにうっすらと笑みを浮かべているので、菖蒲の方がおかしいような気になってくる。
「あの、どうして私が貴方の息子さんと結婚しないといけないんですか?」
「紅月様は、今年二十三歳になられ、雨宮家を継がれます。世継ぎのためにも結婚は早めがいいと昔から婚約者などを宛てがってはいたのですが、ことごとく失敗しまして、紅月様に相応しい名家の方との縁が結ばれなかったので次の候補者である菖蒲様の所へ来たということです」
婚約者を宛てがい、失敗したという言い方に引っ掛かりを覚える。ここに婚約をする本人が来ていないのを考慮しても、紅月自身は結婚に乗り気ではない気がする。
ここはさっさと断り面倒ごとは避けたい。
「私の家はこの通り貧乏で、その紅月様とは釣り合いが取れませんよ。だから……」
「貴方の能力は、他の有象無象とは格が違うでしょう」
急に鶴美が口を開いた。
「雨宮家と結婚するのは、能力が高いものじゃないとダメなんですよ。平凡ではダメ。無能なんて論外」
鶴美の言葉に嫌悪感が混じる。恐らく能力が無い者への差別意識があるのだろう。しかもそれを隠そうともしない。能力が無い人を前にしても同じような態度を取るのが容易に想像できた。
その態度に菖蒲は眉を顰める。
「買い被りすぎですよ。私なんて平凡な人間です。だから、このお話はなかったことに」
「結婚するのなら、お母様の治療費をこちらで負担します」
鶴美は慈悲深い笑みを浮かべた。
なぜ、母の病気を知っているのか。疑問や困惑が脳を支配しそうになるが、すぐに心の中で落ち着けと繰り返して正気に戻る。
どうすればいいのか考えたないと——。
「貴方一人で全てを賄うのは無理でしょう。いくら貴方の能力で稼げても限界がありますよ。手術代に入院費。個室がいいでしょうから更に金が重なります」
全てを見透かしたように鶴美が言う。
この人は、菖蒲の家の現状を全て把握しているようだ。
母が倒れたタイミングでここへ来たのは偶然ではない。恐らく全てを調べ尽くし、菖蒲が断れないタイミングで仕掛けてきたのだ。狡猾で嫌になる。
実際、鶴美の言葉は事実だった。
菖蒲が結婚すれば、母を助けられる。
苦労をかけた母の役に立てるかもしれない。
「わかりました。お受けします」
そうして、菖蒲は会ったこともない雨宮紅月との結婚を了承し、すぐに婚姻届にサインをした。そして、現在紅月から冷たい視線と言葉を向けられている。
顔合わせは雨宮家の本家で行われた。婚約というおめでたいものであるはずが、紅月は終始ムッスリとしていて愛想の欠片もない上に、雨宮家の親戚一同、それと雨宮家に取り入ろうとする外部の人間の空気感は妙に殺伐としていて気分が悪くなる。
菖蒲が金でつられた話は周知されているようで、ひそひそと囁く声が何度も聞こえてきた。
そんな重苦しい顔合わせが終わると、すぐに紅月は本家を出た。行く宛がない菖蒲はその後を追い、同じ車に乗って向かったのは本家よりもずっとこじんまりとしている日本家屋だ。こじんまり、と言っても一般家庭からしたら広く、庭には大きな木や花が大量に咲いている。
「ここは?」
「俺の家だ」
今まで無言だった紅月が言った。
「俺のって、本家で住んでいないのですか?」
「あんなところで暮らせるわけがない」
紅月は吐き捨てるように言った。
予想通り両親とは不仲らしい。
それにしても当主になる人間が本家に住まなくてもいいのだろうか、と疑問を抱いているとそれを察した紅月が答えた。
「俺はまだ当主にはならない。犯罪集団の摘発で忙しいからな」
「ああ、確か軍に所属していらっしゃるとか」
今日の顔合わせの前に雨宮家の使いの人間が来て、玄関で熱弁されたのだ。能力者の中には力を悪事に使っている者もいる。軽犯罪ならば警察でどうにかなるが大きなものになると力の強い能力者が集められている軍が制圧に向かう。紅月は現在軍に所属して大活躍らしい。
「そうだ。まだ当主にはなっていないから当主としての俺の立場を期待していたのならお門違いだ」
「はあ」
別に紅月が当主だろうが、軍人だろうが支援さえしてくれればなんでもいいので、曖昧な返事になった。
話をしている間に車が止まり、紅月はさっさと降車する。菖蒲もそれに続き車を降りたところで、玄関が開いた。
「おかえりなさいませ、紅月様」
顔を出したのは、使用人らしき若い女性だ。彼女は明るい表情で紅月を出迎え、慣れた手つきで荷物を受け取る。
「ただいま、彼女の荷物も頼む」
紅月は菖蒲に対している時に反して柔らかい声で言う。その言葉に女性の視線が菖蒲に向き、すぐに不快げに顰められた。
「もしかして、ご両親が強行を?」
「ああ。いつものように招けばいい」
そこまで言ってから、紅月は菖蒲を振り返る。
「言っておくが、この家では高待遇は受けられないと思ってくれ。耐えきれないのならすぐに出て行ってもらって構わない」
その物言いに、何故今まで縁談うまくいかなかったのか察した。名家のお嬢様には耐えきれなかったのだろう。しかし菖蒲は別にそれでも全く構わない。
「それと、ここに住んでいる人は全員能力が無い。もし、少しでも差別的な目で見たらすぐさま追い出す」
紅月の目つきが一層鋭くなる。
能力が無いものは最近少なくなってきている。そのせいで、紅月の両親ほどではないが差別をする人間は一定数いる。紅月は身内には甘いタイプなのだろうな、と呑気に思った。
「わかりました。これからよろしくお願いします」
紅月は一瞬驚いた様子を見せたが、すぐにさっと目を逸らし先に玄関の扉を潜る。
「あの」
ふたりきりになった途端、使用人の女性は鋭い目つきで菖蒲を睨みながら近づいて来た。声色にも表情にも敵意がにじみ出ている。
「ここでは能力者だろうが全く関係ないですからね。あと、紅月様に擦り寄っても無駄です。あの方は能力者が嫌いなので」
「そうなんですか? ご自身も能力者なのに?」
「そうですけど、いつも能力者の犯罪者と対峙しているから思う所があるみたいですよ」
能力者が全員悪人なわけではないが、日頃から能力を悪用する人間と戦っているのなら嫌ってもおかしくはない。
使用人はつっこんどんな物言いをしながら菖蒲から荷物を受け取って家の中へと運んでくれた。
菖蒲が案内されたのは、布団もない殺風景な部屋だった。使用人の反応からして菖蒲との婚約はだまし討ちに近かったのだろうから、部屋がなくても仕方がない。埃っぽくないのが救いだろうか。しかし布団がないのはかなり辛い。
「あの、お布団を借りれたりしませんか?」
「え」
使用人は驚いたような顔をして、菖蒲を見た。まさか布団で寝る習慣がないのだろうかとありえない考えが過る。
「いいですけど、こんな何もない部屋で過ごせないとか文句を言わないんですか?」
「ああ、前の婚約者はそう言っていたんですか? 別に問題ないですよ」
きっと豪奢な生活に慣れていた名家のお嬢様は何もない部屋に耐えられなかったのだろう。
「……すぐに布団を用意します。それと、お部屋も。今日は急だったので用意が間に合いませんでしたが、家具もある部屋もありますので」
使用人は少し申し訳なさそうにした。きっと菖蒲を試したかったのだろうな、と察したがそれに対して怒りは湧いてこない。慕っている人がどこの馬の骨とも分からない女を連れてきたら警戒するのは当たり前だ。
使用人に布団を用意してもらい、夕食の用意が出来たら呼びに来ると言われ、菖蒲はひとりになった。夕食の時間まであと三時間近くある。ひとりで閉じこもっているのは暇で仕方がなかったので、悩んだ末に部屋を出た。
無遠慮に歩き回るのは気が引けたので、トイレを探すという名目で廊下を歩いていると不意に右側の部屋から先ほど案内してくれたのとは別の女性の声が聞こえて来た。
「あの人、いつまでいらっしゃるのかしら」
「さあ、どうせ数日で帰りますよ。紅月様に媚びたくても、もう家にいらっしゃいませんしね」
どうやら菖蒲の噂話をしているらしい。
早く出て行ってくれという気持ちがひしひしと伝わって来て、思わず苦笑が零れる。
それにしてもどうやら紅月はもうこの家にいないらしい。
「忙しいんでしょうね……体調を崩したばかりだと言うのに出勤しないといけないんですもの」
「何事もないといいんですけどね」
不安な話題に聞き入っていたら、気が付いたらふたりの声がすぐそばで聞こえていた。立ち去るよりも前に扉が開き、顔を出した使用人の女性がぎょっと目を見開く。菖蒲の母と同じくらいの年齢の女性だ。彼女は不快感を隠すことなく言った。
「あなた、まさか盗み聞き?」
胡乱な目を向けられ、菖蒲は小首を傾げた。
「手伝えることがないかと貴方を探していた所だったんですが、えっと、何かありましたか?」
慌てたりすると嘘がバレるので、こういう時は落ち着いて対処した方がいい。使用人は疑いの目を向け続けていたが、すぐにどうでも良くなったのか話題を変える。
「手伝ってもらうことは何もないです」
「でも」
「部屋に籠っていてください」
ぴしゃりと言いつけられたが、なんでもいいから仕事が欲しいと言うと女性は深いため息を吐いた後に「そうだ」と提案をした。
「外の草むしりを杏奈がやっているから、手伝ってあげてくださいよ」
「杏奈?」
「貴方を案内した使用人です」
彼女は杏奈というのをこの時初めて知った。
女性に言われるまま、外に出て裏庭へと回ると杏奈がしゃがみこんで小さな草をむしっている。杏奈は菖蒲の存在に気が付くと、すぐに顔を顰めた。
「何の用ですか?」
「手伝いに来ました」
「は? その手袋で?」
杏奈は菖蒲の手を見ながら言う。言われてから確かにこの手袋をつけたままでは汚れてしまうな、と気が付いた。杏奈は大きくため息を吐き「いいですから部屋で大人しくしていてください」と言って追い払うように手を振った。
役に立てないのを申し訳なく思いながら言われた通り立ち去ろうとしたその時、正門の方から声が聞こえて来た気がして顔を向ける。。小さくて内容までは分からないが、男女の声だと判別できる。恐らく一人は紅月だ。
杏奈も気がついたようで、顔を上げる。
「紅月様が帰って来られたんだ」
「お迎えにいきますか?」
そう聞くと杏奈は迷っていたが、立ち上がったのでふたりで正門の方へ向かう。正門の前では、予想通り紅月が立っていた。
「おっと」
紅月の隣に見知らぬ女性が立っているのに気が付き、反射的に足が止まる。ふわふわとした茶髪がよく似合う美人だ。
「あ、美鈴様だわ」
「美鈴様? お知り合いですか?」
紅月と寄り添う姿は、かなり親密に見える。側から見れば恋人同士のようだ。
「美鈴華菜様。紅月様の同僚で、治癒力を上げる力を持っていらっしゃって、先日も体調の悪い紅月様を治して下さったんです。私たちにもとても優しくてまるで女神のような方ですよ」
杏奈は能力者を嫌っているように見えたが、美鈴のことは好きらしく彼女のことを語る口調に熱がこもっている。
「へえ」と気のない返事をしながらふたりの様子を伺う。玄関の前で向き合って何か話をしている。美鈴の方は心配そうに紅月を覗き込み、その体が触れようとそっと手を伸ばすのが見えた。
その瞬間、菖蒲は足を動かし、紅月たちの方へと向かっていった。
「ちょっと」と背後から杏奈が焦ったように静止する声が聞こえてきたが、無視を決めて紅月に向かって声をかけた。
「お帰りなさい、紅月様」
はっとした様子でふたりが菖蒲を見る。
「早かったですね。こちらは同僚の方ですか? 初めまして、紅月様と妻の菖蒲と言います」
「つ、つま?」
「はい。紅月様を送ってくださってありがとうございました。あとは私がついてますので、ここまでで結構ですよ」
美鈴は顔を引き攣らせたが、すぐに取り繕うと会釈をして帰って行った。
その背中が見えなくなったのを確認してから、紅月から距離をとってふうと息を吐き、紅月を仰ぎ見る。
「嫌がっているように見えましたが、余計なお世話でしたか?」
紅月は驚いたように目を見開き、困惑した様子で緩く首を振った。
「いや、正直助かった」
「そうですか、それなら良かったです」
美鈴が紅月に手を伸ばした時、紅月は少しだけ身を引き顔を引き攣らせていた。美鈴は恐らく紅月に好意を持っているが、紅月がそうじゃないのなら触らせるべきじゃないと判断して出て行ったが、判断は間違っていなかったらしい。
「どうしてわかったんだ。俺は、表情に出した覚えはないが」
「本気で言ってます? 結構分かりやすかったですよ」
そう言うと紅月は面食らったような顔をした。
「そんなことは、初めて言われた」
余程衝撃を受けたのか、口元に手をやっている。もしかしてこんな小娘に見抜かれたのがショックだったのかと思い、弁明するために口を開く。
「一応占い師をしているので、人の感情の機微には敏感なんですよ」
「能力で未来視をするんじゃないのか?」
「そういう時もありますけど、ただ事実を知りたくない人だっているんですよ。今付き合っている人と長く続きますか、なんて幸せそうに言われたら一ヶ月後に別れますなんて事実は言わないようにするんです。真実の愛なら長く続くとかなんとか言って。それが恋人の浮気を疑っている人なら真実を教えて上げるんです」
「なるほど」と紅月は納得した様子で頷いた。
「詐欺師みたいだ」
続いて加えらえた言葉に口の端がぴくりと動く。
人を詐欺師呼ばわりするな、と言ってやりたかったが、反論されたら面倒なので言葉を変える。
「貴方が軍人にしては読まれやすい可能性もありますね」
途端に紅月の表情が曇る。
「俺は能面と言われた男だぞ」
「それ、褒め言葉じゃないですよ。ポーカーフェイスって言いたいんですか?」
「表情を読み取られないという意味合いは一緒だろう」
この男、本気で言っているのだろうか。能面なんて絶対に褒め言葉ではない。それとも軍では讃える言葉として流行しているのか。どちらかわからないが、紅月は割と天然なのかもしれないと思い始めた。
「そう思いたいならそれでいいじゃないですか。それよりも体調が悪いんじゃないんですか?」
「問題ない。昨日まで体調が優れなかったから、まだ出てくるなと追い返されただけだ」
紅月の顔色は悪くなく、体調が悪いようには見えないが使用人たちも心配していたので大事をとってもいいだろう。文句を言う紅月を杏奈とふたりで説得し、部屋へと誘導する。
紅月を部屋へ入れ、菖蒲も自室へ戻ろうとしたのを杏奈が引き留めた。俯きがちな表情は暗く、憂いを帯びている。
「美鈴様を嫌がっていたなんて気が付きませんでした」
熱っぽく美鈴を語っていた杏奈からしたらショックだろう。
「本人曰くポーカーフェイスが売りらしいので、それでいいんじゃないですかね。本人が隠していたのなら暴く必要はありませんよ。見えているものを事実として受け取るのは罪じゃないです」
杏奈は顔をあげ、何度か頷いた。
紅月が言わなかったのなら、察する必要はない。ふたりの信頼関係ならば、本気で助けて欲しい時は言うはずだ。ふたりの関係はどこか兄妹を彷彿とさせる。
菖蒲と母との関係よりもずっと深く繋がっているような気がする。
「そうだ、お母さん」
そろそろ会いに行かなければいけない。ため息を吐きそうになったのをなんとか飲み込んだ。
翌日、病院へ行くための準備を済ませた菖蒲は杏奈に出かける旨を告げた。昨日よりも態度が軟化した杏奈は行き先が気になるだろうに何も聞かずに送り出してくれた。
しかし、菖蒲の背後からついてくる足音がひとつ。
「どこへ行くんだ」
玄関で靴を履きかている時にかけられた声に顔を上げる。白シャツに黒いパンツ姿の紅月が立っていた。
「少し出てくるだけです」
「だからどこへ」
どうやら行き先を告げないと行かせてもらえないらしい。それか、聞かないでくれと言う空気が読めないのかのどっちかだ。
家主、しかも婚約者という立場の人に行き先を告げないわけには行かず、菖蒲はため息を吐きたいのを堪えて笑顔を向けた。
「少し病院に」
すると紅月の眉が寄る。
「どこか悪いのか」
「いえ、知り合いが入院しているので、お見舞いに行くだけです」
そう言うと引き下がってくれるかと思ったが、紅月は逡巡の後、言った。
「俺も行こう」
来なくていい。咄嗟に出そうになった言葉をなんとか飲み込み、準備してくるという紅月を置いていってやろうかと思ったが、後が面倒なので大人しく待つ。
紅月は先ほどの白シャツの上にジャケットを羽織って出てきた。ただのお見舞いに行くには畏まった格好だ。
「そんなきっちりしなくていいんですけど」
「普段からこの格好だ」
もしかしたら紅月はTシャツなど持っていないのかもしれない。
菖蒲は自身の服装を見下ろした。水色のワンピース姿は紅月の隣に立つには少々子供っぽい気がしたが、紅月が全く気にしていなさそうなのでそのまま家を出る。
電車で行くつもりだったが、紅月が車を出してくれると言うので有り難く助手席に乗り込む。車に詳しくなくても知っているような高級車だ。足をつけるのも憚れ違う、紅月は驚くほど無頓着だ。
「車が好きなんですか?」
「いや。勧められるまま買っただけだ。車に興味はない」
「じゃあ何が好きなんですか?」
途端に紅月は黙り込んだ。
沈黙が続き、気まずくなり始めた頃に紅月が口を開く。
「わからない。趣味などあまり作ってこなかったから」
その横顔は何だか少し寂しそうだった。
紅月がこれまでどんな生活を送っていたのかはわからない。菖蒲と紅月ではあまりにも暮らしてきた環境が違いすぎるので、推しはかることすら難しい。
「貴方は何が好きなんだ」
信号で止まった時に紅月が菖蒲を見た。純粋な疑問を投げかけられ、返答に悩む。
好きなものと聞かれてもパッと思い浮かばない。菖蒲もこれまで趣味などに没頭して生きてきたわけではないのだ。
「私も特にはないですね」
紅月は「そうか」とだけ言って話題を切った。沈黙が落ちても別段気にならないのは、紅月の纏う独特の雰囲気のせいだろうか。
花屋に寄ってもらい、小さい花束を買ってから病院へ行く。車で送ってくれるだけかと思ったが、紅月は菖蒲と共に車を降りた。
今日は休日で外来の患者がいないからか、病院はいつも以上に静かだ。しかし、紅月が目立つせいで、やけに人目を惹き何度かぎょっとされた。エレベーターに乗り、母の病室がある階まで上がると見慣れた看護師と目があった。
「あ、こんにちは……」
看護師が紅月を見て、何度も瞬きを繰り返す。
何も考えずに紅月と共に来たが、母に彼のことがバレたら癇癪を起こされるに決まっている。それは非常にまずい。
「すみません、彼のことは内緒でお願いします」
そう言って口の前で人差し指を立てると看護師は興奮した様子で何度も頷いた。これで問題ないだろうと看護師と別れ、仕事中の看護師さんを避けながら廊下を歩く。
母の病室の前まで来て、少し後ろを歩いていた紅月を振り返った。
「ここで待っていてもらえますか」
紅月はちらりと病室に扉の横に書かれている母の名前を見てから「わかった」と了承してくれた。
母は眠っていた。それにほっとしつつ、起こさないように気をつけながら近づき。顔色を伺う。先日お見舞いに来た時よりも顔色が良くなっている気がする。
顔を覗き込んでいたせいか、母の目が開いた。眠たげに質量をもった瞼が持ち上がり、菖蒲を見た途端にかっと目が見開かれる。
「あんた、なにしに来たの」
「お母さん、お見舞いに」
「あんたなんかに来て欲しくないわよ! あんたのせいでこんな目に遭っているんだ。あんたが全部悪いんだ!」
母の声は金切声に近く、近くで聞いていると鼓膜が痛む。個室で良かった、と嘆息しつつ落ち着かせようと手を伸ばした。その手を怯えたように叩かれる。
「触るな! 化け物!」
そうして、興奮した様子で暴れ、近くにあった花瓶に手を伸ばすとそれを菖蒲に向かって投げつけた。がん、と鈍い音がして額にぶつかる。痛みに呻き声を上げても母の罵声は止まらず、騒ぎに耐えきれなかったようで紅月が扉を開けて入ってきた。
「何をしているんだ」
頭を抑える菖蒲に近寄り「大丈夫か」と聞いてくる紅月に母は激昂した。
「誰だこの男は。お前、お前なんか、どっかにいけ、さっさと消えろ! お前さえいなければ、あの人は私の側にいたのに」
その声に謝ることもできず、菖蒲は紅月に部屋から連れ出された。入れ替わりで部屋に入っていった看護師の声を聞きながら、菖蒲は深いため息を吐いた。
「あれは母親か」
車に乗った紅月は、エンジンをかける前にそう聞いてきた。隠す必要もないので頷く。
「はい」
「貴方は金目当てで婚約したと聞いたが、母親の治療費のためか」
察しが悪い人ではない。紅月は全てを見透かした上で怒りを携えた目を菖蒲に向けていた。卑しいと思われているのだろうな、と糾弾されるのは覚悟の上だ。
「そうです。全額出していただけるという条件でした」
素直に言うと紅月は大きくため息を吐いた。
反射的にびくりと肩を跳ねさせた菖蒲に紅月が首を振る。
「貴方に怒っているわけではない。選択肢のない貴方の逃げ道を塞いで金で誘った雨宮家に怒っているんだ」
「でも、その提案がなければ母はまともな治療を受けられなかったもしれないので、助かっています」
紅月は半目で菖蒲を見た。
「初対面で無礼な態度だった男と結婚させられたのに助かってるって?」
どうやら自覚はあったらしい。
「はい。不自由はないですし」
「すぐにでも離婚したいと思わないのか?」
菖蒲は思わず眉を顰めた。
「それは貴方の方では? 嫌いな能力者なんかと結婚させられて嫌気が差しているのでは?」
そう言うと紅月は目を見開いた後、首を振る。
「別に能力者が嫌いなわけじゃない」
「それにしては昨日の態度は最悪でした」
そう言うと紅月はうっと言葉を飲み込み、罰が悪そうに俯いた。
「俺の両親と接したなら知っているだろう。彼らは異常なでに能力者主義で、能力がないものへ差別的だ。彼らに反発して自分が能力者に好意的ではないのは節はあるかもしれない。昨日の態度は悪かった。言い訳になるが、突然騙し討ちのように連れて行かれた先に貴方がいたんだ」
急に見知らぬ女と結婚しろなどと言われたら誰でもあの態度になるだろう。紅月の態度は仕方がない。
しゅんとしている紅月が哀れに思えてきた。
「こちらこそ責めるような態度をとってごめんなさい」
「いや、いいんだ」
そう言った後、紅月は何やら考え込むように額を撫で、冷静な目が菖蒲に向けられる。
「これから、どうしたい?」
「どう、とは?」
「離婚したいか、それともこのまま結婚したままか。勿論、貴方の母親の医療費は離婚した後も出すと約束しよう」
それは甘美な提案に聞こえた。すぐにでも提案に乗りたかったが、頭の中に母との生活が浮かんできた。毎日毎日罵声を浴びせられ、金持ちなどの未来や過去を見る仕事を続けるのは自分が思っていた以上に苦痛だった。
口が震えて、声が出ない。
そんな菖蒲をどう思ったのか、紅月が助け舟を出してくれた。
「俺は、できれば結婚したままでいたいと思っている」
その言葉に俯きがちになっていた顔を上げた。
「貴方は金銭的に困っていて雨宮家から援助が欲しい。俺はこれ以上面倒な婚約者候補を迎え入れたくはない。貴方が良いならまだ隣にいてほしい。できることなら——俺が当主になるまで」
「当主になるまでって」
「当主になれば誰も俺に口出しできなくなる」
それまでの間、結婚を続ければ菖蒲の家は生活に困ら無くなる。元々人生全てをかけるつもりでいたのだ。菖蒲にしてみれば全く問題がなかった。
「わかりました。でも、それまでよろしくお願いします」
そう言い、片手を差し出した。その手をぐいっと引かれて前につんのめる。
突然のことで体に一切に力を入れられず、思い切り紅月の胸へとダイブした。鍛え上げられた筋肉にぶつかり、咄嗟に離れようと暴れるが押さえつけられ、耳元で囁かれる。
「落ち着いてくれ。何者かの殺気を感じた」
「えっ」
不穏な単語に体が固まり、大人しく紅月の腕の中に収まる。
紅月は警戒するように辺りを見回し、人の気配を探っていたようだが、すぐに菖蒲を開放した。
「すまない。咄嗟に配慮できなかった」
「い、いえ」
心底驚いた。菖蒲はこれまで告白された経験はあるが、付き合ったことは一度もないのだ。もちろん抱きしめられるなど初めてだったので、ドギマギしてしまう。
動揺を悟られないように平静を装い、にこりと微笑む。
「大丈夫です。守ってくださってありがとうございます。それにしても殺気って一体誰が」
「わからない。俺の仕事の関係かもしれない」
紅月は仕事柄憎まれる機会が多く、敵もたくさんいそうだ。
もしかしたら結婚には危険が伴うかもしれない。早速後悔し始めた。
紅月は休みを謳歌できないようで、夕方には仕事に向かうと言い出した。まだ体を休めればいいのにと思ったのが顔に出たようで、紅月がぽんと菖蒲の頭に手をやった。驚くほど柔らかい表情で見下ろされ、ぎくりとする。
「貴方はそれでいい。ゆっくり休め」と言い、家を出る紅月を見送る。
「紅月様は危険と隣合わせですからね。一刻も早く前線に戻りたいんですよ」
一緒に玄関に来ていた杏奈が困った様子で言う。
紅月と違い危険な生活とは無縁だった菖蒲は彼から見たら平和ボケして見えるのかもしれない。紅月がどれくらい危ない目に遭っているのかはわからないが、杏奈の心配そうな表情から察するに傷が絶えないのだろう。
「無事に帰ってきてくださるといいですね」
心の底から紅月の無事を祈った。
しかし、その願いに反して菖蒲は深夜に怒鳴り声に近い声で叩き起こされた。
「助けてください!」
甲高い女性の声にドタドタと廊下を駆け回る音が混ざる。次に家中にざわめきが広がって行き、菖蒲も寝巻きのまま慌てて部屋を出た。
「どうかしたんですか?」
騒ぎは、玄関で起きていた。何人もの使用人が騒ぎ声を上げている。何人かが「紅月様」と泣きそうな声で呼ぶのが聞こえて、人の間を縫って騒ぎの中心に進んだ。
「え」
玄関の上り框で、紅月が倒れていた。
「紅月様、どうしたんですか」
「突然倒れたんです。私が治すので中に運んでください」
紅月を抱えながらそう言ったのは美鈴だ。彼女の他に同僚らしき数人の男性が背後に控えている。緊急事態なので勝手に入ればいいのに、と思ったら奥に立っていたひとりが困ったように言った。
「紅月さんが嫌がるんですよ。軍で美鈴が治療するって言っても家に帰るの一点張りで」
倒れてまで、彼女を嫌がるのは何故なのだろうか。
「治すので、中へ」と指示を出す美鈴をじっと見る。寝巻きのまま出てきたので今は手袋をつけていない。本当ならば絶対にやってはいけないが、事故を装って彼女の手に触れた。
その瞬間、彼女の記憶を見た。
「あやめ」
下から聞こえた声にはっとして手を引く。紅月が虚な目で菖蒲を見ていた。口が薄く開き、何かを発しようとしているのを察知して耳を寄せる。
「医者を」
弱っているにしてははっきりとした口調でそう言った。紅月がここまで嫌がるには必ず理由があるはずだ。
「早く、運ばないと危険です」
焦れた様子で伸ばされた美鈴の手を払いのける。途端に待機している同僚達が殺気だち、ぞっと鳥肌が立ったがここで引き分けにはいかない。菖蒲は鋭い視線で美鈴を制し、上擦りそうになるのを落ち着かせ、言葉を吐き出した。
「紅月様はこちらでどうにかしますので、お引き取りください」
「そんな勝手なこと」
「勝手? 紅月様が望まれていることですよ。今すぐここから出ていってください」
同僚のひとりが憤慨した様子で一歩踏み出したが、すぐに隣に立っていた男性が手で制した。
「紅月様は俺たちの大切な仲間です。絶対に回復させてください」
静かな声に反して菖蒲に向けられる目は冷たく、刺すようだ。もし紅月に何かあればタダではすまないという脅しの意味が込められている。彼の視線に怖気付くことなく見返しながら深く頷いた。
「では、帰ります。回復次第連絡を」
「ちょっと待ってください。本当に置いて帰るんですか? 紅月様がどうなってもいいんですか」
帰ろうとする同僚達の背中に美鈴が縋り付く。
「いいから、ここは任せしかない」
淡々とした言葉に美鈴は納得できないとばかりに紅月へ視線を向ける。その目は涙で濡れ、深い悲しみを宿しているが、紅月は美鈴に一瞥もくれずにもう一度「医者を」と呟いた。
「紅月様……」と名残惜しげに名前を呼ぶ菖蒲を無視して、使用人達に声をかけて紅月を部屋の中へ運んでもらい、雨宮家のお抱えの医者へ連絡を取ってもらった。深夜だと言うのに医者はすぐにきて来れるらしい。
部屋へ運び入れ、布団へ寝かされた紅月は呼吸をするのすらも苦しそうだ。
「この間と同じ症状です」
杏奈が紅月を心配そうに見ながら言う。
「この間って、体調を崩したって言っていたやつですか?」
「はい。その時は美鈴さんが治療してくださったので割とすぐに良くなったんです。今回も連絡した医者は治癒の力がある方なので、すぐに治るはずです」
そう言いながら杏奈も含めて皆んなが不安そうにしている。
何度も体調を崩している原因はなんだろう。もしかして重い病気だろうかと疑っているのだ。治癒の力はその人の治癒能力を高めたり、早く傷を治したりするもので病気を完治させるのは難しい。原因がわからなかったら、このまま何度も倒れてしまうのかと空気が重くなった。
「紅月様に何か持病が?」
「いえ……今までそんなことなかったんです。すごく健康体で、風邪も引かないんです」
部屋の中に入り、紅月を見下ろす。熱に浮かされているが、意識はあるらしい。
「体調が悪くなったのはいつですか?」
そう聞くと紅月はそろりと目を薄く開いた。
「休憩時間に、急に」
「それまでは大丈夫だったんですね?」
紅月が重そうな首を縦に振る。その光景を見ていた数人が喋らせない方がいい、と不安そうに口にする。いつもの頑丈で健康的な紅月を見慣れている家のもの達は、弱りきっている紅月に戸惑い、中には泣きそうになっている者もいる。
「……本当にただの体調不良なんでしょうか」
使用人の中の誰かがそう口にした。
「確かに、何者かの能力でこうなっている可能性もあるのか」
「呪いとか、毒とかってこと?」
その言葉に使用人達はざわめき、動揺が広がる。
ただの体調不良ではなく、呪いや毒が原因の可能性は十分ある。ただそのせいなら犯人がいるのだ。誰かが悪意を持って紅月を攻撃している。その可能性に使用人達はショックを受け、その内のひとりが菖蒲に縋りついた。
「あんたなら、わかるんじゃないの? 過去を見れるんですよね」
使用人達の視線が菖蒲に向いた。
必死な表情からそっと目を逸らす。
「……プライベートを勝手に見るのは御法度ですから」
基的に人の過去など頼まれない限り見てはいけない。さっき美鈴の過去は見たが、それは口にしないで首を振る。すると紅月が弱々しく言葉を吐き出す。
「見ない方がいい。楽しい、ものばかりじゃない、嫌な気分になる」
紅月はこれまで菖蒲が想像できないほどの苦労を経験しているだろう。その体に触れて過去を見るのは、人の傷を受け止めなければいけない。菖蒲にはその勇気も権利もない。
紅月は使用人達に部屋から出ていくように指示を出した。枕元でうるさくしすぎたのかもしれないと反省し、菖蒲も出て行こうとした。
「待て、貴方はここにいてくれ」
そう呼び止められ、菖蒲ひとりが部屋に残った。
「さっき、美鈴に触っていただろ」
どうやらバレていたらしい。誤魔化しても無駄だろうと首肯する。
「あいつの過去に、俺は出てきたか?」
「はい。触ったのは一瞬でしたけど、大した登場回収でしたよ。相当貴方が好きなんでしょうね」
美鈴の過去は、大体が紅月だった。ずっと彼を見てきたのだろう。狂おしいほどの熱情は、少女漫画のような可愛らしい者ではなく、苦しくなるほどの嫉妬と独占欲で溢れていた。
紅月はふっと乾いた笑いを溢した。当然、彼も美鈴の想いに気づいている。
「あの、どうしてあれほど美鈴さんを避けるんですか? 直してもらった方が早いでしょうに」
美鈴の行いで嫌になったと予想しているが、あの一瞬ではその理由を当てられなかった。この際だからと問うと少しの沈黙が訪れる。言おうかどうか逡巡しているとわかるので、菖蒲は大人しく言葉を待った。
「……先日、治療してもらっている時に」
紅月は言い辛そうに口をあまり開けずに話す。耳をそば立て相槌も打たずに静かに声に集中する。
「意識が朦朧としていた時に、口の端にキスを……」
「げっ」
あんまりな内容に思わず拒否の声を上げた。
菖蒲も仕事で接する男性に触られそうになった経験が何度かあるので、嫌悪感はわかる。
「最悪。あの女そんなことをしたんですか?」
「曖昧だが確かにされた」
「警察に突き出して地獄に落としたら良かったのに」
菖蒲なら二度と顔を合わせられないように徹底的に追い詰めてやるが、紅月は曖昧に笑う。
「意識が曖昧だったんだ。彼女は仕事はきっちりやるから同僚達は美鈴に対して好意的だ。言った所で信じないだろう」
「は? 患者に手を出すような人間は仕事ができるって言いませんよ」
菖蒲が棘のある声で糾弾すると紅月はおかしそうに声を上げた。
「まさかそんなに怒るとは思わなかった」
「怒りますよ。そりゃ」
はあとため息を吐いた。菖蒲でも起こるのだから、紅月を尊敬している同僚ならば怒り狂うんじゃないだろうか。
「俺の秘密を話したんだから、ひとつ聞いていいか?」
「なんですか?」
「その手の傷はどうしたんだ」
はっとして反射的に手を後ろに隠す。するとすぐに紅月は首を緩く振った。
「言いたくないならいい」
「言いたくないわけじゃないです。ただ、面白くない話なので」
「別に面白い話は期待していない」
紅月が言いたくなかった美鈴の蛮行を話したのだから、菖蒲も少しくらいは打ち明けるべきだろう。それに母との一件を見られているので、話しておいた方はいい気がした。
「私の父は、能力がない人でした。そして、能力者に対して異様に嫌悪感を持っている人で、私に酷く当たってきたんです。小さい頃は酷い仕打ちを受けていました。打たれたり、手を傷つけられたり。これはその時の傷です」
菖蒲の手には白い傷跡が何個も残っている。手袋をしている理由は、能力を使わないようにするためでもあるが、この傷を隠すためでもある。
「母は、昔はすごく優しい人だったんです。暴力を振るわれる私を思って父から逃げるように離婚しました。最初は、祖母の家で暮らしていたんですけど、祖母が亡くなると母はおかしくなっていきました。父がいなくなったのは私のせいだと言うようになり、好意的だった私の能力を嫌うようになったんです」
母との記憶に暴力がないのは幸いだ。彼女はただ泣きながら菖蒲を攻め立てた。
こんな惨めの人生なのは、菖蒲のせいだと。
貧乏なのは菖蒲のせいだから、金を稼いでこいと。
不意に紅月の手が伸び、菖蒲の目の前でふらりと揺れる。その手に視線を向けると紅月と目が合った。
「泣いているのかと思った」
「ないてないですよ」
もう慣れてしまった。涙なんかずっと出ていない。
笑顔を浮かべて気丈に振る舞いなさいと祖母がよく言っていた。綺麗な顔に強い力を持っている菖蒲に父親のように嫌な気持ちを向けてくる者も現れるだろう。けれど絶対に屈してはダメ。泣いたらひどい目に遭うから笑いなさい。笑っていたら人に好かれて、仲間が増えるからと祖母は言った。
笑顔は菖蒲の防御手段だった。
紅月は苦しそうに息を吐きながら、菖蒲に言う。
「辛い話をさせて悪い」
「いえ、こっちこそ」
遠くから廊下をかける音と慌ただしい声が聞こえてきた。きっと医者が到着したのだろう。迎え入れるために立ち上がった。
夜が明け、朝食の場で顔を合わせた紅月は医者の治療のおかげですっかり体調が回復していた。
「顔色が良さそうで安心しました」
「心配かけて悪かったな」
「私よりも皆さんの方がずっと心配していましたよ」
医者の治療によりすぐにある程度は体調が回復していたのだが、紅月の元気な様子を見るまで使用人達はずっと上の空だった。それほど紅月が愛され、慕われているのがわかる。
「それは貴方もだろう」
「え?」
「隈ができているよ。寝れなかったか?」
思わず目元を押さえると紅月がしてやったり顔で見ていた。
「カマをかけましたね。隈なんてちょっと寝不足な位じゃできません」
「貴方も意外と分かりやすいな」
この間菖蒲が紅月の表情を見抜いたことへの意趣返しだと気がつく。
何か言い返したいが、心配であれから眠れなかったもの事実だったのでうまい返しが思いつかない。意識が朦朧としている姿を見ているのだから、心配するのは当然のはずだ、と開き直ることにした。
「心配でしたよ。人を揶揄えるぐらい回復しているなら良かったです」
「揶揄っていないよ。気分が害したならすまない。嬉しかったんだよ」
「嬉しい?」
小首を傾げると紅月は柔らかく目を細めて笑う。暖かい笑みは、初めて見るものでどきりとした。
「俺は——」
紅月の声が、不意に途切れた。そして、背後にある扉を振り返り大きくため息を吐いた。
「邪魔が入ったな」
そう言って立ち上がると同時に扉が開き、焦った表情を浮かべた杏奈が部屋に入ってきた。顔が真っ青で今にも倒れてしまいそうなほど洗い呼吸を繰り返している。
「た、たい、大変です。今、本家の、鶴美様がいらっしゃって、あ、菖蒲さんとの離婚させるって!」
思わず紅月と顔を合わせる。
「へぇ」となんとも気の抜けた返事が飛び出る。
「へぇって何ですか。このままだとふたりの仲が引き裂かれちゃいますよ」
杏奈は何故か必死だ。そもそも紅月と菖蒲は付き合っているわけではないので、引き裂かれるという表現は正確ではない。婚約だって鶴美の独断で破棄されても紅月と結び直せばいいだけだ。それは紅月も同じ考えらしく「そんなことより」と話題を変えた。
「来たのは母さんだけか?」
「いえ、なんと美鈴様と一緒です」
その言葉に紅月と菖蒲は同時に部屋を出て、玄関へと向かう。
「紅月、良かった。何ともないのね」
玄関には鶴美と美鈴が並んで立っていた。鶴美は紅月の体調を心配しているようで、紅月の体をじろじろと検分するように見てからほっとした様子で息を吐く。
一方、その隣に立つ美鈴は目元を赤らめ、散々泣きましたという表情で紅月を見上げている。
「体調は問題ありません。それで、一体どのような用事ですか?」
紅月の淡々とした口調に鶴美が興奮した様子で菖蒲を指差し、声を荒げた。
「美鈴さんから聞きましたよ。紅月を治そうとしている美鈴さんを押し除け帰らせたと。そんな酷いことをするとは思っていませんでしたよ。これだから貧乏人は金を積まないと動かないから嫌になりますね」
「母さん、それは」
「こんな女と結婚させてしまってごめんなさいね。今なら間に合うから、美鈴さんと結婚しましょう」
紅月の言葉を遮って、とんでもないことを言い始めた。
「美鈴さん、家柄もそこそこいいのよ。それに治癒の力ならすごく重宝するでしょ?」
家柄と能力。鶴美にとっての人を評価する判断材料はそのふたつらしい。思わずため息を吐くと目ざとく気がついた鶴美の鋭い視線が飛ぶ。
「あんたみたいなドブネズミを家に入れたせいで、紅月が死にかけたのよ。あんたみたいな守銭奴のせいで」
ドブネズミなんて呼ばれるのは初めての体験だ。酷すぎて笑えてくるが、紅月の怒りを刺激した。
「ドブネズミ? 余程見る目がないらしいな」
紅月の威圧感のある声に鶴美と美鈴、ふたりともびくりと体を跳ねさせる。
「俺が死にかけたのは、菖蒲のせいじゃなくてあんたの隣に立っている美鈴が盛った毒のせいだ」
「は?」
鶴美が驚愕の表情を浮かべ、隣に立つ美鈴を見る。
「ど、どういうこと?」
「知らないです。紅月様、一体何の冗談ですか?」
美鈴が一歩前に出ると紅月は身を引いた。
「休憩時間に俺が飲んだお茶に毒が入っていたのが分かった。淹れたのは美鈴だな?」
美鈴の表情が一瞬凍る。
「違います。何を根拠に」
何度も首を振り否定するが、紅月の口調はどこまでも冷淡だった。
「医者からの診察で体調不良の原因が毒だと分かり、職場にいた奴らにすぐに連絡を入れ、証拠を隠滅される前にコップを回収して調べたら毒が検出された」
「でも、私が淹れたなんて証拠は……」
「菖蒲さんが見たのね」
美鈴の言葉を遮り、鶴美がため息混じりで呟いた。
「菖蒲さんは触れた人の過去を見る力があるのよ。それで貴方の犯行に気がついたのね」
鶴美の言う通り、美鈴に触れた時に紅月のコップに何かの液体を入れるところを見ていた。
「なんてこと、こんな女に騙されるところだった」
鶴美は呆気なく美鈴を切り捨て、侮蔑の視線を向けたと思ったらさっさと家を出て行った。能力者至上主義な鶴美ならば物的証拠がなくとも菖蒲を信じるだろうと予想はしていたが、あまりにもあっさり美鈴を見捨てたので驚いた。本当に嵐のような人だ。
「なんで、どうして?」
美鈴は出て行った鶴美を追うこともできず呆然と呟く。
紅月との縁談を持ち掛けるために鶴美を連れて来たのだろうが、それが結局自分の首を絞める結果になったのだショックは大きいだろう。トドメを差す様に紅月が言う。
「話は連行した後で聞くから、一緒に……」
「なんでよ!」
きんとつんざくような美鈴の声がびりびりと鼓膜に響き、思わずびくりと跳ねた。
「何で私じゃなくてこの女なの! 私はずっと紅月様が好きで、紅月様のために頑張って来たのに!」
「それは……」
美鈴は紅月からの返答など期待していなかった。殺気立ち爛々と光る目で菖蒲を射抜いた。恐らく病院の帰りで向けられた殺気も彼女の物だったのだろう。美鈴は憎しみの籠った呪詛を吐く。
「あんたさえいなければ」
きっと菖蒲がいなくとも紅月は美鈴を好きにはならなかっただろう、と余計な思考が過ったせいで美鈴の次の行動に対処が遅れた、美鈴は持ってきていた鞄に手を入れ、中から大きな包丁を取り出すと菖蒲に向かって来たのだ。
「う、わ」
きらりと光る刃にたたらを踏む。
尻もちをつきそうになった菖蒲の体がぐいっと横に引っ張られ、次の瞬間には温かい体温に包まれていた。
包丁から守ってくれたのだろう。強い抱き抱えられ、ほっと安堵の息を吐いたその時。
「動くな」
地を這うような低音にぞわりと背筋に怖気が走る。恐る恐る顔を上げて声のした方を見ると紅月が見たこともないような怖い顔で美鈴を見下ろしていた。
「刃物を下ろせ」
ひんやりとした空気を感じたと思ったら、美鈴の足元が凍り付いていた。
氷が、紅月の能力なのだろう。少しの力で相手から戦力を奪っている所を見ると相当力が強いらしい。
紅月の命令のせいか、それとも凍えているせいなのか震える手から包丁が零れ落ちる。からんと音を立てた包丁を紅月が拾い上げ、項垂れる美鈴へ冷たい声を投げかけた。
「馬鹿なことをしたな」
それは、好きな人から投げかけられるにしてはあまりにも残酷は一言だった。
「本当にな」
その言葉と共に唐突に玄関の扉が開き、昨日美鈴と共にやって来た同僚たちが家の中へ入ってきた。そして淡々と美鈴を拘束するとさっさと連れて行ってしまう。昨日紅月は同僚のみんなは美鈴に好意的だと言っていたので恐らくその心中は複雑だろうが、それを一切表に出さない。
早い仕事っぷりに唖然としていると最後に残ったひとりが紅月を見て呆れたような笑みを溢した。
「愛がない結婚だと聞いていたが、なんだかんだ上手くいっているようで良かったよ」
そう言われてようやく菖蒲は紅月に抱き止められたままなのに気がついた。
「わっ、ちが、違います」
慌てて離れ、紅月は美鈴から守ってくれただけで、別にいちゃついていたわけでないと弁明したかったのに口が回らない。菖蒲がしどろもどろになっている間に同僚は「仲が睦まじくて羨ましいよ」と言って帰っていった。
「珍しくテンパっているな」
「そりゃ……というか、貴方が誤解を解いてくれたら良かったのに」
恨みがましく睨むと不思議そうな顔をされる。
「別に誤解じゃない」
「はい?」
聞き間違いかと思ったが、紅月はやけに真剣な表情を浮かべていた。
「俺は、結婚相手が菖蒲で良かったと思っている。これから仲を深めていきたい」
それは、なんだかプロポーズのように聞こえた。
「う、嘘でしょ。なんで」
「さあな。ただ貴方の笑顔が見たくなった」
紅月は柔らかい笑みを浮かべ、そっと菖蒲に手を出してきた。握手かと思い、反射的に握ると慈しむように手が包まれる。
「今度は守れて良かった」
そうして、手袋越しに傷をなぞる様に撫でた。
今しがた顔を合わせたばかりの夫から向けられた冷たい視線と言葉に菖蒲は混乱と共に怒りを覚えた。
人との円滑なコミュニケーションに必要なのは、上部だけでも取り繕えるかどうかだ。例え嫌悪感があろうとも表には出さずに友好的に接するべきである。これから一緒に暮らすならばなおのこと大事なはず。
軍に所属するお偉いさんだか何だか知らないが、不遜な態度に苛立つ。
しかし、菖蒲は常識を携えた美少女なので、はいはいそうですか、なんて不貞腐れた態度は取らない。目の前の自己中男とは違うのだ。
「……はい、不束者ですが、これからよろしくお願いいたします」
わざと憂いを帯びた表情で殊勝な態度を取れば、菖蒲と結婚した男——紅月はふんと鼻を鳴らし、去っていった。
嫌なやつ。
それが、婚約者である雨宮紅月の第一印象である。
そもそも、何故あんな男と婚約することになったのかというと、海よりも深い事情があった。
佐々木菖蒲は、自他ともに認める美貌と才能に恵まれている。艶やかな黒髪に大きく澄んだ瞳、均等のとれた完璧な配置の顔のパーツ。
菖蒲は幼少期からお姫様みたいと周りに持て囃され、チヤホヤされて生きてきた。調子に乗る人間はいつか足元を掬われるという祖母の教えにより性格さえも表面上は慎ましく可憐に見えるようにし、誰からも好感を覚えて貰えるようにしてきたのだ。
その結果、菖蒲はこれまで誰かに嫌われた経験は、ほとんど無い。
しかも、菖蒲が特質しているのは美貌だけではなく、その才能にあった。
世の中には『能力』ある人とない人がいる。『能力』とは特殊な力のことで、人によって有しているものに個性があり、火や水を操れる人や、植物を成長させられる人、動物と話せる人など多種多様だ。その力にも差があり、線香花火のような小さな火しか灯せない人もいれば、打ち上げ花火のような大きなものを扱える人もいる。
菖蒲は人に触れることで未来を予知したり、過去を見ることができる。今年で十八歳になった菖蒲はその力を使って、占い師をしている。
これが、かなり儲かる。
「その男性は嘘を吐いていますよ。別の会社からのスパイです」
古めかしい壺や高そうな絵画などの装飾品や豪奢な調度品が並んでいる屋敷の一室で、ソファに腰を下ろした菖蒲は前方に座る男性に淡々と告げた、すると男性は愕然とした顔をした後に「やっぱりか」と呟いた。
「怪しいとは思っていたんだ。君に聞いてよかったよ、これで決心ができた」
男性はこの豪邸の主人で、大きな会社の社長をしている。時々な闇ごとがあることこうして占ってほしいと依頼をしてくる顧客だ。かなり羽振りがよく、菖蒲の懐は彼のおかげで潤っている。
菖蒲は外していた薄手の手袋をはめ直しながら言う。
「満足していただけてよかったです」
「また頼むよ」
そう言って男性は懐から封筒を取り出して菖蒲に差し出した。厚みのある封筒を受け取り中を確認してからにっこりと微笑む。
「いつもありがとうございます。これからもどうかご贔屓に」
「ああ、いつでも専属になってくれてもいいんけどね」
男性の手が菖蒲に伸びるのをさっと避け、立ち上がる。仕事が終わったのに長居している理由はない。
「また、よろしくお願いしますね」
菖蒲は愛想笑いを浮かべて屋敷を出た。
屋敷が見えなくなった所でカバンの中にしっかりと封筒があるのを確認し、ほっと安堵の息を吐く。中には十万円入っている。これがあれば、今月の生活には困らないだろう。
頭の中で使い道を考えて、家賃やら高熱費、それから食費などで次々と出費がかさんでいくのにため息が漏れていく。
菖蒲の家は、母子家庭で母は働いていないので菖蒲の稼ぎで生活している。普通の企業で働くよりも稼げるのだが、母がストレスが溜まると散財する癖があるせいで貯金は無い。
お金を隠していても何故か見つかり、一向に貯まる気配がなくいつも不安を抱えなければならない。
母の前で弱音など絶対に吐かないように気をつけている分、一人になると少々落ち込んでしまう。
「ダメダメ、しっかりしなさい菖蒲」
自宅が見えてきたので、一度立ち止まりパンっと頬を叩いたあと、にっこりと笑顔を浮かべて自宅の扉を開けた。
「ただいま、お母さん……」
母はいつも家にいて、この時間はリビングにいるはずだが、その姿が見えない。家の中は電気がついておらず暗いのも気になる。珍しく買い物にでも行っているのだろうか、と台所を覗き込み——床に倒れている母の姿を見つけ、目を見開いた。
「お母さん!」
急いで駆け寄り、肩を叩くが全く反応がない。慌ててスマホで救急車を呼ぶ。
救急車を待っている間、母の未来を見ようかと思ったが、悪い未来が見えてしまった時が怖くて手袋を外せなかった。
その後、やってきた救急車に乗せられ母と共に病院へ向かい、母は緊急手術となった。手術後、麻酔がまだ残っているせいで母はぼんやりしておりまともに会話はできなかったが、手術は無事に終わったらしい。
一人で自宅へ帰りながら菖蒲は安堵と共に不安感を募らせていた。
母が無事ならばなんでもいい、と言えるほど菖蒲は楽観的ではない。母の入院費を菖蒲が稼がなくてはいけない。手術代だけでもかなり持っていかれるだろうから、金がいくらあっても足りない。
「どうしよう」
「どうかしましたか」
俯いて歩いていた菖蒲は前方から聞こえてきた声に体を跳ねさせ、顔をあげると自宅の前に着物姿の女性とスーツを着た男性が立っているのが見えた。どちらにも見覚えはないが、雰囲気と佇まいから菖蒲のような平民とは別次元の人間だとわかる。
「どちら様ですか?」
警戒しながら尋ねると女性に促される形で、スーツ姿の男性が菖蒲に歩み寄ってきた。
「私、雨宮家にお仕えしているものです。佐々木菖蒲さん、あなたにお話があって参りました」
「お話って……」
「ここではなんですから、お自宅の方にお邪魔してよろしいですか?」
男の言葉には有無を言わさない圧があり、押し切られる形で二人を家へ招いた。
「私、雨宮鶴美と申します」
女性は玄関から中には入ろうとせず、その場で軽く会釈をした。鶴美は五十代くらいでおっとりしている見た目をしているが、無遠慮に部屋を見渡す様子から横柄さが滲んでいる。
家の中を無遠慮に見てから「ここで大丈夫です」と宣った。
貧乏人の家には入りたくないらしい。それならそれでいいと菖蒲は上り框から女性を見下ろしながら頭を下げた。
「ご存知のようですが、佐々木菖蒲と言います。どういったご用で来られたのでしょうか」
菖蒲の言葉に答えたのは、スーツの男だ。
「貴方に雨宮家時期当主である紅月様と結婚していただきたいのです」
「は?」
何を言われたのか理解できなかった。
「ごめんなさい、何かおかしな話が聞こえてきたんですけど、もう一回言ってもらっていいですか?」
「ですから、こちらの雨宮鶴美様のご子息である紅月様と婚姻して頂きたいのです」
何度聞いても同じ回答が返ってきた。
困惑しきっている菖蒲に対し、対面しているふたりはさも当たり前だとばかりにうっすらと笑みを浮かべているので、菖蒲の方がおかしいような気になってくる。
「あの、どうして私が貴方の息子さんと結婚しないといけないんですか?」
「紅月様は、今年二十三歳になられ、雨宮家を継がれます。世継ぎのためにも結婚は早めがいいと昔から婚約者などを宛てがってはいたのですが、ことごとく失敗しまして、紅月様に相応しい名家の方との縁が結ばれなかったので次の候補者である菖蒲様の所へ来たということです」
婚約者を宛てがい、失敗したという言い方に引っ掛かりを覚える。ここに婚約をする本人が来ていないのを考慮しても、紅月自身は結婚に乗り気ではない気がする。
ここはさっさと断り面倒ごとは避けたい。
「私の家はこの通り貧乏で、その紅月様とは釣り合いが取れませんよ。だから……」
「貴方の能力は、他の有象無象とは格が違うでしょう」
急に鶴美が口を開いた。
「雨宮家と結婚するのは、能力が高いものじゃないとダメなんですよ。平凡ではダメ。無能なんて論外」
鶴美の言葉に嫌悪感が混じる。恐らく能力が無い者への差別意識があるのだろう。しかもそれを隠そうともしない。能力が無い人を前にしても同じような態度を取るのが容易に想像できた。
その態度に菖蒲は眉を顰める。
「買い被りすぎですよ。私なんて平凡な人間です。だから、このお話はなかったことに」
「結婚するのなら、お母様の治療費をこちらで負担します」
鶴美は慈悲深い笑みを浮かべた。
なぜ、母の病気を知っているのか。疑問や困惑が脳を支配しそうになるが、すぐに心の中で落ち着けと繰り返して正気に戻る。
どうすればいいのか考えたないと——。
「貴方一人で全てを賄うのは無理でしょう。いくら貴方の能力で稼げても限界がありますよ。手術代に入院費。個室がいいでしょうから更に金が重なります」
全てを見透かしたように鶴美が言う。
この人は、菖蒲の家の現状を全て把握しているようだ。
母が倒れたタイミングでここへ来たのは偶然ではない。恐らく全てを調べ尽くし、菖蒲が断れないタイミングで仕掛けてきたのだ。狡猾で嫌になる。
実際、鶴美の言葉は事実だった。
菖蒲が結婚すれば、母を助けられる。
苦労をかけた母の役に立てるかもしれない。
「わかりました。お受けします」
そうして、菖蒲は会ったこともない雨宮紅月との結婚を了承し、すぐに婚姻届にサインをした。そして、現在紅月から冷たい視線と言葉を向けられている。
顔合わせは雨宮家の本家で行われた。婚約というおめでたいものであるはずが、紅月は終始ムッスリとしていて愛想の欠片もない上に、雨宮家の親戚一同、それと雨宮家に取り入ろうとする外部の人間の空気感は妙に殺伐としていて気分が悪くなる。
菖蒲が金でつられた話は周知されているようで、ひそひそと囁く声が何度も聞こえてきた。
そんな重苦しい顔合わせが終わると、すぐに紅月は本家を出た。行く宛がない菖蒲はその後を追い、同じ車に乗って向かったのは本家よりもずっとこじんまりとしている日本家屋だ。こじんまり、と言っても一般家庭からしたら広く、庭には大きな木や花が大量に咲いている。
「ここは?」
「俺の家だ」
今まで無言だった紅月が言った。
「俺のって、本家で住んでいないのですか?」
「あんなところで暮らせるわけがない」
紅月は吐き捨てるように言った。
予想通り両親とは不仲らしい。
それにしても当主になる人間が本家に住まなくてもいいのだろうか、と疑問を抱いているとそれを察した紅月が答えた。
「俺はまだ当主にはならない。犯罪集団の摘発で忙しいからな」
「ああ、確か軍に所属していらっしゃるとか」
今日の顔合わせの前に雨宮家の使いの人間が来て、玄関で熱弁されたのだ。能力者の中には力を悪事に使っている者もいる。軽犯罪ならば警察でどうにかなるが大きなものになると力の強い能力者が集められている軍が制圧に向かう。紅月は現在軍に所属して大活躍らしい。
「そうだ。まだ当主にはなっていないから当主としての俺の立場を期待していたのならお門違いだ」
「はあ」
別に紅月が当主だろうが、軍人だろうが支援さえしてくれればなんでもいいので、曖昧な返事になった。
話をしている間に車が止まり、紅月はさっさと降車する。菖蒲もそれに続き車を降りたところで、玄関が開いた。
「おかえりなさいませ、紅月様」
顔を出したのは、使用人らしき若い女性だ。彼女は明るい表情で紅月を出迎え、慣れた手つきで荷物を受け取る。
「ただいま、彼女の荷物も頼む」
紅月は菖蒲に対している時に反して柔らかい声で言う。その言葉に女性の視線が菖蒲に向き、すぐに不快げに顰められた。
「もしかして、ご両親が強行を?」
「ああ。いつものように招けばいい」
そこまで言ってから、紅月は菖蒲を振り返る。
「言っておくが、この家では高待遇は受けられないと思ってくれ。耐えきれないのならすぐに出て行ってもらって構わない」
その物言いに、何故今まで縁談うまくいかなかったのか察した。名家のお嬢様には耐えきれなかったのだろう。しかし菖蒲は別にそれでも全く構わない。
「それと、ここに住んでいる人は全員能力が無い。もし、少しでも差別的な目で見たらすぐさま追い出す」
紅月の目つきが一層鋭くなる。
能力が無いものは最近少なくなってきている。そのせいで、紅月の両親ほどではないが差別をする人間は一定数いる。紅月は身内には甘いタイプなのだろうな、と呑気に思った。
「わかりました。これからよろしくお願いします」
紅月は一瞬驚いた様子を見せたが、すぐにさっと目を逸らし先に玄関の扉を潜る。
「あの」
ふたりきりになった途端、使用人の女性は鋭い目つきで菖蒲を睨みながら近づいて来た。声色にも表情にも敵意がにじみ出ている。
「ここでは能力者だろうが全く関係ないですからね。あと、紅月様に擦り寄っても無駄です。あの方は能力者が嫌いなので」
「そうなんですか? ご自身も能力者なのに?」
「そうですけど、いつも能力者の犯罪者と対峙しているから思う所があるみたいですよ」
能力者が全員悪人なわけではないが、日頃から能力を悪用する人間と戦っているのなら嫌ってもおかしくはない。
使用人はつっこんどんな物言いをしながら菖蒲から荷物を受け取って家の中へと運んでくれた。
菖蒲が案内されたのは、布団もない殺風景な部屋だった。使用人の反応からして菖蒲との婚約はだまし討ちに近かったのだろうから、部屋がなくても仕方がない。埃っぽくないのが救いだろうか。しかし布団がないのはかなり辛い。
「あの、お布団を借りれたりしませんか?」
「え」
使用人は驚いたような顔をして、菖蒲を見た。まさか布団で寝る習慣がないのだろうかとありえない考えが過る。
「いいですけど、こんな何もない部屋で過ごせないとか文句を言わないんですか?」
「ああ、前の婚約者はそう言っていたんですか? 別に問題ないですよ」
きっと豪奢な生活に慣れていた名家のお嬢様は何もない部屋に耐えられなかったのだろう。
「……すぐに布団を用意します。それと、お部屋も。今日は急だったので用意が間に合いませんでしたが、家具もある部屋もありますので」
使用人は少し申し訳なさそうにした。きっと菖蒲を試したかったのだろうな、と察したがそれに対して怒りは湧いてこない。慕っている人がどこの馬の骨とも分からない女を連れてきたら警戒するのは当たり前だ。
使用人に布団を用意してもらい、夕食の用意が出来たら呼びに来ると言われ、菖蒲はひとりになった。夕食の時間まであと三時間近くある。ひとりで閉じこもっているのは暇で仕方がなかったので、悩んだ末に部屋を出た。
無遠慮に歩き回るのは気が引けたので、トイレを探すという名目で廊下を歩いていると不意に右側の部屋から先ほど案内してくれたのとは別の女性の声が聞こえて来た。
「あの人、いつまでいらっしゃるのかしら」
「さあ、どうせ数日で帰りますよ。紅月様に媚びたくても、もう家にいらっしゃいませんしね」
どうやら菖蒲の噂話をしているらしい。
早く出て行ってくれという気持ちがひしひしと伝わって来て、思わず苦笑が零れる。
それにしてもどうやら紅月はもうこの家にいないらしい。
「忙しいんでしょうね……体調を崩したばかりだと言うのに出勤しないといけないんですもの」
「何事もないといいんですけどね」
不安な話題に聞き入っていたら、気が付いたらふたりの声がすぐそばで聞こえていた。立ち去るよりも前に扉が開き、顔を出した使用人の女性がぎょっと目を見開く。菖蒲の母と同じくらいの年齢の女性だ。彼女は不快感を隠すことなく言った。
「あなた、まさか盗み聞き?」
胡乱な目を向けられ、菖蒲は小首を傾げた。
「手伝えることがないかと貴方を探していた所だったんですが、えっと、何かありましたか?」
慌てたりすると嘘がバレるので、こういう時は落ち着いて対処した方がいい。使用人は疑いの目を向け続けていたが、すぐにどうでも良くなったのか話題を変える。
「手伝ってもらうことは何もないです」
「でも」
「部屋に籠っていてください」
ぴしゃりと言いつけられたが、なんでもいいから仕事が欲しいと言うと女性は深いため息を吐いた後に「そうだ」と提案をした。
「外の草むしりを杏奈がやっているから、手伝ってあげてくださいよ」
「杏奈?」
「貴方を案内した使用人です」
彼女は杏奈というのをこの時初めて知った。
女性に言われるまま、外に出て裏庭へと回ると杏奈がしゃがみこんで小さな草をむしっている。杏奈は菖蒲の存在に気が付くと、すぐに顔を顰めた。
「何の用ですか?」
「手伝いに来ました」
「は? その手袋で?」
杏奈は菖蒲の手を見ながら言う。言われてから確かにこの手袋をつけたままでは汚れてしまうな、と気が付いた。杏奈は大きくため息を吐き「いいですから部屋で大人しくしていてください」と言って追い払うように手を振った。
役に立てないのを申し訳なく思いながら言われた通り立ち去ろうとしたその時、正門の方から声が聞こえて来た気がして顔を向ける。。小さくて内容までは分からないが、男女の声だと判別できる。恐らく一人は紅月だ。
杏奈も気がついたようで、顔を上げる。
「紅月様が帰って来られたんだ」
「お迎えにいきますか?」
そう聞くと杏奈は迷っていたが、立ち上がったのでふたりで正門の方へ向かう。正門の前では、予想通り紅月が立っていた。
「おっと」
紅月の隣に見知らぬ女性が立っているのに気が付き、反射的に足が止まる。ふわふわとした茶髪がよく似合う美人だ。
「あ、美鈴様だわ」
「美鈴様? お知り合いですか?」
紅月と寄り添う姿は、かなり親密に見える。側から見れば恋人同士のようだ。
「美鈴華菜様。紅月様の同僚で、治癒力を上げる力を持っていらっしゃって、先日も体調の悪い紅月様を治して下さったんです。私たちにもとても優しくてまるで女神のような方ですよ」
杏奈は能力者を嫌っているように見えたが、美鈴のことは好きらしく彼女のことを語る口調に熱がこもっている。
「へえ」と気のない返事をしながらふたりの様子を伺う。玄関の前で向き合って何か話をしている。美鈴の方は心配そうに紅月を覗き込み、その体が触れようとそっと手を伸ばすのが見えた。
その瞬間、菖蒲は足を動かし、紅月たちの方へと向かっていった。
「ちょっと」と背後から杏奈が焦ったように静止する声が聞こえてきたが、無視を決めて紅月に向かって声をかけた。
「お帰りなさい、紅月様」
はっとした様子でふたりが菖蒲を見る。
「早かったですね。こちらは同僚の方ですか? 初めまして、紅月様と妻の菖蒲と言います」
「つ、つま?」
「はい。紅月様を送ってくださってありがとうございました。あとは私がついてますので、ここまでで結構ですよ」
美鈴は顔を引き攣らせたが、すぐに取り繕うと会釈をして帰って行った。
その背中が見えなくなったのを確認してから、紅月から距離をとってふうと息を吐き、紅月を仰ぎ見る。
「嫌がっているように見えましたが、余計なお世話でしたか?」
紅月は驚いたように目を見開き、困惑した様子で緩く首を振った。
「いや、正直助かった」
「そうですか、それなら良かったです」
美鈴が紅月に手を伸ばした時、紅月は少しだけ身を引き顔を引き攣らせていた。美鈴は恐らく紅月に好意を持っているが、紅月がそうじゃないのなら触らせるべきじゃないと判断して出て行ったが、判断は間違っていなかったらしい。
「どうしてわかったんだ。俺は、表情に出した覚えはないが」
「本気で言ってます? 結構分かりやすかったですよ」
そう言うと紅月は面食らったような顔をした。
「そんなことは、初めて言われた」
余程衝撃を受けたのか、口元に手をやっている。もしかしてこんな小娘に見抜かれたのがショックだったのかと思い、弁明するために口を開く。
「一応占い師をしているので、人の感情の機微には敏感なんですよ」
「能力で未来視をするんじゃないのか?」
「そういう時もありますけど、ただ事実を知りたくない人だっているんですよ。今付き合っている人と長く続きますか、なんて幸せそうに言われたら一ヶ月後に別れますなんて事実は言わないようにするんです。真実の愛なら長く続くとかなんとか言って。それが恋人の浮気を疑っている人なら真実を教えて上げるんです」
「なるほど」と紅月は納得した様子で頷いた。
「詐欺師みたいだ」
続いて加えらえた言葉に口の端がぴくりと動く。
人を詐欺師呼ばわりするな、と言ってやりたかったが、反論されたら面倒なので言葉を変える。
「貴方が軍人にしては読まれやすい可能性もありますね」
途端に紅月の表情が曇る。
「俺は能面と言われた男だぞ」
「それ、褒め言葉じゃないですよ。ポーカーフェイスって言いたいんですか?」
「表情を読み取られないという意味合いは一緒だろう」
この男、本気で言っているのだろうか。能面なんて絶対に褒め言葉ではない。それとも軍では讃える言葉として流行しているのか。どちらかわからないが、紅月は割と天然なのかもしれないと思い始めた。
「そう思いたいならそれでいいじゃないですか。それよりも体調が悪いんじゃないんですか?」
「問題ない。昨日まで体調が優れなかったから、まだ出てくるなと追い返されただけだ」
紅月の顔色は悪くなく、体調が悪いようには見えないが使用人たちも心配していたので大事をとってもいいだろう。文句を言う紅月を杏奈とふたりで説得し、部屋へと誘導する。
紅月を部屋へ入れ、菖蒲も自室へ戻ろうとしたのを杏奈が引き留めた。俯きがちな表情は暗く、憂いを帯びている。
「美鈴様を嫌がっていたなんて気が付きませんでした」
熱っぽく美鈴を語っていた杏奈からしたらショックだろう。
「本人曰くポーカーフェイスが売りらしいので、それでいいんじゃないですかね。本人が隠していたのなら暴く必要はありませんよ。見えているものを事実として受け取るのは罪じゃないです」
杏奈は顔をあげ、何度か頷いた。
紅月が言わなかったのなら、察する必要はない。ふたりの信頼関係ならば、本気で助けて欲しい時は言うはずだ。ふたりの関係はどこか兄妹を彷彿とさせる。
菖蒲と母との関係よりもずっと深く繋がっているような気がする。
「そうだ、お母さん」
そろそろ会いに行かなければいけない。ため息を吐きそうになったのをなんとか飲み込んだ。
翌日、病院へ行くための準備を済ませた菖蒲は杏奈に出かける旨を告げた。昨日よりも態度が軟化した杏奈は行き先が気になるだろうに何も聞かずに送り出してくれた。
しかし、菖蒲の背後からついてくる足音がひとつ。
「どこへ行くんだ」
玄関で靴を履きかている時にかけられた声に顔を上げる。白シャツに黒いパンツ姿の紅月が立っていた。
「少し出てくるだけです」
「だからどこへ」
どうやら行き先を告げないと行かせてもらえないらしい。それか、聞かないでくれと言う空気が読めないのかのどっちかだ。
家主、しかも婚約者という立場の人に行き先を告げないわけには行かず、菖蒲はため息を吐きたいのを堪えて笑顔を向けた。
「少し病院に」
すると紅月の眉が寄る。
「どこか悪いのか」
「いえ、知り合いが入院しているので、お見舞いに行くだけです」
そう言うと引き下がってくれるかと思ったが、紅月は逡巡の後、言った。
「俺も行こう」
来なくていい。咄嗟に出そうになった言葉をなんとか飲み込み、準備してくるという紅月を置いていってやろうかと思ったが、後が面倒なので大人しく待つ。
紅月は先ほどの白シャツの上にジャケットを羽織って出てきた。ただのお見舞いに行くには畏まった格好だ。
「そんなきっちりしなくていいんですけど」
「普段からこの格好だ」
もしかしたら紅月はTシャツなど持っていないのかもしれない。
菖蒲は自身の服装を見下ろした。水色のワンピース姿は紅月の隣に立つには少々子供っぽい気がしたが、紅月が全く気にしていなさそうなのでそのまま家を出る。
電車で行くつもりだったが、紅月が車を出してくれると言うので有り難く助手席に乗り込む。車に詳しくなくても知っているような高級車だ。足をつけるのも憚れ違う、紅月は驚くほど無頓着だ。
「車が好きなんですか?」
「いや。勧められるまま買っただけだ。車に興味はない」
「じゃあ何が好きなんですか?」
途端に紅月は黙り込んだ。
沈黙が続き、気まずくなり始めた頃に紅月が口を開く。
「わからない。趣味などあまり作ってこなかったから」
その横顔は何だか少し寂しそうだった。
紅月がこれまでどんな生活を送っていたのかはわからない。菖蒲と紅月ではあまりにも暮らしてきた環境が違いすぎるので、推しはかることすら難しい。
「貴方は何が好きなんだ」
信号で止まった時に紅月が菖蒲を見た。純粋な疑問を投げかけられ、返答に悩む。
好きなものと聞かれてもパッと思い浮かばない。菖蒲もこれまで趣味などに没頭して生きてきたわけではないのだ。
「私も特にはないですね」
紅月は「そうか」とだけ言って話題を切った。沈黙が落ちても別段気にならないのは、紅月の纏う独特の雰囲気のせいだろうか。
花屋に寄ってもらい、小さい花束を買ってから病院へ行く。車で送ってくれるだけかと思ったが、紅月は菖蒲と共に車を降りた。
今日は休日で外来の患者がいないからか、病院はいつも以上に静かだ。しかし、紅月が目立つせいで、やけに人目を惹き何度かぎょっとされた。エレベーターに乗り、母の病室がある階まで上がると見慣れた看護師と目があった。
「あ、こんにちは……」
看護師が紅月を見て、何度も瞬きを繰り返す。
何も考えずに紅月と共に来たが、母に彼のことがバレたら癇癪を起こされるに決まっている。それは非常にまずい。
「すみません、彼のことは内緒でお願いします」
そう言って口の前で人差し指を立てると看護師は興奮した様子で何度も頷いた。これで問題ないだろうと看護師と別れ、仕事中の看護師さんを避けながら廊下を歩く。
母の病室の前まで来て、少し後ろを歩いていた紅月を振り返った。
「ここで待っていてもらえますか」
紅月はちらりと病室に扉の横に書かれている母の名前を見てから「わかった」と了承してくれた。
母は眠っていた。それにほっとしつつ、起こさないように気をつけながら近づき。顔色を伺う。先日お見舞いに来た時よりも顔色が良くなっている気がする。
顔を覗き込んでいたせいか、母の目が開いた。眠たげに質量をもった瞼が持ち上がり、菖蒲を見た途端にかっと目が見開かれる。
「あんた、なにしに来たの」
「お母さん、お見舞いに」
「あんたなんかに来て欲しくないわよ! あんたのせいでこんな目に遭っているんだ。あんたが全部悪いんだ!」
母の声は金切声に近く、近くで聞いていると鼓膜が痛む。個室で良かった、と嘆息しつつ落ち着かせようと手を伸ばした。その手を怯えたように叩かれる。
「触るな! 化け物!」
そうして、興奮した様子で暴れ、近くにあった花瓶に手を伸ばすとそれを菖蒲に向かって投げつけた。がん、と鈍い音がして額にぶつかる。痛みに呻き声を上げても母の罵声は止まらず、騒ぎに耐えきれなかったようで紅月が扉を開けて入ってきた。
「何をしているんだ」
頭を抑える菖蒲に近寄り「大丈夫か」と聞いてくる紅月に母は激昂した。
「誰だこの男は。お前、お前なんか、どっかにいけ、さっさと消えろ! お前さえいなければ、あの人は私の側にいたのに」
その声に謝ることもできず、菖蒲は紅月に部屋から連れ出された。入れ替わりで部屋に入っていった看護師の声を聞きながら、菖蒲は深いため息を吐いた。
「あれは母親か」
車に乗った紅月は、エンジンをかける前にそう聞いてきた。隠す必要もないので頷く。
「はい」
「貴方は金目当てで婚約したと聞いたが、母親の治療費のためか」
察しが悪い人ではない。紅月は全てを見透かした上で怒りを携えた目を菖蒲に向けていた。卑しいと思われているのだろうな、と糾弾されるのは覚悟の上だ。
「そうです。全額出していただけるという条件でした」
素直に言うと紅月は大きくため息を吐いた。
反射的にびくりと肩を跳ねさせた菖蒲に紅月が首を振る。
「貴方に怒っているわけではない。選択肢のない貴方の逃げ道を塞いで金で誘った雨宮家に怒っているんだ」
「でも、その提案がなければ母はまともな治療を受けられなかったもしれないので、助かっています」
紅月は半目で菖蒲を見た。
「初対面で無礼な態度だった男と結婚させられたのに助かってるって?」
どうやら自覚はあったらしい。
「はい。不自由はないですし」
「すぐにでも離婚したいと思わないのか?」
菖蒲は思わず眉を顰めた。
「それは貴方の方では? 嫌いな能力者なんかと結婚させられて嫌気が差しているのでは?」
そう言うと紅月は目を見開いた後、首を振る。
「別に能力者が嫌いなわけじゃない」
「それにしては昨日の態度は最悪でした」
そう言うと紅月はうっと言葉を飲み込み、罰が悪そうに俯いた。
「俺の両親と接したなら知っているだろう。彼らは異常なでに能力者主義で、能力がないものへ差別的だ。彼らに反発して自分が能力者に好意的ではないのは節はあるかもしれない。昨日の態度は悪かった。言い訳になるが、突然騙し討ちのように連れて行かれた先に貴方がいたんだ」
急に見知らぬ女と結婚しろなどと言われたら誰でもあの態度になるだろう。紅月の態度は仕方がない。
しゅんとしている紅月が哀れに思えてきた。
「こちらこそ責めるような態度をとってごめんなさい」
「いや、いいんだ」
そう言った後、紅月は何やら考え込むように額を撫で、冷静な目が菖蒲に向けられる。
「これから、どうしたい?」
「どう、とは?」
「離婚したいか、それともこのまま結婚したままか。勿論、貴方の母親の医療費は離婚した後も出すと約束しよう」
それは甘美な提案に聞こえた。すぐにでも提案に乗りたかったが、頭の中に母との生活が浮かんできた。毎日毎日罵声を浴びせられ、金持ちなどの未来や過去を見る仕事を続けるのは自分が思っていた以上に苦痛だった。
口が震えて、声が出ない。
そんな菖蒲をどう思ったのか、紅月が助け舟を出してくれた。
「俺は、できれば結婚したままでいたいと思っている」
その言葉に俯きがちになっていた顔を上げた。
「貴方は金銭的に困っていて雨宮家から援助が欲しい。俺はこれ以上面倒な婚約者候補を迎え入れたくはない。貴方が良いならまだ隣にいてほしい。できることなら——俺が当主になるまで」
「当主になるまでって」
「当主になれば誰も俺に口出しできなくなる」
それまでの間、結婚を続ければ菖蒲の家は生活に困ら無くなる。元々人生全てをかけるつもりでいたのだ。菖蒲にしてみれば全く問題がなかった。
「わかりました。でも、それまでよろしくお願いします」
そう言い、片手を差し出した。その手をぐいっと引かれて前につんのめる。
突然のことで体に一切に力を入れられず、思い切り紅月の胸へとダイブした。鍛え上げられた筋肉にぶつかり、咄嗟に離れようと暴れるが押さえつけられ、耳元で囁かれる。
「落ち着いてくれ。何者かの殺気を感じた」
「えっ」
不穏な単語に体が固まり、大人しく紅月の腕の中に収まる。
紅月は警戒するように辺りを見回し、人の気配を探っていたようだが、すぐに菖蒲を開放した。
「すまない。咄嗟に配慮できなかった」
「い、いえ」
心底驚いた。菖蒲はこれまで告白された経験はあるが、付き合ったことは一度もないのだ。もちろん抱きしめられるなど初めてだったので、ドギマギしてしまう。
動揺を悟られないように平静を装い、にこりと微笑む。
「大丈夫です。守ってくださってありがとうございます。それにしても殺気って一体誰が」
「わからない。俺の仕事の関係かもしれない」
紅月は仕事柄憎まれる機会が多く、敵もたくさんいそうだ。
もしかしたら結婚には危険が伴うかもしれない。早速後悔し始めた。
紅月は休みを謳歌できないようで、夕方には仕事に向かうと言い出した。まだ体を休めればいいのにと思ったのが顔に出たようで、紅月がぽんと菖蒲の頭に手をやった。驚くほど柔らかい表情で見下ろされ、ぎくりとする。
「貴方はそれでいい。ゆっくり休め」と言い、家を出る紅月を見送る。
「紅月様は危険と隣合わせですからね。一刻も早く前線に戻りたいんですよ」
一緒に玄関に来ていた杏奈が困った様子で言う。
紅月と違い危険な生活とは無縁だった菖蒲は彼から見たら平和ボケして見えるのかもしれない。紅月がどれくらい危ない目に遭っているのかはわからないが、杏奈の心配そうな表情から察するに傷が絶えないのだろう。
「無事に帰ってきてくださるといいですね」
心の底から紅月の無事を祈った。
しかし、その願いに反して菖蒲は深夜に怒鳴り声に近い声で叩き起こされた。
「助けてください!」
甲高い女性の声にドタドタと廊下を駆け回る音が混ざる。次に家中にざわめきが広がって行き、菖蒲も寝巻きのまま慌てて部屋を出た。
「どうかしたんですか?」
騒ぎは、玄関で起きていた。何人もの使用人が騒ぎ声を上げている。何人かが「紅月様」と泣きそうな声で呼ぶのが聞こえて、人の間を縫って騒ぎの中心に進んだ。
「え」
玄関の上り框で、紅月が倒れていた。
「紅月様、どうしたんですか」
「突然倒れたんです。私が治すので中に運んでください」
紅月を抱えながらそう言ったのは美鈴だ。彼女の他に同僚らしき数人の男性が背後に控えている。緊急事態なので勝手に入ればいいのに、と思ったら奥に立っていたひとりが困ったように言った。
「紅月さんが嫌がるんですよ。軍で美鈴が治療するって言っても家に帰るの一点張りで」
倒れてまで、彼女を嫌がるのは何故なのだろうか。
「治すので、中へ」と指示を出す美鈴をじっと見る。寝巻きのまま出てきたので今は手袋をつけていない。本当ならば絶対にやってはいけないが、事故を装って彼女の手に触れた。
その瞬間、彼女の記憶を見た。
「あやめ」
下から聞こえた声にはっとして手を引く。紅月が虚な目で菖蒲を見ていた。口が薄く開き、何かを発しようとしているのを察知して耳を寄せる。
「医者を」
弱っているにしてははっきりとした口調でそう言った。紅月がここまで嫌がるには必ず理由があるはずだ。
「早く、運ばないと危険です」
焦れた様子で伸ばされた美鈴の手を払いのける。途端に待機している同僚達が殺気だち、ぞっと鳥肌が立ったがここで引き分けにはいかない。菖蒲は鋭い視線で美鈴を制し、上擦りそうになるのを落ち着かせ、言葉を吐き出した。
「紅月様はこちらでどうにかしますので、お引き取りください」
「そんな勝手なこと」
「勝手? 紅月様が望まれていることですよ。今すぐここから出ていってください」
同僚のひとりが憤慨した様子で一歩踏み出したが、すぐに隣に立っていた男性が手で制した。
「紅月様は俺たちの大切な仲間です。絶対に回復させてください」
静かな声に反して菖蒲に向けられる目は冷たく、刺すようだ。もし紅月に何かあればタダではすまないという脅しの意味が込められている。彼の視線に怖気付くことなく見返しながら深く頷いた。
「では、帰ります。回復次第連絡を」
「ちょっと待ってください。本当に置いて帰るんですか? 紅月様がどうなってもいいんですか」
帰ろうとする同僚達の背中に美鈴が縋り付く。
「いいから、ここは任せしかない」
淡々とした言葉に美鈴は納得できないとばかりに紅月へ視線を向ける。その目は涙で濡れ、深い悲しみを宿しているが、紅月は美鈴に一瞥もくれずにもう一度「医者を」と呟いた。
「紅月様……」と名残惜しげに名前を呼ぶ菖蒲を無視して、使用人達に声をかけて紅月を部屋の中へ運んでもらい、雨宮家のお抱えの医者へ連絡を取ってもらった。深夜だと言うのに医者はすぐにきて来れるらしい。
部屋へ運び入れ、布団へ寝かされた紅月は呼吸をするのすらも苦しそうだ。
「この間と同じ症状です」
杏奈が紅月を心配そうに見ながら言う。
「この間って、体調を崩したって言っていたやつですか?」
「はい。その時は美鈴さんが治療してくださったので割とすぐに良くなったんです。今回も連絡した医者は治癒の力がある方なので、すぐに治るはずです」
そう言いながら杏奈も含めて皆んなが不安そうにしている。
何度も体調を崩している原因はなんだろう。もしかして重い病気だろうかと疑っているのだ。治癒の力はその人の治癒能力を高めたり、早く傷を治したりするもので病気を完治させるのは難しい。原因がわからなかったら、このまま何度も倒れてしまうのかと空気が重くなった。
「紅月様に何か持病が?」
「いえ……今までそんなことなかったんです。すごく健康体で、風邪も引かないんです」
部屋の中に入り、紅月を見下ろす。熱に浮かされているが、意識はあるらしい。
「体調が悪くなったのはいつですか?」
そう聞くと紅月はそろりと目を薄く開いた。
「休憩時間に、急に」
「それまでは大丈夫だったんですね?」
紅月が重そうな首を縦に振る。その光景を見ていた数人が喋らせない方がいい、と不安そうに口にする。いつもの頑丈で健康的な紅月を見慣れている家のもの達は、弱りきっている紅月に戸惑い、中には泣きそうになっている者もいる。
「……本当にただの体調不良なんでしょうか」
使用人の中の誰かがそう口にした。
「確かに、何者かの能力でこうなっている可能性もあるのか」
「呪いとか、毒とかってこと?」
その言葉に使用人達はざわめき、動揺が広がる。
ただの体調不良ではなく、呪いや毒が原因の可能性は十分ある。ただそのせいなら犯人がいるのだ。誰かが悪意を持って紅月を攻撃している。その可能性に使用人達はショックを受け、その内のひとりが菖蒲に縋りついた。
「あんたなら、わかるんじゃないの? 過去を見れるんですよね」
使用人達の視線が菖蒲に向いた。
必死な表情からそっと目を逸らす。
「……プライベートを勝手に見るのは御法度ですから」
基的に人の過去など頼まれない限り見てはいけない。さっき美鈴の過去は見たが、それは口にしないで首を振る。すると紅月が弱々しく言葉を吐き出す。
「見ない方がいい。楽しい、ものばかりじゃない、嫌な気分になる」
紅月はこれまで菖蒲が想像できないほどの苦労を経験しているだろう。その体に触れて過去を見るのは、人の傷を受け止めなければいけない。菖蒲にはその勇気も権利もない。
紅月は使用人達に部屋から出ていくように指示を出した。枕元でうるさくしすぎたのかもしれないと反省し、菖蒲も出て行こうとした。
「待て、貴方はここにいてくれ」
そう呼び止められ、菖蒲ひとりが部屋に残った。
「さっき、美鈴に触っていただろ」
どうやらバレていたらしい。誤魔化しても無駄だろうと首肯する。
「あいつの過去に、俺は出てきたか?」
「はい。触ったのは一瞬でしたけど、大した登場回収でしたよ。相当貴方が好きなんでしょうね」
美鈴の過去は、大体が紅月だった。ずっと彼を見てきたのだろう。狂おしいほどの熱情は、少女漫画のような可愛らしい者ではなく、苦しくなるほどの嫉妬と独占欲で溢れていた。
紅月はふっと乾いた笑いを溢した。当然、彼も美鈴の想いに気づいている。
「あの、どうしてあれほど美鈴さんを避けるんですか? 直してもらった方が早いでしょうに」
美鈴の行いで嫌になったと予想しているが、あの一瞬ではその理由を当てられなかった。この際だからと問うと少しの沈黙が訪れる。言おうかどうか逡巡しているとわかるので、菖蒲は大人しく言葉を待った。
「……先日、治療してもらっている時に」
紅月は言い辛そうに口をあまり開けずに話す。耳をそば立て相槌も打たずに静かに声に集中する。
「意識が朦朧としていた時に、口の端にキスを……」
「げっ」
あんまりな内容に思わず拒否の声を上げた。
菖蒲も仕事で接する男性に触られそうになった経験が何度かあるので、嫌悪感はわかる。
「最悪。あの女そんなことをしたんですか?」
「曖昧だが確かにされた」
「警察に突き出して地獄に落としたら良かったのに」
菖蒲なら二度と顔を合わせられないように徹底的に追い詰めてやるが、紅月は曖昧に笑う。
「意識が曖昧だったんだ。彼女は仕事はきっちりやるから同僚達は美鈴に対して好意的だ。言った所で信じないだろう」
「は? 患者に手を出すような人間は仕事ができるって言いませんよ」
菖蒲が棘のある声で糾弾すると紅月はおかしそうに声を上げた。
「まさかそんなに怒るとは思わなかった」
「怒りますよ。そりゃ」
はあとため息を吐いた。菖蒲でも起こるのだから、紅月を尊敬している同僚ならば怒り狂うんじゃないだろうか。
「俺の秘密を話したんだから、ひとつ聞いていいか?」
「なんですか?」
「その手の傷はどうしたんだ」
はっとして反射的に手を後ろに隠す。するとすぐに紅月は首を緩く振った。
「言いたくないならいい」
「言いたくないわけじゃないです。ただ、面白くない話なので」
「別に面白い話は期待していない」
紅月が言いたくなかった美鈴の蛮行を話したのだから、菖蒲も少しくらいは打ち明けるべきだろう。それに母との一件を見られているので、話しておいた方はいい気がした。
「私の父は、能力がない人でした。そして、能力者に対して異様に嫌悪感を持っている人で、私に酷く当たってきたんです。小さい頃は酷い仕打ちを受けていました。打たれたり、手を傷つけられたり。これはその時の傷です」
菖蒲の手には白い傷跡が何個も残っている。手袋をしている理由は、能力を使わないようにするためでもあるが、この傷を隠すためでもある。
「母は、昔はすごく優しい人だったんです。暴力を振るわれる私を思って父から逃げるように離婚しました。最初は、祖母の家で暮らしていたんですけど、祖母が亡くなると母はおかしくなっていきました。父がいなくなったのは私のせいだと言うようになり、好意的だった私の能力を嫌うようになったんです」
母との記憶に暴力がないのは幸いだ。彼女はただ泣きながら菖蒲を攻め立てた。
こんな惨めの人生なのは、菖蒲のせいだと。
貧乏なのは菖蒲のせいだから、金を稼いでこいと。
不意に紅月の手が伸び、菖蒲の目の前でふらりと揺れる。その手に視線を向けると紅月と目が合った。
「泣いているのかと思った」
「ないてないですよ」
もう慣れてしまった。涙なんかずっと出ていない。
笑顔を浮かべて気丈に振る舞いなさいと祖母がよく言っていた。綺麗な顔に強い力を持っている菖蒲に父親のように嫌な気持ちを向けてくる者も現れるだろう。けれど絶対に屈してはダメ。泣いたらひどい目に遭うから笑いなさい。笑っていたら人に好かれて、仲間が増えるからと祖母は言った。
笑顔は菖蒲の防御手段だった。
紅月は苦しそうに息を吐きながら、菖蒲に言う。
「辛い話をさせて悪い」
「いえ、こっちこそ」
遠くから廊下をかける音と慌ただしい声が聞こえてきた。きっと医者が到着したのだろう。迎え入れるために立ち上がった。
夜が明け、朝食の場で顔を合わせた紅月は医者の治療のおかげですっかり体調が回復していた。
「顔色が良さそうで安心しました」
「心配かけて悪かったな」
「私よりも皆さんの方がずっと心配していましたよ」
医者の治療によりすぐにある程度は体調が回復していたのだが、紅月の元気な様子を見るまで使用人達はずっと上の空だった。それほど紅月が愛され、慕われているのがわかる。
「それは貴方もだろう」
「え?」
「隈ができているよ。寝れなかったか?」
思わず目元を押さえると紅月がしてやったり顔で見ていた。
「カマをかけましたね。隈なんてちょっと寝不足な位じゃできません」
「貴方も意外と分かりやすいな」
この間菖蒲が紅月の表情を見抜いたことへの意趣返しだと気がつく。
何か言い返したいが、心配であれから眠れなかったもの事実だったのでうまい返しが思いつかない。意識が朦朧としている姿を見ているのだから、心配するのは当然のはずだ、と開き直ることにした。
「心配でしたよ。人を揶揄えるぐらい回復しているなら良かったです」
「揶揄っていないよ。気分が害したならすまない。嬉しかったんだよ」
「嬉しい?」
小首を傾げると紅月は柔らかく目を細めて笑う。暖かい笑みは、初めて見るものでどきりとした。
「俺は——」
紅月の声が、不意に途切れた。そして、背後にある扉を振り返り大きくため息を吐いた。
「邪魔が入ったな」
そう言って立ち上がると同時に扉が開き、焦った表情を浮かべた杏奈が部屋に入ってきた。顔が真っ青で今にも倒れてしまいそうなほど洗い呼吸を繰り返している。
「た、たい、大変です。今、本家の、鶴美様がいらっしゃって、あ、菖蒲さんとの離婚させるって!」
思わず紅月と顔を合わせる。
「へぇ」となんとも気の抜けた返事が飛び出る。
「へぇって何ですか。このままだとふたりの仲が引き裂かれちゃいますよ」
杏奈は何故か必死だ。そもそも紅月と菖蒲は付き合っているわけではないので、引き裂かれるという表現は正確ではない。婚約だって鶴美の独断で破棄されても紅月と結び直せばいいだけだ。それは紅月も同じ考えらしく「そんなことより」と話題を変えた。
「来たのは母さんだけか?」
「いえ、なんと美鈴様と一緒です」
その言葉に紅月と菖蒲は同時に部屋を出て、玄関へと向かう。
「紅月、良かった。何ともないのね」
玄関には鶴美と美鈴が並んで立っていた。鶴美は紅月の体調を心配しているようで、紅月の体をじろじろと検分するように見てからほっとした様子で息を吐く。
一方、その隣に立つ美鈴は目元を赤らめ、散々泣きましたという表情で紅月を見上げている。
「体調は問題ありません。それで、一体どのような用事ですか?」
紅月の淡々とした口調に鶴美が興奮した様子で菖蒲を指差し、声を荒げた。
「美鈴さんから聞きましたよ。紅月を治そうとしている美鈴さんを押し除け帰らせたと。そんな酷いことをするとは思っていませんでしたよ。これだから貧乏人は金を積まないと動かないから嫌になりますね」
「母さん、それは」
「こんな女と結婚させてしまってごめんなさいね。今なら間に合うから、美鈴さんと結婚しましょう」
紅月の言葉を遮って、とんでもないことを言い始めた。
「美鈴さん、家柄もそこそこいいのよ。それに治癒の力ならすごく重宝するでしょ?」
家柄と能力。鶴美にとっての人を評価する判断材料はそのふたつらしい。思わずため息を吐くと目ざとく気がついた鶴美の鋭い視線が飛ぶ。
「あんたみたいなドブネズミを家に入れたせいで、紅月が死にかけたのよ。あんたみたいな守銭奴のせいで」
ドブネズミなんて呼ばれるのは初めての体験だ。酷すぎて笑えてくるが、紅月の怒りを刺激した。
「ドブネズミ? 余程見る目がないらしいな」
紅月の威圧感のある声に鶴美と美鈴、ふたりともびくりと体を跳ねさせる。
「俺が死にかけたのは、菖蒲のせいじゃなくてあんたの隣に立っている美鈴が盛った毒のせいだ」
「は?」
鶴美が驚愕の表情を浮かべ、隣に立つ美鈴を見る。
「ど、どういうこと?」
「知らないです。紅月様、一体何の冗談ですか?」
美鈴が一歩前に出ると紅月は身を引いた。
「休憩時間に俺が飲んだお茶に毒が入っていたのが分かった。淹れたのは美鈴だな?」
美鈴の表情が一瞬凍る。
「違います。何を根拠に」
何度も首を振り否定するが、紅月の口調はどこまでも冷淡だった。
「医者からの診察で体調不良の原因が毒だと分かり、職場にいた奴らにすぐに連絡を入れ、証拠を隠滅される前にコップを回収して調べたら毒が検出された」
「でも、私が淹れたなんて証拠は……」
「菖蒲さんが見たのね」
美鈴の言葉を遮り、鶴美がため息混じりで呟いた。
「菖蒲さんは触れた人の過去を見る力があるのよ。それで貴方の犯行に気がついたのね」
鶴美の言う通り、美鈴に触れた時に紅月のコップに何かの液体を入れるところを見ていた。
「なんてこと、こんな女に騙されるところだった」
鶴美は呆気なく美鈴を切り捨て、侮蔑の視線を向けたと思ったらさっさと家を出て行った。能力者至上主義な鶴美ならば物的証拠がなくとも菖蒲を信じるだろうと予想はしていたが、あまりにもあっさり美鈴を見捨てたので驚いた。本当に嵐のような人だ。
「なんで、どうして?」
美鈴は出て行った鶴美を追うこともできず呆然と呟く。
紅月との縁談を持ち掛けるために鶴美を連れて来たのだろうが、それが結局自分の首を絞める結果になったのだショックは大きいだろう。トドメを差す様に紅月が言う。
「話は連行した後で聞くから、一緒に……」
「なんでよ!」
きんとつんざくような美鈴の声がびりびりと鼓膜に響き、思わずびくりと跳ねた。
「何で私じゃなくてこの女なの! 私はずっと紅月様が好きで、紅月様のために頑張って来たのに!」
「それは……」
美鈴は紅月からの返答など期待していなかった。殺気立ち爛々と光る目で菖蒲を射抜いた。恐らく病院の帰りで向けられた殺気も彼女の物だったのだろう。美鈴は憎しみの籠った呪詛を吐く。
「あんたさえいなければ」
きっと菖蒲がいなくとも紅月は美鈴を好きにはならなかっただろう、と余計な思考が過ったせいで美鈴の次の行動に対処が遅れた、美鈴は持ってきていた鞄に手を入れ、中から大きな包丁を取り出すと菖蒲に向かって来たのだ。
「う、わ」
きらりと光る刃にたたらを踏む。
尻もちをつきそうになった菖蒲の体がぐいっと横に引っ張られ、次の瞬間には温かい体温に包まれていた。
包丁から守ってくれたのだろう。強い抱き抱えられ、ほっと安堵の息を吐いたその時。
「動くな」
地を這うような低音にぞわりと背筋に怖気が走る。恐る恐る顔を上げて声のした方を見ると紅月が見たこともないような怖い顔で美鈴を見下ろしていた。
「刃物を下ろせ」
ひんやりとした空気を感じたと思ったら、美鈴の足元が凍り付いていた。
氷が、紅月の能力なのだろう。少しの力で相手から戦力を奪っている所を見ると相当力が強いらしい。
紅月の命令のせいか、それとも凍えているせいなのか震える手から包丁が零れ落ちる。からんと音を立てた包丁を紅月が拾い上げ、項垂れる美鈴へ冷たい声を投げかけた。
「馬鹿なことをしたな」
それは、好きな人から投げかけられるにしてはあまりにも残酷は一言だった。
「本当にな」
その言葉と共に唐突に玄関の扉が開き、昨日美鈴と共にやって来た同僚たちが家の中へ入ってきた。そして淡々と美鈴を拘束するとさっさと連れて行ってしまう。昨日紅月は同僚のみんなは美鈴に好意的だと言っていたので恐らくその心中は複雑だろうが、それを一切表に出さない。
早い仕事っぷりに唖然としていると最後に残ったひとりが紅月を見て呆れたような笑みを溢した。
「愛がない結婚だと聞いていたが、なんだかんだ上手くいっているようで良かったよ」
そう言われてようやく菖蒲は紅月に抱き止められたままなのに気がついた。
「わっ、ちが、違います」
慌てて離れ、紅月は美鈴から守ってくれただけで、別にいちゃついていたわけでないと弁明したかったのに口が回らない。菖蒲がしどろもどろになっている間に同僚は「仲が睦まじくて羨ましいよ」と言って帰っていった。
「珍しくテンパっているな」
「そりゃ……というか、貴方が誤解を解いてくれたら良かったのに」
恨みがましく睨むと不思議そうな顔をされる。
「別に誤解じゃない」
「はい?」
聞き間違いかと思ったが、紅月はやけに真剣な表情を浮かべていた。
「俺は、結婚相手が菖蒲で良かったと思っている。これから仲を深めていきたい」
それは、なんだかプロポーズのように聞こえた。
「う、嘘でしょ。なんで」
「さあな。ただ貴方の笑顔が見たくなった」
紅月は柔らかい笑みを浮かべ、そっと菖蒲に手を出してきた。握手かと思い、反射的に握ると慈しむように手が包まれる。
「今度は守れて良かった」
そうして、手袋越しに傷をなぞる様に撫でた。

