体育教科担当の担任は若い男性で、わたくしたちのノリもよく分かっているせいか、体育祭前に席替えが行われた。一部の明るい男子が騒ぎ(たいていバスケ部と野球部のことが多い)、女子たちも男女混合ということで仲がいい女子ととなりになる可能性があってわくわくしている様子だった。
わたくしの順番がきて、コピー用紙でつくられたくじを引く。23番、窓から二列目の後ろから二番目。
……これはまた席を後ろにさせられそう。
学級委員に番号を伝え、残った紙は前の女子にならってゴミ箱に捨てた。
ところで、わたくしは広く浅くな関係を築くので、ある程度仲のいい友人はいても細山のようにニコイチ的な人はいない。
誰が隣に来ても大して重要でもない。当たり障りなくやり過ごして、仲良くなれたら儲けものだと思おう。
「ねえ、マスミちゃん~」
「ああ、あなたがいましたね」
「なにぃ?」
一気に困惑の表情になる浅野に、なんでもないと首を振る。ニコイチというよりも、あくまでもめちゃくちゃ懐かれているが故の『候補』だけれども。となりに立つと顔が上にあるのがちょっとムカつくけれども! 座ってもそうだけども!
「ねえ、見て見て~」と言って黒板を指さすので、目線を向けた。
浅野の文字がどこにあるのか見つけるよりも先に、
「マスミちゃんの後ろになった!」
と、浅野が高く笑う。
本当に愉快なときの笑い声だ。わたくしの後ろの席でなにが愉快なのか知らないけど。「よろしくお願いしますね」と微笑みをつくる。
「うん。マスミちゃんの後ろでも問題ないし、ラッキー」
「喧嘩売ってます?」
ふざけて握りこぶしをつくってみせると、浅野はにぱっ、と効果音がつくくらい破顔した。絡んでいることに気付いた田原さんが黒板を見て「避雷針コンビ前後マ?」と爆笑して手を叩いた。
田原さんも田原さんで、学年一のイケメンと騒がれている浅野と幼なじみで、かつチア部のリーダーということもあってめちゃくちゃに目立つから。教室中から視線があつまって、ちょっと気まずい。そわそわして腕を組んだ。
貼って付けたみたいな笑顔をうかべた浅野がわたくしの肩に腕を乗せて、体重をかけてくる。
「でも、運命みたいじゃない?」
「ねえ、ちょっと、重いんですけど。運命でもないし」
定位置といわんばかりに顎がわたくしの頭にのった。この体勢はすごくよくないと思う。下手に頭を動かしたら舌を噛みかねないからじっとするしかない。ムッとくちびるを引き結んだ。
「だって、普通の人はマスミちゃんの後ろだと見えないんでしょ?」
「180超えてますからね」
「マスミちゃんの後ろとかおれ以外無理でしょ!」
「無理じゃないだろ!」
避雷針命名の瞬間と同じくらいクラスがドッと湧いて面食らう。何が面白いんだよ。
後ろに振り向いてじろりとねめつけたらウインクされた。顔が良いから似合っててちょっとムカついた。
「マスミちゃん、とりあえずよろしくねぇ」
そのまま席替えをして、ホームルームが終わると後ろからとんとん、と肩を叩かれて、やわらかいテノールが聞こえてきた。振り返るとたしかに座高が高い。いや、わたくしが低いのか。
立ったときと同じような身長差をまざまざと感じて、ぐっと喉が詰まった。
「マスミちゃん?」浅野が首を傾げる。
「うぃ」
「ねえ、どういう返事それ」
浅野が高らかに笑う。
「これはフランス語です」
「Oui かぁ」
「そうそうそうそう」
「なんか適当になってきたな?」
バレた。適当にフランス語っぽくしゃべると、浅野が口を押さえて馬鹿笑いしている。
ホームルーム終わりの教室からは一気に人がいなくなって、まばらに談笑するグループが残るだけだ。
「マスミちゃんってさ、良い子だよねぇ」
――息が詰まる。
トラウマのようにわたくしの心を蝕む言葉に、胸がちくちく痛んだ。どうにか俯きそうになる顔を上げて、口元に笑みを浮かべた。
「そうですか?」
へらりと笑う。軽い口調で流してしまおう。
浅野は、ん? と首を傾げて真剣な顔でわたくしの腕を掴む。
「なんか嫌なこと言っちゃった? おれ」
びっくりして浅野を見た。数秒、何も言わずに見合う。浅野がまた「ん?」と首を傾げた。まるで自分は当たり前のことを言いました、みたいな。まあおかしいことは言ってないけど。
「……今、褒めてくれて、ましたよね?」
「うん。でもマスミちゃんが傷付いたみたいに見えたからさ。違った?」
「いや……」
ますますびっくりして、言葉に詰まる。
……それは、なにも違くない。
わたくしは『良い子』なんかじゃない。小さい頃からの癖ひとつ直すことが出来ない。だから、取り繕って、嫌われないようにって必死に……。
くちびるを開いて、なにかを言おうとして、声が出なかった。
「ん?」
浅野がわたくしの様子に気付いて目を合わせてくる。――優しいな、って。
自覚したらダメだった。心臓がドッと動く。急に顔が熱い。わたくしだって、浅野がかっこいいと、その上優しいと騒がれてることなんて知っているのに、それが自分にだけ向けられているとなると話が違う。
「どうしたの?」
困惑した声が聞こえて申し訳なくなる。てのひらを向けて言った。
「……こっち見ないでください」
「え? なんで?」
「なんでも!」
理由なんてわたくしも知らないんだよ。
どんどん顔が熱くなる。頬を手で挟んで、浅野の視線から逃れようと前を向いたが後ろから立ち上がった彼がやってくる。とん、と机に手をついてわたくしを覗き込んでくるから目をつぶった。
「ごめん、やっぱりおれなんかしちゃったんでしょ?」
見当ちがいなことを言う浅野に、焦って、言葉を返す。
「ちがう、そうやない! そうやないねん……」
「エッ?」
「……アッ」
はっとして口を覆う。浅野がぽかんと口を開けていた。胸がどっどっと早鐘を打つ。わたくし、今、なんて……!
――やってしまった!
「あの! 今のわすれてくれへん……あぁ……」
ヤバい。まだぜんぜんイントネーションが直ってない。
死ぬほど恥ずかしくて、声がしおしおと小さくなっていく。きゅっと目を瞑った。
浅野は身じろぎもせずに、わたくしをじっと見つめたあと、小さな声で、
「関西の人だったの?」
と尋ねた。
「……はい……」
小さく頷く。
どうしようもなくて机に突っ伏した。浅野の大きい手がぽす、ぽす、と髪の毛を撫でてくる。「ほんっまに、恥ずかしい……」とぼやくと、上から高らかな笑い声が降ってきた。そのままわしゃわしゃと頭を撫でられた。
顔見せて、と言われたが必死で首を振る。本当にむりだ。今は本当にダメ。
「マスミちゃんが敬語だったのって、そういうことか」
この学年でも結構頭がいいほうだという浅野はもうすでに察したらしい。ちょっとだけ顔を上げて見てみた。嫌悪感があるというわけではなさそうで安心する。
わたくしが『良い子』じゃないのは、まさに、この癖のせいだった。
麻住家は代々銀行の重鎮として働いている家で、それなりに言葉遣いを気にしなくてはいけなかった。わたくしが生まれてすぐに大阪に住むことになり、ある程度年の離れている兄たちは標準語で話すことができたが、生まれたときから関西弁で育ったわたくしはそうともいかず。
矯正するために色々と試してはみたのだが、どうにも関西のイントネーションが抜けなかった。苦肉の策で、大人になってから求められる標準語の敬語だけを叩き込み、それ以外は関西弁でも構わないようにしたのだ。
――でも、それだけでうまくはいかなかったんですよね……。
「勘が鋭くていやんなる、もう……」
「わ。顔真っ赤。恥ずかしかったんだ?」
するり、と指先がわたくしの頬を撫でる。恥ずかしくてその手を払いのけた。もうこんなの絶対顔が赤くなっているはずだよ。手の甲で頬を挟んで冷やしてみるけれど、無意味だ。
「いけず……」
「『いけず』……」
「もしかして、いけずも訛りなん……?」
そういうわけじゃないけど、とテノールは言いつつ、伸びてきた指先が頬にかかった髪の毛を払ってくれる。浅野の目が泳いでいるから、たぶんいけずも訛りなんだろう。
はあ、とため息を吐く。前の席に背もたれを抱えるようにして浅野が座った。
「ここまで敬語ガッチガチなのも珍しいとは思ってたんよね」
その言葉に含まれたニュアンスを感じとってしまって、両手を握った。気まずい。さっきから関西弁に引っ張られて標準語に戻ってくれない。ゆっくりと、つとめて言葉を選ぶ。
「全国探せば、まあ、いるでしょ……」
「まあ、育ち良いのかなって思ってたけど」
「悪い方では、ない、ですけど」
「でもその反応的に、関西弁なの隠したかったんだよね?」
「そうですけど!」
声がひっくり返る。恥ずかしくて顔を覆った。
「拗ねてる?」
「拗ねてへん!」ワッと言い切った。「ああ、もう!」
細山といい浅野といいなんでみんなわたくしが拗ねてるのに敏感なんだ。
浅野がケラケラと笑う。
ふう、と息を吐いて、ちょっと上にある浅野の顔を伺い見てみる。浅野は見たことのない無表情でわたくしを見ていた。
「……な、なんですか、その顔」
「いやぁ? なんでもないよ」
浅野が机に手をついて距離を縮めてくる。だんだんと追い詰められているような気がする。ぼっと顔がまた熱くなった。「なんで照れた?」と聞かれるけれど首を振る。いや、わたくしだってなんで照れてしまったのか皆目見当もつかなくて、と自分の中で言い訳をする。聞こえる訳じゃないのに。
いまだ熱を持っている頬をもにもにと揉む。浅野がその手をやんわりと退けた。
「ねえ、おれの前だけでいいから、ソレでいてよ」
「……ソレ、というのは」
「その関西弁」
う、と息が詰まった。
目を逸らして抵抗を試みるが、「なんで目ぇ逸らすの」とテノールに追い詰められる。言おうか言うまいかと迷って、結局口には出さずに浅野の目を見た。深い茶色の目はじっとわたくしの返事を待っている。
――関西弁って、けっこう、通じないことも多いんですよ。
「好奇心ですか?」
苦々しく思いながら尋ねた。
「いや?」
と、浅野はやわらかい口調で言う。その目に嘘はない。
ふう、ともう一度ため息を吐くと、何を思ったのか「手ぇ繋ぐ?」と手をひらひらさせた。いい、と首を振って断ると浅野は残念そうに眉を下げた。
「安心させようと思ったのに」
「問い詰めてるのはあなたでしょう」
「でも、本当のマスミちゃんは、さっきの関西弁でしゃべってるマスミちゃんな気がするんだもん」
浅野はわたくしの目の前で頬杖をついて、目を眇めた。なにかを見定めるようにも、見透かしているようにも見えて居心地が悪い。いや、見透かされているという点ではあっている気もする。
敬語で話すとき、「わたくし」として生きるとき、どうしても他人から見られている自分を意識している。
「おれは結構ありのまま生きてるけどさ?」
「そうですね」
浅野は、ふらりふらりと視線をどこかに漂わせた。
「マスミちゃんはそうじゃないんだなって感じることがあって。なにかキミが、深く傷つくことがあって、そうやって人と関わるようになったのかもしれない。おれは所詮他人だし、マスミちゃんにどうこう言える立場じゃないけど、友だちとして言わせてよ」
浅野はゆったりと頬をゆるめて、まるで安心させるようにわたくしの手をとった。
「おれは、そのままのマスミちゃんと友だちになりたいよ」
よくもそんな恥ずかしいことを言えるよ。あなた。
浅野は無抵抗なわたくしの手を握って、「ね? だめ?」と食い下がってくる。
「……別に、無理してるとか、そういうことでは、ないんです」
浅野は否定せずに頷いた。
聞いてくれている。わたくしの声が、届く。
「昔ね、本当に、今はぜんぜん気にしてないけど、あったんですよ――関西弁を隠したくなるようなことがね」
わたくしがこっちに戻ってきたのは、小学校五年生のときだった。父の仕事が片付き、兄たちが生まれ暮らした実家に戻ることになった。今でも住んでいる家だ。
小学校は転校。標準語を話す友だちの中で関西弁であるわたくしは浮いていて、輪の中に入れても、うまく話せないことが多かった。心のままに話すとみんな一様に変な顔をして「それってどういう意味?」と聞いてくるのがつらかった。なんでもないと誤魔化すことが増えて、だんだんと孤立しがちになり、わたくしの友だちは本になった。
『ケイシってさ、変な言葉しゃべってるよな。あれなんなんだろ?』
『テレビで見るようなやつな』
『お笑い芸人にでもなんのかな!』
『無理だろアイツ、つまんねーもん』
ある時、廊下から聞こえてきた声。読み終わりたい本があってひとりで教室に残っていたときだ。泣くことはしなかったけれど、相当堪えたらしいことは記憶にも残っている。
こんな歳になって、まだこうやって取り繕い続けているのだから、明らかだろう。
「それで……」
言葉に詰まる。
いくら浅野が優しいからと言って、ここまで曝け出すのもいかがなものか。そう考えてしまって、ダメだ、と思考が停止した。
恥ずかしい。わたくしはなんてことを。
浅野に握られたままの指を解こうとして、きゅっと掴まれてかなわなかった。「はなして」とお願いしてみるが、「やだ」と一蹴されて終わる。
「マスミちゃんはさぁ、おれが、マスミちゃんを揶揄ってるように見えてる?」
首を振る。
「じゃあ、マスミちゃんの中で、おれの言葉を処理しきれてない感じ?」
少し悩んで、首を振る。
「あれ? わかんなくなったぞ」
浅野は素っ頓狂な声を出して、二択だと思ったのになあ、と、んにゃんにゃくちびるを動かして独り言を言った。
「……っふふ」
「あれ? まって、なんで笑ってんの」
「ふふ、ふふ、いや、浅野って優しいなあって」
大きくなって、幼い頃つけられた傷がなんてことないことなんだと知った。でも、両親に直せと言われた癖が直らなくて、自分でも焦っていて、学校での孤立と合わさって卑屈になってしまったのだろう。
浅野は、そうじゃない。
きっと違うんだって、彼を見ていたら分かる。
「別に優しくないよ。マスミちゃんだけ」
「わたくしのこと口説かなくたっていいのに」
「口説きたいから口説かせてよ」
「ふふ、はいはい」
ふう、とため息をひとつ。
「……裏切ったら、殴ります」
浅野は、真剣な顔で「うん」と頷いた。
「裏切らないよ。おれマスミちゃんのこと好きだし」
「それは……ありがとうございます」
「あ、敬語ダメ。マジの親友だと思って話して。なんだろうがどんとこい」
浅野がじっとわたくしの目を見る。逃がさない、と言わんばかりの目力にちょっと笑った。途端に浅野が拗ねてしまうから、ごめんねと言いつつ握られたままの手を握り返す。
「じゃあ……ありがとう。浅野のこと、信じるな?」
「うん。信じて」
「えっとぉ……待って、敬語しか出てけぇへん、あ、やば、今度は関西弁しか出てこんくなった」
「わはは!」
今度は浅野が震えながら机に突っ伏した。笑っているらしい。なんや、失礼やな、と思いつつ、震えるつむじをつんつん人差し指で刺してみる。
しばらく悶えるようなうめき声が聞こえて、小さく、
「マジで、ずるいなぁ、マスミちゃん……」
と聞こえてきた。
組まれた腕の間から覗くピアスだらけの耳が真っ赤になっていた。
わたくしの順番がきて、コピー用紙でつくられたくじを引く。23番、窓から二列目の後ろから二番目。
……これはまた席を後ろにさせられそう。
学級委員に番号を伝え、残った紙は前の女子にならってゴミ箱に捨てた。
ところで、わたくしは広く浅くな関係を築くので、ある程度仲のいい友人はいても細山のようにニコイチ的な人はいない。
誰が隣に来ても大して重要でもない。当たり障りなくやり過ごして、仲良くなれたら儲けものだと思おう。
「ねえ、マスミちゃん~」
「ああ、あなたがいましたね」
「なにぃ?」
一気に困惑の表情になる浅野に、なんでもないと首を振る。ニコイチというよりも、あくまでもめちゃくちゃ懐かれているが故の『候補』だけれども。となりに立つと顔が上にあるのがちょっとムカつくけれども! 座ってもそうだけども!
「ねえ、見て見て~」と言って黒板を指さすので、目線を向けた。
浅野の文字がどこにあるのか見つけるよりも先に、
「マスミちゃんの後ろになった!」
と、浅野が高く笑う。
本当に愉快なときの笑い声だ。わたくしの後ろの席でなにが愉快なのか知らないけど。「よろしくお願いしますね」と微笑みをつくる。
「うん。マスミちゃんの後ろでも問題ないし、ラッキー」
「喧嘩売ってます?」
ふざけて握りこぶしをつくってみせると、浅野はにぱっ、と効果音がつくくらい破顔した。絡んでいることに気付いた田原さんが黒板を見て「避雷針コンビ前後マ?」と爆笑して手を叩いた。
田原さんも田原さんで、学年一のイケメンと騒がれている浅野と幼なじみで、かつチア部のリーダーということもあってめちゃくちゃに目立つから。教室中から視線があつまって、ちょっと気まずい。そわそわして腕を組んだ。
貼って付けたみたいな笑顔をうかべた浅野がわたくしの肩に腕を乗せて、体重をかけてくる。
「でも、運命みたいじゃない?」
「ねえ、ちょっと、重いんですけど。運命でもないし」
定位置といわんばかりに顎がわたくしの頭にのった。この体勢はすごくよくないと思う。下手に頭を動かしたら舌を噛みかねないからじっとするしかない。ムッとくちびるを引き結んだ。
「だって、普通の人はマスミちゃんの後ろだと見えないんでしょ?」
「180超えてますからね」
「マスミちゃんの後ろとかおれ以外無理でしょ!」
「無理じゃないだろ!」
避雷針命名の瞬間と同じくらいクラスがドッと湧いて面食らう。何が面白いんだよ。
後ろに振り向いてじろりとねめつけたらウインクされた。顔が良いから似合っててちょっとムカついた。
「マスミちゃん、とりあえずよろしくねぇ」
そのまま席替えをして、ホームルームが終わると後ろからとんとん、と肩を叩かれて、やわらかいテノールが聞こえてきた。振り返るとたしかに座高が高い。いや、わたくしが低いのか。
立ったときと同じような身長差をまざまざと感じて、ぐっと喉が詰まった。
「マスミちゃん?」浅野が首を傾げる。
「うぃ」
「ねえ、どういう返事それ」
浅野が高らかに笑う。
「これはフランス語です」
「Oui かぁ」
「そうそうそうそう」
「なんか適当になってきたな?」
バレた。適当にフランス語っぽくしゃべると、浅野が口を押さえて馬鹿笑いしている。
ホームルーム終わりの教室からは一気に人がいなくなって、まばらに談笑するグループが残るだけだ。
「マスミちゃんってさ、良い子だよねぇ」
――息が詰まる。
トラウマのようにわたくしの心を蝕む言葉に、胸がちくちく痛んだ。どうにか俯きそうになる顔を上げて、口元に笑みを浮かべた。
「そうですか?」
へらりと笑う。軽い口調で流してしまおう。
浅野は、ん? と首を傾げて真剣な顔でわたくしの腕を掴む。
「なんか嫌なこと言っちゃった? おれ」
びっくりして浅野を見た。数秒、何も言わずに見合う。浅野がまた「ん?」と首を傾げた。まるで自分は当たり前のことを言いました、みたいな。まあおかしいことは言ってないけど。
「……今、褒めてくれて、ましたよね?」
「うん。でもマスミちゃんが傷付いたみたいに見えたからさ。違った?」
「いや……」
ますますびっくりして、言葉に詰まる。
……それは、なにも違くない。
わたくしは『良い子』なんかじゃない。小さい頃からの癖ひとつ直すことが出来ない。だから、取り繕って、嫌われないようにって必死に……。
くちびるを開いて、なにかを言おうとして、声が出なかった。
「ん?」
浅野がわたくしの様子に気付いて目を合わせてくる。――優しいな、って。
自覚したらダメだった。心臓がドッと動く。急に顔が熱い。わたくしだって、浅野がかっこいいと、その上優しいと騒がれてることなんて知っているのに、それが自分にだけ向けられているとなると話が違う。
「どうしたの?」
困惑した声が聞こえて申し訳なくなる。てのひらを向けて言った。
「……こっち見ないでください」
「え? なんで?」
「なんでも!」
理由なんてわたくしも知らないんだよ。
どんどん顔が熱くなる。頬を手で挟んで、浅野の視線から逃れようと前を向いたが後ろから立ち上がった彼がやってくる。とん、と机に手をついてわたくしを覗き込んでくるから目をつぶった。
「ごめん、やっぱりおれなんかしちゃったんでしょ?」
見当ちがいなことを言う浅野に、焦って、言葉を返す。
「ちがう、そうやない! そうやないねん……」
「エッ?」
「……アッ」
はっとして口を覆う。浅野がぽかんと口を開けていた。胸がどっどっと早鐘を打つ。わたくし、今、なんて……!
――やってしまった!
「あの! 今のわすれてくれへん……あぁ……」
ヤバい。まだぜんぜんイントネーションが直ってない。
死ぬほど恥ずかしくて、声がしおしおと小さくなっていく。きゅっと目を瞑った。
浅野は身じろぎもせずに、わたくしをじっと見つめたあと、小さな声で、
「関西の人だったの?」
と尋ねた。
「……はい……」
小さく頷く。
どうしようもなくて机に突っ伏した。浅野の大きい手がぽす、ぽす、と髪の毛を撫でてくる。「ほんっまに、恥ずかしい……」とぼやくと、上から高らかな笑い声が降ってきた。そのままわしゃわしゃと頭を撫でられた。
顔見せて、と言われたが必死で首を振る。本当にむりだ。今は本当にダメ。
「マスミちゃんが敬語だったのって、そういうことか」
この学年でも結構頭がいいほうだという浅野はもうすでに察したらしい。ちょっとだけ顔を上げて見てみた。嫌悪感があるというわけではなさそうで安心する。
わたくしが『良い子』じゃないのは、まさに、この癖のせいだった。
麻住家は代々銀行の重鎮として働いている家で、それなりに言葉遣いを気にしなくてはいけなかった。わたくしが生まれてすぐに大阪に住むことになり、ある程度年の離れている兄たちは標準語で話すことができたが、生まれたときから関西弁で育ったわたくしはそうともいかず。
矯正するために色々と試してはみたのだが、どうにも関西のイントネーションが抜けなかった。苦肉の策で、大人になってから求められる標準語の敬語だけを叩き込み、それ以外は関西弁でも構わないようにしたのだ。
――でも、それだけでうまくはいかなかったんですよね……。
「勘が鋭くていやんなる、もう……」
「わ。顔真っ赤。恥ずかしかったんだ?」
するり、と指先がわたくしの頬を撫でる。恥ずかしくてその手を払いのけた。もうこんなの絶対顔が赤くなっているはずだよ。手の甲で頬を挟んで冷やしてみるけれど、無意味だ。
「いけず……」
「『いけず』……」
「もしかして、いけずも訛りなん……?」
そういうわけじゃないけど、とテノールは言いつつ、伸びてきた指先が頬にかかった髪の毛を払ってくれる。浅野の目が泳いでいるから、たぶんいけずも訛りなんだろう。
はあ、とため息を吐く。前の席に背もたれを抱えるようにして浅野が座った。
「ここまで敬語ガッチガチなのも珍しいとは思ってたんよね」
その言葉に含まれたニュアンスを感じとってしまって、両手を握った。気まずい。さっきから関西弁に引っ張られて標準語に戻ってくれない。ゆっくりと、つとめて言葉を選ぶ。
「全国探せば、まあ、いるでしょ……」
「まあ、育ち良いのかなって思ってたけど」
「悪い方では、ない、ですけど」
「でもその反応的に、関西弁なの隠したかったんだよね?」
「そうですけど!」
声がひっくり返る。恥ずかしくて顔を覆った。
「拗ねてる?」
「拗ねてへん!」ワッと言い切った。「ああ、もう!」
細山といい浅野といいなんでみんなわたくしが拗ねてるのに敏感なんだ。
浅野がケラケラと笑う。
ふう、と息を吐いて、ちょっと上にある浅野の顔を伺い見てみる。浅野は見たことのない無表情でわたくしを見ていた。
「……な、なんですか、その顔」
「いやぁ? なんでもないよ」
浅野が机に手をついて距離を縮めてくる。だんだんと追い詰められているような気がする。ぼっと顔がまた熱くなった。「なんで照れた?」と聞かれるけれど首を振る。いや、わたくしだってなんで照れてしまったのか皆目見当もつかなくて、と自分の中で言い訳をする。聞こえる訳じゃないのに。
いまだ熱を持っている頬をもにもにと揉む。浅野がその手をやんわりと退けた。
「ねえ、おれの前だけでいいから、ソレでいてよ」
「……ソレ、というのは」
「その関西弁」
う、と息が詰まった。
目を逸らして抵抗を試みるが、「なんで目ぇ逸らすの」とテノールに追い詰められる。言おうか言うまいかと迷って、結局口には出さずに浅野の目を見た。深い茶色の目はじっとわたくしの返事を待っている。
――関西弁って、けっこう、通じないことも多いんですよ。
「好奇心ですか?」
苦々しく思いながら尋ねた。
「いや?」
と、浅野はやわらかい口調で言う。その目に嘘はない。
ふう、ともう一度ため息を吐くと、何を思ったのか「手ぇ繋ぐ?」と手をひらひらさせた。いい、と首を振って断ると浅野は残念そうに眉を下げた。
「安心させようと思ったのに」
「問い詰めてるのはあなたでしょう」
「でも、本当のマスミちゃんは、さっきの関西弁でしゃべってるマスミちゃんな気がするんだもん」
浅野はわたくしの目の前で頬杖をついて、目を眇めた。なにかを見定めるようにも、見透かしているようにも見えて居心地が悪い。いや、見透かされているという点ではあっている気もする。
敬語で話すとき、「わたくし」として生きるとき、どうしても他人から見られている自分を意識している。
「おれは結構ありのまま生きてるけどさ?」
「そうですね」
浅野は、ふらりふらりと視線をどこかに漂わせた。
「マスミちゃんはそうじゃないんだなって感じることがあって。なにかキミが、深く傷つくことがあって、そうやって人と関わるようになったのかもしれない。おれは所詮他人だし、マスミちゃんにどうこう言える立場じゃないけど、友だちとして言わせてよ」
浅野はゆったりと頬をゆるめて、まるで安心させるようにわたくしの手をとった。
「おれは、そのままのマスミちゃんと友だちになりたいよ」
よくもそんな恥ずかしいことを言えるよ。あなた。
浅野は無抵抗なわたくしの手を握って、「ね? だめ?」と食い下がってくる。
「……別に、無理してるとか、そういうことでは、ないんです」
浅野は否定せずに頷いた。
聞いてくれている。わたくしの声が、届く。
「昔ね、本当に、今はぜんぜん気にしてないけど、あったんですよ――関西弁を隠したくなるようなことがね」
わたくしがこっちに戻ってきたのは、小学校五年生のときだった。父の仕事が片付き、兄たちが生まれ暮らした実家に戻ることになった。今でも住んでいる家だ。
小学校は転校。標準語を話す友だちの中で関西弁であるわたくしは浮いていて、輪の中に入れても、うまく話せないことが多かった。心のままに話すとみんな一様に変な顔をして「それってどういう意味?」と聞いてくるのがつらかった。なんでもないと誤魔化すことが増えて、だんだんと孤立しがちになり、わたくしの友だちは本になった。
『ケイシってさ、変な言葉しゃべってるよな。あれなんなんだろ?』
『テレビで見るようなやつな』
『お笑い芸人にでもなんのかな!』
『無理だろアイツ、つまんねーもん』
ある時、廊下から聞こえてきた声。読み終わりたい本があってひとりで教室に残っていたときだ。泣くことはしなかったけれど、相当堪えたらしいことは記憶にも残っている。
こんな歳になって、まだこうやって取り繕い続けているのだから、明らかだろう。
「それで……」
言葉に詰まる。
いくら浅野が優しいからと言って、ここまで曝け出すのもいかがなものか。そう考えてしまって、ダメだ、と思考が停止した。
恥ずかしい。わたくしはなんてことを。
浅野に握られたままの指を解こうとして、きゅっと掴まれてかなわなかった。「はなして」とお願いしてみるが、「やだ」と一蹴されて終わる。
「マスミちゃんはさぁ、おれが、マスミちゃんを揶揄ってるように見えてる?」
首を振る。
「じゃあ、マスミちゃんの中で、おれの言葉を処理しきれてない感じ?」
少し悩んで、首を振る。
「あれ? わかんなくなったぞ」
浅野は素っ頓狂な声を出して、二択だと思ったのになあ、と、んにゃんにゃくちびるを動かして独り言を言った。
「……っふふ」
「あれ? まって、なんで笑ってんの」
「ふふ、ふふ、いや、浅野って優しいなあって」
大きくなって、幼い頃つけられた傷がなんてことないことなんだと知った。でも、両親に直せと言われた癖が直らなくて、自分でも焦っていて、学校での孤立と合わさって卑屈になってしまったのだろう。
浅野は、そうじゃない。
きっと違うんだって、彼を見ていたら分かる。
「別に優しくないよ。マスミちゃんだけ」
「わたくしのこと口説かなくたっていいのに」
「口説きたいから口説かせてよ」
「ふふ、はいはい」
ふう、とため息をひとつ。
「……裏切ったら、殴ります」
浅野は、真剣な顔で「うん」と頷いた。
「裏切らないよ。おれマスミちゃんのこと好きだし」
「それは……ありがとうございます」
「あ、敬語ダメ。マジの親友だと思って話して。なんだろうがどんとこい」
浅野がじっとわたくしの目を見る。逃がさない、と言わんばかりの目力にちょっと笑った。途端に浅野が拗ねてしまうから、ごめんねと言いつつ握られたままの手を握り返す。
「じゃあ……ありがとう。浅野のこと、信じるな?」
「うん。信じて」
「えっとぉ……待って、敬語しか出てけぇへん、あ、やば、今度は関西弁しか出てこんくなった」
「わはは!」
今度は浅野が震えながら机に突っ伏した。笑っているらしい。なんや、失礼やな、と思いつつ、震えるつむじをつんつん人差し指で刺してみる。
しばらく悶えるようなうめき声が聞こえて、小さく、
「マジで、ずるいなぁ、マスミちゃん……」
と聞こえてきた。
組まれた腕の間から覗くピアスだらけの耳が真っ赤になっていた。


