「好きやで」って言って!

「避雷針コンビー! どっちかちょっと手伝ってー!」
 不名誉な呼ばれ方に一瞬思考が止まったわたくしとは違って、一個席を挟んで向こう側に座っていた浅野は「なぁにー」と柔らかく返事をして立ち上がった。
 女子たちが外された時計を指差している。あれを付けてくれということだろう。浅野だけでできるしな、わたくし必要ないよなたぶん。
 一人で納得して、問題の続きに目を落とした。
「マスミちゃーん」
 優しいテノールがわたくしを呼ぶ。
 顔をあげたらこっちを見ている浅野と目が合った。
「手伝ってぇ」
「……いやあなた一人でできるでしょ」
「できなーい」
 次の瞬間、へくしっ、と小さくうめきながらくしゃみをしている。時計の裏は埃まみれだ。口元を押さえた浅野が「ほらぁ」と嘆く。
「ハウスダストだめな感じですか?」
 それなら断ればよかったのに。口には出さずに立ち上がった。浅野は頷いて、ずいぶんと自分より下にある女子の顔を覗き込んでいる。
「ごめんね? おれお役に立てないわ」
「わたくしが役に立ちますよーっと」
 横から時計を取って、壁にかけた。細かいほこりが散って、ぱたぱたと顔まわりを扇ぎながら浅野が咳き込んだ。
「わーい、さすがマスミん。略してさすマス」
「何をおっしゃっている?」
「いやぁ、マスミちゃんスマートでいいおと、っくしゅん!」
 それから何度かくしゃみをした。ここまでアレルギーすごいと心配になる。ポケットからポケットティッシュを差し出した。
「ほら、ティッシュ」
「ありがほう……」
「なんか、避雷針コンビって親子みたいだね!」
 屈託のない笑顔で田原(たわら)さんが言う。彼女のまわりにいた女子たちも「それ思ってた!」「マスミくんがお母さんって感じだよね~」ときゃらきゃら笑う。
「誰がお母さんですか」
「ママァ」
「やめなさい気持ち悪い」
 浅野は一度、目を閉じて高らかに笑う。そして、人の好意を受け流すときによく使う柔和な笑みをうかべて「ひどぉい」と思ってもいなそうなことを言って鼻をかんだ。彼の手のなかでくしゃくしゃになったティッシュを取って、教室の後ろにあるごみ箱の中に投げ入れる。
「マスミちゃーん」
 自分の席に座ったら、前から避雷針の片割れに呼ばれた。
「なんです?」
 うっすらと笑みのようなものを浮かべただけの真顔。首を傾げてみるが、美丈夫の表情はどこか迫力がある。なんかやらかしたか、わたくし。
「マスミちゃん、そういうことできんの」
「そういうこと?」
「分かってないんだ……」田原さんがぼそりと言った。
 本当に何の話だ。
 困惑していると、教卓の前からゆったりこっちに歩いてきた浅野がわたくしの後ろに立って、頭頂に顎を乗せてきた。顎がしゅっとしているせいで結構痛い。ついでに肩に腕が乗っているので重い。あと腕が太い。すごい。
 細山よりも体格がよいからか感じる威圧感が違うなあ、と思いつつ好きにさせてやる。
「おれ、やっぱりマスミちゃん好きだ。細山が構うのもわかる~」
「どちらかというと構っている側なんですけどわたくし」
 ちょっと拗ねて言うと、浅野がわたくしの顔を横から覗き込んでくる。からかいがちな目線がわたくしの顔をすべっていく。気恥ずかしくて目を逸らした。
「そうは思わんよ~おれは」
「……心外なんですけどぉ」
 机に放置されたままのシャーペンを握り直し、ちょっと動きづらいけれど問題演習を再開する。浅野はまだわたくしにもたれかかったまま、んにゃんにゃと言葉にならないことを言っている。連なったピアスがじゃらじゃらと耳元で音を立てる。
「だってさぁ」
「ハイハイ」
 生物基礎のホルモンをど忘れしていることに気付いて頭を抱えたくなったができない。適当に相づちを打つ。
「マスミちゃんってさぁ、懐広いしさぁ、結構なんでも許してくれるしさぁ」
 そんなことはない、と否定したくて、くちびるを噛んだ。
 わたくしは良い子じゃないし、みんなに期待されるような人でもない。ただ、自分が求められるように――。思考が暗くなりそうになって、首を振った。問題に集中しよう。
「まだ一週間の仲でしたよね?」
「面倒見もいいし、たぶん世界で一番おれと対等な目線で話できるしさぁ」
「物理の話か?」
 浅野がくふくふ笑う。振動が頭から伝わって小刻みに震えた。後ろから彼がつけている香水なのか、ほんのりとシトラスの香りがする。
「ティッシュ、ありがとうね」
「いえいえ」
「今度からマスえモンって呼ぶね」
「それは勘弁しろぉ?」
 浅野はもう一度高らかに笑った。そしてふらりとどこかにいなくなってしまった。
 浅野といえば授業中でさえかすかに微笑んでいて、いつでも上機嫌そうに見えたが、本当に面白いときはああやって笑うのかも知れないなあ、と思った。そう思ったら少しだけ嬉しくなって、手の甲で頬をおさえた。
 甲状腺から分泌されるホルモンの名前はもう飛んでしまった。