満ち汐の帰る場所

 もう疲れた。(うしお)は駅に歩きながらぼんやりと考えていた。 

 疲れたよ、だって入社してからというもの、一生懸命頑張ってるのに誰も評価してくれないんだもん。課長は理不尽に怒鳴ってくるし、そのくせ肝心なとこは適当すぎて頼りにならないし。隣の部署のオジサンは鼻の下伸ばして関係ない話ダラダラ話しかけに来るし。うちの部署の先輩は、美人だし最初は優しかった筈なんだけど、気が付けば「は?それくらいアンタ出来ないの?」とか威圧的に睨んでくるし。そのくせ自分の仕事はこっちに押し付けて先に帰るし。知ってるんだからね、それ知り合いのイケメンと合コンするんでしょ。親戚が病気って何回使うんですかね。っていうか、あんな言い方しなくてもいいじゃん。別に先輩の狙ってるメンズ取ろうとしてるわけでもないんだから。 

 考えれば考えるだけ溜め息が漏れてゆく。どうしてこうなったんだろう。お客様に感謝してもらえるのが嬉しくて、一生懸命頑張ってたはずなのにな。気が付けば、業者に連絡してプリンターの修理の依頼とか、トナーの発注とか、私の仕事じゃない仕事がめちゃくちゃ増えてるし。気が付けば、先輩方が私のこと睨んでくるし。あーあ、仕事行きたくないな。こんなに晴れてるんだから、仕事なんか行かないで海でも行きたい。

「…行っちゃうか、海。」 

 汐はポツリ呟くと、勢いのまま会社とは反対方面の電車に飛び乗った。会社へはそうだな、熱が出たとでも連絡しておこう。昨日まで散々こき使われていたのだ、ちょっとしたご褒美くらい必要だ。


 特に計画も立てず、電車に揺られてどこかへ旅するなんて本当に久々で、汐は思わず口元に笑みを浮かべた。レッツ、プチバカンス。今日くらいサボったって神様はバチなんて当てないもんね。

 綺麗な海が見えてきたので、次の駅で降りてみることにした。アナウンスが流れ、到着した駅は、自分の最寄り駅とは違い静かで緑に囲まれた、田舎めいた場所であった。

 ここはどうやら港町らしい。潮風に誘われ細くなってゆく道をまっすぐ歩いていくと、海岸沿いの道へ出た。ぽつりぽつりと防波堤のそばに小さな舟が停泊しているのが見える。漁船だろうか。胸いっぱいに磯の香りを吸い込みながら歩く。波打ち際のあの波の音や、きらめき揺蕩う水面を眺めながら、誰に急かされることもなく自分のペースで歩くなんて、いつぶりだろう。自然と心が弾み足取りも軽やかになってゆく。

 立ち並ぶ民家の中に、一軒だけ、ひときわカラフルな洋風の家を見つけた。こぢんまりとしたそこはどうやらアトリエのようで、窓ガラスから優しく色鮮やかな色彩の、どこか穏やかなタッチの絵画がたくさん覗いている。素敵な絵画だった。きっと、これを描いている人も、こんな穏やかな人なんだろうか。海辺の小さなアトリエで好きなだけ絵を描く。いいなぁ。小さな出窓があり、そこから中を熱心にのぞき込んでいると、「あら、いらっしゃい。覗いていく?」と背後から柔らかな女性の声がした。


 中から出てきた女性は本当にイメージした通りの優しく穏やかな雰囲気の人で、少し癖のある長めの髪を、一本の緩い三つ編みにして、仕立ての良い、でも少し洗いざらしたようなリネンのロングワンピースを身に纏っていた。上から重ね着しているエプロンは彼女には大きいんじゃないかと思うほどすっぽりと彼女の身を覆い、そこには所々に絵の具が飛び散っていた。

 「すみません、勝手にジロジロ見ちゃって。あの、素敵ですね!あの絵はお姉さんが描かれたんですか?」
 慌てて頭を下げると、彼女は褒められ慣れていない少女のように僅かに頬を赤らめ嬉しそうにはにかみ、彼女のアトリエへと案内してくれた。

 「絵が好きなの。淡いパステルカラーが大好きでね、この絵は、なるべく優しい色合いにしたくてわざと絵の具を少し水で薄めたのよ。」

 アトリエの主の名前は(なぎ)さん、というらしい。説明を聞きながらゆっくり彼女の作品を見て回っていると、ふとカウンターに小さなイルカの置物が、手書きのカードを掲げていることに気がついた。

 【絵画販売中。お代は、あなたの一番大切なものと交換受け付けており〼】

 汐があまりに不思議そうにそのカードをまじまじと見ていたので、凪は立ち止まり説明をしてくれた。

 「ああ、それ?そう。売ってるのよこの作品たち。ただしお代はお金じゃなくて、その人の大切なもの。物々交換っていうのも面白そうだなって。別にね、お代なんてなんでも良いんだけど、流石にゴミやそこらの石ころと換えられても困るから、一番大切なものを、ってしてるだけ。言い値でいいのよ、あなたがこの絵に払えると思う価値と同等のものを置いてくれれば。」

 その時手ぶらで来ちゃったらどうするのかと聞いてみたら、別に後日でもいいらしい。そんな適当な。絵を描くのだってお金とかかかるだろうし、何よりどうやって生活しているんだろうこの人。


 その時、ピィーッと、甲高い音が店の奥から響いた。


 「あら、そうだわ、ゆで卵茹でてたの忘れてた」「ガスコンロの安全装置の音ですか?!危なっ、鍋の中もう水ないじゃん!」
 キッチンまで小走りでついて行った汐が、慌ててコンロのつまみを回して火を消す。…本当に、普段どうやって生活しているのか心配になってきた。

 「そうだ!お腹空かない?ええと、お名前…」「あ、私、汐って言います!」
「そう。汐ちゃん。汐ちゃんも一緒にご飯食べない?ゆで卵とトーストだけど、よければ。」
「わ、ありがとうございます!頂きます!」

 何か手伝えることはないかと彼女の傍らに立つと、彼女はふふ、と笑い出した。

 「不思議ね、"汐"が"凪"に出会うなんて。同じ海なのに、海じゃ同時には見られないでしょう?」

 ——その言葉の響きがあまりに綺麗で、汐は思わず息を呑んだ。そんなこと、考えた事もなかった。

 都会の喧騒では決して出会わなかった、静かで、どこか遠い世界のような言葉。そうだ、出会ったのだ、私達は。出会ったんだ。"汐"と"凪"が。太陽が沈んでゆく水平線の、その彼方で。やっぱりこの人は、おとぎ話に出てくる魔女か何かなのかもしれない。言葉ひとつひとつに、こんなにも心が揺れ動かされて、癒されてゆく。

 そんなふうに感動しているのも束の間、目の前にご飯が運ばれてきた。
「はい、汐ちゃんの分ね」
「……あの、凪さん。これ、トーストの下に敷いてあるの、お皿じゃなくて食パンが入ってた透明な袋ですよね?」
「だって、これなら食べ終わったあと、袋をごみ箱にぽいって捨てるだけでいいのよ? 洗い物が出ないなんて、ノーベル賞ものの発明だと思わない?」
「それはただの限界ズボラです!! さっきの感動返してください!!」

 さっき救出した焦げかけのゆで卵を専用の器具でパタンとスライスして、マヨネーズとチーズを乗せ焼いた凪さん特製トーストを2人で並んで食べる。見た目はかなり不格好だけど、本当に、言葉に言い表せないくらい、驚くほどそのトーストは美味しかった。

  「凪さん、また遊びに来ても良いですか?…っていうか、ここにしばらく住みたいです。社畜するの疲れたんで。あんなとこ暫く戻りたくない。」
「あら、私は良いわよ。美味しいヨーグルトがあるから、汐ちゃんの分も用意しておくわね。」

 ふぅ、と息を吐く。生きたっていいのだ。我々は。窮屈な社会の中で呼吸を忘れていた私は、暫く、この不思議な魔女のアトリエで、日向ぼっこをすることにした。