中学二年生の二月十四日、バレンタイン当日。
私はいつもより一時間以上も早く家を出て、恭弥の家の前に立っていた。
冷たい冬の朝の空気が、緊張で強張った肌をチクチクと刺す。
(凛に、先を越されたくない……)
そんな焦燥感ばかりが、昨日の夜からずっと胸の中でぐるぐると渦巻いていた。
いつも堂々としている凛に、恭弥の一番最初を奪われてしまうのが、どうしても怖くて落ち着かなかったのだ。
インターホンを押すと、寝癖をつけたままの恭弥が顔を出した。
手渡した小さな紙袋を見て、恭弥は一瞬きょとんとしたけれど、すぐに私の大好きな太陽みたいな笑顔を咲かせた。
「え!バレンタイン?!なんだよ糸〜、わざわざ朝一番に持ってきてくれたのか?超嬉しい! ありがとな!」
そう言って、私の頭を大きな掌でくしゃりと優しく撫でる。
その手の温もりだけで、凍えそうだった身体が一気に熱くなった。
「う、うん!」
(大好き。本当に、本当に大好きだよ、恭弥……っ)
爆発しそうなほどの愛おしさを、私は何食わぬ顔でぐっと胸の奥深くにしまい込んだ。
この笑顔をずっと隣で見ていたいから、今は「幼馴染の女の子」の枠からはみ出すわけにはいかない。
「俺、まだ学校の準備できてねーからさ。糸、先に行っててくれ」
「うん、わかった。じゃ、学校でね」
その後、私はマンションのロビーで合流した凛と一緒に学校へ向かった。
「糸、チョコ持った? 今日、放課後ちゃんと恭弥に渡そうね」
隣でそう言って微笑む凛に、私は「朝一番に恭弥の家へ行ったこと」を、どうしても言えなかった。
隠し事をしている後ろめたさで、ローファーの底がやけに重く感じる。
もし、今ここで「もう渡しちゃった」なんて言ったら。
きっと凛は、私が彼女を出し抜こうとしたことに気づくだろう。
そして私は、凛の困ったような、あるいはすべてを見透かしたような顔を見るのが、たまらなく嫌だったのだ。
(凛に負けたくないなんて、私、本当に嫌な性格だな……)
自分の内側にある醜い独占欲に、胸がチクリと痛んだ。
その日の放課後。
「ごめんね糸、今日ちょっと部活のミーティングが長引きそうで」
という凛の言葉通り、私は一人で下校の途についていた。
私も剣道の部活を終え、とぼとぼと歩いていく。
夕暮れに染まる通学路を歩きながら、ふと上着のポケットに手を入れる。
そこにあるはずの長方形の感触が、どこにもなかった。
「……あれ? スマホがない」
カバンの中をひっくり返して探したけれど、見当たらない。
記憶を遡ると、ホームルームの前に机の引き出しの奥に入れたまま、片付けるのを忘れていた。
「嘘、どうしよう……!」
連絡が取れなくなったら親も心配するし、何より恭弥からの連絡を逃したくない。
私は慌てて踵を返し、夕闇が迫る中学校へと、走って引き返した。
静まり返った昇降口を抜け、自分の教室がある階段を駆け上がる。
まさかあの教室で、私の世界を根底から覆すような『瞬間』が待ち受けているなんて、このときの私は微塵も思っていなかった。



