君を忘れるための春。


無事にすべての合同練習試合が終わり、道場では各校の生徒たちが賑やかに後片付けを始めていた。

モップを手に床を掃除していた糸と結月のもとへ、男子コートから歩み寄ってくる一つの人影があった。

「あ! 糸ちゃん! 俺の格好ええ試合、ちゃんと見ててくれた?」

肩に無造作に防具袋を担いだ東雲響矢だった。試合の熱気がまだ残るなか、彼は糸の目の前まで歩み寄ると、ゆっくりとその場に立ち止まった。
面を外したその顔は、やはり東京に残してきた恭弥に驚くほどよく似ている。

至近距離で見つめられ、糸は思わず丸い瞳を見開いた。

「……え、えーっと……」

突然の直球な問いかけに言葉を詰まらせていると、二人の間に、怒った顔の結月がすかさず割って入った。

「ちょっと、響矢!? 私もここに居るんやけど! しかもさっきから糸ちゃん糸ちゃんって、ええ加減にしつこいわ! 糸ちゃんはな、お上品な都会育ちなんやから、あんたみたいにズカズカと距離詰めて近づいたら怖がってまうやろ! やめたげぇな!」

小さな身体をいっぱいに広げて糸を通せんぼし、プンプンと響矢を叱りつける結月。
その必死な様子に、糸は慌てて手を振った。

「え、結月……っ? 私、別にそんな……っ」

しかし、結月の言葉を聞いた響矢は、「あぁ、そうかぁ!」とポンと手を叩いて納得したような声を上げた。

「そら悪かったなぁ。都会のお嬢さんを怯えさせたらあかんわな」

響矢はそう言いながら、結月の肩をひょいっと片手で掴んで、まるで軽い荷物でも退けるように横へずらした。
そして、結月の後ろに隠れていた糸の前に再び立つと、それまでの強気な表情を一変させ、ひどく優しい顔つきになった。

「ごめんなぁ、気ぃつかへんくて。いつも結月が隣で煩ぉてしゃぁないやろ? ――ほな、改めまして。東雲響矢や。よろしゅうな」

スッと差し出された、少し無骨で大きな手のひら。
汗を綺麗に拭った響矢の顔に、なんの混じり気もない、信じられないほど爽やかな笑顔が咲いた。

「っ……」

その瞬間、糸の胸の奥がドクンと激しく跳ね上がった。
恭弥に似ているからじゃない。
目の前で自分だけを真っ直ぐに見つめ、真っ直ぐに手を伸ばしてくる彼の放つ輝きに、純粋にドキッとしてしまっている自分に気づき、糸は激しく困惑する。

(私…なんか今、ドキッとした…?)

けれど、彼の差し出した手から目を逸らすことはできなかった。
糸は恐る恐る、自分の小さな手を響矢の掌へと重ねる。

ギュッ、と。
剣道の過酷な稽古で磨かれた、少し硬くて、驚くほどに温かい手が、糸の手を優しく包み込むようにしっかりと掴んだ。

東京のホームで感じた冷たい風とは違う、確かな体温が指先から全身へと伝わっていく。
糸はもう一度、目の前にいる響矢の瞳を見つめ返した。

「あ……よろしくね、東雲くん」

俯きがちになりながら、糸は少し恥ずかしそうに頬を赤らめ、微笑みを浮かべた。

「ちょっとぉ!? 何自然に私の親友の手ぇ握ってんねん響矢ーー!」
背後から結月の容赦ないツッコミの声が飛んでくる。

けれど響矢はそれを全く気にする風でもなく、自分の手を握り返してくれた糸の可愛い笑顔を見て、嬉しさを隠しきれないといった様子で、またニカッと白い歯を見せて少年のように笑った。

都会で傷つき、からからに乾いていた糸の恋の時間が、この京都の道場で、新しい温もりを伴って確かに動き始めようとしていた。