君を忘れるための春。


コートの中央で、竹刀を正眼に構えてピりピリとした覇気を放つ東雲響矢。
先ほどの「俺に惚れてしもた?」などとからかってくるような、あの飄々としたお調子者の空気は微塵も残っていない。
面の手ぬぐいの奥にあるその瞳は、他を寄せ付けないほどに冷徹で、鋭かった。

「――始めっ!」

審判の鋭い叫び声が響いた瞬間、響矢の身体が稲妻のように激しく地を蹴った。
その圧倒的な剣士の姿に、糸の胸は恭弥への思いを忘れてしまうかのような、激しい高揚感でドクドクと波打ち始めようとしていた。

『始め!』の合図とともに、激しい竹刀のぶつかり合いが始まった。

――バシィィンッ! ガキィィンッ!

道場に凄まじい衝撃音が連続して響き渡るなか、糸は瞬きをすることさえ忘れて、響矢の動きに完全に目を奪われていた。
相手校の主将もかなりの強者だ。けれど、響矢の足さばきには一切の隙がない。
それどころか、体格差をものともしない力強く圧倒的な素早さで、相手の懐へとじりじりとプレッシャーをかけ続けていく。

(無駄がない……なんて綺麗な踏み込みなの……)

中学時代に全国の頂点に立った糸の目から見ても、響矢の剣道は規格外だった。
何度かの激しい衝突を経て、互いの間合いが極限まで詰まったその一瞬。
響矢の身体が獣のように低く沈み、道場全体を震わせるほどの烈しい掛け声が放たれた。

「――ヤァァァアッッ!!」

電光石火の勢いで繰り出された、流れるような五段突き。
目にも留まらぬ速さで突き込まれた鋭い切っ先が、相手主将の喉元へと正確に決まった。
あまりの威力に、相手はたまらずその場に崩れ落ち、膝を突く。

「一本! 勝負あり!!」

審判の旗が鮮やかに翻ると同時に、道場には地鳴りのような大歓声が沸き起こった。

激しい息を吐き出しながら、響矢はゆっくりと面を外した。
汗がその端正な顔を伝って床に落ちる。響矢は膝を突いたままの相手選手を見下ろすと、躊躇なく右手を差し伸べ、ニカッと白い歯を見せた。

「いやぁ、めっちゃ強いし楽しかったわ! ありがとうな!」

屈託のない、真っ直ぐで強気な笑顔。
その表情を見た瞬間、糸の鼓動がドクンと大きく跳ね上がり、視線がどうしても外せなくなってしまった。

(ああ……)

胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように熱くなる。
もし、今ここにいるのが恭弥だったら。
自分の大好きな恭弥だったら、試合を終えた後、あんな笑顔を自分にも向けてくれたのだろうか。あの日、東京のホームで私を子ども扱いした時のように、あの大好きな太陽みたいな笑顔で、私だけを見つめてくれたのだろうか。

私は、ずっと――ずっと、恭弥の視界に入りたかった。
凛を見ないで。親友の心配なんて介さずに、ただ私だけを、一人の女の子として真っ直ぐに見てほしかったって、出来ることなら伝えたかった。
言えたら、どんなに、どんなに良かっただろう。

今にも涙が溢れそうになる胸の内を必死に秘めながら、糸は沸き起こる大歓声のなかで、自分の道着の胸元をぎゅっと握りしめていた。
隣に立つ響矢の姿に、どうしても恭弥との淡い思い出を重ねてしまう。

「やったぁぁぁ! 響矢のやつ、ほんまにやりよったわぁ! さすがやんか!」

隣で結月がピョンピョンとはしゃぎながら、我がことのように大喜びしていた。
その明るい声にハッと我に返った糸は、自分の泣きそうな顔を隠すように、すぐにいつもの優しい微笑みを作った。

「うん。……本当に、凄いね!!」

拍手を送りながら、糸は眩しそうに彼を見つめた。
今道場で笑っているのは恭弥ではない。
けれど、彼の放つ圧倒的な輝きが、糸の閉ざされた心の扉を、少しずつ開こうとし始めているようだった。