君を忘れるための春。


更衣室の冷たい床に座り込んだまま、糸はしばらくぼーっと壁の一点を見つめていた。
震える手でカバンの奥からスマホを取り出し、写真フォルダを開く。
画面に映し出されたのは、東京にいた頃、凛と恭弥と自分の三人で肩を並べて撮った、あの眩しすぎる笑顔の写真だった。

「なんで……変わっちゃったんだろう。どこで間違えたのかな、私達……」

ぽつりと溢れた呟きは、誰もいない静かな更衣室に虚しく消えていった。

恭弥への想いをこの京都の地で綺麗に清算しようとしていたのに、まさか転校先で顔も名前も瓜二つの男の子と出会うなんて、そんな運命があるのだろうか。
神様は本当に意地悪だ。
私が一体何をしたっていうんだろう。
一度溢れ出した負の感情は止まらず、頭の中でまたドロドロとした嫌な自分が次々と顔を出してくる。

糸は激しく頭を振り、自分の両耳を掌で強く塞いだ。

「違うっ、違う違う! そんなこと考えたいんじゃない、私は……っ!」

必死に過去の恋焦がれた人を振り払おうとした、その時だった。
ロッカーの遥か上にある、少しだけ開いた窓の隙間から、ドッと地響きのような歓声が更衣室まで流れ込んできた。
男子の試合が最高潮の盛り上がりを見せているのだろう。
熱気を含んだその声を聴いているうちに、糸はゆっくりと窓の方へと視線を移した。

(剣道の試合……どうなってるのかな……)

ハッと我に返り、糸はぎゅっと自分の道着の胸元を握りしめる。
そうだ。いま隣のコートで試合をしている彼は、東雲響矢であって、恭弥じゃない。
いくら容姿や名前の響きが似ていたとしても、中身は決定的に違う、まったくの別人。
それは間違いのない事実なのだ。

あまりの衝撃に慌てて道場から逃げてきてしまったけれど、このままでは大好きな結月にも余計な心配をかけてしまう。
東京の人間関係を断ち切って、この京都で自分がやっと築いていきたいと心から願った、大切な友情がここにはあるのだ。

「……っ戻ろう」

糸は深呼吸をして、塞いでいた両手を耳から離した。
鏡の前に立ち、手ぬぐいと面を丁寧に持ち直す。乱れていた心をぐっと落ち着かせると、糸は再びあの熱気あふれる道場へと戻るために、更衣室の扉を力強く押し開けた。




道場へと戻ると、男子コートの周りには人だかりができていた。
「おい、次はいよいよ東雲だぞ!!」
「花園の大将戦や!」
という先輩たちの興奮した声が聞こえてくる。

道場へと戻った糸の姿を見つけるや否や、人だかりの中から結月がバタバタと素足で床を叩いて戻ってきた。

「糸ちゃん! 大丈夫!? もう、急に顔色悪うなるから、めっちゃ心配したんやからな!」

結月は糸の顔を覗き込み、心底ホッとしたように大きな胸をなでおろした。糸はそんな親友の温かさに胸を締め付けられながらも、今度こそ無理のない、柔らかな笑みを浮かべて見せた。

「結月、心配かけて本当にごめんね! 更衣室で少しだけ休憩したら、もうすっかり元気出た。……ところで、今は、どういう状況なの……?」

糸が人だかりの向こう、熱気に包まれた男子コートの方へと視線を向ける。すると、結月はぱあっと表情を輝かせ、不敵な笑みを浮かべた。

「ほなよかったわぁ! 今はなぁ、ちょうど一番盛り上がってるところやで。我らが花園の東雲響矢と、相手校の最強主将との大将戦や!! めっちゃ見物やから、特等席で見に行こ! こっちや、こっち!」

結月は糸の細い手をぎゅっと引っ張ると、人混みをぐいぐいとかき分けて、試合が一番よく見渡せる最前列の場所へと向かった。

先輩たちの背中の隙間を抜けて、視界が一気に開ける。
その瞬間、糸の目に飛び込んできたのは、東京に残してきた恭弥の面影を完全に消し去るほどの、圧倒的な『戦場』の光景だった。