君を忘れるための春。


嵐のように現れた東雲響矢の存在と、恭弥と完全に一致する容姿に、そして名前の響きまで同じ…。

あまりにも多くの衝撃的な出来事が一気に起こりすぎて、糸の頭の中はぐちゃぐちゃになり、思考が完全に停止してしまっていた。
そんな面を抱えたまま、糸は道場の隅でしばらくぼーっと立ち尽くしていた。

そんな糸の様子を見て、結月は竹刀をカランと床に置き、大慌てで駆け寄ってきた。

「ほんま、あいつ調子ええねんから! 糸ちゃん大丈夫やった!? 響矢のやつ、いきなり初対面で手ぇ握るとかほんま失礼やわ! ごめんなぁ~!」

眉をひそめて、心底申し訳なさそうに響矢の非礼を詫びる結月。
その温かい声に、糸は自分の内側に広がる歪んだ葛藤を必死に隠しながら、なんとか声を絞り出した。

「え……ううん、大丈夫!結月が謝ることじゃないよ」

糸はいつも通りの作り笑いを浮かべようとした。
けれど、大好きな親友の前で完璧な仮面を被り続けるには、今の糸の心はあまりにも擦り切れすぎていた。
引きつった笑顔の裏から、どうしても隠しきれない痛々しさと、辛そうな表情がぽろりとこぼれ落ちてしまう。

「……え?」

至近距離で糸の顔を見つめていた結月は、その異変に気づいて驚きに目を見開いた。

「ほんまに大丈夫……? 糸ちゃん、なんか急に、めちゃくちゃ顔色悪なってるで!? 唇も真っ白やんか!」

「大丈夫……ちょっと、びっくりしただけだから。ごめんね結月、ロッカーで、少しだけ休んでくるね」

糸は結月の心配を振り払うようにして、力なく視線を落とした。
そして、重い足取りのまま、熱気の立ち込める道場から逃げ出すようにして更衣室へと去っていった。

一人残された結月は、糸の後ろ姿を不思議そうに、そしてひどく心配そうにじっと見つめていた。

「え!? ちょっと、糸ちゃーん!? 大丈夫かいな……」

結月は頭を抱え、去っていった更衣室のドアと、男子コートで早くも相手を圧倒して快勝している響矢の姿を交互に見つめた。

「あー……そうか、都会から来た糸ちゃんには、響矢のあのグイグイくる野蛮なノリは刺激が強すぎたんやわ! ほんまに怯えさせてまうなんて……後で響矢のやつ、きつーく怒っとかなあかんな!!」

結月はギュッと小さな拳を握りしめ、一人でとんだ勘違いをして憤慨していた。
親友が抱える傷の正体が、まさか響矢の容姿がもたらした過去の初恋の人だとは、結月にら知る由もなかった。

一方、静まり返った更衣室へと飛び込んだ糸は、ロッカーの壁に背中を預けて、そのままずるずると床へ座り込んだ。
面を手放し、自分の道着の胸元をぎゅっと、引きちぎらんばかりに強く握りしめる。

「な、んで……っ」

忘れるために京都に来たはずなのに。
目の前に現れた、恭弥にそっくりな男の子。
彼のせいで、ようやく落ち着きかけていたはずの糸の心は、再び激しい嵐に巻き込まれようとしていた。