君を忘れるための春。



周囲が息を潜めて固まるなか、張り詰めた静寂を破るように試合が始まった。

――バシィッ!

道場に激しい音が響き渡る。相手の吉見が体格を活かして放ってきた一撃を、糸は竹刀の刃元で辛うじて受け止めた。ずしりと腕にのしかかる重みは想像以上で、相楽のエースという噂が伊達ではないことを物語っている。
けれど、その衝撃がきっかけとなった。久しぶりに握った竹刀が、まるで自分の身体の一部だった頃の記憶を思い出すように、手になじむように滑らかに動き始める。

(……見つけた)

激しい鍔(つば)競り合いのなか、面の手ぬぐいの奥で、糸の澄んだ瞳が相手のわずかな重心のブレを捉えた。
糸は息を呑み、さらに鋭く相手を見据える。次の瞬間、咄嗟に身体を翻し、相手の隙をついて一気に前へと足を踏み込んだ。

その神速とも言える素早い動きには、対峙する吉見はもちろん、審判も、周囲で見守る観客の誰もついていくことができない。

「――たぁぁぁッ!!」

糸は腹の底から思いっきり声を出し、猛スピードで三段突きを繰り出した。目にも留まらぬ連続の鋭い突きが吉見の胸元を正確に捉える。あまりの威力と速度に圧倒された吉見はバランスを崩し、気がつくと後ろへと派手にひっくり返っていた。

ドサリ、と床に倒れ込んだ吉見を見下ろし、糸は「ハァ、ハァ……」と肩を上下させて激しく息を切らす。

道場全体が、何が起きたのか理解できずに静まり返った。
審判は口をポカンと大きく開けたまま固まっていたが、我に返ったように慌てて紅白の旗を掲げた。

「いっ……一本! 勝負あり!!」

その宣告が響いた瞬間、静まり返っていた道場から、地鳴りのような凄い歓声が湧き上がった。

「やったぁぁぁぁ!!」

糸は張り詰めていた身体の力を抜き、面の紐を解いてゆっくりと頭から外していく。
面の中から、汗を帯びてしなやかにサリと舞い落ちた茶色いロングヘア。上気した白い肌と、激しい運動の後特有の艶っぽさが相まって、その姿はどこか息を呑むほどに色っぽかった。

糸は手の甲で額の汗を拭うと、「うん、熱い!」とひまわりのように爽やかに笑ってみせた。

「糸ちゃん――!!」

その笑顔に向けて、結月がボロボロと涙を流しながら猛ダッシュで突っ込んできた。

「凄い!! 凄すぎやわぁ!! 相手のエース相手に、一発で勝ったやんか!! めっちゃ凄すぎやわぁぁあ!!」

大喜びで勢いよく抱きついてくる結月を、糸は「おっとっと」と苦笑しながら受け止める。

その二人の周囲では、試合を見ていた男子部員や先輩たちが完全に大パニックに陥っていた。

「おい、なんやあの子……!! 強すぎやろ! 秒で終わったぞ今!!」
「んでもって、面外したらめちゃくちゃ可愛すぎやろ……!」
「あの実力で補欠とかありえへん! 一体どこの中学から来た新入りや!?」

どよめきと興奮の声が次々と上がり、糸への注目が一気に集まっていく。東京ではいつも二人の影に隠れていた逢沢糸という一人の少女が、この京都の地で、自らの力で主役に躍り出た瞬間だった。