久しぶりに袖を通した道着のざらりとした感触と、足首を掠めるさらさらとした袴の生地は、あの苦い思い出が詰まった東京の夏のトーナメント戦を鮮烈に思い出させた。
あの時は、胸の奥のドロドロとした感情を消し去るためだけに、すべてを忘れるようにして竹刀を振るっていた。
背後からは、結月と澪が壊れ物を扱うかのような、ひどく心配そうな視線を送ってきているのが痛いほど伝わってくる。糸はそんな二人に背を向けたまま、慣れた手つきで頭に手ぬぐいを巻き、重厚な面という名の鎧を頭から被った。
パチリと顎紐を締め、面の間から真っ直ぐに前を見据える。糸は振り返ることなく、静かで、けれど芯のある声で二人に告げた。
「大丈夫、見てて。結月、私、絶対に勝ってみせるから」
一歩、試合場へと足を踏み出す。
素足に触れる道場の床は冷たくて硬く、何もかもが久しぶり過ぎて、どこか新鮮な感覚を糸に抱かせた。
(すぅ……はぁ……)
一度深く呼吸をしてから、目の前に立つ相手校の生徒と正面から向き合う。自分よりも一回りほど背が高く、道着の上からでも分かるがっちりとした腕。その威圧感に一瞬だけ圧倒されそうになるが、驚くほど冷静に相手を観察できている自分自身に、糸は内心で驚いていた。
審判が中央に立ち、手元の用紙を確認しながら鋭い声を張り上げる。
「ええーと、花園校、三番手……逢沢(あいざわ)! 相楽校、吉見(よしみ)!」
その掛け声が響いた瞬間、試合コートを囲んでいた花園の男子生徒や先輩たちの間で、一斉に怪訝なざわめきが起こった。
「逢沢? 急遽入った新入りか?」
「そんな女子部員、うちの学校にいたっけ?」
「誰々? 外部生の子?」
「っていうか補欠やろ? 相手の吉見って相楽のエース級やぞ、大丈夫なんか……?」
それぞれから不安や戸惑いの声が容赦なく上がった。
しかし、糸の耳にはそんな周囲の雑音は一切届いていなかった。ただひたすらに、目の前にいる対戦相手の呼吸、竹刀の構え、重心の移動だけを鋭く見据える。
(大丈夫……きっと、大丈夫。私は、みんなのためにここに立ってるんだから)
心の中で自分に強く言い聞かせ、竹刀を正しく構えた。
「――始めっ!」
審判の裂帛の気合いとともに、試合開始の合図が道場に木霊した。
その瞬間、硬い床を強く弾く激しい足音が二つの影から同時に沸き起こる。
周囲の時間が一瞬にしてスローモーションに変わったかのような、息の詰まる緊張感が、その場にいる全員の肌をぴりぴりと強く張り詰めさせた。



