君を忘れるための春。

その日の夜、糸は迷った末に、凛への電話をかけた。

コール音は二回もしないうちに途切れ、受話器の向こうから「糸?」と、聞き慣れた声が響く。

『糸!? 久しぶり! こっちの生活には慣れた? 元気にしてた?』

弾んだ、どこかホッとしたような凛の声色が耳に届いた瞬間、糸の胸の奥は言葉にできない懐かしさと切なさでいっぱいになった。あれほど逃げ出したいと願った東京の日々が、遠い過去のように胸に込み上げてくる。

「うん。こっちでね、すごく良い友達もできたし、毎日元気にしてるよ。……あ、凛、恭弥と同じクラスになったんだってね? 良かったね」

糸は受話器を握りしめ、痛む心を隠して優しく笑った。すると凛は、携帯の向こうで『えーっ!』と声を上げ、少しむくれたような気配を見せる。

『それ、恭弥から聞いたの? もう、私から直接糸に報告したかったのにー! 恭弥のやつ、余計なこと言うんだから』

残念そうに、けれど付き合いたての甘い雰囲気を滲ませて愚痴をこぼす親友。
その声を聴きながら、糸は静かに目を閉じ、喉の奥に溜まっていた重い塊を吐き出すように口を開いた。

「……凛。あのね、その……色々と、ごめんね」

ぽつりと言い落とされた謝罪の言葉。それは、糸の心からの本音だった。
いくら一人の男の子を奪い合った恋敵であったとしても、凛は今までずっと、私にとって大切な幼馴染であり、家族のような、何にも代えがたい存在だったからだ。何も言わずに引き裂くように去ってしまったことを、ずっと謝りたかった。

糸の言葉に、凛は小さく息を呑み、少しの間を置いてから静かに語りかけてきた。

『……なんで、糸が謝るの? 糸は何も悪くないよ。私は、ただ……』

受話器の向こうの凛の声から、いつもの明るさが消え、ひどく真剣なトーンへと変わる。

『私はただ、糸が私たちの前で、色々と我慢してたんじゃないかって……そればかりがずっと不安だったの。ねぇ、糸。いつからか、糸は私達に本音を見せてくれなくなったよね? ……いつからなの?』

「っ……」

糸の心臓が、ドキンと激しく脈打った。動揺が声に伝わらないよう、パジャマの胸元をぎゅっと掴む。

さすがは、子どもの頃からずっと一緒にいた親友だ。私の取り繕った笑顔の裏にある歪みに、凛はちゃんと気づいていたのだ。

(だけど……まだ言えない。今のタイミングで私の口から『恭弥が好きだった』なんて言ったら、絶対にきっと凛を傷つけてしまう)

二人の幸せを壊したくない。その一心で、糸は再び自分の心に頑丈な鍵をかけ、必死に声を整えた。

「いつからって……何言ってるの? 私、何も我慢なんてしてないよ。私はね、凛と恭弥のことが本当に大好きで。今までも、これからも、それ以上でも、それ以下のことなんて何もないよ。本当に」

一文字ずつ、自分に言い聞かせるように、真っ直ぐな嘘を吐く。
電話の向こうの凛は、しばらく沈黙していた。やがて、小さく、諦めたようなため息を漏らす。

『……わかった。今日は遅いからまた今度、ゆっくり話そう。急に変なこと聞いてごめんね、糸』

「ううん、大丈夫。じゃあね」

プツリ、と無機質な音を立てて通話が切れた。
糸はスマホをベッドの上に落とし、ふぅ、と長い息を天井に向けて吐き出した。

隠し通せた。けれど、胸の奥はちっとも晴れない。
いつまでこの優しい嘘を、私はつき続けなければいけないのだろう。二人のことを諦めるために京都に来たはずなのに、過去の糸は、今も細い糸で東京と繋がったままだった。