君を忘れるための春。

重いため息とともに、糸は冷たくなったスマホを自分の胸の中でぎゅっと抱きしめていた。
これ以上考えたら、またあのドロドロとした暗い場所に引きずり戻されてしまう。そう分かっていても、恭弥の声が、凛の寂しそうな顔が、頭の中からどうしても離れてくれない。

その時だった。

――バシィッ! バシッ!

静かな渡り廊下に、乾いた、けれど空気を激しく切り裂くような竹刀の叩き合う音が響き渡った。

「っ……」

ハッとした糸は、音が聞こえてきた武道場のある方へと、弾かれたように視線を向けた。
その連続して響く力強い音を耳にした瞬間、糸の胸の奥がドクドクと熱く脈打ち始める。

「この音は……っ」

それは、東京にいた頃、自分が醜い感情をすべて忘れるために死に物狂いで叩き込んできた、何よりも馴染み深い音だった。
糸は引き寄せられるように、そして胸の中の嫌なもやもやを吹き飛ばすかのように、一歩、また一歩と音が響く道場の方へと足を踏み入れていた。

道場の入り口まで近づき、そっと中を覗き込む。
そこでは、汗をきらきらと流しながら、ひたむきに竹刀を振り回して練習試合に没頭している男子の先輩たちの姿があった。

踏み込みの鋭さ。無駄のない竹刀の軌道。道場全体を震わせるような、お腹の底からの裂帛(れっぱく)の気合い。

糸は目を見開いたまま、その圧倒的な光景をじっと見つめていた。

「さすが京都の強豪校……凄い……」

思わず感嘆の声が口から漏れる。
中学時代、誰よりも剣道にすべてを捧げ、全国大会の頂点まで登り詰めた糸にとって、目の前で繰り広げられるハイレベルな稽古は何よりも強烈な刺激だった。

(私も……もう一度、竹刀を握ってみようかな)

かつて、がむしゃらに剣道に打ち込んでいる時間だけは、恭弥への切ない想いも、凛への嫉妬も、すべてを忘れることができた。
(もしここでまた剣道を始めれば、この今も胸を刺す苦しい思いだって、すぐに消えていくかもしれない――)
そんな淡い期待が、糸の頭をよぎった。

「あ! 糸ちゃんやん! どないしたん、こんなところで!」

その時、道場の奥からバタバタと素足で床を叩く音がして、紺色の袴姿になった結月が満面の笑顔で走ってきた。
突然のことに糸は驚き、慌てていつもの笑顔を作って取り繕う。

「あ、結月! ごめんね、邪魔しちゃって。初めてこっちの道場を見たから、音が気になってつい覗いちゃったの」

「もう、糸ちゃん!」
結月は勢いよく糸の身体に抱きつくと、自分の頬を糸の肩にすり寄せた。
「そこは『結月に会いたかったから来ちゃった』とか言うところやで! もう!」

うわーんと大げさに泣くフリをしてみせる結月。そのあまりにも愛らしい全力のスキンシップに、糸の暗く沈んでいた心が、今度こそ綺麗に融かされていく。気づけば、自然なクスクスという笑い声が糸の口から溢れていた。

「あはは、ごめんね。結月に会いに来た、も合ってるよ」

「ほんま?! やったぁ!」
結月がぱあっと向日葵のように笑う。
そんな二人の賑やかなやり取りに、先ほどまで真剣に竹刀を交えていた男子の先輩たちが、「なんやなんや?」「外部の子なんかな?てかめっちゃ可愛いやん」と、面を外してジロジロと視線を送り始めていた。

東京の洗練されたオシャレを身に纏い、上品な標準語を話す可憐な糸は、泥臭い男子部員たちの間で一瞬にして注目の的になってしまう。