部活が本格的に始まって忙しくなった結月は、昼休みにミーティングがあるからと席を空けることが時々あった。
一人になって暇を持て余した糸は、水筒のお茶が切れてしまったことに気づき、ジュースを買いに中庭の自販機まで出かけることにした。
京都の生活にはずいぶんと慣れてきたけれど、すれ違う生徒たちの誰も彼もが鮮やかな関西弁で話しているのを耳にするたび、なんだか不思議な異世界に迷い込んでしまったような気がして、糸は密かに面白さを感じていた。
のんびりと中庭へ続く渡り廊下を歩いていると、ブレザーのポケットに入れたスマホが、小刻みな振動とともにメロディを鳴らした。
何気なく画面を見つめた糸の身体が、一瞬で凍りつく。
液晶画面に映し出されていたのは、見間違えるはずもない『恭弥』の二文字だった。
糸はドキリとして、その場に立ち止まった。
大きく息を吸い込み、乱れそうになる鼓動を必死に抑えてから、おそるおそる通話ボタンを押す。
「……もしもし?」
『よぉ、糸! 久しぶりだな。そっちで元気にしてるか?』
受話器の向こうから、懐かしい、あの少し低くて優しい声が聞こえてきた。
たった一言。それだけで、この一ヶ月でようやく忘れかけていたはずの、胸の奥の鋭い痛みが一気に呼び起こされそうになる。
糸は必死で平然を装い、いつもの「幼馴染の糸」の声を意識して返事をした。
「うん、久しぶり! こっちの生活にも慣れたし、すごく仲良い友達もできたから、毎日楽しく過ごしてるよ」
『そうか、友達できたのか! 良かったな。……あ、俺の方はさ、今年、凛と同じクラスになったんだよ。毎日楽しく仲良くやってるぜ』
恭弥が嬉しそうに、あっけらかんと笑う。
その言葉を耳にした瞬間、糸の胸の奥が、再びチクリと音を立てて痛み出した。だけど、そんな痛みに気づかないふりをして、糸は笑顔の声を必死に作り出す。
「そうなんだ! 凛も元気にしてる?」
『あぁ。……でもさ、凛はやっぱり、いつもどこか寂しそうなんだよな。いつも糸に会いたがってる。俺には直接言わないけど、糸が何も言わずに遠くに行っちゃったこと、まだあいつの中で、ちゃんと納得できてないみたいなんだよ』
恭弥が少しトーンを落として、寂しそうに呟いた。
(……なにそれ)
中庭からの眩しい春の光のなかで、糸の思考が一瞬で真っ黒に染まっていく。
(納得って、なに……? 私は凛に、認めてもらわないと、許してもらえないと、転校しちゃダメだったの……?)
悪気のない恭弥の言葉の裏にある、付き合っている二人だけの絶対的な世界。私を置いてけぼりにして「心配」という名の綺麗事で縛り付けようとする二人の空気に、一度消えかけたはずの黒い感情が、また醜く芽生え始める。
(っあ、私…だめだめ!考えちゃだめだよ、糸!)
糸はそれを激しく振り払うように、恭弥の言葉に被せるようにして声を絞り出した。
「そっか……ごめんね。また近いうちに、私から凛に電話してみる。心配かけてごめんね、恭弥」
胸のざわつきを隠したまま、それからしばらく他愛のない話を続けてから、糸は逃げるように電話を切った。
液晶が暗くなったスマホを見つめ、糸はぽつんと渡り廊下の壁に背中を預けた。
離れたことでようやく手に入れたはずの心の平穏が、恭弥からのたった一本の電話で、簡単に乱されてしまう。
あぁ、やっぱり私は、まだ全然変われていない。
胸の中に広がる重い痛みに耐えながら、糸は冷たくなったスマホをぎゅっと握りしめ、深く、重い溜息を吐き出した。
一人になって暇を持て余した糸は、水筒のお茶が切れてしまったことに気づき、ジュースを買いに中庭の自販機まで出かけることにした。
京都の生活にはずいぶんと慣れてきたけれど、すれ違う生徒たちの誰も彼もが鮮やかな関西弁で話しているのを耳にするたび、なんだか不思議な異世界に迷い込んでしまったような気がして、糸は密かに面白さを感じていた。
のんびりと中庭へ続く渡り廊下を歩いていると、ブレザーのポケットに入れたスマホが、小刻みな振動とともにメロディを鳴らした。
何気なく画面を見つめた糸の身体が、一瞬で凍りつく。
液晶画面に映し出されていたのは、見間違えるはずもない『恭弥』の二文字だった。
糸はドキリとして、その場に立ち止まった。
大きく息を吸い込み、乱れそうになる鼓動を必死に抑えてから、おそるおそる通話ボタンを押す。
「……もしもし?」
『よぉ、糸! 久しぶりだな。そっちで元気にしてるか?』
受話器の向こうから、懐かしい、あの少し低くて優しい声が聞こえてきた。
たった一言。それだけで、この一ヶ月でようやく忘れかけていたはずの、胸の奥の鋭い痛みが一気に呼び起こされそうになる。
糸は必死で平然を装い、いつもの「幼馴染の糸」の声を意識して返事をした。
「うん、久しぶり! こっちの生活にも慣れたし、すごく仲良い友達もできたから、毎日楽しく過ごしてるよ」
『そうか、友達できたのか! 良かったな。……あ、俺の方はさ、今年、凛と同じクラスになったんだよ。毎日楽しく仲良くやってるぜ』
恭弥が嬉しそうに、あっけらかんと笑う。
その言葉を耳にした瞬間、糸の胸の奥が、再びチクリと音を立てて痛み出した。だけど、そんな痛みに気づかないふりをして、糸は笑顔の声を必死に作り出す。
「そうなんだ! 凛も元気にしてる?」
『あぁ。……でもさ、凛はやっぱり、いつもどこか寂しそうなんだよな。いつも糸に会いたがってる。俺には直接言わないけど、糸が何も言わずに遠くに行っちゃったこと、まだあいつの中で、ちゃんと納得できてないみたいなんだよ』
恭弥が少しトーンを落として、寂しそうに呟いた。
(……なにそれ)
中庭からの眩しい春の光のなかで、糸の思考が一瞬で真っ黒に染まっていく。
(納得って、なに……? 私は凛に、認めてもらわないと、許してもらえないと、転校しちゃダメだったの……?)
悪気のない恭弥の言葉の裏にある、付き合っている二人だけの絶対的な世界。私を置いてけぼりにして「心配」という名の綺麗事で縛り付けようとする二人の空気に、一度消えかけたはずの黒い感情が、また醜く芽生え始める。
(っあ、私…だめだめ!考えちゃだめだよ、糸!)
糸はそれを激しく振り払うように、恭弥の言葉に被せるようにして声を絞り出した。
「そっか……ごめんね。また近いうちに、私から凛に電話してみる。心配かけてごめんね、恭弥」
胸のざわつきを隠したまま、それからしばらく他愛のない話を続けてから、糸は逃げるように電話を切った。
液晶が暗くなったスマホを見つめ、糸はぽつんと渡り廊下の壁に背中を預けた。
離れたことでようやく手に入れたはずの心の平穏が、恭弥からのたった一本の電話で、簡単に乱されてしまう。
あぁ、やっぱり私は、まだ全然変われていない。
胸の中に広がる重い痛みに耐えながら、糸は冷たくなったスマホをぎゅっと握りしめ、深く、重い溜息を吐き出した。



