君を忘れるための春。

それからの糸は、学校での時間のほとんどを結月と共に過ごすようになった。

結月は裏表のない真っ直ぐな性格で、東京の重い過去を引きずってきた糸の心を、いつも持ち前の明るさで軽くしてくれた。

そんなある日の放課後。
隣の席の結月が、スマホの画面をじっと見つめながら「うーん……」「あかんわぁ」と、あーだこうだと小さく文句を垂れていた。
眉間に思いきりシワを寄せて唸っているその姿が可笑しくて、糸は思わずクスクスと楽しそうに笑みをこぼす。

「結月、さっきから何を見てそんなに唸ってるの?」

糸が小首を傾げて尋ねると、結月は「あんなぁ、聞いてよ糸ちゃん!」とスマホを持った手を大げさに振り回した。

「私、中学のときに剣道やっててん。やから高校でも、当然のように剣道部に入ろーと思てんねんけど……。なんか今年、女子の人数がギリギリらしくて、このままやと団体戦出られへんかもって聞いて、さっきからハラハラしててん」

「え……」

『剣道』という単語が飛び出した瞬間、糸の胸がドキリと大きく跳ね上がった。

東京の学校で、自分の醜い感情を捨てるために必死に竹刀を振るい、全国大会で優勝をもぎ取ったあの夏の日。
自分にとっても剣道は、切っても切り離せない大切な居場所だった。

(私も、中学のとき剣道部で……)

そう結月に打ち明けようとして、糸が小さく口を開きかけた、その時。
結月のスマホが短く震え、画面を凝視した結月の顔がぱあっと一瞬でひまわりのように明るくなった。

「あ、ちょい待って! ……あはは、なーんや、心配して損したわ! 大丈夫そうや!」
「え? どうしたの?」

「私の腐れ縁のやつが剣道部におんねんけどな? そいつが今『手当たり次第に女子誘って頭数集めたから安心してええでー』ってLIMEしてきたわ! ほんま、人使いの荒い強引な奴やけど、今回ばかりはナイスプレーやわぁ」

結月はスマホを胸に抱きしめ、心底ホッとしたように大きく安堵の息を吐き出した。

その様子を見ながら、糸は開けかけていた口をそっと閉じた。
京都にやってきたときは「剣道で有名な強豪校」だからという理由を周囲への言い訳に選んだけれど、今の糸は、傷ついた心を癒やすのが最優先だった。そこまでしてまた死に物狂いで部活に入ろうとは、まだ思えていなかったのだ。

(人数が集まったなら、私がわざわざ言わなくても、まぁいっか……)

糸は小さく胸を撫で下ろし、心からの優しい笑みを結月に向けた。

「良かったね、結月。今度、練習が始まったら私、見に行くね」

「ええっ、ほんまぁ?! 東京のべっぴんさんに応援されたら、私めっちゃ張り切ってまうわぁ! 絶対来てや!」

結月は両手を叩いて喜び、弾んだ声で応えた。
友達の喜ぶ顔を見て、糸の心はぽかぽかと温かくなる。