君を忘れるための春。

鏡の前で、彼女は小さく深呼吸をした。

新しい制服のブレザーに袖を通すと、東京のセーラー服のときとは見違えるほど、どこか大人びた雰囲気が鏡の中に現れる。
少し明るめの茶色い髪は、毛先を綺麗に整えてふんわりと巻いたロングヘア。
いつもより少し優しめの細さで引いたアイラインと、ビューラーで可愛くくるりと上向きにカーブさせた長いまつ毛。その大きな瞳は、まるで丁寧に作られたお人形さんのように可憐だった。

仕上げに、唇のうえに薄いピンクのティントをのせる。
鏡に映る自分に向かって、彼女は無理のない自然な笑顔を作ってみせた。

「よし、逢沢糸の出来上がり!」

新学期、そして新天地に向けた糸は、内面だけでなくオシャレにも磨きがかかっていた。悲しい失恋から前を向くための、それは彼女なりの小さな武装でもあった。

「行ってきまーす!」

カバンを手に取り、弾むような声を出して玄関のドアを開ける。
背後からは、「気をつけてね。いってらっしゃい!」と、母親の優しい声が追いかけてきた。

今日から、新しい学校での生活が始まる。
校門をくぐれば、そこにいるのは何もかも知らない人ばかりだ。そう思うと、ブレザーの胸の奥で、心臓が少しだけ緊張に震えるのが分かった。

外に出ると、青空からきらきらとした春の光が降り注いでいる。
満開の桜の木々から、ピンク色の花びらがひらひらと、新風にのって舞い落ちてきた。
それは、これから新しい一歩を踏み出す糸の背中を、「頑張れ」と応援するかのように、ふわらりと優しく撫でて通り過ぎていった。