九月に入り、授業が本格的に始まった。窓際の一番後ろから見える景色は大きく変わり、僕の前の席だけがぽっかりと空いていて、いやに周囲がよく見える。授業中は愛奈がいないことで空気はどこか明るさを失い、先生もなんだかやりづらそうに見える。
昼休みに入ると、檜山はいつものように僕の隣に座る。こいつは変わらず元気で髪も金色だ。
「よぉ水谷。最近星川いないんだな」
「あぁ」
「どうしたんだよ、喧嘩でもしたか? そんな暗い顔してさ」
「分からない」
「分からないって……え、マジで知らないやつ?」
僕が頷くと、檜山はやれやれと言って席を立つ。僕は、愛奈の事情を知らない。それは、単なる友達だから? 友達じゃなければ何かわかったのか? そんな思考が頭をよぎる。
僕は淡々とご飯を食べようとしたが、あいつの向かう先につい目を追ってしまう。
「……桐野ちょっといいか?」
「え?! 私は今忙しいんだけど」
「いいから、水谷が変なんだよ」
「もーはいはい。こっちも聞きたいことあるし」
桐野はだるそうにしながらも、女子グループから抜け出し、檜山と一緒に僕の方へ近づいてくる。桐野は愛奈の席に座った後、僕をチラッと見るなり、僕の顔面ギリギリに拳を向けた。
風圧が顔に当たるが、僕は反応することもできない。
「おい水谷、愛奈に何かしたの?」
「別に……」
「ちょいちょい、生徒の模範になる人が何してるん?」
「そんなことより愛奈の方が大事でしょ。なんで来ないのよ、連絡も来ないし」
「桐野も……来てないのか?」
親友の彼女には連絡が来ていると思っていた。関係性は僕よりも深いはずで、何か事情を知っているんじゃないかと言いたくなったが、喉元で押し留める。
「はっ水谷も?! 今までこんなこと一度もなかった。あぁ……もう、愛奈の家知らないし、どうしようもないじゃん」
桐野は頭を掻き、涙目になりながら女子グループに戻っていく。どうして、桐野は知らないんだ、愛奈の家を。どうして……僕だけ?
「あ……わりぃ、水谷。俺、余計なことしたな。なんかあったらすぐ言えよ、力になるから」
檜山は僕の肩を叩き、話すことなく黙々と昼ご飯を食べた。
「起立、礼、さようなら」
「はいさよなら、気をつけて帰れよ」
帰りの会が終わり、生徒は各々の目的地に散らばっていく。僕も席を立ち、担任の先生に声を掛ける。気付けば体が動いていた。
「先生……あい、じゃなくて、星川のこと、何か聞いてますか?」
「星川か……すまん。最近は個人情報にうるさくてな、言えないんだ」
担任は顔を背け、口を噤む。何か変だ、風邪とかであれば、すぐに話すズボラな先生なのに。
「教えてください、お願いします。全く連絡が取れなくて……」
僕は頭を下げてお願いする。担任は、勘弁してくれ……と言いづらそうだ。
「申し訳ないが言えない、心苦しいがな……」
「分かり……ました」
先生は重苦しい表情で教室を後にする。彼女に何かがあったのは間違いない。
このまま……何もしなくてもいいのか。一瞬愛奈のいつもの笑顔と、最後に会った時の震えた声、一粒の涙、親の前で疲れを見せない姿が思い出される。
彼女はいまどうしているのか、休めているのか、愛奈への心配ばかりが頭をよぎる。鼓動が早まり、僕はすぐに鞄を手に持っていた。行くとしたらあそこしかない。
僕は学校帰りにかつてチャイムを押さなかった場所に来ていた。
良かった……愛奈の家、明かりがついている。誰かいそうだ。
チャイムを押すと、少しして扉が開く。彼女のお母さんだ。目にクマがあり、表情は暗い。手には水色のハンカチを持っている。
「あら、愛奈の友達の」
「水谷、はじめです。いきなりすみません。愛奈が学校に来てなかったので」
「心配して来てくれたのね、嬉しいわ」
愛奈のお母さんは笑みを浮かべるが、どこかぎこちなくて、声にも元気がなかった。
「その、何かあったんですか? 失礼を承知ですが、お母さんも辛そうなので……」
「あぁ……ごめんなさい。私ったら。うん、そうね……」
愛奈のお母さんは唇を噛み、下を向く。担任が言えない事情なのだから、家族なら猶更言えないのかもしれない。
「水谷君の質問に答える前に、一つだけ聞いてもいいかしら?」
「はい、大丈夫です」
「花火大会の日の愛奈の様子を聞かせて欲しいの、特に帰り道」
「帰り道……ですか」
愛奈は自分で立てない程に力が抜け、熱もあって明らかに体調を崩していた。
「そう、聞かせてもらえるかしら?」
愛奈のお母さんは切実な眼差しで僕を見つめ、ハンカチを握りしめる。素直に話したい気持ちとは裏腹に、彼女は家の前で元気さを取り繕い、中に入っていった。あれは両親に体調不良を知られたくなかったんじゃないか……と思う。僕が話してもいいのか、と思い言葉に詰まる。
でも、ここで話さないと、愛奈のお母さんは教えてくれない、そんな気がした。
「彼女には内緒にして欲しいんですけど、実は……」
意を決して、僕は本当のことを打ち明けた。愛奈のお母さんはうんうん、と頷いて聞いてくれて、最後には僕に、ありがとう、と涙を流して伝えてくれた。
「愛奈、無理しているわよね……私達が来ると、いつも元気そうにするから」
「そう……だったんですか」
「あなたには随分と気を許してるのね。ありがとう、娘のわがままを聞いてくれて」
「まぁ……いつものことですから」
僕はこれまでのことを思い出す。よく考えれば最初からそうだった。
もしかしたら、今も彼女のわがままなのかもしれない。そう思いたかった。
「じゃあ、今度は私の番ね……愛奈からは口止めされているけど、水谷君は知っておいた方が良いと思うの。でも、本当にいいのね……? 重たい話になるわ」
「はい、聞きたいです」
僕は迷いなく、返事をした。だが、その後に聞いたことは全く予想だにしない話で……
「実は……あの子は脳の病気なの、余命はあと三か月。年も……越せないかもしれない」
愛奈のお母さんの目から涙が溢れ、ハンカチで涙を拭う。僕は一瞬何を言っているのか理解できず、目の前が真っ暗になる。その暗闇の中にしっかり者だった姉の顔が見えた気がした。
僕はノックをしてから個室の扉を開く、マスク越しに病院特有の消毒液の匂いを感じ、今いる場所がどこなのかを改めて認識した。
ここに……愛奈が?
「ん? お母さん来たの~もう、黙ってないで早く来てよ」
彼女の声だ。それも教室で聞くような明るい声色。僕はゆっくりと歩いて姿を見せると、愛奈は薄ピンク色のパジャマを着ていて、一見変わった点はなく笑顔も浮かべていた。
だが僕を見た途端、彼女は目を見開き、全身を布団でくるみ姿を隠す。その後、すぐにスマホへ通知が来た。目の前にいる愛奈からの連絡だった。
――どうして君がいるの?
――愛奈のお母さんに聞いたんだ。何日も学校に来ないから
――話さないでって言ったのに……どこまで聞いたの?
――全部、聞いたよ。病気のことも
――ごめん……迷惑かけたよね。私は大丈夫だから、気にしないで
大丈夫な訳がない。余命は残り僅かで手術も出来ないと彼女のお母さんから道中で聞いた。脳の中枢にある部分に出来た腫瘍らしく、根本的に取り除く方法はない。
病気を知ってから、愛奈はどれだけの不安と恐怖を抱えていたのか、想像もつかない。
僕は彼女に何ができるだろう……お見舞い? 励まし? 何か違う気がする。
やれるとしたら……一つしかなかった。
――僕との勝負は終わってないよね? このままだと君は不戦敗になる
――確か、勝った人は何でも相手にひとつお願いできるんだったな
――何にしようかな……ぐふふ
僕は敢えて愛奈が言いそうなセリフとゲスイ顔のスタンプを使った。
すると、ミノムシのように隠れていた彼女が布団を飛ばし、枕を投げてきた。
「はじめ君の変態!」
顔を赤くして、涙で顔がぐしゃぐしゃなのに、僕を睨みつける。
「今に始まったことじゃないでしょ」
「あーあ、そうだった。君は最初から変態だったね」
愛奈は屈託のない笑みを浮かべる。彼女らしい表情だった。
「どうする? 不戦勝まで三、二、一」
「やる!」
彼女はベッドの横にある棚からカードケースを手に取り、ベッドサイドテーブルにトランプを並べる。僕は備え付けの椅子に座り、いつものように裏読みトランプを始めた。
昼休みに入ると、檜山はいつものように僕の隣に座る。こいつは変わらず元気で髪も金色だ。
「よぉ水谷。最近星川いないんだな」
「あぁ」
「どうしたんだよ、喧嘩でもしたか? そんな暗い顔してさ」
「分からない」
「分からないって……え、マジで知らないやつ?」
僕が頷くと、檜山はやれやれと言って席を立つ。僕は、愛奈の事情を知らない。それは、単なる友達だから? 友達じゃなければ何かわかったのか? そんな思考が頭をよぎる。
僕は淡々とご飯を食べようとしたが、あいつの向かう先につい目を追ってしまう。
「……桐野ちょっといいか?」
「え?! 私は今忙しいんだけど」
「いいから、水谷が変なんだよ」
「もーはいはい。こっちも聞きたいことあるし」
桐野はだるそうにしながらも、女子グループから抜け出し、檜山と一緒に僕の方へ近づいてくる。桐野は愛奈の席に座った後、僕をチラッと見るなり、僕の顔面ギリギリに拳を向けた。
風圧が顔に当たるが、僕は反応することもできない。
「おい水谷、愛奈に何かしたの?」
「別に……」
「ちょいちょい、生徒の模範になる人が何してるん?」
「そんなことより愛奈の方が大事でしょ。なんで来ないのよ、連絡も来ないし」
「桐野も……来てないのか?」
親友の彼女には連絡が来ていると思っていた。関係性は僕よりも深いはずで、何か事情を知っているんじゃないかと言いたくなったが、喉元で押し留める。
「はっ水谷も?! 今までこんなこと一度もなかった。あぁ……もう、愛奈の家知らないし、どうしようもないじゃん」
桐野は頭を掻き、涙目になりながら女子グループに戻っていく。どうして、桐野は知らないんだ、愛奈の家を。どうして……僕だけ?
「あ……わりぃ、水谷。俺、余計なことしたな。なんかあったらすぐ言えよ、力になるから」
檜山は僕の肩を叩き、話すことなく黙々と昼ご飯を食べた。
「起立、礼、さようなら」
「はいさよなら、気をつけて帰れよ」
帰りの会が終わり、生徒は各々の目的地に散らばっていく。僕も席を立ち、担任の先生に声を掛ける。気付けば体が動いていた。
「先生……あい、じゃなくて、星川のこと、何か聞いてますか?」
「星川か……すまん。最近は個人情報にうるさくてな、言えないんだ」
担任は顔を背け、口を噤む。何か変だ、風邪とかであれば、すぐに話すズボラな先生なのに。
「教えてください、お願いします。全く連絡が取れなくて……」
僕は頭を下げてお願いする。担任は、勘弁してくれ……と言いづらそうだ。
「申し訳ないが言えない、心苦しいがな……」
「分かり……ました」
先生は重苦しい表情で教室を後にする。彼女に何かがあったのは間違いない。
このまま……何もしなくてもいいのか。一瞬愛奈のいつもの笑顔と、最後に会った時の震えた声、一粒の涙、親の前で疲れを見せない姿が思い出される。
彼女はいまどうしているのか、休めているのか、愛奈への心配ばかりが頭をよぎる。鼓動が早まり、僕はすぐに鞄を手に持っていた。行くとしたらあそこしかない。
僕は学校帰りにかつてチャイムを押さなかった場所に来ていた。
良かった……愛奈の家、明かりがついている。誰かいそうだ。
チャイムを押すと、少しして扉が開く。彼女のお母さんだ。目にクマがあり、表情は暗い。手には水色のハンカチを持っている。
「あら、愛奈の友達の」
「水谷、はじめです。いきなりすみません。愛奈が学校に来てなかったので」
「心配して来てくれたのね、嬉しいわ」
愛奈のお母さんは笑みを浮かべるが、どこかぎこちなくて、声にも元気がなかった。
「その、何かあったんですか? 失礼を承知ですが、お母さんも辛そうなので……」
「あぁ……ごめんなさい。私ったら。うん、そうね……」
愛奈のお母さんは唇を噛み、下を向く。担任が言えない事情なのだから、家族なら猶更言えないのかもしれない。
「水谷君の質問に答える前に、一つだけ聞いてもいいかしら?」
「はい、大丈夫です」
「花火大会の日の愛奈の様子を聞かせて欲しいの、特に帰り道」
「帰り道……ですか」
愛奈は自分で立てない程に力が抜け、熱もあって明らかに体調を崩していた。
「そう、聞かせてもらえるかしら?」
愛奈のお母さんは切実な眼差しで僕を見つめ、ハンカチを握りしめる。素直に話したい気持ちとは裏腹に、彼女は家の前で元気さを取り繕い、中に入っていった。あれは両親に体調不良を知られたくなかったんじゃないか……と思う。僕が話してもいいのか、と思い言葉に詰まる。
でも、ここで話さないと、愛奈のお母さんは教えてくれない、そんな気がした。
「彼女には内緒にして欲しいんですけど、実は……」
意を決して、僕は本当のことを打ち明けた。愛奈のお母さんはうんうん、と頷いて聞いてくれて、最後には僕に、ありがとう、と涙を流して伝えてくれた。
「愛奈、無理しているわよね……私達が来ると、いつも元気そうにするから」
「そう……だったんですか」
「あなたには随分と気を許してるのね。ありがとう、娘のわがままを聞いてくれて」
「まぁ……いつものことですから」
僕はこれまでのことを思い出す。よく考えれば最初からそうだった。
もしかしたら、今も彼女のわがままなのかもしれない。そう思いたかった。
「じゃあ、今度は私の番ね……愛奈からは口止めされているけど、水谷君は知っておいた方が良いと思うの。でも、本当にいいのね……? 重たい話になるわ」
「はい、聞きたいです」
僕は迷いなく、返事をした。だが、その後に聞いたことは全く予想だにしない話で……
「実は……あの子は脳の病気なの、余命はあと三か月。年も……越せないかもしれない」
愛奈のお母さんの目から涙が溢れ、ハンカチで涙を拭う。僕は一瞬何を言っているのか理解できず、目の前が真っ暗になる。その暗闇の中にしっかり者だった姉の顔が見えた気がした。
僕はノックをしてから個室の扉を開く、マスク越しに病院特有の消毒液の匂いを感じ、今いる場所がどこなのかを改めて認識した。
ここに……愛奈が?
「ん? お母さん来たの~もう、黙ってないで早く来てよ」
彼女の声だ。それも教室で聞くような明るい声色。僕はゆっくりと歩いて姿を見せると、愛奈は薄ピンク色のパジャマを着ていて、一見変わった点はなく笑顔も浮かべていた。
だが僕を見た途端、彼女は目を見開き、全身を布団でくるみ姿を隠す。その後、すぐにスマホへ通知が来た。目の前にいる愛奈からの連絡だった。
――どうして君がいるの?
――愛奈のお母さんに聞いたんだ。何日も学校に来ないから
――話さないでって言ったのに……どこまで聞いたの?
――全部、聞いたよ。病気のことも
――ごめん……迷惑かけたよね。私は大丈夫だから、気にしないで
大丈夫な訳がない。余命は残り僅かで手術も出来ないと彼女のお母さんから道中で聞いた。脳の中枢にある部分に出来た腫瘍らしく、根本的に取り除く方法はない。
病気を知ってから、愛奈はどれだけの不安と恐怖を抱えていたのか、想像もつかない。
僕は彼女に何ができるだろう……お見舞い? 励まし? 何か違う気がする。
やれるとしたら……一つしかなかった。
――僕との勝負は終わってないよね? このままだと君は不戦敗になる
――確か、勝った人は何でも相手にひとつお願いできるんだったな
――何にしようかな……ぐふふ
僕は敢えて愛奈が言いそうなセリフとゲスイ顔のスタンプを使った。
すると、ミノムシのように隠れていた彼女が布団を飛ばし、枕を投げてきた。
「はじめ君の変態!」
顔を赤くして、涙で顔がぐしゃぐしゃなのに、僕を睨みつける。
「今に始まったことじゃないでしょ」
「あーあ、そうだった。君は最初から変態だったね」
愛奈は屈託のない笑みを浮かべる。彼女らしい表情だった。
「どうする? 不戦勝まで三、二、一」
「やる!」
彼女はベッドの横にある棚からカードケースを手に取り、ベッドサイドテーブルにトランプを並べる。僕は備え付けの椅子に座り、いつものように裏読みトランプを始めた。

